琅琊榜

蝉蜕6 (『琅琊榜』 #54以降)

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不老不死と噂の高い(?)藺晨ですが、うちの藺晨は怪我もすれば病気もする、人間藺晨となっておりますw
あ、でもやっぱり不死身かなーw

ちなみに、藺晨・長蘇の出会い編は、『蝉蜕前伝――邂逅』です。


 「蘇哥哥!」
 開け放たれた扉から、猛烈な風雨に押されるようにして飛流が飛び込んできた。
 「飛流! よくここまで‥‥‥」
 この嵐の中を。
 「藺晨。飛流が‥‥‥」
 腕の中の藺晨を揺り起こす。
 「―――ああ。さすがは飛流だな」
 そう言って笑った藺晨の口から、ごぼりと血がこぼれた。
 「藺晨哥哥」
 飛流が案じ顔で藺晨のそばへしゃがみこんだ。
 「お前に心配されるようでは、わたしもいよいよ終わりだな」
 「莫迦なことを」
 長蘇は顔をしかめる。
 「‥‥‥冗談だ。-―――飛流。いいから戸を閉めてこい。雨風は蘇哥哥の身体に毒だろう?」
 あっ、と飛流は慌てて戸を閉めに戻る。
 「こんな時にわたしの身体の心配などするな」
 「お前の心配をするのは、わたしの生きがいのようなものだ」
 そう言って、藺晨は笑った。
 「藺晨―――」
 これほどの深手を負いながら、尚も軽口を叩こうとする藺晨を、梅長蘇はすっかり狼狽えて抱きしめていた。
 麒麟の才子が聞いてあきれる、と思った。愛する者の大事に、何もできず取り乱すだけとは。
 風に押されて悪戦苦闘しながら戸を閉めた飛流が、そばへ戻ってきて膝をついた。心配そうに藺晨の顔を覗き込む。
 飛流がそばにいてくれることが、ひどく心強かった。ついさっきまでは、不安に押しつぶされそうだったのだ。
 武功を失った身を、今度ほど口惜しく思ったことはなかった。



   * * *



 琅琊山に籠りきりでは退屈だろうと、あの夜、褥の内で藺晨がそう言ったのだ。
 翌日、出かけようとする二人に、飛流や黎綱がついてきたがったが、藺晨が許さなかった。
 「たまには気を利かせてはどうだ」
 辟易したように藺晨がそう言い、長蘇もそれとなくその言葉を支持した。藺晨を喜ばせたかったのだ。
 近くの町に出て、ふたりで食事をした。北の国境で臥せって以来、ろくに物が食べられなかった長蘇だが、それでも近ごろはいくらか膳に箸がのびるようになった。この日は殊に、藺晨の機嫌もよく、話が弾んだせいもある。長蘇も常より食が進み、ほんの少し酒も飲んだ。思えばそれが、そもそもの間違いだったのだ。
 楼を出るとき、大柄な男にぶつかった。いつもならそんな失態など決して犯さぬ長蘇だったが、わずかに酔っていたのと、藺晨との話に夢中だったのとが災いした。
 「失礼した。申し訳ない」
 藺晨がさっと身体を引き寄せてくれたせいで、ほんの少し、肩と肩とが擦れあった程度だったが、長蘇が詫びたにもかかわらず男は激怒したのだ。
 無論、心配などしてはいない。長蘇自身、生来、肝が据わっているし、なにしろ藺晨が一緒なのだ。殴られる虞れとてなかった。
 案の定、男の振り上げたこぶしは藺晨に掴まれる。
 自分よりずっと上背もある巨躯の男の手を、藺晨は涼しい貌で捩じった。
 「連れが粗相をして申し訳なかったが、今日のところはご勘弁願おうか」
 藺晨にしては控えめな物言いだったが。そもそも尊大な態度をとり慣れている藺晨なだけに、相手の男の目からは充分横柄に映ったのだろう。一触即発―――。そう見えた。
 が、男は賢明にも、藺晨の技量を推し量ったらしい。じろりとふたりを一瞥して、手を振り払うと黙って出て行った。
 「ああいう手合いがいるから、お前から目が離せんのだ」
 そう言って、肩を抱き寄せられた。
 「―――すまぬ。つい、気を抜いていた」
 悄然とうなだれた長蘇に、藺晨は小さく笑う。
 「それだけ愉しんでくれたなら、連れ出した甲斐があった」
 長蘇も少し気を取り直して微笑んだ。


