琅琊榜.風中の縁

砂の枷4 (『琅琊榜』『風中奇縁』)

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ダメだ、まだ終われなかった!

 莫循が寝返りを打って背中を向け、すこし咳をする。
 「背中を冷やすと、ますますこじらせるぞ」
 藺晨は、莫循の身体を抱き寄せた。
 「風邪をうつすといけない」
 そう言われて、藺晨は思わず笑った。
 「今更言うか?」
 莫循の生真面目さが可笑しい。さんざん肌を重ね、口を吸いあい、交わり合っておいて。
 ―――それにしても。
 どうも勝手が違う。
 長蘇とは別人なのだと、思い知らされた。
 琅琊山で情を交わしたときには、されるがままだった莫循だが、今度はすこし違った。
 長蘇は―――。我儘な男だったが、甘え上手で、褥の中でも藺晨を喜ばせるすべを心得ていた。それは駆け引きというよりも、長蘇の本能的なものだったのだろう。そんな長蘇が愛おしくて、藺晨は夢中で貪ったものだった。
 しかし、莫循は。
 (―――可愛げがない)
 そう思って、藺晨は苦笑する。
 愛撫すれば悩まし気な吐息も漏らすし、快感に身を捩りもするが。
 甘い声で啼くでもなく、艶めかしい眼差しで誘うでもない。
 (これはうっかりすると)
 今はまだ、莫循は物慣れぬ様子で藺晨に従っているが、馴染めば逆に主導権をとられかねない。
 小癪な奴め、と藺晨は鼻白む思いである。いまのうちに、しっかり手綱を締めてかからねば、と思う。
 「いいから、ちゃんとこっちを向け」
 照れているのだと、知らぬわけではなかったが。
 「お前から向き合わねば、誰もお前を見てなどくれぬぞ」
 ぴくりと莫循の肩が動く。
 「こっちを見ろ」
 その肩を引くと、しかたなさげに莫循がこちらを向く。
 藺晨の顔をちらと見たあと、やはり面映ゆげに睫毛を伏せた。
 その額に唇をつけて、藺晨は目を細める。
 「まだ熱がある。今日は大人しく寝ていることだ」
 その病人の身体に自分が何をしたか、それは棚に上げている藺晨である。

 じきに夜が明ける。
 朝になれば、黎綱か甄平が食事を運んで来るだろう。
 (このありさまを見たら、なんというか)
 見境がないと、甄平に詰られるだろうか。

 腕の中で所在なさげにしている男に問う。 
 「わたしが琅琊山へ戻ったあと、何か要りようのものはあるか?」
 「―――なにも」
 にべもなく、莫循がそう答えた。
 可愛くないな、と藺晨は眉を寄せる。甘えたり、頼ったり、ということを、この男は極力避けているようだ。
 「もう少し欲を持て。なにかあるだろう」
 欲や執着がなくて、どうして生きられるだろう。
 藺晨の声音にわずかな険しさがにじんだのを感じたのだろう、莫循もまた微かに眉根を緊張させる。そして、すこし考えてから、ようやく口を開いた。
 「―――では、鳩を」
 藺晨は、きょとんとして眉を上げた。




   * * * 




 「鳩だと?」
 藺晨が問い返す。
 「まさか、猫にくれてやるのか」
 「―――まさか」
 莫循は思わず笑った。
 小月―――、猫ではなくまことの莘月が、鳩を咥えている姿を想像したのだ。
 あれは、狼に育てられた娘であったから、鳩にむしゃぶりつくくらい雑作もなかったろうが、それでも自分の贈った鳩を随分可愛がってくれたものだ。
 琅琊閣の窓から、空が見えたのを思い出す。
 青い空に、白い鳩が飛ぶのを見た。日に幾羽も幾羽も、白い鳩は飛び立ち、いずこからか帰ってきた。
 ああして、鳩が戻ってくるのを心待ちにしていた頃を思う。恋しい人の文字を、鳩は幾たびも運んできてくれたものだった。
 「信鴿を一羽、所望する」
 「―――ああ。信鴿か」
 腑に落ちた様子で、藺晨が寄せていた眉を開いた。
 「困ったことがあればいつでも呼べ。馬を飛ばせば半日だ」
 「―――」

