琅琊榜.風中の縁

砂の枷2 (『琅琊榜』『風中奇縁』)

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藺循の続きです・・・(汗)

 宿を出てしばらくすると、違和感を覚えた。
 ここは―――。
 見知らぬ町だ。
 この辺りに、こんな町があっただろうか。

 町を抜けて、街道へ出た。風が時折、砂を吹き運んでくる。やはり、いまだ砂漠からそう離れてはおらぬのだ。
 砂漠の周辺は、知り尽くしているつもりの莫循であった。なのに、あの町にもこの道にも、莫循はまるで見覚えがなかった。

 なんとなく。
 ―――理解していた。
 ここは、莫循の生きてきた場所とは、まるで別のところなのだと。
 たとえ建安の地へ帰っても、愛した人はいないだろう。

 それは却って、好都合というものだった。
 いつかどこかで、偶然再会したら。いきなり、幸せな家族の姿に出食わしてしまったなら。
 微笑んで、挨拶を交わし、口先だけの言葉を紡ぎ、それから……?
 耐えられぬ、と思った。
 何がどうなったのか知れぬが、かの人のおらぬ世界へ飛ばされたのであれば、それは願ってもない行幸である。
 ―――天の配剤か
 苦笑が漏れる。
 この心弱い己を、天は憐れんだのやもしれぬと。

 馬の背で、交わす会話もなく黙然と莫循は頭を垂れていた。
 膝から下の感覚はすっかり喪っていたが、藺晨の鞍の前へ助け上げられて、馬の背にまたがっていることはどうにか出来た。背中から藺晨に支えられていれば、落馬することもなく旅を行けそうだ。
 ただ、どうにも気詰まりで。

 琅琊山に帰るのだ、と藺晨は言った。
 琅琊山という山があることは、知っている。だが、それも、果たして自分の知るものと同じかどうか。この世界では、全てが微妙に、違っている―――。 
  
 「おい。寝るならこっちへ凭れていろ」
 ぐい、と身体を引き寄せられて、我に返る。うとうとしかけていたのだ。
 「―――すまぬ。大丈夫だ」
 そう言って背を伸ばそうとしたが。
 「いいから、休んでいろ。まだ身体が弱っている」
 藺晨の胸へ引き戻される。
 大の男が、と思うと身体が固くなって、眠るどころではなかった。
 (梅長蘇という男は、平気で眠れたのだろうか?)
 そんなことを思う。
 
 『梅長蘇にならないか』

 藺晨がそう言い、自分は諾と答えた。
 だが。

 今に至るまで、ただの一度も、藺晨が自分を長蘇と呼ぶことはないのだ。
 
 


   * * *




 苦い後悔が、藺晨を包んでいる。
 後悔などせぬたちであったものを、此度ばかりは己に嫌けがさした。
 覆水が盆に返らぬように、ひとたび口から出た言葉を腹に戻すことなどできはせぬ。

 (長蘇になれなどと)
 我ながら、呆れて物が言えぬ。
 (―――どうかしている)
 長蘇のかわりなど、おりはせぬものを。

 同じ姿、同じ声で目の前に現れた幻に、つい易々と飛び付いた。

 飛流は相変わらず、莫循のそばに入り浸っている。
 琅琊閣に戻ってから、莫循には長蘇の臥室をあてがっている。それも、忸怩たるものがあった。
 長蘇の部屋を、同じ顔をしているとはいえ、赤の他人に使わせるなど。
 どうかしていた。
 長蘇の匂い、長蘇の気配。
 時がたっても残しておきたいと願っていたものを。
 莫循は、聡い。そんな藺晨の心を見透かしたように、部屋のものには手を触れまいとしている。

 さぞ、居心地は悪かろう。
 卑劣な真似をしたとも思う。
 ―――莫循は、死にたがっていたのではなかったか。
 この世に居場所のない男に、新しい器を散らつかせたのだ。尋ねる前から、答えは決まっているではないかと思う。
 選ぶ余地のないことを、あたかも莫循自身が選んだかのように答えさせてしまった。追い詰めたのは自分だ。
 そうとわかってはいても、一度約束した新たな居場所を、藺晨の手でとりあげることはもう出来ぬ。
 いまさら悔いても遅いのた。

 琅琊閣の者たちは、莫循の姿を見て一様に驚き、ある者は涙ぐみ、ある者は気味悪そうに遠巻きにした。
 閣主の気が知れぬ、などとささやく声も、知らぬではない。無邪気に喜ぶ飛流が哀れだとも、渠らは言う。
 飛流は不思議なほど、莫循を慕っている。
 幼いうちに人がましい心を封じられた飛流である。そのせいか、いまだにどこか獣じみたところがある。獣の勘で、飛流は敵と味方をかぎ分ける。長蘇には殊の外よく懐いた。
 その飛流が、莫循を慕う。まるで長蘇自身に接するように、飛流は莫循にべったりだ。
 飛流がそう感じるのであれば、あれは長蘇と同じ魂を持つ者ではあるまいか。
 (―――世迷い言を)
 藺晨は笑った。
 そんな都合のいいこじつけで、自分を慰めようとは。この体たらくを長蘇が見たら、さぞかし呆れるに違いない。
 呆れて―――。
 嘲笑い、罵ってくれて構わない。
 ―――ただ、この腕に戻ってきてくれるなら。