   *

 
 馬の背に揺られながら、ふたりゆったりと琅琊山へと戻る。いくばくかの買い物をし、会話を楽しみ、実に楽しかった一日の終わりを味わっていたのだ。
 山道を随分のぼった。馬で通える道はあとわずかである。
 ―――と。
 俄かに、藺晨が手綱を引き絞った。馬のすぐ先へ、幾本かの矢が射掛けられたためである。
 目の前に石橋が見える。葛が絡み、苔むしたその石橋の下、谷の沢に潜んでいた男たちが、端の向こう側の斜面を、足場の悪いのをものともせずに、一気に駆け上るのが見えた。 
 石橋を渡って、手に手に得物を持った男たちが迫ってくる。その一番後ろから、悠々と姿を見せた巨躯の男に、見覚えがあった。
 「貴様、野盗の頭だったのか」
 藺晨が不快そうに眉をひそめた。
 男は酒楼からずっと後をつけていたのだろう。初めは意趣返しの機会を窺っていたのかもしれないが、ふたりの金離れのよさに気が変わったに違いない。そういえば、途中で寄った茶楼で、ふたり話した覚えがある。今夜は嵐が来るらしいから、早めに琅琊山へ戻ろうと。それを聞かれていたのだろう。男は藺晨と長蘇を琅琊閣の者だと踏んで、途中で待ち伏せしたものと見えた。まさか閣主その人だとは思いもしなかったろうが。それにしても、藺晨や自分に気取られることなくつけてきた手並みには、少々感心する。
 「―――降りるんじゃないぞ」
 そう言い終えるや、藺晨は野盗の群れに身を踊らせていた。
 「琅琊閣と江左盟に喧嘩を売るとは、いい度胸だ」
 江左盟と聞いて、頭立った男の顔色が変わった。江左盟を敵に回して、江湖で生き抜くのは難しい。
 が、男はすぐに余裕を取り戻す。相手は多勢に無勢、ここで始末してしまえば死人に口なしと、そう割り切ったらしい。
 その判断を、すぐに後悔する羽目になるだろうと、馬上の長蘇は苦笑いした。なにしろ藺晨は今日一日鋭気を養って、それこそ元気いっぱいである。いかに相手が多勢とて、藺晨の敵ではあるまい。
 長蘇とて、身体を損ない、武功を失ったとはいえ、昔とった杵柄である。巧みに手綱をさばいて馬を操り、野盗たちの足並みを乱す。頭の男こそ腕はたつようだったが、あとは大したこともないようだ。まともに軽功を使える者もほとんどおらぬ。
 頭数こそ多かったが、それも藺晨の衣が翻る度に見る見る数を減らしてゆく。藺晨の剣が、またひとりを斃したとき、あとはもう、既に手傷を負った頭の男ただひとりとなっていた。
 その時である。
 男が、跳んだ。
 はっとした時には、すでに長蘇は背中から羽交い締めにされ、喉元に剣をつきつけられていた。
 「長蘇!」
 藺晨が振り返りざま、男の手元へと暗器を放つ。
 男の手から剣が落ちた瞬間、長蘇は渾身の力で手綱を絞った。馬は高く嘶き、棹立ちになる。男はあっけなく振り落とされた。
 男が藺晨にとどめを刺されるのを見届けた長蘇は、ほっと手綱を緩めた。が。
 馬はまだ昂っていた。そこへ乗り手の力が弱まったと見て、馬は闇雲に首を振り、脚を踏み鳴らす。再び手綱を絞るだけの力が、すでに長蘇には残っていない。
 「堪えろ、長蘇。いま行く」
 藺晨が跳ぼうとしたが、既に間に合わなかった。
 跳ねる馬は、足を踏み外し、沢への崖に身を踊らせた。
 落ちる馬から投げ出された長蘇の手が、藺晨によってかろうじて掴みとられる。馬の動きが出鱈目すぎて、さすがの藺晨も長蘇の放り出される先を咄嗟に判断できなかったのだろう。それゆえ自身が飛んで長蘇を抱き止めることもならなかったに違いない。
 長蘇の細い腕は、藺晨にしっかりと掴まれていた。
