琅琊榜.風中の縁

砂の枷3 (『琅琊榜』『風中奇縁』)

 ←砂の枷2 (『琅琊榜』『風中奇縁』) →砂の枷4 (『琅琊榜』『風中奇縁』)
3で一段落かと思ったのに、まだ続きます(^^;;; スミマセン!

 「―――それは?」
 大きな車輪のついたひじ掛けを椅子を、黎綱が覗き込んだ。
 「車椅子だ。あの男に使わせる」
 物珍し気に、黎綱が眺める。
 「……どう思う?」
 車椅子のことを尋ねたのではない。黎綱も心得ている。
 「……実に、生き写しですね」
 率直な感想に、藺晨は苦笑いした。
 「ほかには?」
 黎綱は少し目を逸らせた。
 「宗主より―――大人しくておいでですね」
 またしても、苦笑を禁じ得ない。
 「生真面目らしいからな。長蘇とちがって」
 「・・・・・・そうですね」
と黎綱もすこし笑った。
 「それに、長蘇はもっと自信家だった。ろくに身体もいうことをきかぬくせに」
 「そうですね。お小さい頃から怪童ともてはやされたお方ですから」
 黎綱の答えに、藺晨は肩をすくめた。
 「みなが持ち上げて甘やかすゆえ、あのように鼻持ちならぬ男に育ったのだ」
 「その鼻持ちならぬお方にぞっこんだったのは、藺公子ではありませんか」
 「お前、―――なかなかはっきり言うではないか」
 黎綱の言う通りなだけに、返す言葉もない。
 「それに引き換えあの男は・・・・・・。あれは卑屈で後ろ向きなところがある」
 「―――-勿体ないですね」
と黎綱がしんみり答えた。 
 「むしろ長蘇より頭も切れると思うのだがな。どうもじめじめしていかん」
 つい忌々し気な口調になる。
 「あまり宗主と比べてはお気の毒です」
 ほう、と藺晨は黎綱を眺めた。
 「お前はやつの贔屓か」
 茶化すように言うと、黎綱は苦笑いした。
 「そんなことはありませんが。―――気心の知れた者がひとりもお側におらぬというのは、お可哀想な気がしまして」
 確かに、黎綱の言う通りだと思った。
 まさに、孤軍奮闘といったところか。
 「どいうわけか、飛流とも気まずくなったご様子で」
 一日中、ひとりで書を読んでいるようだ、と黎綱が言う。
 