 やはり。
 長蘇のかわりなど考えられなかった。
 (ならば―――)
 江左盟は、長らく宗主が不在だ。黎綱や甄平はよくやっているが、それでも尚、一頃の隆盛には及ぶべくもない。
 もとより長蘇は体も弱く臥せり勝ちで、おまけに二年余りも廊州を空けたが、長蘇という宗主を戴いているだけで、江左盟の士気は滑稽なほど上がった。その長蘇を失った江左盟は、じわじわと沈みゆく船のようで、恐らくやがて江湖の中に沈んで消えるのやもしれぬ。
 琅琊閣と江左盟の結び付きを思えば、藺晨が江左盟の面倒を見るべきであったかもしれぬが、藺晨自身、長蘇亡きあとは琅琊閣さえ持て余している始末であった。主だった部下らが切り盛りしてはいるものの、もう長い間、藺晨の指示を仰がねばならぬような大きな案件には携わっていない。些末な相談事をせっせと処理し、琅琊榜を書きかえ―――。こうして琅琊閣も先細りしてゆくのではないかと藺晨はぼんやり思っていた。
 それもよいと思う。藺晨にとって、琅琊閣も江左盟も、ただ長蘇を支えるためにあったようなものだ。
 ならば、江左盟ひとつくらい、莫循にくれてやってもよいではないか。
 藺晨は、ため息をついた。




   * * *




 「ああ、どうかそのまま」
と、黎綱が言った。
 「お加減が悪いのは存じておりますから」
 「―――お気遣いなきよう。こうして寝てばかりいるのも、存外疲れるものですから」
 黎綱の人の好さげな顔へそう返して、莫循は身体を起こした。
 黎綱は寝床の前に膝をついて座り、少しこうべを垂れた。
 「昨日は、ご無礼致しました」
 その神妙な様子に、莫循は目を細めた。
 「いいえ。わたしのほうこそ、亡くなったかたに成り代わろうなどとは、了見違いも甚だしい。甄平どのがお怒りになるのも無理はない」
 そっとため息をこぼす。
 もとより、簡単なことではないのだ。ほかの誰かにとってかわるなど。

 昨日、藺晨から黎綱と甄平に引き合わされた。梅長蘇になるのなら、江左盟の宗主とならねばならぬのだと。
 かつて、好むと好まざるとにかかわらず、都一の財閥の頭領であり、砂漠で最強と謳われた盗賊にさえ号令する立場であった莫循である。人の上に立つことに怖じはせぬが、しかし、その立場ゆえに生き方を狭められた身であった。別人となって、自由に生きる―――、そう考えた矢先に、唐突にあてがわれたのだ。江左盟という組織を。
 困惑したまま、黎綱と甄平に会った。
 一目、莫循を見るなり、ふたりは言葉すら失い、男泣きに泣いたのだ。
 しかし。
 藺晨から話を聞かされるや、甄平が烈火のごとく怒った。
 「藺閣主のお言葉とも思えません! 確かにこの方は宗主によく似ておいでだ。生き写しと言っていい。されど―――」
 甄平は言葉を詰まらせた。
 「我らが宗主は、―――梅長蘇おひとりです。いかに顔が同じでも、偽物を崇めたてる気になど、なれるはずもありません」
 荒々しく立ち上がると、甄平は振り向きもせずにその場を去ったのだった。黎綱もまた、黙ってはいたが気持ちは同じだったのだろう。眉をよせ、口を引き結んだまま立ち上がり、一礼して甄平のあとを追った。
 藺晨と共に残された莫循は、放心して、畳に手を突いていた。

 ―――偽物。
 その言葉が、深く胸を抉った。
 梅長蘇の偽物。
 そんなものに、成りさがったのか、自分は。
 窮屈なしがらみの中、己を殺して生きていたあの頃、それでも自分は、偽物ではなかった。精一杯、己の運命に耐え、できることなら抗おうとしていたというのに。

 情けなかった。
 とんだお笑い草である。
 苦し紛れに這い上がろうとした居場所が、これほどまでに己を貶めるものであったとは。
 莫循は笑った。
 笑いながら泣き、そしてそのまま、その場に倒れ伏したのだ。
 
