琅琊榜

蝉蜕3 (『琅琊榜』 #54以降)

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ようやくラブラブ・・・ですかね?w

 「そろそろ連中が到着する頃か」
 藺晨は殊更にうんざりした調子で呟いた。
 「わたしは今でも反対なのだからな。折角、お前と飛流と三人、水入らずで過ごせていたものを」
 これは、本音である。
 出来ればずっと、今のままがよい。
 いっそのこと、琅琊閣も放り出して、ただ三人きりで暮らしたい。
 藺晨は自他ともに認めるお喋りなたちで、辛気臭いことは苦手だ。一日中、病人と子供と三人で引きこもるなど、通常ならありえぬ話である。それでも。
 (長蘇と飛流ならば)
と思うのだ。
 誰にも邪魔されず、ずっと三人だけで過ごしたい。
 それなのに。

 「わたしはこの身体だ。どうしたってお前に世話をかける。心利いた者がそばにいれば、お前とて楽になるだろう」
 長蘇はそんなことを言う。
 「わたしがいつお前の世話をいやがったと? 日々の楽しみをやつらに奪われたのではかなわん」
 「まあ、そう言うな。江左盟と琅琊閣は一蓮托生、いつまでも伏せてはおけまい」
 そうか、江左盟があった、と思う。とりあえず黎綱と甄平が核になって回しているが、やはり一声で号令できる者は必要だ。
 もともと江左盟は父と梅石楠が興したものである。林燮は表の赤羽営と裏の江左盟を巧みに使い分けて、己の手足としていた。
 後者の後ろ盾として、琅琊閣は一役買ってきた。つまるところ、二代続けて、琅琊閣は梅父子に貢いでいる。金と、人と、知恵と、情愛と。
 いざとなれば、宗主にかわって琅琊閣が江左盟を動かすことになるだろうが、長蘇が健在となれば話は違う。
 これだけ密接な関りがあるとなれば、琅琊閣の一角に暮らす梅長蘇を、そういつまでも江左盟の者たちの眼から隠しおおせるのは難しかった。 
 「―――また、騒々しくなるのだな」
 「一番騒々しいお前が言うな」
 梅長蘇が笑った。床を上げて端座したその姿に、藺晨は目を細める。屈託のない笑顔を見るだけで、少し気の晴れる思いがした。
 と、その時。
 
 傍らで人形遊びをしていた飛流が、不意に立ち上がった。
 次の瞬間、飛流の姿はもうそこにない。
 梅長蘇が天井を見上げた。飛流はとうに屋根の上だろう。甍を踏む音がして、時折、ぱらぱらと埃が落ちてきた。藺晨は肩に落ちたその埃を払いながら、溜め息をついた。
 「どうやら、更に招かれざるおまけがついてきたようだな」
 「飛流は喜んでいる」
 長蘇が笑う。