   *


 文机に凭れかかるようにして、莫循はゆるゆると脚をさすっていた。
 「どうした、脚が疼くのか」
 部屋へ入って、藺晨はそばへ膝をつく。
 相変わらず莫循の脚は細く、血色も悪かった。
 「いえ。―――感覚などとうにないはずなのに」
 うっすら浮かんだ笑みが、弱々しい。  
 「横になれ。少しさすってやろう」
 そう言うと、莫循はゆっくりとかぶりを振った。
 「―――それには及ばぬ。もうまるで使い物にはならぬのだ。いつか、切り落とすしかなくなるかもしれぬな・・・・・・」
 どこまでも悲観的な男だ、と藺晨は溜息をついた。一緒にいるだけで気が滅入る。
 藺晨はさりげなく部屋を見渡した。常にいるべき者が、いない。黎綱の言ったとおりだ。
 藺晨の視線を察したように、莫循がまた物憂げな笑みを浮かべた。
 「とうとう飛流にも愛想を尽かされたらしい。わたしが、悪かったのだが」
 言うことをきかぬ脚を手で抱え寄せ、衣の裾を直しながら莫循は目を伏せた。 
 「わたしなどでは、―――やはり長蘇どのの代わりは務まらぬようだ」
 藺晨は眉を寄せた。
 「―――わたしが、間違っていた」
 藺晨がそう言うと、莫循はぴくりと身を震わせた。ゆっくりと、視線が藺晨へ向けられる。
 「・・・・・・そうではない。期待にそえぬわたしが、不甲斐ないのだ」
 苦し気な。痛ましいほどに苦し気な表情だった。莫循は己を責めている。
 藺晨は苛立った。
 「わたしが悪かったと言っている。いちいち卑屈になるな」
 「―――だが」
 「うるさい!」
 思わず声を荒げて、莫循の言葉を封じる。 
 「おまえを長蘇の身代わりにしようなどと、わたしがどうかしていたのだ」
 「違う。わたしが情けないばかりに・・・・・・」
 「いい加減にしろ!」
 苛立ちが、頂点に達していた。相手が万全の体調であれば、横面のひとつも張っていたかもしれない。
 「初めて会ったときから、腹が立ってならなかったのだ」
 辛抱ならずに、藺晨は言った。
 「長蘇は―――。長蘇は、懸命に生きた。短い命と知りながら、命を燃やし尽くしたのだ。身体は氷のように冷たくても、やはりあれは焔の男だった」
 水のごとき静けさを湛えて見せながら、梅長蘇の中には、やはり武門の燃え滾る血が流れていた。その血を、藺晨は愛したのだ。
 「それに引き換え、お前はどうだ!? いつもうじうじして、ともすれば自ら生を終えたがっている。生から逃がれたがっている。脚は立たずとも、生きられる身体があるというのに」
 莫循は、文机にすがったまま、悲痛な表情で藺晨を見つめていた。傷つけている、という自覚はあったが、藺晨は己を止めることができなかった。
 「―――お前が死にたいなら止めはせん。勝手に死ねばよい。要らぬ命なら、―――長蘇にやってくれ。わたしに長蘇を返してくれ。わたしと飛流に、長蘇を返せ―――」
 途中からは、半ば嗚咽のごとく藺晨は訴えていた。
 理不尽な言いようだった。それを莫循に言ってどうなるのか。徒らに莫循を傷つけて、返す刀で己をも傷つける。そうとわかっていても、言わずにはいられなかったのだ。
 悔しくて。
 
 長蘇に、会いたかった。
 あの焔の心と氷の膚に、今一度触れたかった。

 長蘇―――。

 思わず。
 目の前の男を抱きしめていた。

 「藺晨どの?」
 驚いたように、莫循が低く声を上げた。
 が。
 それきり、莫循は抗わなかった。
 身体を固くして、ただじっと、抱きしめられるがままになっている。
 藺晨はそっと腕を緩めて、莫循の顔を見た。
 放心したように、虚ろな目が藺晨を見返している。
 
 この顔。
 
 ゆっくりと。
 藺晨は莫循の身体を押し倒す。 
 莫循は、人形のように無抵抗だ。 
 この脚では逃げられぬと、はなから諦めているのか。
 だとしたら、やはり腹が立った。
 
 長蘇と同じその顔に、藺晨は口づけの雨を降らせた。
 浅ましいほどに、餓え切っていた。
 額に、眉に、瞼に、目尻に、黒子に、鼻に、頬に。
 固く、虚ろだった莫循の顔が、次第に悩まし気な表情を見せ始める。その唇から、あえかな吐息が漏れ、白い喉が仰け反る。 
 莫循の襟を広げ、その肩や胸にも噛みつくような口づけを落とした。そして胸の桃色の突起へと歯を立て、吸う。
 莫循の身体が、反りかえった。
 さっき莫循が整えたばかりの衣の裾を片手で割り、その中へと指を忍び込ませる。
 脚を突っ張ることの出来ぬ莫循は、ただ体を反らせ、畳に爪を立て、腰をひねって耐えている。
 
 もう、止めることなど、できなかった。




   * * *



 不意に抱きしめられて、莫循は困惑していた。
 自分が、藺晨を苛立たせたことはわかっている。わかってはいたが。
 なぜ、抱きしめられる? なぜ藺晨が泣くのか。
 泣きたいのは、自分のほうだというのに。
 
 それでも―――。逆らえなかった。
 こんなふうに、誰かに強く抱きしめられたことがあっただろうか。
 身体は強張っていたが、なぜか嫌な気はしなかった。そんな自分が不思議で。藺晨は呆然としていた。