 こんなことが。
 遠い昔にもあった。
 ―――初めて出会った、幼き日。
 あのときも、こうして―――。
 感慨に浸りかけた長蘇は、藺晨が傍らに置いた剣へ片手を伸ばそうとするのを見た。
 (まだ、敵が?)
 長蘇の位置から、藺晨の背後は見えない。
 長蘇を助けようとしたときに藺晨が打ち捨てた剣は、思いの外離れたところへ転がり、藺晨はわずかに手が届かぬようだ。自分の手を掴んでいるために、それ以上、剣へ手が伸ばせずにいる。
 はらはらした。
 藺晨に危険が迫っているらしいことはわかるが、どうにもできない。
 あと少し。藺晨の指先が剣の柄にかかったその時。
 藺晨が、低く呻いた。
 「藺晨!?」
 長蘇が叫ぶのと、藺晨が剣を掴むのは同時だった。歯を食いしばり、藺晨は背後へと、逆手に握った剣を繰り出していた。
 「藺晨‥‥‥?」
 不安で、ならなかった。
 さっき、藺晨は確かに呻いた。傷を負ったに違いないのだ。
 だが。
 当の藺晨は安堵の表情を浮かべて微笑んだ。
 「もう心配いらん。いま、引き上げてやる」
 力強く腕を引かれた。藺晨の両腕にすっぽりとおさまってようやく、長蘇は息をついた。
 「藺晨、傷は?」
 「大したことはない。お前こそ大丈夫か」
 大丈夫とは、とても言えぬありさまだった。馬を操るだけで、すでに長蘇は疲労困憊していたのだ。藺晨に抱き締められてほっとした途端、一気に力が抜けた。
 馬のいななく声がして、藺晨は沢を見下ろす。
 「脚を折ったようだ。見てくるから待っていろ」
 そう言い残して、藺晨が沢へ降りる。
 その背を見送ることもできぬほど、長蘇はぐったりとその場に座り込んでいた。
 その耳に、馬の悲痛な声が届く。
 やがて軽功を使って戻ってきた藺晨に、長蘇は問うた。
 「―――馬は?」
 「脚が使い物にならん。あれではどのみち生きられん」
 とどめを刺してやったのだと、長蘇は察した。藺晨が好んで乗っていた馬である。自分がしっかり御していれば、あたら死なせることもなかった。
 「―――すまぬ」
 そう詫びた長蘇を、藺晨が抱き締めてくれる。
 ゆるゆると、気が流れ込んできていることに、しばらくして気づいた。
 藺晨の気は、すでに長蘇の身体にすっかり馴染み、どこまでが自分のもので、どこからが藺晨のものか、判然としないほどだった。
 うっとりとして喉を仰け反らせたとき、頬に冷たいものが落ちた。
 雨だ、と気づくより先に、藺晨から注がれる気がふっと細った。
 身体に藺晨の重みがかかる。
 「藺晨?」
 藺晨の身体を抱えこもうと、その背に手を回して初めて、長蘇は気づいた。そのぬらりとした感触に。
 慌てて手を見る。
 ぐっしょりと、血濡れていた。
 背筋が凍るような、―――恐怖に襲われた。
 (こんな深傷を―――)
 降りだした雨は、あっという間に本降りになった。
 風が強まる。
 まずいと思った。
 深傷を負った藺晨を、琅琊閣まで連れ戻ることなど、長蘇にできるはずもない。
 おまけにこの雨。
 「藺晨。しっかりしてくれ。わたしではとても背負ってなどやれぬ」
 半ば涙声になってそう言うと。
 くすっ、と藺晨の笑いが聞こえた。
 「―――あたりまえだ。‥‥‥少しだけ、手を貸してくれればよい」
 藺晨はそう言って、剣を杖に立ち上がろうとする。その身体を懸命に支えながら、長蘇は言った。
 「少し戻って、杣小屋で雨宿りするしかあるまい」
 「‥‥‥不本意ながら、そのようだな」
 勝手知ったる琅琊山である。それが一番よい選択に思われた。


