琅琊榜

蝉蜕5 (『琅琊榜』 #54以降)

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4の続きです!

 「とんでもない男が」
 と甄平が報告に来た。
 馬車から連れ去られた梅長蘇の消息を、辺り一帯から江左盟、琅琊閣を挙げて人海戦術で探索しているのだ。あてになる情報の少ない中で、ようやくもたらされた知らせである。
 「襲われた場所から程近い村に、しばらく前から胡乱な年寄りがしばしば酒や食べ物を乞いに来るらしいのですが、その風体がどうやら‥‥‥」
 夏江らしい、と甄平が言った。
 「なんだと?」
 藺晨が眉を逆立てる。
 「天牢の管理はどこまで杜撰なのだ。夏冬のすり替えで少しは厳しくなったのかと思えばこの始末とは」
 藺晨は、扇子をそばの柱へ打ち付けた。
 夏江が逃亡したと知れれば、蒙摯あたりが、すわ、小殊の一大事、とばかりにすっ飛んでご注進に来るはずであった。それが無いとなれば、いまだ夏江が擦り替わったことにすら都では気づかれておらぬのだろう。
 「夏江が自由の身だとなれば、恐らく長蘇はやつの手に落ちたと見て間違いないな」
 「ただ、人相風体こそ夏江に違いないのですが、どうもその様子が‥‥‥」
 明らかに正気ではないらしい、と甄平が言った。
 「正気ではないだと?」
 藺晨が顔をしかめる。
 理の通じる相手なら、長蘇の智恵が危難を切り抜けることもあろう。だが、狂人が相手では。
 「案内しろ」
 低く、藺晨は命じた。


 昼前になって、夏江が村に現れた。ふわふわとした足取りで、ひどく機嫌がいい。
 そこでしばしば物乞いでもするらしく、一軒の家へ勝手知った様子で入ってゆく。
 「待て」
 身を隠していた物陰から、飛び出そうとした甄平を藺晨が制した。
 甄平が苛立って噛みついてくる。
 「なぜです! すぐ締め上げて」
 「口を割らねばどうする。長蘇の居所が知れぬままになる」
 「しかし‥‥‥」
 納得いかぬ様子の甄平を、黎綱がたしなめた。
 「おっしゃる通りにしろ。藺公子が誰よりも案じておいでなのだぞ。見ろ。飛流ですら辛抱している」
 眉間に皺を寄せ、口を真一文字に引き結んで、飛流は腕組みをしてそこに立っている。
 しぶしぶ甄平がうなづいた時、ちょうど夏江が徳利を抱えて出てきた。
 「―――わたしが行こう。ひとりでいい」
 「ですが‥‥‥」
 黎綱と甄平の案じ顔へ、藺晨は軽く微笑んで見せた。
 「必ず連れて戻る。―――飛流」
 飛流に向き直り、手招きする。
 「―――馬車を用意して待っていろ。蘇哥哥と一緒に帰ろうな」
 そう言って、藺晨は飛流の頭をくしゃくしゃと撫でた。





   * * * * *




 長蘇は丸くなって横たわっていた。
 その姿に、岩陰から窺っていた藺晨は、血が逆流するかのような怒りを覚えた。
 怒髪天を衝く、などという言葉を、これまでさほど信用していなかった藺晨である。大袈裟な喩えだと思っていた。だが、今はまさに、髪も逆立つかと思うほど、藺晨は激しい怒りに満たされていた。
 夏江は既に長蘇には関心を失った様子で、村でせしめた酒を旨そうにちびちびやっている。