 ゆっくりと―――。畳の上に倒される。
 ひどく驚いたのに、身体が動かなかった。
 莫循とて、一人前の男である。脚が不自由だとはいえ、女を知らぬわけではなかった。皇族の縁者で都一の財閥・石舫の主ともなれば、女のほうで放っておかなかったせいもある。妻にはなれずとも、愛妾になりともなって子でも授かればと、強かに策を弄する女もいた。子が出来ぬ、というのは、莫循にとって、むしろ気が楽であったのだ。莘月に出会うまでは。
 女と睦むことが当たり前だと思っていた莫循にとって、藺晨のしようとしていることは理解の範疇を越えていた。同性と情を交わす嗜好の持ち主のいることも知っている。戦場や旅先といった女気のない場所では、男同士で慰め合うことがあるとも聞いていた。だが、自分の身にそのようなことが降りかかるとは、夢にも思わなかった莫循である。
 どのみち、この脚では逃れられはすまいが、莫循とてこれまで剣の鍛錬はしてきた。半身しかきかずとも抗うすべはあるだろう。しかし。
 心地よかったのだ。
 人との距離がこれほどに近いことに、莫循は涙が出そうなほど癒されていた。
 藺晨のしようとしていること以上に、抗わぬ自分にこそ莫循は驚き、どうしてよいかわからなくなっていた。
 不意に、口づけられた。
 顔中に、男の唇が這うことを、不思議に汚らわしいとも思わず、莫循は次第に陶酔した。
 胸元を押し開けられ、そこへも乱暴に口づけられて、莫循は恍惚となる。背中を這い上がるような快感に、身体がずり上がりたがるが、脚の動かぬ莫循にはそれさえできぬ。嬌声を上げるのは、男としての矜持が許さなかった。それでも熱い息を漏らしながら、莫循はうっとりと目を閉じる。

 人の肌はこれほどに温かく。
 生きることはこれほどに甘美だ。
 
 何も思い煩わず。ただ、こうして人の温もりだけ感じていられたら。
 己の肉と心を、温もりだけで満たしてもらえるなら。

 たとえ偽物と呼ばれようとも、生きていたいと思う。
 梅長蘇に、このちっぽけな命を譲ってやることもできぬ。皆がどれほど梅長蘇を愛し、梅長蘇に戻ってほしいと願っても、かの人はもうこの世にない。
 (生きているのは、わたしだ)
 生きていてこそ、人の温もりを感じられる。
 梅長蘇にたったひとつ勝っているものがあるとすれば、それは自分がまだ生きているということ。
 
 生きたい。
 もう一度。
 
 そう強く願った。




   * * * 
 



 莫循の部屋から空いた膳を下げてきた黎綱が、浮かぬ顔で回廊をやってくる。
 回廊の端に腰かけていた甄平は、手入れしていた弓を置いて黎綱に声をかけた。
 「どうした?」
 黎綱は足を止め、膳を傍らに置いて甄平の隣に自分も腰かける。
 廊州へ戻って、ひと月が過ぎていた。
 黎綱が肩を落とし、溜息をついた。
 「いや、―――あの方は、このところお痩せになったと思ってな」
 甄平は眉をひそめた。
 「そんなことはあるまい。三度の膳も召し上がっておいでだろう」
 置かれた膳へ目をやる。綺麗に平らげてあった。
 「それはそうなんだが。お前、ずっとまともにあの方の顔を見たことがないだろう」
 そう言われて、甄平は鼻白んだ。その通りである。だが。
 「お前とてそうだろう」
 切り返してやると、黎綱はまた溜息をついた。
 「ああ。それゆえ気づかなんだが、さっき久しぶりにお支えして、ぎくりとした。・・・・・・宗主も―――、我らが梅宗主も、あのように痩せておいでだったと」
 言われて、甄平は梅長蘇の姿を思い起こす。あのほっそりとした身体を、日に幾度となく支えた。骨の感触がするほど肉付きの薄い、痩せた身体であった。立ち座りにも、ただ家の中を歩くにも、当たり前のようにその身体を支えたものだ。
 莫循は、足が不自由ではあっても、滅多に他人の手を煩わせようとはしない。車椅子の近くまでいざってゆき、松葉杖を支えに己の身体を引き起こすすべを心得ていた。車椅子に収まってしまいさえすれば、あとはそれを自分の脚のごとくに操って、大抵のことは自分でしてのける。莫循自身、人の手を借りることを嫌い、黎綱も甄平もあえて手出しをすることは滅多になかったのだ。
 ふたりはなんとなく押し黙って、うつむいていた。
 廊州へ戻って以来、莫循の世話は、なんとはなしにふたりの仕事になっている。なってはいるが、話をするのも必要最小限にとどまり、ついつい避けてしまっていた。

