琅琊榜

冰融 (『琅琊榜』#28補完)

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靖王が宗主(林殊ではなく)に優しくしてくれたら嬉しいのに、ってずっと思っているのだけど、でも、靖王の身になってみれば、なかなかそうもいかないのだなあと、書いていて思う今日この頃。

 誉王勢力と対抗するために、三省六部の現状をつぶさに把握する必要があった。
 これまで極力目を背けてきた朝廷のあれこれと正面から向き合う作業は、景琰にとって決して楽なものではない。梅長蘇は時の許す限りそれにつきあい、現在の国内外の大小さまざまな勢力、官吏らの人間模様や利害関係などを靖王に説いた。
 それらは景琰にとって、想像以上に複雑で狡猾で欺瞞に満ちていた。深く知るほどに苛立ち憤る景琰を、梅長蘇が辛抱強く宥め、政の本来あるべき姿を諭す、それが近頃の夜毎の習わしとなっている。
 今夜も、ここ数年に刑部が扱った事案を、当時の懸鏡司や大理寺の資料とつきあわせながら、二人で検証していたのだが。
 いつの間に眠ってしまったのか、ふと気づくと明け方の冷気が部屋を満たしていた。
 顔を上げた拍子に、肩から外套が滑り落ちる。
 梅長蘇のものだ。
 慌ててそちらへ眼をやると、梅長蘇は景琰が眠りに落ちる前と寸分違わぬ様子で、書簡を読み続けていた。
 「すまぬ。わたしだけ眠ってしまったようだな」
 声をかけると、梅長蘇は初めて我に返ったように振り向いて、うっすらと笑った。
 「昼間は誉王殿下と論戦なさることも多くてお疲れなのでしょう。もう少しお休みになっては」
 そう言った梅長蘇の声が、少しかすれている。
 「先生こそ一睡もしなかったのでは? 戻って休まれよ」
 言いながら、景琰は手近なところに散らばる資料をかき集めて片付けにかかる。
 梅長蘇は小さく笑ったようだった。自分も手元の書簡をまとめる。
 「それではお暇いたしましょう」
 「ご苦労だった」
 外套を掴んで梅長蘇に返す。微笑んでそれを受け取ろうと片膝を立てて手を伸ばしかけた梅長蘇が、不意に咳き込んだ。
 「蘇先生?」
 驚いた景琰に、梅長蘇は咳の合間に「没什么」と掌を向ける。
 「没什么もないだろう」
 慌てて梅長蘇の背中をさすって、初めて気づいた。
 身体が冷え切っている。
 火鉢に火も入っているというのに。
 寒症を患っていると聞いてはいたが、衣ごしにも身体の温みが少しも感じられぬ。
 「わたしに外套など、要らぬ世話であったものを」
 羽織っていれば、いくらかでもその身の熱を保てたであろうに。戦場での野営にも慣れた自分への気遣いなど、余計なことだ。
 「申し訳ありません。さし出た真似を」
 詫びる声が、弱々しい。
 景琰は唇を噛んだ。謝らせるつもりで言ったのではない。だが、自分の声がひどくとげとげしかったことも、自覚している。
 気まずい思いを断つように、密道の鈴が鳴った。
 隠し扉を開けてやると、黎綱と甄平の姿が現れた。
 「宗主をお迎えに上がりました」
 黎綱が恭しく礼をとる後ろから、甄平が梅長蘇の姿を見て取る。
 「宗主!」
 甄平は黎綱を押しのけると、片手を突いてぐったりした様子の梅長蘇に慌てて駆け寄った。
 「宗主、お加減が?」
 黎綱もそばへ駆けつけ、ふたりで主の身体を支える。
 梅長蘇の身体の冷たさに気づいたのだろう。甄平が景琰を振り返り、その手に掴まれた外套に目を留める。表情を険しくした甄平は、景琰に歩み寄ってその手から乱暴に外套をもぎ取ると、梅長蘇の身体に着せかけた。
 腹を立てられる筋合いはない、と思ったが、言い訳する気にもなれない。
 「大事にされよ。またご指導を頼む」
 黎綱と甄平に支えられて立ち上がった梅長蘇に、景琰はそう言った。
 何か言いたそうな甄平を黎綱が目でたしなめて、密道のほうへと促した。
 ふたりに支えられて去る梅長蘇の後姿に、それ以上かける言葉も見つからず、景琰はぼんやりそこに立っていた。