 長蘇の姿を見れば、昨夜何が起きたかなど一目瞭然だった。
 長蘇は既に弱りきっている。そうでなければ夏江が村まで行って戻る間に、叶わぬまでも逃げ出す算段をしたに違いない。今の長蘇には、それすら出来なかったのだ。
 「―――梅長蘇」
と、思い出したように夏江が長蘇を振り返った。
 「お前も一杯やるがいい。そら」
 下卑た笑いを漏らして、夏江が長蘇の顔に酒を垂らす。
 「どうだ、うまいか。ほれ、もっと飲むがよい」
 徳利を高く掲げた夏江の手は、―――しかしながら次の瞬間強い力で捕まれ、捻り上げられていた。
 「―――お楽しみのところ邪魔をするが」
 藺晨の声は、憤怒のあまり、地を這うほどに低かった。
 夏江が驚いて振り返る。
 「なんだ、貴様は。貴様など知らんぞ」
 「名乗ってやる義理もないが、わたしはこう見えて礼儀正しい男でな。―――琅琊閣閣主・藺晨と覚えておけ」
 「琅琊閣閣主だと?」
 ぎょっとする夏江の手を左手でつかんだまま、藺晨は腰の剣を抜く。
 「わたしは医者でもあってな。人の命を救うことはあっても、奪うことはせん。だが―――」
 怒りと共に、悲しかった。
 これほど怒りに支配される己も、己をこれほど激させるこの男も。
 「貴様だけは別だ。貴様のような溝鼠の薄汚い血で手を汚すのも業腹だが、‥‥‥貴様だけはこのままにしておけん」
 なぜ、こんな男のために、振るいたくもない剣をふるわねばならぬのかと、そう思うだに腹が立つ。
 藺晨は掴んでいた手を離した。
 「せめてもの情けだ。―――抗ってみせるがいい」
 自由になった夏江があとずさる。
 「わ、若造めが」
 見かけはすっかり老いても、さすがに懸鏡司を束ねてきた百戦錬磨の夏江であった。加えて狂気がこの年寄りに力を添えている。
 持っていた徳利を捨てるなり、奇声を上げて跳躍すると、夏江は手刀を振り下ろした。その鋭さ、狙いの確かさに、藺晨は目を眇めた。
 これほどの男に、忠義の心があったならば。この男さえ、邪な思いを抱かずば。長蘇はあれほどの苦しみを背負うことはなかった。
 二手、三手と、夏江は藺晨を攻める。藺晨は白い衣の裾を翻して、それを受け流した。
 そして。
 「気の毒だがご老人。遊びはここまでだ。―――長蘇が力尽きてしまう」
 そう言い終えると、夏江の突きを交わしざま、その伸びた腕に剣のつかを叩き下ろした。
 ぼきり、と骨の砕ける音がした。
 「き、貴様っ‥‥‥」
 夏江はあきらめず、痛みをものともせずに、もう一方の手で突きを放つ。―――と、次の刹那、夏江は絶叫して転げ回った。
 手首から先が、地に落ちていた。
 喚きながら転がり回っていた狂人は、それでも罵りながら身体を起こした。髪を振り乱し、反撃の機会を窺うその年寄りに、藺晨はもう容赦しなかった。
 「その程度の苦痛ですむのをありがたく思え」
 藺晨の剣が。
 ――― 一閃した。