 回廊をどたばた走ってくる足音がした。
 「宗主!」
 甄平である。
 長蘇のまえに、身を投げ出すように突っ伏した。
 「どれほど悔やんだとお思いです!? 叱られても戦にお供すべきであったと」
 挨拶もなく、ぽろぽろ涙をこぼしながらいきなりそう切り出した甄平に続いて、黎綱も臥室へ飛びこんできた。甄平の隣へひれ伏す。こちらも拳で涙を拭っている。
 「宗主! よくご無事で‥‥‥」
 「何がご無事だ。こんなに痩せておしまいだ! これだから子供とお調子者に任せるべきではなかったのだ」
 甄平は、ものすごい剣幕だ。藺晨は肩をすくめた。
 長蘇が甄平の手をとってとりなしにかかる。
 「そのふたりが、こうしてわたしを連れ戻ってくれたのだ」
 「わかっています。わかっていますとも」
 傍らで黎綱がうなづき、藺晨のほうへ向き直って叩頭した。 
 「藺公子。ありがとうございました。なんとお礼を申し上げたらよいか」
 「何も貴様らの為に助けたわけではないぞ」
 藺晨は顔を背けた。こういう愁嘆場は嫌いだ。もらい泣きなど、決してしてやるものかと、藺晨は眉を寄せた。
 「本当に、文をいただいたときは我が目を疑いました」
 黎綱が泣きながら長蘇に言う。
 長蘇は黎綱の手もとって、優しい声で詫びる。
 「すまなかったな、まだ長く筆を持つことができなんだゆえ、詳しく書けず驚かせた」
 「いえ。―――生きておいでくださっただけで」
 大の男がふたり、長蘇の手を握ってひたすら泣いている。
 (見てはおれんな)
 立ち上がって廊下へ出ようとした時、またどすどすと足音が近づいてきた。
 「小殊!」
 蒙摯であった。
 屋根の上での一戦が、ようやく片付いたのだろう。後ろから飛流が少し不貞腐れてついてきている。
 「小殊小殊小殊!!」
 黎綱と甄平を左右に払いのけて、蒙摯は梅長蘇の前に座り込んだ。
 「こいつめ、またわたしを騙しおって!!」
 ぎゅっと長蘇を抱きしめる。藺晨は顔をしかめた。
 蒙摯の顔は既に涙でぐしゃぐしゃだ。それでも満面の笑顔で、
 「ああ、ありがたい。なんと本当に小殊だ! 小殊なのだな!」
何度も何度も小殊小殊と繰り返し、うるさいことこの上もない。  
 「蒙大哥」
 すっぽり抱き籠められた長蘇の手が、蒙摯の背中をぽんぽんと叩く。
 「少し腕を緩めてくれ。話もできぬ」
 「ああ、これはすまん!」
 慌てて手を離し、膝と膝を付き合わせたまま蒙摯はその場に行儀よく座った。まるで大きな犬が、お預けを言い渡されたように、その目をぐりぐりさせて鼻がつきそうな距離で長蘇の顔を見ている。
 「話してくれ。なんでも。久し振りにお前の声を聞いていたい」 
 長蘇が苦笑する。
 「もう少しだけ、離れてもらっていいか? その‥‥‥話しづらくてならない」
 「ああ。‥‥‥こうか?」 
 じりじりと膝であとずさりながら、また激情がこみ上げてきたと見えて、蒙摯は大きな掌全部で顔の涙をぬぐった。 
 「豫津などは、林殊哥哥のことだから、どうせまたどこかで生きているのだと、気楽なことを言っていたが、軍営でのお前を知らぬゆえあんなことが言えるのだ。あの弱りきった姿を見ておらぬゆえ」
 そう言って、蒙摯は洟をすすりあげた。
 「蒙大哥」
 「二度目だ。―――二度目なのだぞ、驚かせおって」
 ぽたぽたと、涙が落ちる。
 「泣かないでくれ、蒙大哥」
 涙の落ちた蒙摯の膝へ、長蘇がそっと手を置く。
 「いや、よかった。生きていてくれて。―――よかった」
 「心配ばかりかけてすまぬ、大哥」
 そう言って、長蘇が蒙摯の肩を撫で―――。

 ついに藺晨の苛立ちが頂点に達した。
 「どいつもこいつも、辛気臭いことこの上もない。わたしがついているのだ。長蘇は死なせん。いいから皆、洟を拭け。汚い手で長蘇にべたべた触るな!」
 唖然として藺晨を見上げた一同に、更に言い添える。
 「いいか。ここはわたしの家だ。思い思いに騒いではならん。長蘇はわたしの患者だ。疲れさせるやつは、すぐつまみだすからそう思え」
 三人にそれぞれ扇子の先を突き付けてそう言い渡すと、藺晨は大股で部屋をあとにした。
 