 密道の鈴綱を引く。
 暫く待つと、扉が開いて飛流が顔を覗かせた。
 「蘇先生は?」
 景琰の問いに、飛流は口を堅く結んだが、やがて後ろを振り返った。その眼の先に、梅長蘇の寝床がある。
 「まだ具合が悪いのか?」
 あれからもう五日もたつというのに。
 「通してもらってよいか?」
 飛流は微かに眉を寄せたが、しかたなさそうに道を空け、先に梅長蘇のほうへ駆け寄った。
 「殿下」
 飛流の手を借りて、梅長蘇が体を起こす。
 「まさかまだ臥せっているとは知らず、押しかけてしまい失礼した。出直したほうがよければそうするが?」
 「いいえ、ご足労をおかけしたのに追い返すわけにもまいりません。温かくしていれば差し支えありませんから」
 穏やかに微笑んだ梅長蘇に、飛流が毛毯を着せかける。
 「飛流。火鉢をこちらへ寄せてくれないか」
 嗯とうなづいた飛流が火鉢を運ぶ間に、景琰は梅長蘇に勧められて寝台のそばに腰かけた。
 「昼間はもうすっかりよいのです。大事をとって早めに横になっていただけですから」
 梅長蘇らしくない、見え透いた嘘を言う。
 少しもよくなどなっていないことは、一目で知れた。
 青白い頬はひどく窶れて、髪は幾日も櫛を通していないのがわかる。ずっと臥せっていたのだろう。
 「……ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
 力ない声に、胸がずきりとする。
 「わたしの心配りも足りなかった」
 「滅相もありません」
 身を乗り出して詫びようとするのを、景琰は押しとどめた。
 「いや。なにしろ、あの甄平とやらにはすっかり嫌われたほどだからな」
 つい頬に皮肉な笑みを浮かべてしまう。梅長蘇が少し困ったような顔をした。
 「甄平が何かご無礼を?」
 「……そうではないが」
 景琰は眼をそらせた。
 「お許しを。よく言って聞かせます」
 今度こそ居ずまいを正し、梅長蘇が頭を下げる。
 景琰は戸惑った。病人相手に、なぜ責めるような口調なってしまうのか。
 自分はいつからこんな物言いしかできなくなったのだろう。
 「殿下」
 梅長蘇が少し声を低めた。
 「わざわざお越しとは、何か問題でも出来いたしましたか」
 冷徹な謀士の顔を垣間見せる。弱っているだけに、それは痛々しくもあったが。
 「わたしが見舞いではおかしいか」
 「いえ……。ですが」
 梅長蘇の目に、微かな戸惑いが浮かぶ。
 無理もない。これまで自分は、ろくにこの男の病など案じたこともなかったのだから。
 赤焔事案を覆すという悲願に、誠意を以て助力してくれる謀士を、今では信用し、頼りにもしている景琰である。それでも猶、梅長蘇との間に壁を作らずにはいられぬのだ。
 景琰は小さく溜息をついた。
 「確かに、見舞いではない。先生があれ以来一向に訪ねてみえぬゆえ、わたしのほうからご指導をあおぎにきたまでだ」
 ああ、と景琰は思った。また、言いようがまずかったかもしれぬ。
 案の定、心苦しそうに、梅長蘇がうなだれた。
 「大事な時期に、この体たらくで面目ありません」
 「顔をあげられよ。……先生は近頃、詫びてばかりいる」
 すこし苛立って、景琰は言った。病身の謀士を困らせ、謝らせてばかりいるのは自分のほうだとわかってはいるのだ。
 気持ちを持て余していると、足音が聞こえた。
 「宗主。お目覚めでしたら、少しはお召し上がりを……」
 食事を運んできたらしい黎綱が、景琰の姿を見て驚いている。
 「……お越しでしたか、殿下」
 盆をそばの桌子に置いて、黎綱が慌てて礼をとる。
 「蘇先生の食事か。わたしに構わずすませてくれ」
 そう言うと、梅長蘇が苦笑した。
 「食事ならいつでもとれます。お気遣いなきよう」
 それを聞いた飛流が寝台の端に腰かけて、梅長蘇の袖を引いた。
 「蘇哥哥」
 不服げに口をとがらせ、梅長蘇の顔を覗き込んでいる。
 「食べなきゃ」
 「飛流」
 梅長蘇は飛流を黙らせようと、眼でたしなめるそぶりだ。それでも飛流は、すこし眉を寄せて言葉を続けた。
 「蘇哥哥。朝から何も食べてない」
 「そうなのか?」
 景琰が問うと、梅長蘇はばつが悪そうに眼を泳がせた。
 飛流の顔を見る。あどけない表情で、飛流はこくこくと頷いた。
 黎綱を振り返ると、こちらもすこし困ったように、わずかに頷いて見せる。
 景琰は深々と嘆息した。
 「ならば今、この場で食させよ」
 その言葉にかぶせるように、梅長蘇が言う。
 「黎綱、よいから下げてくれ」
 板挟みで困惑している黎綱を、景琰は今一度強く促した。しかたなく黎綱は盆を持ってそばまで来た。
 盆の上の物に目をやる。
 薄い粥だ。
 こんなものすら喉を通らぬようでは、身体がもつまい。
 「寄越せ」
 景琰は盆ごと黎綱から取り上げた。
 「殿下」
 梅長蘇の困ったような声には耳を貸さず、景琰は盆を膝に置き、蓮華で粥を掬った。少し息をふきかけて冷ましてから、梅長蘇の口元へと持っていく。
 「命令だ。食べよ」
 梅長蘇が眉間に皺を寄せた。
 「殿下お手ずからそのようなことをなさってはなりません」
 わずかに険しさを含んだ梅長蘇の声に、景琰は負けじと言い返した。
 「わたしを焚きつけておいて、自分だけいつまでも病に伏せっておられては迷惑だ」
 つい、語気が荒くなった。
 梅長蘇は少し目を瞠り、一瞬何か言い返したそうに口を開きかけたが、結局肩を落としてうつむいた。
 「……すみません」
 ―――また、謝らせてしまった。
 すっかり萎れた梅長蘇に粥を勧めると、今度は素直に口をひらいた。
 一口飲み下すのも、ひどく大儀そうだ。
 うしろで、黎綱が飛流に何か小声でたしなめている。「でも」と飛流が声を上げたので、思わずそちらへ目をやると、黎綱が気まずそうな顔をした。恐らく梅長蘇に誰も会わせぬよう、飛流にも言い含めてあったのだろう。
 しかし、飛流は言葉をつづけた。
 「でも。呼んでた」
 「……え? 誰が、誰を?」
 虚を衝かれたように、黎綱が聞き返す。
 飛流はつんと顎をそびやかして答えた。
 「蘇哥哥が。水牛を」
 梅長蘇と黎綱が、息を呑んだのがわかる。
 景琰はふたりを眼で牽制して、飛流に向き直った。
 「蘇哥哥がわたしをか?」
 飛流は得意げに、大きくうなづいた。
 「うん。名前を呼んでた。寝てるとき」
 慌てて何か言おうとする梅長蘇を、景琰は手で制して、素早く尋ねた。
 「飛流はわたしの名前を知っているのか?」
 梅長蘇と黎綱の顔をかわるがわる見て、飛流はすこし戸惑った顔をしたが。
 それでも、はっきりこう答えた。
 「……じんいぇん」
と。
 「飛流!」
 病人らしからぬ強い声音で、梅長蘇がたしなめた。
 大きな声を出したせいで、梅長蘇は肩で息をしている。
 「この子は何か聞き違いをしたのでしょう。わたしが殿下をお名前で呼ぶはずもありません」
 梅長蘇らしくもない狼狽えようを、景琰はじっと見つめた。訴えるような梅長蘇の眼差しから、ふっと眼をそらす。
 「……ならばそういうことにしておこう」
 やはり、突き放すような言い方になってしまう。
 「……名前で呼ぼうが、水牛と呼ぼうが、べつにわたしは構わぬ」
 これでは嫌味にしか聞こえまいに、と口に出してから景琰は思った。
 そんなことを言いたいわけではなかったのに。
 眠っていてさえ自分の名を呼んだというこの謀士に、景琰の心は疼いたのだ。
 病床でもこの簫景琰を気遣い続けていた梅長蘇に、一向に訪ねても来ぬだの、人を焚きつけて自分だけ臥せっているだのと、先刻から自分はひどい言葉ばかり吐いている。
 景琰は黙って粥を掬った。
 ひと匙ひと匙、梅長蘇は大人しくそれを口にし、息づまるような沈黙の中で、長いことかかって一杯の薄い粥を食べ終えた。