 膝立ちのまま、夏江は目を見張った。
 一拍遅れて、その首から、血飛沫が飛び散る。
 既に藺晨は数間飛び退っていたが、それでも散ってきた血を、扇子を開いて避けた。
 しばらく血飛沫を撒き散らせていた夏江の身体が、ようやくどさりとうつ伏せに倒れた。血だまりの中、夏江はついに動かなくなった。
 それを最後まで見届けもせず、藺晨は血だまりを飛び越え、長蘇の傍らへと膝をつく。
 「―――長蘇」
 声を、かけた。
 びくり、とその身体が震える。
 ―――生きている。
 「長蘇。わたしだ。迎えに来た」
 長蘇の手が、のろのろと動いた。
 はだけて乱れた衣を掻き寄せようとしているのだと気付き、藺晨は思わず抱き起こす。
 怯えたように、長蘇が身をすくめた。
 「大丈夫だ。もう心配ない」
 凌辱のあとが夥しくついた膚を隠すように、衣の胸元をかきあわせてやる。
 「心配ないのだ。いいか? 何もなかった。何も起こりはしなかったのだ。忘れろ」
 長蘇は少し目を見張った。何か言いたそうに唇を震わせ、そして力なく目を伏せる。
 それから、―――口をひらいた。
 「‥‥‥藺晨」
 その唇は、確かにそう動いたが。
 藺晨は、目を瞠った。
 「―――長蘇?」
 長蘇自身も戸惑った様子で、もういちど、口をひらく。
 「藺晨‥‥‥」
 今度は口の動きに合わせて、強く息が漏れた
 「長蘇、お前‥‥‥」
 藺晨は狼狽え、そして思い付いたように口づけた。
 長蘇の手が、いつものように弱々しく藺晨の肩を押す。
 しかし、あの甘やかな声が漏れることはなかった。
 ただ、―――苦しげな吐息ばかりが聞こえる。
 藺晨は、顔をあげた。
 「長蘇‥‥‥、声が?」
 藺晨がそう言い終える前に、長蘇はまた意識を手放していた。




    *




 廊州の邸に着いて目を覚ますなり、長蘇は藺晨の手をとり、その掌に指で文字を書いた。
 『沐浴』と。
 「今夜は無理だ。身体に障る」
 なにしろ、長蘇の身体は惨憺たる有様だった。全身ひどい打ち身だらけで、息をするのもつらそうなところを見れば、肋にひびのひとつやふたつは入っているのかもしれない。強くぶたれたと見えて、青白い頬には紫色の手形がついていた。
 にもかかわらず。長蘇は強くかぶりを振った。
 その思いは、わからぬでもない。穢された身体のままでは、安んじて眠ることもできぬのだろう。
 「身体は綺麗に拭いてやる。それで辛抱しろ」
 そう言ったが、長蘇は頑として聞き入れなかった。 
 藺晨はしかたなく黎綱に風呂を点てさせると、長蘇を抱き上げ、湯殿へ運んだ。
 浴槽にその身体を浸してやると、長蘇はようやくほっとしたように息をついた。澡豆で、丹念に膚を洗ってやる。全身がひどく痛むらしく、時折顔をしかめて息を詰めたが、やはり声はでない。
 「なに、声など出ずとも大して不自由はない。梅嶺から戻った頃とて喋れなかったではないか」
 そう言ってやると、長蘇は弱々しく微笑んだ。


 褥に添い臥そうとした藺晨を、しかし長蘇は拒んだ。
 『累』と、長蘇が指で藺晨の手のひらに書く。
 「―――わかった。疲れているならゆっくり休め」
 そう言って、藺晨は長蘇の寝所をあとにしたのだったが。


   *    
   *


 ばたばたと廊下を走る足音で、藺晨は目を覚ました。
 「どうした、なにごとだ」
 「宗主が。井戸水を、浴びられたのです」
 浴巾や着替えを抱えた黎綱が、狼狽えたように答えた。
 「なんだと?」
 黎綱についてゆくと、長蘇は濡れそぼったまま回廊に引き揚げられていた。
 駆け寄って抱き起そうとした黎綱を、藺晨は制した。
 「すぐ温めてさしあげませんと。かなり長く浴びておいでだったようで」
 「よい、わたしが世話をする」
 抱き上げて臥室へ運び、身体を拭いて着替えさせた。
 ぐったりと横たわった長蘇は、うっすらと眼を開けた。朦朧としながら何か言いたそうに口を開きかけ、声が出ぬことに思い至ったらしく、また藺晨のほうへ手を伸ばした。手のひらを出してやると、震える手でまた指文字を書く。
 長蘇の細い指が、『穢』、と象るのを見て、藺晨は胸を掴まれる思いだった。
 「―――ちゃんと、洗ってやったではないか」
 そう言ったが、長蘇は悲しげに顔を背けた。
 ―――洗っても洗っても、足りぬというのか。
 「莫迦なことを」
 吐き捨てるようにそう言うと。
 目を閉じて、長蘇が唇を小さく動かした。声はなく、息が漏れるばかりだったが、唇は確かに呼んでいた。
 藺晨、と。
 「長蘇」
 『―――藺晨』
 長蘇の唇が、苦しげにその名を紡ぐ。
 『藺晨。‥‥‥藺晨。藺晨―――』
 幾度も、幾度も、そう呼んだ。
 