   *


 「‥‥‥やはり嵐になるな」
 藺晨が苦笑した。
 杣小屋に着くと、途端に雨風が激しくなった。
 「だから言わんこっちゃないと、‥‥‥帰ったら黎綱に締め上げられそうだ」
 藺晨は、しきりに喋ろうとする。喋ることで気力を保ち、そして自分を安心させようとしてくれていることを、長蘇は察している。
 「藺晨、少し眠ったほうがいい」
 そう言ったが、藺晨は笑ってとりあわなかった。
 「―――危ない目に遭わせて悪いことをしたな」
 「何を言っている。全部わたしが‥‥‥」
 そう言おうとした長蘇の唇に、藺晨の手が伸びた。
 「お前は悪くない。―――大丈夫だ。嵐が止めば皆が探しに来る」
 藺晨の指が、愛し気に長蘇の唇をなぞる。
 「‥‥‥間違っても、薬草をとりに出ようなどと思ってくれるなよ。‥‥‥わたしが助けにいかねばならなくなる。‥‥‥怪我人をこき使いたくなければ、ここで大人しくしていてくれ‥‥‥」
 こんなときに。
 涙が出そうになる。
 大の男が、泣いている場合ではないとわかっているのに、不安で震えそうになる。
 健康でさえあったならと。
 「―――昔の林殊であったら、お前を助けるくらい雑作もなかったものを‥‥‥」
 長蘇がそう言うと、藺晨が笑った。
 「林殊であったら、‥‥‥お前は今頃、蕭景琰の片腕として、都にいるに違いないな‥‥‥」
 はっとした。
 そんなことはない、と言いたかったが、藺晨の言うとおりであるのは、長蘇自身にもよくわかっていた。
 「藺晨―――」
 藺晨の手が、頬を撫でる。
 「‥‥‥お前は、梅長蘇だ。‥‥‥黙ってそばにいろ」
 笑って、藺晨はようやくその口を閉じたのだった。




   * * *


 

 丸二日。
 嵐のおさまる気配のないまま、時が過ぎていた。
 琅琊閣からも、とても人は出せまいと思えるほどの、すさまじい嵐だった。
 そんな中を、飛流がやってきたのだ。
 
 風は聊かも鎮まらぬ。
 小屋の屋根を叩く雨音も、いまだ衰える様子がなかった。
 目を閉じてその音を聞いていた藺晨は、重い瞼を上げて、傍らに添い臥す長蘇を見た。
 長蘇はひどく消耗して、藺晨の袖を握ったまま、ぐったりと横たわっている。
 「ひどい顔色だな―――。いま、気を注いでやる―――」
 藺晨は、長蘇の手をとった。
 はっとしたように、長蘇が眼を開けた。
 「何を言っている。そんなことをしたら、お前が‥‥‥」
 傷を負ってから既に一度、藺晨は長蘇に気を与えている。あのときには、長蘇は藺晨の傷の深さを知らなかった。それゆえ受け入れたのだ。
 「助けが来るまでの、一時しのぎだ。‥‥‥わたしなら、それまでどうにかもつ」
 「もつはずがない。もつはずが‥‥‥」
 長蘇が、胸にすがってきた。

 あのとき。
 背中に強烈な痛みを覚えた。
 一瞬、視界が真っ赤になるほどの。
 それでも、決して長蘇の手だけは離すまいと思った。
 声を漏らすまいと思ったのに、あまりの痛みに藺晨は低く呻いたのだ。途端、長蘇が恐怖に顔をこわばらせるのが見えた。
 長蘇を不安にさせてはならぬと、咄嗟にそう思った。自分のことを案じれば、長蘇は自ら手を振りほどいて谷へ身を投げかねぬ。深い谷ではなかったが、長蘇の脆弱な身体ではどうなるか知れぬと思ったのだ。
 背に突き立てられた剣が、ずぶっといやな音を立てて肉を抉った。と、その時、ようやく手が剣の柄に届いたのだ。
 逆手に握った剣を、藺晨は渾身の力で背後の敵へ突き立てた。今度こそ、あの巨躯の男の気配は完全に消えたが―――、藺晨自身もひどい深手を負った。