   *



 「お前たちを呼び寄せておいて何だが」
 茶を注ぎながら、梅長蘇は言う。
 「はい」
 黎綱と甄平、ふたり膝を揃えて行儀よく並びながら、神妙に頷いた。
 「できれば―――」
と、梅長蘇は茶杯をふたりの前へ置いてやった。
 「‥‥‥なるだけ藺晨との時間を、大事にさせてほしい」
 そう言うと、梅長蘇は自分も茶杯を手に取り、口に運んだ。
 「と言いますと?」
 甄平がすこし眉間に力を入れて尋ねた。それを横目でいなしながら、黎綱が口を開く。
 「藺公子とご一緒の時は、遠慮せよと?」
 そうなのか?というように、甄平が黎綱と梅長蘇の顔をかわるがわる見た。
 梅長蘇は淡く微笑んで頷く。
 「―――勝手を言ってすまぬが」
 そう言うと、ふたりはしばし言葉を飲んだが。
 やがて黎綱が嘆息した。
 「―――宗主の我が儘は今に始まったことでなし」
 甄平もしかたなさそうに顔を仰向けた。
 梅長蘇は微笑した。
 「わたしはここを動けぬ。よほどのことがあれば廊州まで赴かぬでもないが、江左盟のことはくれぐれも頼む。わたしの指示が必要なときは、鳩を飛ばして知らせよ」
 「委細、心得ております。宗主は琅琊閣にてご養生を」
 「黎綱とわたしが交代で、ここと廊州を守ります。ご心配には及びません」
 聞き分けのよい部下たちに、梅長蘇は苦笑する。
 「そうしてもらえると助かる。それと、わたしのことは、しばらくは―――」
 「心得ております。我らの胸の内に」
 皆まで言わせず、ふたりは承知した。
 「色々、すまぬな」
 「何をおっしゃいます。これほど長くお仕えしておりますものを」
 「そうだな」
 この者たちにも、随分長い間、苦労と心配をかけた。わかっていながら自分の想いにいっぱいいっぱいで、これまで充分心にかけてやったこともない。
 そう、今までは、たったひとつの目的のために、ただひたすら全てを犠牲にして駆け抜けてきたのだ。そして、心にかけていたのはただひとり―――。 
 「金陵に―――、変わりはないか」
 目的は、すでに果たした。その先をそばで見届けることは、もうあるまい。
 「はい、大渝に続き、北燕、夜秦、東海は敗退、それに南楚の動向も落ち着いているとのこと」
 それは藺晨から聞いて既に知っている。琅琊閣の情報網は、むしろ江左盟のそれより早く正確だ。知りたいのは―――。
 「あの―――」
 黎綱がその答えを口にしかける。が。
 長蘇は思い直した。
 「―――いや。よい。金陵が無事ならば、あとのことはまた落ち着いてから聞こう」

 今は聞くまい、と長蘇は思った。
 既に、振り捨ててきた思いだ。今はまだ、振り返るときではない。

 今はこの琅琊閣が。
 梅長蘇の住まう都なのだ。
 

 
   * * *


 