 梅長蘇が食事を終えたあと、景琰はひとしきり吏部や礼部に関して教えを請うた。人材登用について、父皇から意見を求められたためだ。その類に関する知識は、誉王・景桓には遥かに及ばぬと自覚している景琰である。
 病床にあっても、梅長蘇の見識は深く論舌も鋭かった。
 景琰はほっとして、ついついあれこれ尋ねては夜が更けるのも忘れ、議論した。
 疲れ果てた梅長蘇がぐったりと枕によりかかるに及んでようやく、相手が病人であることを思い出した始末である。
 「蘇先生はお疲れのようだ。今宵はひとまず失礼しよう」
 立ち上がると、梅長蘇も首をもたげた。
 「明日はわたしのほうからお訪ねいたします」
 景琰は眉を寄せた。
 「無理はせずともよい。用があればわたしから来る」
 梅長蘇が「いいえ」と微笑を浮かべる。
 「五日もの間お役に立てなかった埋め合わせに、今後の為になりそうな書物をいくつか見繕ってまいりましょう」
 さっきの自分の言葉を気にしているのだろうと思うと、胸が痛んだ。
 「……雑作をかける」
 いたたまれずに、梅長蘇に背を向けた。
 「飛流。殿下をお送りしなさい」
 穏やかな声がして、飛流がぴょこんと火鉢を飛び越えてきた。