 「―――泣くな」
 実のところ、藺晨自身、なんとかなるとは思っていない。長蘇のために自分が命を落とすことは怖くないが、今の状態で、果たしてどれだけ長蘇に気を送れることか。もはや、己の体内で気を練って圧し出すだけの力が、自分にはないように思われた。
 「‥‥‥やむをえん。背に腹は、代えられんな」
 藺晨は苦笑いする。
 飛流、と藺晨は手招きした。
 首をかしげてそばへ来た飛流に、藺晨は微笑む。
 「蘇哥哥を‥‥‥、助けたいか?」
 「うん」
 怪訝そうな表情で、飛流はうなづいた。
 「‥‥‥難しいことでも、できるか?」
 「―――うん」
 少し考えてから、飛流はまたうなづく。
 藺晨は微笑んだ。
 「‥‥‥わたしの代わりに、‥‥‥蘇哥哥に気を注いでやってくれるか?」
 「気?」
 不思議そうに首をひねる飛流にかわって、長蘇が必死に体を起こそうとする。
 「藺晨っ!」
 その長蘇の声を、藺晨は聞こえぬふりで続けた。
 「―――わかるだろう? ‥‥‥わたしがいつも蘇哥哥にしてやっているのを、飛流は見ていたからな?」
 「‥‥‥うん」
 近づいてはならぬと言っても、飛流は時折、藺晨が内力で長蘇を治療するのを覗いていた。声を立てるわけでも、気を散らさせるわけでもなく、黙ってそこにいるだけだったから、藺晨も強くは注意しなかったのだ。
 長蘇が、悲痛な声で抗議する。
 「飛流には‥‥‥無理だ」
 それを、藺晨は再び無視した。
 「‥‥‥まず、お前の中の内力を丹田に集めるのだ」
 そう言うと、飛流が困惑したような表情になる。
 「―――内力? 丹田?」
 飛流とて、これが大事なことだとわかっているのだ。長蘇の命にかかわるとあっては、飛流にとっても一大事である。それだけに、藺晨の言葉をよく理解できぬ自分に、飛流はひどく困っている様子だった。
 藺晨は苦笑した。
 「難しかったな。―――ならばこうしろ。蘇哥哥のことを、一生懸命考えるのだ」
 「うん‥‥‥」
 それなら、と飛流はほっとした顔をする。
 「蘇哥哥を助けようと念じて、その気持ちを臍の下に集める―――。わかるか?」
 「う‥‥‥ん」
 少し悩みながら、それでも飛流はうなづいた。やってみようと腹を括ったのだろう。
 「‥‥‥それから、いつもわたしがしているように、蘇哥哥の手を握って―――」
 そこまで言って、藺晨は咳き込んだ。口から、血が溢れる。
 半身を起こしきれぬ長蘇が、その手を差し伸べてきた。
 「藺晨。―――もうあまり話すな」
 長蘇の涙声を、藺晨は頑なに黙殺する。
 「‥‥‥蘇哥哥の手を握って、‥‥‥それから、蘇哥哥を思う気持ちを、臍の下からゆっくりと手の方へ流せ―――。ゆっくりとでいい‥‥‥」
 「うん―――」
 飛流は必死で、言われたことを頭の中で反芻しているらしい。
 かつて飛流は、頭と心の健やかな成長を阻まれ、それをひどく損ねられた。そののち、藺晨の治療と長蘇の愛情で、善悪の判断も喜怒哀楽も備えることができたが、複雑なことを考えるのは今も苦手なのだ。
 その飛流が、一生懸命理解しようとしている姿が微笑ましくて、藺晨は痛みを忘れて笑った。
 「‥‥‥途中で、蘇哥哥のこと以外考えるんじゃないぞ? 気が逸れると、蘇哥哥ばかりかお前まで、―――命に係わることになる」
 そう言うと、飛流はごくりと喉を鳴らした。
 「―――こわいか?」
 少々不憫になって問う。失敗したら、と思うと、藺晨とて不安がないわけではない。
 そもそも―――、長蘇の身体が、飛流の気を受け入れなかったとしたら、と思う。
 長蘇の身体には、すでに長蘇自身と藺晨の気が宿っている。そこへ飛流の気が流れ込んで、果たしてそれらが反発しあうことはないのかと。そう案じぬわけではないのだ。
 だが。
 ぶんぶんと飛流はかぶりを振った。
 藺晨は微笑う。
 「えらいな。―――飛流は蘇哥哥が大好きだからな。‥‥‥きっと出来る」
 「―――うん」
 飛流がしっかりとうなづく。
 飛流ならば、と思う。三人の絆の深さを思えば、飛流の気は必ず長蘇の身体に馴染むだろう。
 「藺晨、頼むから‥‥‥」
 長蘇の弱々しい声に、藺晨はようやくそちらへ目をやった。
 「‥‥‥長蘇。たまにはすんなり言うことをきけ」
 笑ってそう言うと、長蘇は切なげに眉を寄せ、―――そして、ついに首を縦に振った。