 ―――気まずい沈黙の中、飛流はずっと莫循の傍らで絵を描いている。莫循の絵を描いていると見えて、時折ちらちらとこちらを見ては、紙の上に筆をぺたぺたと撫でつける。汚れた手で触ったせいで、鼻の下や頬に墨がついて、ひどく愛嬌のある顔になっていた。
 「こうしていると、本当に宗主が帰ってこられたようにしか見えません。いつもこうやって、飛流は宗主のおそばに張りついていましたから」
 黎綱が感慨深げに言った。
 「‥‥‥そのようですね。片時もわたしから離れようとしない」
 「宗主には随分可愛がられましたから、飛流は」
 幾分肩を落としてそう言うと、黎綱は小さくため息を落とした。
 いたたまれずに、莫循は視線を辺りへ巡らせる。
 「―――この部屋は、梅宗主がお使いになっていた時のままと、藺晨どのから伺いました」
 「はい。藺閣主が、そのままになさっておいでで」
 黎綱も懐かしげに部屋を見渡した。
 「亡くなったかたのお人柄が偲ばれます。壁にかかった書軸、お使いになっていた硯や墨、積み上げられた蔵書。ゆかしさの中に、闊達さも覚える」
 「―――宗主は、もとは武人でおいででしたから」
 少し誇らしげに、黎綱がそう答えた。莫循はふっと目を伏せる。
 「わたしは生まれつき脚が悪い。身体もひ弱だ。それゆえか、どちらかといえば陰気なたちで。―――梅宗主とは、やはりまるで違う」

 誰からも愛された、梅長蘇。
 自分とは、似ても似つかぬ。


 「お疲れになるといけません。どうぞお休みになってください。わたしはこれにて―――」
 黎綱は頭を下げ、部屋をさがろうとした。
 そして、障子の向こうで膝を抱えた姿を見つける。
 「‥‥‥甄平。昨日の詫びに来たなら、なぜ入らんのだ」
 見下ろしてそう言うと、甄平はふいと横を向いた。黎綱がため息をついたその時。
 「蘇哥哥っ!」
 飛流の声に、黎綱は振り返った。
 莫循が苦し気に、飛流の腕にすがっている。
 「―――宗主!」
 黎綱が叫ぶより早く、脇をすり抜けた者がいる。甄平だ。
 「宗主っ!」
 甄平は莫循に駆け寄って、その体を支えていた。
 懸命に背をさする甄平の姿に、黎綱は胸がつまりそうになった。
 「―――大丈夫です。甄平どの。すこし気分が悪かっただけです。もう治まりました」
 莫循にそう言われて、甄平はようやく我に返ったようだった。狼狽して立ち上がる。
 「甄平‥‥‥」
 声をかけた黎綱の顔を見ることもせず、甄平は動揺して意味もなく部屋の中をあちこち見まわしている。
 ―――そして、言った。莫循から顔を背けたままで。
 「お寝みになったほうがよろしいかと。―――それから」
 荒くなっていた息を整えながら、甄平はようやくちらりと横目で莫循を見た。
 「―――梅長蘇を名乗られるおつもりなら、わたしの名は呼び捨てになさることです」
 吐き捨てるようにそう言いおいて、甄平は足早に部屋を出て行った。部屋の入り口で立っていた黎綱も、慌ててそれに続いた。


 莫循は飛流の腕に支えられたまま、しばらく呆然としていた。
 そして苦い笑いを漏らす。

 ―――偽物の宗主を、許すというのか。
 いや―――、と思う。

 渠らに受け入れられたなどとは、思わぬことだ。
 渠らとて―――。苦しいのだ。
 彼らの慕った主はもういない。その主に瓜二つな自分が現れて、渠らとて苦しい。そう理解できるがゆえに、莫循はさらに苦しかった。

 「蘇哥哥?」
 心もとなげな声で呼びかけられた。
 飛流だけは、自分を梅長蘇だと信じて疑わない。
 思えば、それに支えられて今日まで来たのだ。
 だが―――。
 
 莫循は飛流の手を振り払った。
 「わたしは‥‥‥、お前の蘇哥哥などではない」
 飛流は不思議そうに首を傾げた。
 「蘇哥哥だよ?」
 「違う!」
 自分でも驚くほど、荒々しい声音だった。その声に、自分で自分の歯止めが利かなくなる。
 「蘇哥哥などと呼ぶな! 向こうへ行け!」
 飛流の身体を押しやった。
 飛流は驚いて、目を瞠っている。
 「蘇哥哥……」
 「うるさい!」
 枕を、投げつけた。

 なぜ。
 なぜ、飛流にこんな仕打ちをしてしまうのか。ただ一人、自分に寄り添ってくれようとする飛流に。
 
 飛流は悲しそうに目を伏せ、それからゆっくりと立ち去った。

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~ Comment ~

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遥華さま

こんばんは。
今作は、何だかとても辛いです。
九爺さまと藺晨と飛流と、そして宗主を失った江左盟の人々に、どうか平安が訪れるように、PCの前で念じています。
どうやって折り合いをつけるのか、どういう展開になるのか、ドキドキしながら、次回作をお待ちしております。

>>Rintzuさん

正直、どうしようかなと考え中です。
というか、考えるというより、なるようにしかならないいつものパターン(^^;;;
さて、どうなるでしょう・・・・www
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