 ひどく疲れた気分で、密室の置き座敷に腰をかけた。
 飛流はじっと見下ろしていたが、やがて黙って隣に腰を下ろす。
 「飛流」
 手持無沙汰そうに爪をはじいていた飛流に、景琰は声をかけた。
 「お前はわたしを嫌わぬのか」
 飛流が不思議そうに顔を見る。
 「わたしは随分、蘇哥哥につらく当たっているとは思わないか」
 甄平が腹を立てるのも無理はない。

 考えてみれば、梅長蘇にだけではない。
 十三年前からずっと、自分の殻に閉じ籠ってきた。
 何も見ず、何も聞かず。近づこうとする者には毛を逆立て、容赦なく撥ね付けた。
 労りかたなどわからない。心の開きかたも、とうに忘れた。

 「昔はこうではなかったのだ」
 飛流の、あどけなさを残した顔を見る。
 「お前くらいの頃は、毎日が楽しくてならなかった」
 景琰は膝の上に肘をつき、両手を組んだ上へ額を乗せた。

 敬愛する兄に守られ、心かよい逢う友と睦んだ日々。
 心の底から笑いあえた、あの頃。

 もう戻らぬのだ。

 「……水牛?」
 気づかわし気な声で、飛流が言う。
 景琰は少し顔を上げ、笑って見せた。
 「蘇哥哥は優しいか?」
 飛流はちょっと瞬きしてから、口元をほころばせた。
 「うん」
 嘘のない少年だ。
 「蘇哥哥が好きか?」
 「うん!」
 満面の笑みを浮かべて、飛流がうなづいた。

 心など持ってもいまいと忌み嫌った謀士でさえ、これほど慕われている。
 自分はどこへ心を置いてきたのか。
 景琰は、なにより情義を重んじているつもりだった。冷たく生臭い謀略に明け暮れる梅長蘇などより、よほど人の道を大切にしてきたはずだったのだ。だが、実際はどうだ。

 悔しかった。
 謀士風情に、自分が思う情義がわかってたまるかという苛立ちがあった。 

 ふと、気づく。
 梅長蘇に出会うまでの十二年。こんなふうに心乱れたことがあっただろうか。
 凍てついた心は、なにものにも動じることがなかった。
 梅長蘇が。
 情義など決して解さぬはずの謀士が。
 自分の心を融かし始めたのではなかったか。
 喜怒哀楽が目覚めるにつれて、心は激しく葛藤し、それゆえに一層この謀士に腹が立った。

 この一年あまりと言うもの、心が定まる日はなく、常に苛立ちの中にあったと思う。蓋をしていた傷口が開き、十二年分の痛みが、一気に押し寄せたのだ。

 「水牛。……別哭」
 飛流の手が、景琰の膝の上に乗る。
 景琰はその手を眺めた。
 「……同じだな」
 林殊も、少年の頃、よくこうしてそばに寄り添ってくれた。林殊の手も、こうして自分の膝に置かれたものだ。
 四兄に理不尽な理由で叱られて、悔し泣きしたときも。
 「水牛は水ばかり飲むから、ほら、目から水が溢れてる」
 そう言って笑って、「別哭」と慰めてくれた。

 小殊に会いたい。
 心からそう思った。

 あの燃えるような熱い魂なら、きっと一瞬で自分を解き放ってくれる。今のような生殺しではなく。

 「小殊」
 景琰は飛流の肩へ顔を伏せた。
 「……すまない。今だけじっとしていてくれ」

 飛流は答えなかった。
 ただ黙って動かずにいてくれる。

 膝に置かれた飛流の手は、林殊のそれのように温かかった。























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