 どちらからともなく、―――また溜息がこぼれた。





   * * *




 「おい、あの莫迦は一体いつから飯を食っておらんのだ」
 莫循が琅琊山を発つときにも、見送りすらしなかった藺晨である。
 莫循が風邪をこじらせて寝込んでいると知らせを受けるに及んで、ようやく重い腰を上げたのだ。馬を飛ばして、久し振りに廊州を訪れた。
 臥室を出て、黎綱にそう尋ねずにおれぬほど、莫循は弱っていた。
 「―――昨日からですが」
 「いい加減なことを言うな。昨日の今日であれほど痩せるものか」
 黎綱の頭を扇子の先でひとつ叩いてやる。
 「しかし、三度の膳はいつも空になっておりましたので‥‥‥」
 黎綱は首をすくめてそう答えた。
 「―――食うところを見たわけではないのだな?」
 「はあ‥‥‥。はじめは傍で給仕させていただいていたのですが、どうも互いに気詰まりなもので、食事中は下がっていてよいと言われ‥‥‥。この月に入ってからはそのように」
 やれやれと思う。
 なんと気難しい男かと。
 (いや―――。気難しいというのとは、すこし違うな)

 まことは。
 人恋しいに違いないのだ。
 あの日、肌を合わせたときに、そう感じた。
 そうと知っていながら、あれ以来、莫循の顔を見る気になれなかった。  
 (腹立ちまぎれに事に及んでおいて、それきり知らん顔とは、わたしも人でなしだ)
 厄介払いするように、莫循を廊州へ追いやった。

 藺晨は黎綱の顔を恨めし気に見た。
 同じ屋根の下にいながら、誰一人、莫循の不調に気づいてもやれなかったのかと思うと不憫だった。
 早々に莫循と向き合うことを放棄した自分には、言えた義理ではなかったが。

 「まあいい。晩飯の折りは、わたしが覗いてみよう」
 そう請け合ったものの、やはり気は重かった。
  

 黎綱が立ちさったあと、藺晨は回廊から庭へ降りて屋根を見上げた。
 「なんだ、飛流。ひとりか」
 屋根の上で膝を抱えていてる飛流もまた、ひどく痩せたようだ。
 藺晨は身軽く跳んで、飛流の隣に腰かけた。
 飛流は膝に顔を埋める。
 「―――蘇哥哥に、嫌われたから」
 「嫌われた?」
 莫循は、飛流に愛想をつかされたと言っていたが。
 「蘇哥哥じゃないって。向こうへ行けって」
 もう自分と変わらぬ背丈だというのに、大きななりをして涙声で飛流はそう言った。
 「飛流。あの男は・・・・・・」
 「知ってる。―――知ってた。蘇哥哥じゃないことくらい」
 のろのろと、飛流は顔を上げた。
 頬が削げて、また少し大人らしい顔になった。それなのに、その表情は子供のころから変わらない。
 「飛流・・・・・・」
 「蘇哥哥に、なってくれると思ったのに」
 飛流に新しい『蘇哥哥』をやりたいと思ったのも確かだった。自分も再び『長蘇』を腕に抱きたかった。その結果が―――、これだ。
 「蘇哥哥に、会いたい」
 「・・・・・・そうだな。わたしも、長蘇に会いたい」
 飛流の頭を抱き寄せて、藺晨は泣きたいような気分になっていた。