 「藺閣主」
 後ろからそう声をかけられ、藺晨は回廊をゆく足を留めた。
 「わたしからも礼を言う」
 そう言って、蒙摯が頭を下げた。
 うんざりして、藺晨は懐手のまま溜息をつく。
 「お前たちときたら、わたしを何だと思っている? わたしは自分がそうしたいから長蘇を助けたまでのこと。礼を言われる筋合いなどない」
 そう返したが。
 「いや、それだけではない。なんというかその‥‥‥、小殊は少し変わったようだ」
 「―――変わった?」
 その言葉に少し興味を惹かれて、藺晨は片眉をわずかに上げた。
 「うまく言えんのだが。こう‥‥‥、落ち着いたと言うか、柔らかくなったというか。いいふうに力が抜けて、一言で言うと―――あれだ」
 「なんだ?」
 藺晨が少し首を傾げると、蒙摯は笑って頷いた。
 「幸せそうな顔をしている」
 「―――」
 あっけにとられて、藺晨は少しぽかんとしていた。
 幸せそうな。
 梅長蘇が。
 そうなのか? と、正直すこし驚いた。
 無論、幸せにしてやりたいと、思ってきた。近ごろの長蘇は随分、明るくなったと思う。長蘇が喜ぶことは何でもしてやりたいし、この琅琊閣が長蘇にとって少しでも居心地のよい場所であってほしいとも思う。
 だが。
 (幸せだと、想ってくれているのか?)
 正直、自信がなかった。
 それだけに、蒙摯の言葉は、藺晨を驚かせたのだ。 
 「都にいた頃はもっと、ぴりぴりしていただろう、小殊は。笑っていても冗談を言っても、糸がはりつめたような危うさがあって、それがいつかぷつんと切れはすまいかと心配でならなかったが」
 蒙摯が少し遠い目をして言った。藺晨は感心したように、手にしていた扇子をぱちぱちと掌に打ち付けた。
 「驚いたぞ。案外、よく見ているものだな。野生の勘か。恐れ入った。侮ったものではないな」
 自分ばかりが賢いつもりでいたが。
 腕が立ち、実直な男として一目置いてはいたものの、知恵の回らぬ武骨者と思っていた蒙摯が、これほど正確に長蘇を見ていたとは。
 藺晨は素直に蒙摯を見直していた。
 そして―――。
 なにげない風を装って、藺晨は蒙摯に尋ねた。
 「長蘇は―――、都のことを、聞きたがったか?」
 「都のこと?」
 たった今見直した蒙摯が、またいつもの鈍い男に戻る。藺晨は咳払いした。
 「その、たとえばだ。皇太子がどうしているかとか」
 そう口にしてから、少し自分に嫌気がさす。
 蒙摯は一瞬考えてから、
 「いや? 殿下のことは何も尋ねなかったな。そういえば、小殊らしくもない」
と首をひねった。 
 蒙摯の言葉に、藺晨はほっと小さく息をついた。
 「―――それが何か?」
と尋ねられて苦笑いする。
 「いや、いい」

 やっと気づいた。自分の苛立ちの原因に。

 繋ぎとめる自信が、なかったのだ。
 だから琅琊閣に、都の風を入れたくなかった。
 長蘇の心が、その風にさらわれてしまいはせぬかと。
 
 抜け殻だけでも、充分だなどと。そう言っておきながら。

 (存外、小さいな。わたしという男は―――)

 藺晨は自嘲した。
 



   *




 「梅宗主」
 部下の声に、藺晨は書簡から顔を上げた。
 「こちらへお渡りとは、お珍しいですね」
 飛流に支えられて、梅長蘇が姿を現す。
 「たまには藺晨の仕事ぶりでも見ようかとな」
 「いまお茶をご用意しますので、ごゆっくり」
 袖で笑いを隠しながら座を立つ部下を渋面で見送ってから、藺晨は梅長蘇を顧みた。
 「大人しく寝ておれんのか。春は身体がだるいのではなかったか」
 こんなところまで来るとは。おかげで部下に笑われてしまった。
 「今日は気分もよい。退屈しのぎに、真面目に働くお前を見物に来たのだ」
 「しょうのないやつだ」
 そうこう言う間に、茶の用意が調う。火鉢が運び入れられ、鉄瓶が火にかけられた。
 「面倒をかけたな。あとは勝手にやるから気にしないでくれ」
 そう言って長蘇が微笑みかけると、藺晨の部下は恐縮しながら部屋を辞した。
 「今日は面倒な書簡が多い。構ってやる暇はないぞ」
 「いいとも。わたしは大人しく見ているだけだ」
 火鉢のそばへ座し、長蘇は手近な書物など手にとってぱらぱらと眺める。
 飛流は反古紙の裏に出鱈目な絵を描いて遊んでいる。書物を置いた長蘇が、飛流の手元を覗きこみながら笑って何か言葉をかけていた。