 不思議な、心地がした。
 あれほど激していた心が、今はすっかり凪いでいる。
 ―――悔しくて、情けなくて、寂しくて、どうしようもなかったのだ。 
 莘月に別れを告げたとき、自分は大きな勘違いをしていた。莘月さえ幸せならば、それが自分の幸せであると。
 どこかで莘月が愛する夫や子らと幸せに生きてくれるなら、自分もまた静かに生きていけると、そう思っていた。
 広い砂漠で、自由の中で、砂漠の民らと共に生きる。同じ空の下、幸せに暮らしているであろう莘月を想いながら、大らかな民に囲まれ、交わり―――。
 そうするつもりで、そう出来るつもりでいたのだ。だが。
 寂しさが、これほど耐えがたいものだったとは。
 何もかも。手放したのだ。
 全てのしがらみを捨てたつもりだった。
 だが、それは、しがらみだけでなく、これまで生きてきた自分自身をも捨てることにほかならなかった。
 己にすら見捨てられては、今までの自分があまりに哀れではないか。  
 そんな自分が、悔しくて、情けなくて、寂しくて、どうしようもなかった。
 藁をも掴む思いですがった『梅長蘇』の器にさえ、自分はうまく収まれず、身の置き所がなかった。
 だが。

 思いを吐露し、藺晨の情を受け入れた。
 そして今は。
 嵐が去ったあとの砂漠のように、心の風紋は様変わりしていた。
 
 「悪かったな」
 「え?」
 一瞬、何のことかわからず、莫循は問い返した。
 「あれきり、放っておいて、すまなかった」
 「・・・・・・ああ」
 あのときも。
 人肌に触れて、思ったのだ。今度こそ、生きたいと。
 それなのに、それきり藺晨は自分を避け続けていた。
 そのまま琅琊山をあとにして、廊州へと来た。そしてこの屋敷で、まるで飾り物のように捨て置かれた。
 生きたいと願っただけに、つらかった。
 「向き合えなかったのは、お前だけじゃない。わたしも、お前の顔を見るのがこわかったのだ」
 「藺晨・・・・・・」
 わかっている。
 皆が、自分を怖れた。自分の顔を見ることを怖れて、避けた。
 梅長蘇の顔をしながら梅長蘇ではないこの自分を、皆、どう扱ってよいかわからなかったのだ。
 藺晨がくすっと笑った。
 「肌を合わせてみるものだな。ようやく、長蘇とは別人だと、認めることができた」
 その言葉をどう受け取ってよいかわからず、莫循はすこし不安になって藺晨の顔を見つめ返す。
 梅長蘇にはなれぬ自分。
 ならば、自分の居場所はここにはない。
 生きると決めた以上、恐れはせぬが、ひとりでこの先どこへ行き、どう暮らせばよいのだろう。
 「そんな顔をするな」
 頬に、藺晨の手が添えられる。
 「お前を放り出したりはせん。お前はお前として、わたしや江左盟と共に生きてゆけばよい」
 「藺晨?」
 意味を量りかねて、頬に当てられた藺晨の手に、莫循は自分の手を重ねた。
 「わたしがついている。お前が自分で、江左盟を己の足にしてみせればよい」
 「―――自分で?」
 「あてがい扶持では居心地が悪かろう? 梅長蘇の身代わりではなく、お前自身として江左盟を従えてみろ」
 そんなことが、できるだろうか? あの、梅長蘇だけを慕ってきた猛者どもが、自分についてくると?
 思えば。石舫も、蒼狼の賊たちも、初めからあてがわれていたものだった。もてあましながら、見捨てるわけにもいかず、その頂に在っただけだ。大善人などと崇めてくれる者らもあったが、それもどこか、自分ではない他人のことを言われているかのようだった。砂漠の民を守ってやりたいという心に嘘はなかったが、なるだけ目立たず、朝廷から身をひそめるようにして暮らしていたのだ。
 己の力で、江左盟を従える。―――やはり自分には難しく思われた。

 諾とも否とも答えられず、莫循は目を伏せていた。
 今は、何も考えず、この温もりに身を任せていたかった。
 (考えるのは、褥を出てからだ―――)
 莫循は初めて、自分から藺晨の肩へ顔を埋めた。 
  
 
 


   * * *

  