   *


 つないだ手からは、何も伝わってこない。
 やはり飛流には、無理なのだろうか。
 ―――そう諦めかけた時。
 ゆるゆると。
 温かいものが、流れ込み始めた。
 それはあまりにもたどたどしい、丁度、飛流のままならぬ言葉のようなもどかしさで、か細く、とぎれとぎれに流れてくる。
 それでもやがて、それは温かさを増し、時折、力強くうねるようにして、長蘇のほうへと注ぎ込まれ始めた。
 藺晨のものとは違う、若く粗削りな、ひどく不安定なそれが、不器用に流し込まれる。躰に馴染んだ藺晨の気に比べて青く尖ったその気に、ざらざらとした微かな痛みすら感じたが。
 それは、飛流そのもののような、健やかさだった。
 が。
 やがてそれは、唐突にとまった。
 「飛流?」
 初めてのことで、力の加減がわからなかったのだろう。飛流はひどく消耗して、肩で息をしていた。
 「飛流。もう充分だ。充分もらった」
 飛流はまだすこし息の荒いまま、かぶりをふる。
 「―――まだ。蘇哥哥、まだ―――お腹いっぱいになってない」
 そのたとえが可笑しくて、長蘇は苦笑した。
 「大丈夫だ。もうお腹いっぱいになった」
 「―――真的?」
 疑わしそうに、飛流が首を傾げる。
 「本当だとも」
 充分とは言えなかったが、それでも身体は格段に楽になっていた。飛流もようやく納得したらしく、顔をほころばせた。
 「藺晨。飛流はやはり賢い子だ。ちゃんと―――」
 傍らの藺晨を顧みて、長蘇ははっと目を瞠った。
 眠って―――しまったのだろうか?
 「藺晨?―――藺晨!」
 不安に駆られて、長蘇は藺晨に取りすがった。情けないほど、狼狽していた。
 「藺晨! 返事をしろ!」
 恐慌を来たして、藺晨の身体を乱暴に揺さぶろうとした長蘇の手が、強い力で止められた。
 「どいて」
 「―――え?」
 長蘇は、顔を上げた。
 飛流が、長蘇の腕を引く。
 「どいて、蘇哥哥」
 「‥‥‥飛流?」
 飛流が、藺晨の上に屈み込む。そして藺晨の両手をとった。
 やっと、長蘇にも飛流の意図が知れた。
 「―――やめろ。続けては無理だ」
 たった今、自分に気を分け与えて、飛流は消耗しているのだ。まだ大人になり切りもせぬ身体で、いきなりふたりの人間に気を与えるなど―――。
 しーっ、と飛流が口に指を当てた。
 どきりとした。飛流はもう、気を練ろうとし始めているのだ。無論、飛流にとってはそんな難しいことはわかるまい。ただ、藺晨哥哥を助けたいと、そう念じているのだ。途中で邪魔をするわけにはいかなかった。
 ただ、ただ、飛流と藺晨の事なきを祈る以外、何もできぬ自分がもどかしかった。
 

   *


 「だいじょうぶ」
 藺晨に気を注ぎ終えた飛流が、憔悴した顔でそう言った。
 「だいじょうぶ。朝になったら。だいじょうぶになる」
 不器用な言葉だったが、長蘇には心強かった。
 思いを言葉や表情にすることが苦手な飛流が、賢明に自分を励まそうとしてくれている。
 「―――飛流は、賢い良い子だな」
 梅長蘇は膝に藺晨を抱えたまま、飛流を手招きした。
 擦り寄ってきた飛流を抱き寄せる。
 「迎えが来るまで、三人でこうしていよう」
 「―――うん」
 三人一緒なら。
 案じることなど何もないではないかと、ようやく長蘇はゆったりとした心持ちになっていた。
 疲れ切った飛流が、たちまち眠りに落ちる。
 藺晨と飛流の寝息を聞きながら、長蘇もまた、とろとろと眠りに落ちた。


 

   * * *



 辺りが明るくなった気がした。明るいところと暗いところを、ふわふわと行ったり来たりしているような、そんな夢うつつの中。
 「長蘇。長蘇」
 呼ばれて、ようやく梅長蘇は目を開けた。
 「藺晨?」
 目の前に、藺晨の顔がある。

 ―――夢の中で、その背を追っていた。
 朱に染まった背中を、必死で追いかけようとするのに、足がもつれて何度も倒れた。
 藺晨が、逝ってしまう。連れ戻さねば。
 そう思って走ろうとしていたはずであった。