 こんな日々を。
 ずっと待っていた。
 ―――やっと、手に入れたのだ。

 長蘇の白い手が、茶を淹れてくれる。
 茶杯を受け取り、しかし藺晨はそれを傍らへ置いた。
 「長蘇」
 長蘇のそばへ寄り、その顎を指先にとらえてこちらを向かせた。
 「よせ。仕事中だろう」
 長蘇が眉をひそめて抗議する。
 「その仕事場へ押し掛けてきたのは、お前のほうだ」
 虎の目の前に肉をぶら下げておいて、食うなと言っているようなものだ。
 「文献を整理するくらいなら、わたしでも手伝ってやれると思っただけだ」 
 「おまえの顔が目の端に入るだけで、気もそぞろになって仕事など手につかん」
 そう言うと、長蘇は少し顔を背けた。
 「―――ならば帰る」
 長蘇が立ち上がる。
 「長蘇」
 慌てて藺晨も席を立つと、出ていこうとする長蘇の手を掴んだ。
 長蘇は振り返らない。
 怒らせただろうか。折角、長蘇のほうから出向いてくれたものを。
 ―――と。
 「蘇哥哥」
 飛流がくいくいと長蘇の袖を引っ張った。長蘇が飛流の顔を見る。
 飛流はじっと長蘇の顔を見ていたかと思うと、口をひらいた。そして言ったのだ。まるで小さい子供に言い聞かせるような口調で。
 「蘇哥哥。ちゃんと言って。心配してるって」
 「飛流」
 長蘇の手が、慌てたように飛流の口を押さえた。
 無論、もう遅い。
 「心配? わたしの?」
 そう尋ねると、長蘇はますます明後日のほうを向く。
 飛流へ目をやる。飛流は長蘇の手を、ゆっくりと口からはがした。
 「―――疲れてるって。藺晨哥哥が」
 「‥‥‥わたしがか?」
 当然、―――自覚はあった。
 だが、それは。
 藺晨もまた、思わず顔を背けた。

 気まずい沈黙を、破ったのは長蘇のほうだ。
 「あまり、―――無理をするな」
 「無理など」
 ―――していないといえば嘘になる。
 毎日、長蘇に気を注ぐ。それは既に日々の倣いになっている。
 父の処方した薬のおかげで、長蘇の命を保つには充分な内力を与えてやれる。しかし。
 「少し、控えてはどうか」
 長蘇が弱々しく言った。
 控える。―――夜の営みを。
 長蘇はそう言っているのだ。

 長蘇のために、毎夜、気を注ぎ、精を放つ。長蘇の身体が耐えうるように、たっぷりと内力を注ぎ込むのだ。
 一度まぐわったあと、まだ足りぬときは、再び気を注ぐ。そしてまた、溢れ出す精を存分に放つのだ。
 さすがに、疲れが顔にも出るのだろう。
 「無理を、しないでくれ」
 長蘇が少し俯いて、藺晨の衣の端を掴んだ。
 その仕草が妙に子供じみていた。
 「心配してくれているのか? 珍しいこともある」
 綺麗に梳きつけて束ねられた髪を、撫でる。
 「だが、控えられると思うか?」
 こうしているだけで、気持ちが昂る。つい、長蘇の耳朶を甘噛みしてしまうほどには。
 長蘇は少し身をすくめた。
 「ならば―――、わたしに気を与えるのを控えればよい」
 少し目を伏せて、長蘇がそう言う。
 「そんなことをすれば、起き上がれなくなるぞ」
 「わたしなら、慣れている。お前の窶れた顔を見るよりは、ましだ」
 長蘇の言葉がいじらしすぎて、藺晨は思わず抱きしめた。
 いつのまに。こんな可愛げのあることを言うのを覚えたものか。
 「―――わかった。なるべく心がけよう」
 藺晨がそう答えると、長蘇がやっと目を上げた。
 「そうしてくれるか」
 探るような、心細げな顔が、たまらなく可愛かった。
 「お前に心配はかけられんからな」
 「―――よかった」
 ほっとしたようなその顔に、藺晨は口づけた。額に、頬に、そして、唇に。