 不意に。
 藺晨は悟ったのだ。
 長蘇の想いを。

 胸が、熱くなった。

 「―――長蘇、わたしが悪かった」
 そう言って髪を撫でてやると、長蘇は弱々しく目を開けた。

 ―――無かったことに、せよなどと。
 そんなことが、出来るはずもなかったのだ。
 慰めるつもりで言った。しかし。長蘇には、却って責められたように聞こえたに違いない。
 無かったことに。
 それはまるで、あってはならぬことだったのだと。決して許されぬことであったのだと―――。
 長蘇は、そう言われたように思ったのだろう。

 (―――長蘇から声を奪ったのはわたしだ)

「‥‥‥すまぬ。わたしは責めてなどおらん。夏江を憎みはするが、お前を責める気など毛頭ない。たとえその身が汚されても、‥‥‥お前の心までは穢れまいに」

 『―――藺晨』

 また、長蘇の唇がそう動いた。その眼から、一筋涙がこぼれる。
 冷えきった両腕が差し伸べられて、藺晨はその冷たい身体を抱き起こした。
 「―――そのままでいい。お前がお前でありさえすれば」
 また動きかけた唇を、口づけでふさぐ。
 ―――可哀想に、苦しめてしまった。
 今はただ、‥‥‥いっそういとおしい。
 舌と舌とをからめあう。
 己の舌で長蘇のそれを引き寄せ、吸い上げる。鼠鳴きのような音が、淫らに響く。―――と、それに続いて。
 ん、‥‥‥ふ、と甘い声が漏れた。
 はっとして、顔を離す。
 「長蘇?」
 急に途切れた口づけに、長蘇は訝し気な顔をしている。
 「長蘇。―――わたしの名を呼んでみろ」
 長蘇は眉をひそめ、申し訳なさそうに目をそらす。
 「いいから呼んでみろ」
 強い口調でそう言うと、長蘇はしかたなさそうに唇を開いた。
 「藺晨―――」
 甘く掠れた声が、藺晨の名を呼んだ。
 長蘇自身もはっとして、戸惑いの表情を浮かべる。
 「藺晨、声が‥‥‥」
 長蘇は自分の喉に手をやった。
 「―――声が、藺晨」
 すがるような目で、長蘇はもう一度そう繰り返した。
 「ああ」
 ひどく懐かしい気がした。もう何年も聞いていないような、それでいて絶え間なく耳元でささやかれていたような。
 長蘇はひどく興奮した様子だった。
 「藺晨。藺晨。―――藺晨」
 親を呼ぶ雛鳥のように、長蘇は幾度も呼び続ける。
 ずっとその声を聞いていたい気もしたが。
 「ああ、もうわかった」
 苦笑いして、藺晨は長蘇の言葉を遮った。これでは長蘇が疲れはててしまう。
 長蘇をそっと抱き寄せる。その背をさすりながら、藺晨はただ、抱きしめていた。



