古剣奇譚

ぬくもり (『古剣奇譚』 #2 )

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2015.07.16の作品。
屠蘇が天墉城に来たばかりの頃の紫胤さまです。


 「随分可愛がっていると聞くが」
 茶を淹れながら、掌門が問う。
 紫胤真人はその掌門の手元に目を落としつつ、口辺に柔らかな笑みを浮かべた。
 「なにぶん幼き者ゆえ」
 茶杯を受け取り、その奥ゆかしい香りにを楽しむ。
 掌門の小さなため息が聞こえた。
 「大丈夫なのだろうな」
 その問いに答えず、紫胤は黙って茶杯に口をつける。
 掌門は焦れて、指先で卓をこつこつと叩いた。
 「封印が解けるようなことがあれば、どのような災いが起きるとも限らぬのだぞ。いつまで、そのような涼しい顔をしていられるものか」
 茶を口に含み、ごくりと飲み下してから、紫胤はゆっくりと顔を上げる。
 「いまのところ邪気も落ち着き、剣霊は大人しく眠っている様子。これも掌門のお力添えのお蔭かと」
 掌門の白い眉が、わずかに寄せられた。
 「世辞はよい。万が一、剣霊の目覚めることあらば、わかっていような」
 紫胤はすっと視線をそらせる。
 掌門の言いたいことはわかっているが、それを是としたくはない。
 茶杯を置き、目を伏せる。
 「まあ、よい。しばらくはそなたの好きなようにせよ」
 掌門が苦く笑い、紫胤はほっと小さく息をついた。

 掌門にはすまぬと思う。
 自分が幽都から強引に焚寂剣と百里屠蘇を奪い去ったことで、天墉城と幽都の間には微妙な空気が流れている。
 屠蘇を救い出したことに後悔はないが、その為にこののち掌門は幽都との関係に頭を悩ませる羽目になるだろう。
 それでも、あの時、屠蘇を見捨てることは出来なかったのだ。
 目を伏せたままの紫胤の心を慮ったのか、掌門は少し声音を改めた。
 「それよりも紫胤。身体をいとえよ。幽都で負うた傷が、癒えてはいまいに」 
 茶杯に添えたままだった紫胤の手に、掌門の手が重ねられた。
 紫胤は浅くうなづいた。
 閉関の行に入って内傷を癒すつもりでいたが、屠蘇を手元に置くと決めたことで、そうもいかなくなった。それを案じてくれる掌門の労わりが、心苦しい。
 傷は思いのほか重かったが、さりとて日々の暮らしに不自由はない。だが、天墉城の剣閣をつかさどる身としては、常に霊力を高めておく義務が、自分にはある。それをなおざりにして、屠蘇にかまけている己れは、もっと責められてよいはずだ。
 それでも今は。
 掌門の配慮に甘えるばかりだ。





 「師尊っ」
 臨天閣へ戻ると、屠蘇が奥から野兎のように走ってきた。
 行水の途中だったと見えて、濡れそぼったまま下着を身に着けたなりで、裸足のままぺたぺたと駆け寄ってきた屠蘇は、当たり前のように紫胤の腕にまとわりついてくる。
 「師尊、助けてください! 師兄がっ」
 紫胤の手に、屠蘇の指が絡んだ。
 柔らかい、少し湿った小さな手の温もりに、思わず微笑みがこぼれる。
 「こらっ、屠蘇。まだ髪を洗えてないだろう」
 さっと紫胤の後ろに隠れた屠蘇に、ばたばたと追いかけてきた陵越が叫ぶ。こちらも行水から上がったばかりらしく、拉胯を穿いただけの格好だ。 
 「師尊、捕まえていてください。屠蘇が面倒がって髪を洗わせないんです」
 「今日はもういいって言ってるのに、師兄っ」
 紫胤の後ろから顔だけ覗かせ、屠蘇は兄弟子に舌を出して見せる。
 師の衣の端を握っては隠れる弟弟子に、陵越はことさら厳しい顔を作って見せた。
 「駄目だっ。今日は沢山汗をかいたから、ぜったい洗うんだっ」
 詰め寄られて、屠蘇が口をへの字に曲げる。
 「師尊―っ」
 屠蘇が師の身体を盾にするので陵越は容易に手が出せず、ふたりはぐるぐると紫胤の周囲を行ったり来たりしている。
 「屠蘇」
 紫胤は笑いを噛み殺しながら、隙を見て屠蘇の手を掴んだ。屠蘇の身体を易々と捕まえる。
 「どれ、こちらを向いてごらん」
 弟子の頭を引き寄せ、紫胤は屈みこんだ。
 その髪に鼻を寄せ、軽く息を吸いこむ。
 ――――幼き者の、香りがした。
 「師尊……」
 屠蘇は、少し心もとなげな面持ちだ。
 その顔があどけなくて、紫胤は微笑んだ。
 「洗ってきなさい。汗の匂いがする」
 そう諭すと、たちまち屠蘇は頬を膨らませた。
 陵越が、得たりと胸を張って腰に両手をあてた。
 「そら見ろ。汗くさいままだと師尊に嫌われるぞ」
 陵越にそう言われて、屠蘇は口をとがらせたまま、ちらっと紫胤の顔を見る。
 紫胤はわずかに首を傾げて、微笑って見せた。立ち上がり、屠蘇の身体を陵越のほうへと向ける。
 「行っておいで」
 陵越のほうへ押しやろうとする紫胤の手に、屠蘇はほんの一瞬抗うそぶりを見せたが、すぐにあきらめたようだ。
 「……はい、師尊」
 しぶしぶといった様子で、屠蘇は陵越に手を引かれていった。
 部屋を出ていく二人の後ろ姿は、ほんとうの兄弟のようだ。