 「飛流が戻らぬだと?」
 回廊から、藺晨の声が聞こえてくる。
 莫循は褥の中で身を起こした。
 藺晨に言われた通り、一日寝て過ごした。藺晨の処方してくれた薬が効いたのか、熱も下がり、頭はすっきりとしている。 
 夕刻になって、黎綱と甄平が何やら屋敷内を行ったり来たりしている様子なのは知っていたが。
 莫循は耳をそばだてた。
 「昨日から姿を・・・・・・。何かあったのではと」
 藺晨に応える甄平の声に、切迫した響きがある。ああ見えて、いまだかつて飛流が戻らなかったことなどないのだろう。
 琅琊山で、部屋から出て行ったときの飛流の萎れた姿を思う。
 可哀想なことをした。莫循自身に、余裕がなかったのだ。あまりにも追い詰められていた。あれほど慕ってくれる飛流を、あんなふうに邪慳に扱うとは。
 あれ以来、飛流は姿を見せなかった。
 気配を感じたことは度々ある。時々、慌てて隠れる後姿を見ることもあった。
 「向こうへ行け」と怒鳴られて、飛流は自分の前に顔を出せずにいたのだ。それでも、自分のことを気にかけてくれて、常につかず離れず、近くで守ってくれていたのだろう。そう思うと、不憫でならない。
 「飛流の腕なら、心配はありますまいが・・・・・・」
と言う甄平の声は、やはり気遣わし気だった。
 「やつめ、ろくに食べておらなんだからな」
と、藺晨が言う。
 「あの食い意地の張った飛流がだぞ?」
 ならば、と思う。飛流はいま、心も身体も、万全ではないのだ。いかに腕がたつと言っても、それではあまりに心許ない。
 莫循は寝床を這いだすと、二本の松葉杖にすがって立ち上がる。立つといっても、両脚は完全に萎えていて只ぶらさがっている恰好で、それゆえに松葉杖にすがって動くさまを、あまり人には見せまいとしてきた莫循であったが。
 「飛流の行方が?」
 部屋から回廊へ出てそう問うと、甄平がはっとしたようにこちらを見た。
 藺晨もゆっくりと振り返る。
 「まだ横になっていろ」
 そっけないが、優しい声音だ。莫循は藺晨を見つめ返した。
 「―――飛流に何かあったら、わたしは長蘇どのに申し訳が立たぬ」
 藺晨のそばへ寄る。
 床を引きずられてゆく足元を、甄平が痛ましそうに見下ろし、目をそらした。
 「わたしは渠を傷つけたのだ。無垢な心を踏みにじってしまった。謝らねばならぬ」
 そう言うと、藺晨が微笑んだ。
 「飛流はよくわかっている。あれは存外賢いのだ」
 そう話すうちにも、あちこちから一人二人と、男たちが現れる。
 「町の東側を見てきましたが、少なくとも大通りと屋根の上には見当たりませんぜ」
 「俺たちは西側から林にかけて探してみましたが、それらしい人影もなく、辺りの者に尋ねても皆目・・・・・・」
 男たちは莫循の顔を見ては少し困惑したように頭を下げ、それから次々と甄平に報告した。
 黎綱も駆け寄ってきて、心当たりを探したが見つからぬと告げる。
 「町には飛流を見知っている者も多いのですが、誰も昨日から見ておらぬと」
 藺晨が眉間に皺を寄せた。
 「何かあったと見るべきか・・・・・・」
 ぱちん、と藺晨の扇子が鳴る。
 莫循の中で、何かが弾けた。