   *



 褥の中、藺晨んの暖かい胸に抱かれながら、長蘇はひっそりと言った。
 「ずっとお前を呼んでいた。―――ずっとだ」
 さらに固く、抱き寄せられる。
 「―――ああ。助けに行くのが遅くなって悪かった」
 夏江などに、一言でも声を漏らしてやるものかと思ったのだ。
 凌辱に耐えながら、ただの一声も漏らさなかったのは、口に手巾を噛まされていたせいばかりではない。身体は犯されても決して心は屈しまいと思ったのだ。
 力では敵わずとも、自分なりに戦った。心は、守り抜いたのだ。
 ―――-誉めてほしかった。
 それなのに。
 なかったことにせよなどと。
 「藺晨。―――お前だけだ。わたしの心は、お前だけの」
 信じてほしかった。
 「―――わかっている。わたしが悪かった。‥‥‥よく堪えたな」
 「藺晨‥‥‥」
 信じてもらえたのだろうか。ほんとうに?
 「よしよし、もういい」
 髪を撫でられて、長蘇は藺晨の胸に額を当てた。
 「―――穢い身体でも?」
 「穢くなどない。‥‥‥あれほど綺麗に洗ってやったろう?」
 藺晨がそう言って笑う。
 「だが‥‥‥」
 また、涙がこぼれる。
 「泣くな」
 「‥‥‥藺晨」
 「わかったから」

 ―――やっと。
 許された気がした。
 我が身ひとつ守れぬ、不甲斐ない自分を。




 翌日、まだ早いという周囲の声を押しきって、梅長蘇は床を離れた。
 舵首ら江左盟の主だった者らが集められた中、梅長蘇は飛流に支えられて姿を見せた。
 一同がどよめく。
 宗主は亡くなったのだと、その噂を多くの者が信じかけていた。
 「―――宗主」
 「ご無事で―――」
 「宗主!」
 「‥‥‥お懐かしゅう存じます」
 「よかった‥‥‥」
 宗主、宗主と渠らは口々に呼び、嬉し涙をこぼした。
 「お帰りを、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」
 その言葉に、梅長蘇は目を伏せた。
 「皆に余計な気苦労をかけて、すまなかった」
 男たちのすすり泣く声が、部屋を満たす。
 「―――わたしは今後も琅琊山で養生するが、何か事があらばすぐ廊州に戻ってくる。不甲斐ない宗主ですまぬが、留守を、守ってはくれまいか」
 そう言って頭を垂れた梅長蘇に、男たちは幾分荒々しい声を投げつけた。
 「何を水くさいことを」
 「宗主は何の気遣いもなさることじゃございませんとも」
 「どうか我らにお任せを」
 「ご養生に専念なさってください」
 先を争うようにそんな言葉を言い立てながら、かれらは力強く胸を叩いて見せた。
 梅長蘇は、深く息をついた。
 「―――わたしは果報者だな。お前たちのような部下を持って」
 男たちがざわめく。
 「なんの。我らのほうこそ果報者でございますとも」
 「こんな別嬪の宗主を戴いている幇なんぞ、江湖広しといえども我らが江左盟だけでしょうに」
 軽口を叩いた舵首を、隣にいた同輩が慌てて小突いた。梅長蘇がこの手の冗談を好まぬと、心得ていたせいだが。
 当の梅長蘇は、小さく笑った。
 「‥‥‥こうも病み窶れては、それもどうであろうな」
 笑った梅長蘇に、男たちはしばし言葉をなくして見とれていた。
 「―――な、何をおっしゃいます」
 我に返ったひとりが慌てて梅長蘇の言葉を否定した。
 「江左の梅郎ほどの美丈夫は、江湖中探し回ったって見つかるものじゃありません」
 「どうかゆっくり養生なさってお元気になってください」
 精一杯励まそうとしてくれる男たちの顔を、梅長蘇はゆっくりと見渡した。

 大きな犠牲は払ったが。
 廊州に出て来て、良かったと思う。
 案じてくれていたのだ、渠らも。宗主の不在に、重苦しい不安を抱いていたに違いない。こんな不甲斐ない身でも、こうして支えてくれようとする。
 喪ったもの以上に、心の支えを得た。
 そして、藺晨との絆もまた。