 その藺晨が、いま、自分を覗き込んでいる。
 あれは―――、ただの夢だったのだろうか? そう錯覚しかけて、気づいた。
 常よりいくぶん窶れた、藺晨の頬。

 ああ、傷は‥‥‥、と思うより早く。
 「長蘇。具合はどうだ?」
 そう問われて、鼻白む。
 「―――それは、こっちの科白だろう」
 長蘇はため息をついた。
 やはりこの男は只者ではないと思う。あれほどの深手であったものを。

 視線を巡らせ、ここが琅琊閣の自分の臥室であることを確認すると、長蘇はようやく安心して、身体を起こした。そして初めて、褥の傍らで丸くなって眠っている飛流に気づく。 
 「わたしなら大丈夫だ。飛流の気は、なかなかのものだった」
 飛流の頭を撫でてやりながら、そう言うと。
 藺晨は少しばかりいやな顔をした。
 「飛流はお払い箱だ。お前にはやはり、わたしの気を注いでやらねば」
 不機嫌な様子に、苦笑する。
 「なんだ。妬いているのか?」
 「妬く? 飛流にか? あんな子供の気より、わたしの円熟した気を与えてやろうと言っているだけだ」
 殊更尊大に振る舞おうとする藺晨に、笑いを噛み殺しつつ長蘇は更に追い打ちをかける。
 「あちらの気のほうが、若くて瑞々しいぞ?」
 忽ち、藺晨が眉を逆立てた。
 「そんな青臭いものを好んで、腹を下しても知らんからな」
 長蘇は思わず吹き出した。

 ひとしきり笑ってから、息を整えて真顔に戻る。 
 「―――わかっている。飛流には無理をさせたくない。だが―――」
 長蘇は言葉を切った。藺晨がその先を察して苦笑いする。
 「わたしなら、もう大丈夫だ」
 そうは言うが。
 「無理をすれば、傷の治りが遅くなるぞ」
 「それも悪くない。怪我が治るまでは、お前も労わってくれるだろう?」
 「お前というやつは―――」
 呆れて長蘇は嘆息した。

 うーん、と飛流が少し背中を伸ばして、それから小さくごにょごにょと寝言を言った。
 「今度ばかりは、飛流に助けられたな」
 藺晨がそう言った。
 顔を合わせれば喧嘩ばかりしているが、藺晨と飛流はうまが合っている。飛流は藺晨の恩を忘れてはいないし、藺晨も飛流が可愛くてならぬのだ。

 長蘇は飛流の髪を撫でながら、言った。
 「わたしの身体の中には、三人分の気が流れているのだな」

 藺晨と、飛流と、自分。
 空っぽになりかけていた自分の身体の中で、三人の気が寄り添い、合わさり、脈を打っている。

 「お前ひとりの身体ではないということだ。粗末にしてもらっては困る」
 藺晨が笑った。

 「―――そうだな」

 このうえもなく。
 ―――幸せな気分だった。



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~ Comment ~

幸せ~

遥華さま

今夜も、幸せな作品を(途中、藺晨が痛かったけど)、有難うございます~!
飛流、えらいよ、いい子だ、よく頑張りましたね!(拍手!)
この3人家族(注:私の中でもこの3人は親子です)が幸せだと、私も幸せですよ~!!!

飛流にとっては、藺晨は「いつも意地悪でからかうし、でもいざという時は頼れるお父さん」で、宗主は「いつも優しくて面倒見が良くて、大事にしてくれるお母さん」なんですよね。
宗主が藺晨の怪我に狼狽するところ、藺晨が靖王や飛流に嫉妬するところ、そうなる場面が想像できてしまいます。
勝手に、脳内で画像再生しております(笑)

宗主は、梅嶺で一度死んで、別人として蘇ったのだから。
運命の半身は、死ぬ前と後とで別の人なのだと、私は勝手に思っています。
林殊の半身は、靖王。
梅長蘇の半身は、藺晨。
ってことで、靖王も藺晨も、幸せにしてあげて下さいませ。

>>Rintzuさん

藺晨、痛い目見せてごめんよぅw
でも、いつも宗主ばっかり苦しいので、たまには分かち合ってくださいw

飛流、頑張りましたよ!
なんだかんだ言って、このサイン人は強い信頼の絆で結ばれてますから!!!

靖王には、林殊として遺せるだけのものを遺したので、
今後は藺晨と仲睦まじく幸せに暮らしていただきたい♡

NoTitle

激しく同意します!
藺蘇バンザイ\(^o^)/

>>Rintzuさん

(≧▽≦)
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