 「甄平。皆を集めよ」
 「えっ」
 莫循の言葉に、甄平が声を上げた。莫循と藺晨の顔を交互に見る。
 藺晨が扇子で甄平の肩を軽く叩いた。 
 「言うとおりにしてやれ」
 戸惑いつつも低く応えて、甄平が屋敷に残っていた者たちを庭に集める。渠らの動きの素早さに、江左盟の規律の行き届いていることがよくわかる。
 莫循は男たちの顔を見渡した。
 男たちは、やはり莫循の姿に困惑していた。
 廊州へ来てからも、莫循はほとんど渠らと交わっていない。皆、初対面の時こそ莫循の姿に涙を流したが、そのあとは何か気味の悪いものでも見るように避けて通るようになったのだ。莫循が車椅子を漕いで近づいても、なんとなく皆散っていったものだ。
 男たちは居心地悪げに、庭で肩を寄せ合っていた。
 莫循はすこしうつむき、軽く息をついた。
 そして、顔を上げる。
 「―――梅宗主に代わって命じる」
 自分でも不思議なほど、声が通った。
 男たちが、はっとしたように莫循の顔を見る。
 渠らが自分を受け入れようが受け入れまいが、今はどうでもよいと思った。飛流さえ、見つけ出すことができれば。
 「みな、よく聞いてくれ。飛流の身に何か起こったであろうことは、すでに承知のことと思う。―――飛流は、江左盟の大切な同志だ」
 男たち一人一人の顔を順に見、そして莫循は声を張った。
 「―――よいか。江左盟を挙げて、飛流を探索せよ。見つけ次第、直ちに報告を」
 男たちはしばし呆然と莫循を見、それから異口同音に答えた。  
 「承知っ」
 莫循が息を着く前に、男たちはもう八方に散っていた。

 ぐらり、と松葉杖が傾く。
 「おいおい」
 よろめいた莫循の身体を、藺晨が支えた。
 「上出来だな。宗主どの」
 労うように肩を叩かれた。
 「どうぞこちらへ」
 黎綱が庭先へ押してきた車椅子におさまり、莫循はようやく一息ついた。
 「―――驚きました」
と黎綱が漏らす。
 莫循が顔を上げると、黎綱は困ったような笑みを浮かべた。
 「いつも物静かで、遠慮勝ちなお方とばかり存じておりましたゆえ」
 「ああ、―――すまぬ。江左盟を動かせる立場でもないというのに、出すぎた真似を」
 ただ、居ても立ってもいられなかったのだ。
 かつて、自分は莘月を傷つけた。あの時、姿を消した莘月を探すために、青狼印の者たちを総動員したのだ。だが、ついに見つけることが叶わなかった。幸い、莘月の身は無事だったが、莫循は永遠に彼女を失うことになった。
 飛流を失うまいと思った。傷つけたまま、失いたくはなかった。
 「いえ、助かりました。やはり宗主の号令でなければ、どうもぴりっといたしませんから」
 「―――わたしは宗主ではない」
 莫循は目を逸らせたが。
 黎綱が笑みを浮かべた。
 「―――さきほどの風格は、我々ごときでは及びもつきません」
 なあ、と黎綱が甄平を顧みた。
 甄平は仏頂面をしていたが、それでもこくりと頷いた。そんな甄平に苦笑して、黎綱が莫循へ向き直る。

 「梅宗主に似ておいでかどうかではなく、ひとりの人間として、お仕えしてみたくなりました」
 「黎綱・・・・・・」

 黎綱と甄平が、―――車椅子の前に膝まづいた。

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~ Comment ~

続くんだ!

遥華さま

続くんですね…また続きが読めるんですね…ああ、終わってほしくない~(願望)。
藺晨はあんまりブレないので心配ないですが、九爺さまは、腹を据えて開き直っていただきたいです(笑)。
全然知らない場所で、知らない人々の中で生きていくのなら、今まで出せなかった自分自身をもっと出して、自由に生きていって欲しいです。

私自身、入院するほど追い詰められた時期がありまして。
自分を変えるか、周りを変えるか、居場所を変えるかの三択で、最終的に、居場所を変えました。
子供を置いて出たので、ウツで半年くらい引きこもりになり、おかげで当時付き合いのあった人の名前や顔が分からなくなったりしましたが、今は何とか平穏に暮らしています。

九爺さまには、幸せになって欲しいです。
人には幸せになる権利があるんだよ~、と大声で言ってあげたいです。

明日も楽しみにお待ちしております。
宗主と藺晨のラブラブ話も、首を長くしております~。

槍でないけど、雷…が降ってくるのも、怖い小心者です(笑)

>>Rintzuさん

あらあら。
でも、誰も知らないところで新しく、という願望はありますよね。
わたしも30代のときはかなりヒドい状態でしたよ。
ダンナの失業やら、子供がいないことやら、母親のことやらで。
40になってやっと吹っ切れて、いろんなことに挑戦しだして、
40代前半でほぼ玉砕w
それでもメンタルはだいぶ逞しくなりました(というか適当になったw)
で、その流れでお中華にハマるwwww
もうなんどでもなれ、ですよwww
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