 感慨に耽る梅長蘇に、さっき軽口を叩いた男が言った。
 「ですが、たまにはこうしてお顔を見せてくださいよ、宗主。宗主の綺麗な顔が拝めないとどうも寂しくていけませんや」
 皆がどっと笑った。そうだそうだ、と声が上がり、梅長蘇も苦笑いした。
 「皆に忘れられぬよう、小まめに顔を出さねばな」
 座がどよめいた。
 椀が配られ、それぞれに並々と酒が注がれる。梅長蘇も、小さな杯を手にした。
 「―――これからも江左盟を頼む」
 長蘇の一声に、猛者たちが湧いた。




   * * *




 「お風呂!お風呂!」
 嬉しそうに飛流が梅長蘇の手を曳く。
 廊州から帰ると、浴室の増築が完成していたのだ。飛流は大喜びである。
 ―――が。
 藺晨は飛流の襟首をつかんだ。
 「飛流。まずは藺晨哥哥と蘇哥哥が入るのだ」
 「えっ」
 飛流はびっくりしたように口を開け、それから腹を立てて足を踏み鳴らした。
 「どうして!?」
 「どうしてだと?」
 ふふん、と藺晨は笑った。
 「わたしが金を出して増築したからだ」
 ぶうっと飛流が頬を膨らませる。
 飛流の膨れた頬を両手でぷしゅっと潰して、藺晨は笑った。
 「大事な用がすんだらすぐ呼んでやる。用意をして待っていろ」
 飛流はしぶしぶうなづいた。



 「大事な用が、聞いて呆れる」
 長蘇が苦笑した。
 「しっ、飛流に聞こえる」
 藺晨はそう言って、長蘇の口を接吻で塞いだ。
 大人しくなった長蘇の衣を、唇を重ねたまま、一枚ずつはがしにかかる。唇から首筋へ、鎖骨へと、唇を滑らせた。
 あらわになった肌は、まだ痛々しい痣だらけだ。その痣を舌先で優しくいたわる。まだひどく痛むに違いない肋にも舌を這わせた。
 膝を落とし、長蘇の肋から腹へ、更に下腹へと唇を滑らせてゆくと、長蘇が悩ましげな声を漏らした。腰が砕けかけている。
 「藺晨‥‥‥湯殿へ‥‥‥。ここは、寒い‥‥‥」
 「―――うまく逃げたな」
 寒いと言われては放ってもおけぬ。藺晨は立ち上がって、軽々と長蘇を抱き上げた。
 湯殿は岩場のごとき景観にしつらえられている。琅琊山の岩壁にも似た内壁に、石づくりの広々とした湯船が設けられ、太湖石がそこここに配されている。贅沢だが落ち着いた風情を醸していた。
 長蘇を抱いたまま湯船に入り、ふたり肩まで湯に沈んだ。
 「‥‥‥藺晨」
 長蘇の腕が、ためらいがちに首に巻き付いてくる。
 「ずいぶん遠慮深いな」
 思わず笑う。長蘇本来の向こう意気の強さが嘘のような慎み深さだ。
 「―――うるさい」
 褥以外で、こうして肌を重ねるのは初めてだ。長蘇の緊張が、初々しい。
 胸の突起を弄ぶ。湯の中では常より敏感になるのか、長蘇はしきりに甘い吐息を洩らした。
 「藺晨、湯を‥‥‥、汚したくない」
 「―――そうだな。飛流を呼んでやれなくなる」
 長蘇を抱えて湯から上がると、藺晨は湯で温まった床の上へ長蘇を寝かせた。
 濡れた身体を、指先でまさぐると、もうそれだけで長蘇はひどく辛そうな声を出した。

 ―――この声を失うほどに、長蘇はあの時深く傷ついたのだ。
 もう二度と、あんな思いはさせまいと思う。
 「長蘇」
 「―――藺晨」
 睦みあう言葉など要らぬ。心が通いあってさえいれば。
 こうして繋がる肉と肉さえ、心の絆に比べればなんと他愛ないものであることか。
 身体を繋ぐのは互いの心を肉で感じるために過ぎぬ。心が離れていれば、たとえどれほど繋がろうと、身体などただの虚ろな抜け殻だ。
 改めて、長蘇の顔を間近に見下ろす。
 湯煙の中、幾分火照った長蘇の顔は、ひどく美しかった。
 空蝉ではない、心の宿ったその身体を、藺晨はただただ慈しんだ。