 蕭景琰のことを。
 蒙摯に尋ねずにいてくれた。
 その心根も、愛おしい。
 自分に寄り添おうとしてくれているのだと。
 ようやく、そう思える。
 
 「これだけ片付けてしまう。待っていてくれるか?」
 文机に積んだ書簡を示す。
 「手伝えることは?」
 断ろうとして、藺晨はふと思い直した。
 自分が長蘇を案ずるように、長蘇も自分を案じてくれる。守っている気になっていたが、そうではないのだと気づいた。
 ならば。
 頼り合い、支え合って生きてゆけばよい。
 互いに互いを必要として。
 「なら、あっちに積んである書簡に目を通して、急ぎのものとそうでないものを分けてくれると助かる」
 「ああ‥‥‥、これだな」
 長蘇が書簡の山のそばへ膝をついた。
 「それがすんだら、こっちの書棚の整理を‥‥‥」
 そう言いかけた藺晨に、長蘇が苦笑を返してくる。
 「いちどに言われても困る」
 ああ、と藺晨も苦笑した。
 「そうだな。休み休みやってくれ。具合が悪くなったらすぐ言うんだぞ」
 「わかっている」
 素直に答えて書簡の山に取り組み始めた長蘇に、藺晨の頬が緩む。
 「飛流。蘇哥哥に茶を淹れてやれ」
 「うん」
 所在なさげにしていた飛流が、嬉しそうに大きくうなづいて鉄瓶に手を伸ばした。
 「働き者の嫁と息子が出来て、琅琊閣はますます商売繁盛だな」
 「誰が嫁だ」
 わずかに柳眉を逆立てた長蘇に、ふふんと藺晨は笑ってそばへ寄る。
 「あてにしているからな。内助の功を」
 ぐりぐりと長蘇の頬に頭をこすりつけると、細い手でぐいと押し返されたが。
 「多少は―――、助けてやらぬでもない」
 そう答えた長蘇の、少し染まった頬に、藺晨は軽く口づけた。
 「可愛い男だな、お前は」
 「うるさい。離れろ。書簡が読めぬ」
 身体の向きを変えた長蘇の顔の前へ回り込んで、更に唇を奪う。
 「休み休みでよいと言っているだろう?」
 「まだ一行も読まぬ内から休んでどうするのだ。お前も真面目に働け。こんなことでは日が暮れるまでに終わらぬぞ」
 怒って見せるその顔が愛おしくて、ついからかってやりたくなる。
 「お前、もう夜を楽しみにしているのか」
 「だ、誰もそんなことは言っていない」
 恥じらいの色に染まった長蘇の顔が可愛くて、藺晨は笑いを噛み殺した。
 「わかったわかった。早くすませて床入りだ」
 長蘇の眉がひそめられた。
 「さっきの話をちゃんと聞いていなかったのか」
 「聞いたとも。無理はせん。一回だけだ。それでよかろう?」
 「お前というやつは‥‥‥」
 溜息をついた長蘇の前に、どん、と茶盤が置かれた。
 「おお、飛流。事が済んだらお前も褥に呼んでやる。たまには川の字になって寝るとしよう」
 藺晨がそう言うと、飛流は胡乱気な顔で首を傾げ、伺いを立てるように長蘇の顔を見た。
 長蘇がため息混じりに笑う。
 「それも悪くないな」
 「そら見ろ、飛流。蘇哥哥もこう言っている」
 長蘇が微笑んだのを見て安心したらしい飛流が、嬉しそうに破顔した。
 「うん。川の字、川の字」
 喜ぶ飛流に長蘇も目を細めている。
 今夜はきっと幸せな夢を見ることができるだろう。
 藺晨はひとまず、目の前の書簡を片付けることにした。



 翌朝。

 琅琊閣の回廊で行き会う者たちが皆、可笑しそうに袖で口元を押さえて通り過ぎる。
 すれ違ってから首をひねった藺晨の耳に、ひそ、と交わされる会話が聞こえてきた。
 『川の字だそうだ』
 『そうそう、川の字だってな』
 藺晨の耳がひくついた。
 「飛流のやつめ―――」

 その日、琅琊閣では、年寄りから子供に至るまで『川の字』の話題でもちきりだった。
 「あいつめ、もう二度と混ぜてやらん」
 そうこぼしつつ、それでも昨夜の幸せな温もりに、顔の綻ぶ藺晨であった―――。

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~ Comment ~

ご馳走様でした~

1日の終わりに、幸せになれました。
遥華さん、有難うございます。
今夜も美味しくいただきました!