   *



 夕刻になって、莫循のもとへと足を向ける。 
 莫循の臥室の障子が、少し空いているのに気づいた。不思議に思い、藺晨は足音を忍ばせて部屋に近づいた。
 微かに、声が聞こえる。
 「小月、よい子だな」
 莫循の声に違いない。弱々しいが、優しく、どこか幸せそうな声音だ。
 かつて、長蘇もあんな声で語りかけてくれたことを思い出す。慕わしさに、藺晨はじっとしておれず臥室へ踏みいった。
 そして、目を見張る。
 (―――猫?)
 莫循の粥を、猫が旨そうに食べている。
 横たわったまま、猫の頭を撫でてやっていた莫循が、すこし驚いてこちらを見ていた。
 猫は藺晨という闖入者に見向きもせず、食事を続けている。莫循だけがこちらへ目をやり、そして、唇に指をあてて静かにと伝えて寄こした。
 藺晨はしかたなく、渠らから少し離れて胡座をかく。猫はよほど馴れていると見えて、食べ終わると悠々と伸びをし、莫循の傍らで顔を洗い始めた。
 「―――猫の腹に納まっていたとはな」
 深いため息とともに藺晨は言った。
 「食べきれぬ分を、少し手伝ってもらうだけだ」
 そう言って、莫循は猫の背を撫でる。
 「そんなに痩せ細って、猫ばかりが丸々肥えているというのに、よく言う」
 藺晨は苦笑いした。
 「ちゃんと食わねば骨と皮になって死ぬぞ? それとも、―――それが望みか?」
 そう言うと。
 ちら、と莫循が目を上げて藺晨の顔を見た。
 その眼差しに、どきりとする。
 もの言いたげな。
 狂おし気な色を湛えたその眼。

 莫循は眉を寄せ、その眉を開こうとし・・・・・・、叶わずに顔を背けた。
 猫を撫でる手が、止まる。
 猫は莫循を振り仰ぎ、常とは違う気配を感じたのか、のそりと立ち上がって部屋を出て行った。

 「―――誰も」
 苦し気に、莫循が低く声を絞った。
 「誰も、―――わたしの名を呼ばぬ」
 藺晨は眉を少し上げた。
 莫循の手が、敷布をぎゅっと掴む。
 「―――わたしは一体、誰だ? なぜ、誰もわたしを呼ぼうとせぬ?」
 その声が、震えていた。
 「まるでわたしなど、はじめから影も形もなかったかのように、誰もがわたしに見向きもしない。わたしの名は? 莫循か? 梅長蘇か?」
 そこまで言って、莫循は激しく咳き込んだ。
 その背をさすってやりながら、藺晨は軽い既視感を覚えていた。
 梅長蘇も、ふたつの名の間で揺らいでいた。―――林殊と、梅長蘇。いずれがまことの自分か、長蘇はともすれば見失いかけ、常に揺れ惑っていた。この男もまた―――。
 「・・・・・・落ち着け、身体に障る」
 「身体に障ったからどうだと? わたしはどのみち、あの砂漠で死んでいた。貴方が余計な真似さえせねば」
 強い力で、莫循が藺晨の腕を掴んだ。その指が、藺晨の肌に食い込む。
 「―――やはり、死ぬつもりだったのか」
 藺晨がそう言った途端、莫循ははっとしたような顔になった。狼狽えたように、視線を泳がせる。
 「―――そうではない。初めはそんなつもりではなかった」
 腕を掴む莫循の指が、すこし緩んだ。  
 「生きようと―――、砂漠の民らの間で、自由の天地で、今一度生きなおそうと思っていたのだ」
 それなのに、と莫循は唇を噛んだ。
 「―――気がつくと、駱駝を降りていた。この萎えた脚で、あの広い砂漠のただ中、駱駝を降りればどうなるか、わからぬはずはなかったというのに」
 力を失った手が、藺晨の腕から滑り落ちる。
 「あの時―――、わたしは既に莫循であることを、放棄したぬやもしれぬ。・・・・・・そして貴方と出会い、梅長蘇になった。・・・・・・なるはずだった。―――なのに」
 莫循が、褥に顔を伏せた。その肩が、震えている。
 「誰も―――、わたしを梅長蘇だとは認めぬ。梅長蘇でもないわたしが、ただ、ここでこうして息をしていることを許されているだけだ。・・・・・・皆がわたしから目を背ける。わたしは一体誰なのだ? 果たして本当にここに存在しているのか?」
 何度も咳き込み、喘ぎながら、莫循は溜まりに溜まっていたのであろう胸の内を吐露した。
 それはあまりに悲痛な叫びで、この物静かな男からこれほどの熱が迸ることに、藺晨は軽い感動を覚えていた。
 「―――小月というのは、お前が惚れていた女か?」
 ぽつりと、藺晨はそう尋ねた。
 肩で息をしていた莫循が、わずかにうなづいたようだった。
 「・・・・・・莘月は、わたしにとってかけがえのない、ただ一人のひとだった。―――女に去られたくらいで、情けないと思うだろうな」
 乱れた髪の間から、低く、微かに、莫循の切ない笑い声が漏れた。