   *



 「飛流。飛流!」
 藺晨が湯の中から呼ばわると、とうに準備万端で待ちくたびれていたらしい飛流が湯殿へ飛び込んでくる。
 飛流は鼻をつまむなり、思い切り湯船に飛び込んだ。
 藺晨は飛沫から長蘇を守ってやりながら、ため息をつくと、頭まで沈んだ飛流を呆れ顔で見た。
 「騒々しいやつめ」
 飛流の頭を押さえ込む。
 「藺晨、よせ。息ができぬではないか」
 案じる長蘇に藺晨は肩をすくめた。
 「我らが飛流は、これしきでくたばりはせん」
 藺晨がそう答えるが早いか、手足をばたつかせた飛流が反撃に転じる。
 「うわっ」
 髪をぐいと引っ張られた藺晨が、湯の中へ倒れ込んだ。
 「藺晨?」
 半ば案じ、半ば呆れて、長蘇は湯船の隅で、湯の中のふたりを眺めた。
 中で激しくもがいているのは見てとれるが、なかなか頭が浮かび上がってこない。さすがに心配になり、近づいて湯をのぞきこむ。
 と、いきなり、ざばっと二つの頭が飛び出した。
 ぷはっと息をついで、藺晨は片手で顔をぬぐった。
 「こいつめ! わたしを殺す気か」
 「そっちが悪い!」
 「口答えをするとは小癪なやつめ。大体お前が行儀が悪いから‥‥‥」
 言い募りかけて、藺晨は口をつぐんだ。
 「―――長蘇」
 「あーっ、蘇哥哥!」
 ふたりは慌てて長蘇にとりすがった。
 「わ、悪かった。わざとではないぞ」
 「蘇哥哥っ―――」
 頭から存分に飛沫を浴びて濡れそぼった長蘇に、ふたりは懸命に謝る。
 ―――その狼狽えぶりがおかしくて。
 長蘇はぐっしょりと濡れて張り付いた髪の下で、笑いを洩らさずにいられない。
 「長蘇?」
 長蘇は両手で髪をかきあげ、顔をぬぐうと、その両手で思うさま湯を掬い上げた。
 「うわっ。こら、莫迦者!」
 湯をかけられた二人が、慌てて顔を背ける。
 「こいつ、人が謝っているというのに無作法なやつめ」
 「やられっぱなしは性にあわぬ」
 くすくす笑って更に湯をかけようとした梅長蘇を藺晨の腕が抱きすくめた。
 「お前を怒らせると恐いことは重々知ってはいるが、これでは手も足も出まい」 
 言われて、長蘇は艶然と笑った。
 「手足が出ずとも、反撃くらいできる」
 「―――え」
 長蘇の唇が、噛みつくように藺晨の唇を奪った。
 驚いて目を瞠った藺晨も、すぐに恍惚とその目を閉じ、すぐに顔の角度を変えて、自分のほうから長蘇の唇を吸った。
 「んっ‥‥‥」
 あっさりと主導権を奪われて甘い声をこぼした長蘇の腕を、横から飛流がぐいと引く。
 「えっ、飛流‥‥‥」
 藺晨から引き剥がされた長蘇に、飛流がしがみつく。
 「肩まで!」
 「えっ?」
 「肩まで浸かる!」
 飛流にたしなめられて、梅長蘇は思わず笑った。
 「そうだな。肩まで浸かって温まらねばな」
 「うん!」
 ふたりで湯船に深く浸かる。
 「藺晨。お前もだ」
 「―――やれやれ。子供につきあうのは面倒だな」
 苦笑いして、藺晨も肩まで湯に沈んだ。