 

 (やはり、間違いではなかった)

 紫胤は目を閉じた。

 ――――救い出してよかった。

 まだ十になるやならずの子の命だ。
 可哀想に、その身は邪気に侵され、いつまた剣霊に支配されんとも限らぬ。理不尽なさだめのもとに、生きねばならぬ幼い命だ。

 それでも、その心は穢れなく美しい。無邪気な笑顔は、常の子供と変わるところがない。

 その笑顔が、やがて悲しみに曇る日も来ようと、紫胤は知っている。

 だが、いまは失わせたくない。

 失いたくない――――。

 紫胤は手のひらをそっと開いてみる。まだそこに、しっとりとした温もりが残っている。

 一日でも長く、守ってやりたい。
 そのためにこそ、永き時を己は生きてきたのかもしれぬ。
 傷ついた屠蘇をこの腕に抱き、この背に負うたあの日から、この子に幸あれと願ってやまぬ。

 胸が締め付けられるのは、まだ癒えぬ傷のせいであろうか。
 たとえ傷は癒えずとも、今はただ、そばにいて見守っていてやりたい。

 再び剣霊が目覚めたときに、屠蘇を止められるのはおそらく自分だけだろう。

 


 

 「ほら、さっぱりしただろう?」
 陵越が屠蘇の頭を拭いてやりながら、部屋に入ってきた。
 「ふたりとも、こちらへ来なさい」
 手招くと、屠蘇は陵越の手から逃げるように駆け寄ってきて、怖じもせず紫胤の膝へ腰かける。
 「あっ、屠蘇。また!」
 陵越はあわてて飛んで来ると、屠蘇に小言を言おうと息を吸い込んだが、紫胤は微笑んで、陵越へ手のひらを向けた。
 陵越が黙ると、紫胤はその掌を今度は上に向けた。
 「貸しなさい」
 陵越から浴巾を受け取り、屠蘇の髪を丁寧に拭いてやる。大人しく身を預けている屠蘇の重みが、紫胤の膝に心地よい。
 懐から櫛を出して梳いてやると、屠蘇は気持ちよさげに目を細めた。
 丹念に髪を梳いてやり、ふと気づくと、胸に凭れて屠蘇が眠っていた。
 「あ」と気づいて起こそうとする陵越を、唇に指を当てて押しとどめ、紫胤は屠蘇を抱き上げる。そのまま静かに、閨房へと運んだ。
 
 寝床に寝かせると、屠蘇はあどけない顔をして、何か夢でも見ているのか、その唇が少し動いている。
 紫胤は寝台の端に腰かけて、屠蘇の額にかかった髪をかきあげてやる。眠っている屠蘇が、小さく「師尊」とつぶやいて笑った。
 紫胤も、覗き込んでいた陵越も、つられて笑みをこぼす。
 紫胤は、陵越に目をやった。
 「おいで」
 陵越はちょっとためらってから、隣へ腰かけた。その頭を撫でると、陵越はちょっと身じろぐ。陵越の髪は既にほとんど乾いていた。
 髪を梳かしてやろうとすると、陵越は少し身を引いた。
 「自分でできます、師尊」
 はにかんで赤くなった頬を隠すように、陵越が俯く。
 紫胤は微笑んだまま、その頬に手を当てた。
 「おまえは幼い頃から手のかからぬ子供だった。たまには大人の手を煩わせるものだ」
 意味を量りかねるのか、陵越が眉を寄せ、首を傾げた。その生真面目さが、いじらしい。
 髪を梳き、髷を結ってやる間、陵越は気恥ずかしそうに俯いていた。
 「ありがとうございました、師尊」
 少し照れたように礼を言う陵越を、いとおしいと紫胤は思う。

 陵越と、屠蘇と。

 紫胤にとって、たった二人の弟子である。
 この手で救ったつもりであったが、紫胤は時折、自分こそがふたりの弟子に救われていると思う。

 三百年以上もの永き年月を経て、自分は生きることに倦んでいたのではなかったか。
 幼き命らが、澱んだ生に再び清い流れをもたらしてくれたのやもしれぬ。

 (わたしこそ、この子らに礼を言わねばならぬな)

 紫胤はゆっくりと、陵越の身体を抱き寄せた。
 陵越は驚いて少し身を震わせたが、それでもおとなしく腕におさまっている。
 大人びてはいても、まだほっそりとしたその身体を、左のかいなにそっと抱き、眠る屠蘇の小さな手に、紫胤は右手を優しく添えた。

 愛しさがこみあげる。

 あまりに永く生きて、己れの中の時はとうに凍り付いていたものを。
 いまはこうして、温かい鼓動を刻んでいる。
 
 今しばらくは、命永らえたいと思う。
 この子らと共に、生きられるなら。

 おのが命と心とを、そそぎこみたいと紫胤は願う。

 つらいさだめを負うた子らである。
 この先も、どれほどの痛みや苦しみに苛まれることだろう。
 
見守ってゆきたいと、紫胤は心から願った。
 この子らの直ぐな魂を撓めることなく、大切に守ってやりたい。
 この子らとともに、時を刻んでゆこう、と強く思う。

 たとえいつか、この手から飛び立つ雛たちであっても。
 いまは、己れの、この翼で守ってやろう、と。
 

 屠蘇が寝返りを打って、両手で紫胤の手を握りしめた。
 陵越もいつの間にか、素直に紫胤の胸へ身体を預けている。
 紫胤は目を閉じた。 


 穏やかな、夕暮れである。
 紫胤真人とふたりの弟子は、そうして長いこと、物も言わずに互いのぬくもりに身を任せていた。
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