 ―――そうではあるまい、と藺晨は思った。
 女のことは、恐らくきっかけに過ぎぬ。莫循という男が生まれてよりこのかた、ずっと胸の奥底に沈めてきたものを、女は引き出し、かき乱し、そして去ったのではなかろうか。

 莫循は、もはや昔の、その女に出会う前の自分に戻れはすまい。一度知った己の内の焔に、再び蓋をすることなどできはせぬ。
 それゆえに。
 かくも苦しむのだ、この男は。
 (罪な女だ)

 そして、この自分もまた。
 この男にささやかな希望を与えておいて、投げ出してしまったのではなかったか。

 深い息を吐いて、藺晨は莫循の肩へ手を置いた。
 過日、情を交わした折には、長蘇より心持ち肩幅があると思った。藺晨にしかわからぬほどの、ほんの少しである。
 (いまは、長蘇と同じくらいか)
 痩せた肩を撫でながら、思う。

 いくらかでも。
 生き直そうという気が、この男の中にあったのなら。

 支えてやりたいと、―――そう思った。





スポンサーサイト

もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 琅琊榜
もくじ  3kaku_s_L.png 東離劍遊紀
もくじ  3kaku_s_L.png 古剣奇譚
もくじ  3kaku_s_L.png 花千骨
もくじ  3kaku_s_L.png 偽装者
【砂の枷2 (『琅琊榜』『風中奇縁』)】へ  【砂の枷4 (『琅琊榜』『風中奇縁』)】へ

~ Comment ~

餓えてますね(笑)

遥華さま

藺晨、餓えてますね~、うーん素敵っ(*´▽`*)
ウジウジしてる九爺さまなんか、押し倒しちゃえ~。
私は、藺晨がもうちょっと年くって50代以降になったら、超好みなので美味しくいただきたいです(笑)
もう(てゆーか最早)、藺晨であれば、何でもいい気がしてきました…。

藺晨があまりにも強烈なキャラだったので、ドラマの序盤以降、全然出てこなくて、初見の時は???でした。
終盤で再登場したら、周りを完全に食っちゃってましたし。
友情出演でも、すごい存在感でした。

宗主の「表面は氷で、中身は焔」という表現、よく分かります。
外見はあんなだけど、中身はあっつい(熱苦しいかも)ですもの。
私の宗主のイメージは、「氷のように青白い、でも超高温の焔」です。
両極端の二つの存在の間で、いつも揺れていて。
珍しいから、みんな触れたがるけれど、下手すると骨まで焼き尽くされる(誉王とか玉ちゃんとか夏江とか陛下とか)。
宗主の周りの人々は、ある意味みんな被害者かもしれませんね。

九爺さまはどんな風に折り合いをつけるのか。
藺晨と飛流はどうするのか。
続きがとっても楽しみです。
明日もお待ちしております。

追伸
遥華さんの悪魔のささやきに負けそうです(笑)
ダンナに内緒で、pixivに登録しちゃおうかな。
監○&言葉責めの変○プレイですが、槍が降ってこないかどうか、それだけ心配です…。

>>Rintzuさん

藺晨いいですよねえ・・・。
とにかく、紫胤さまといい、藺晨といい、
最初に「おおおっ!」って思わせておいて、それっきり終盤まで出てこないという
放置プレイにすっかりやられてしまいました・・・・orz

「珍しいから触れたがる」!?
宗主はやはり珍獣だったのか!?
珍獣ハンター戚猛たんの出番ですよね!?

―――槍は降ってこないと思いますが、
雷が落ちないようにご注意!!(笑) by 沈追



管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。
  • 【砂の枷2 (『琅琊榜』『風中奇縁』)】へ
  • 【砂の枷4 (『琅琊榜』『風中奇縁』)】へ