 飛流の満足げな様子に目を細めながら。
 藺晨と長蘇もまた、満たされた思いで、顔を見合わせて笑ったのだった。
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~ Comment ~

今夜もご馳走様でした~

遥華さま

昨日は、ご旅行中だったのにも関わらず、kaishikaさんへの伝言、本当に有難うございました!
何しろツイもFBもやってないもので、どうやったらお伝えできるか分からず、遥華さんにお手数をおかけしてしまいました。
昨日は、きちんと御礼を言えず、申し訳ありませんでした。

今回も、幸せな「激甘」ラストで良かったです~。
新夫(にいづま)は傷物にされてしまったようですが、夫夫の愛の絆の力で、試練を乗り越えていくのですね!
藺晨かっこいい~。
宗主がこれだけ素直だったら、ドラマでも靖王も藺晨も幸せになれたのに…(そしたら、あんなことやこんなことや…)。
いや、ドラマ本編は、すごく好きなんですけれど。
最近、宗主はとってもめんどくさい人だと思い始めました(笑)

作品タイトルの「空蝉」の意味が、最終話で分かるという。
遥華さん、すご~い、ドラマ本編みたい、テクニシャンです~!

次回作も楽しみにお待ちしております!

>>Rintzuさん

いえいえーー(^^)

はい、ラスト、激アマになりましたね、やはり。
傷物・・・・た、確かに傷物にされてしまいましたが・・・(;´Д`)
まあ、一層ラブラブになったんでよしとしましょう。

えーと、タイトルはほんとに一話めだけのためにつけたタイトルなんです。
でも、シリーズにしちゃったから、なるべく各話の中にそれを匂わせる場面を
入れるようにしています。
要するにタイトル先にありきで、内容は完全に後付けなんですけどw


激甘を読んで、幸せです

遥華さま

お返事有難うございます。
何でか、今夜はツイが途中までしか見られません(T_T)
いえいえ、後付けでも回収の仕方が上手いなあ~と、毎回尊敬の眼差しです!

はい、私は東京在住です。
といっても、都心まで小一時間かかりますが。

琅琊榜自主ファンミ、実現しないかなあ…。
皆さん、中国に関する知識や教養が深くて、いろいろ教えていただきたくてたまりません。
以前、中国茶の華茶、グラスの中で開く美しさに感動して、聞茶も素敵だし、教えてくれるところないかなあ、と思いながら、現在にいたっています。
漢詩は、高校のときに、進級課題で「長恨歌」を全暗記されられ(苦笑)
もう全然覚えてないですけどね~。

確か、中国に興味を持ったのは、映画「ラストエンペラー」と「西太后」。
そして田中芳樹さんの小説「創竜伝」でした。
その後、夢枕獏さんの小説「キマイラ」シリーズにハマり、チベット仏教美術を卒論に選びました。
経典や資料のために、一応、北京語とチベット語とサンスクリット語もやったんですけどね、現在はサッパリ覚えていません(あ~あ)。

外交より、BSプレミアムで「琅琊榜」を放送した方が、関係改善に有効なのではないかと思う、今日この頃です(笑)
次回作も楽しみにお待ちしております~。

>>Rintzuさん

いいなあ、いろんな集まりに関しては、関東のかたがうらやましいです。
家から東京までは片道で4時間はかかるので・・・・。

長恨歌、やりましたねえ・・・。
漢皇色を重んじて傾国を思う 御宇多年 求むれども得ず 楊家に女有り 
というところまでは覚えていますので、
やはり暗記の課題があったのかも???
枕草子や奥の細道の冒頭の暗記があったことは覚えているのですが・・・。

「ラストエンペラー」見に行きました。
でも、中国には全く興味なかったです(^^;;;;
本当に一昨年まで、小指の先ほども感心ありませんでした(>_<)
キマイラシリーズ、そういえば一時期読んだな・・・・
もうすっかり忘れましたが・・・(忘れることにかけては天才的)

琅琊榜外交、よさげですねーwww
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