ワタクシ何となく、藺晨が「仙人」みたいな気がしてたんですが(毎日何回×××しても元気、みたいな…)、やっぱり人間なんですね。
藺晨ファンの方、ごめんなさい、私も腐っております(笑)

蒙大統領の描き方、素晴らしいです。
そう、蒙兄は、とってもにぶちんに見えて、たま~に鋭い考察を…でも肝心のところで、やっぱり鈍い(笑)

藺晨は、宗主のことが好きで好きでたまらなくて、でも靖王に嫉妬するのも抑えられなくて、宗主もそれはわかっているから、藺晨にちゃんと向き合おうとしているのが、読んでてとても幸せになります。
イチャイチャ漫才、もっとやって下さい!
働き者の嫁! 宗主が嫁! 飛流が息子! そして息子グッジョブ!(幸せすぎ&嬉しすぎて壊れてます…)
親子3人の幸せな毎日を、もっと読みたいです。

遥華さんの作品は、ドラマの雰囲気や登場人物の性格をきちんと押さえていて、読んでいて全く違和感がないですね。
すごい才能だと思います、尊敬します。

「秦」と「中原」の話題、昔、中国の国名変遷を覚えるのに、「もしもしカメよ」の歌を歌っていたのを思い出しました。
「いん、しゅう、しん、かん、さんごく、し~ん」、懐かしいなあ。

次回作も楽しみにお待ちしております。

>>Rintzuさん

毎度っ!!(笑)

わかります、藺晨、仙人ぽいですもんね。時空を超越してそうです。
そして絶倫ぽいですw
でもあえて「人間藺晨」で書いてみてますw

このラブラブを続けたくて、ただいま執筆中ですが、
書いているとどんどん鬼畜になってきてて、ビビっています。
宗主が可哀想で(>_<)。  ・・・って書いてるのワタシ自身なのに( ;∀;)

わたしはその歌、もしもしカメよじゃなくて鉄道唱歌だったんです。
確か以前、葛さんはもしもしカメよで習ったっておっしゃってました。
あと、kaishikaさんバージョンは歌詞にもっと細かく時代が盛り込まれていて、
ご自身で歌って教えてくださったんですが、とても覚えきれませんでした(爆)

毎度ご馳走様です

遥華さん、お返事有難うございます!

そうですよね、藺晨って仙人っぽいですよね~。
水のごとくお酒をガブガブ飲んでも、ちっとも酔わなさそうだし、そして1日何回×××しても、すんごく元気そう~(キャラ崩壊(笑))。
もう「人間のフリしてる仙人」でいいんじゃないかなあ。
花岡さんの作品が、そんな設定でしたね。

中国の国名変遷、暗記する歌は、いろんなバージョンがあるみたいですね。
カイシカさんの細かいバージョンも聞いてみたいです。
そして、何よりも「カイシカさんの邦訳を、熱烈に!お待ちしています!!」と、よろしくお伝えくださいまし。

中国古代史が好きだったので、殷の前の夏・商や、三皇五帝の神話など、高校時代にずいぶん読み漁りました。
先日、その辺の話を、研究室の先輩が、NHKの番組で喋ってましたっけ。
(琅琊榜ばっかり観ているので、録画がたまる一方…)

江左盟日本支部および靖王府広報課の合同で、お茶会とか集いの場があったら、いいのになあ。
皆さんにいろいろお話を伺ってみたいです。
介護はダンナに丸投げして、駆け付けますとも!

愛のある、宗主への虐め(笑)、楽しみにお待ちしております。

>>Rintzuさま

kaishikaさんにお伝えいたしましたよーーー(*´ω`*)
喜んでおいででした(^^)

わあ、恥ずかしい~

遥華様

kaishikaさんへのツイ、拝見しました。
楽しいご旅行中なのにすみません、お手数をおかけいたしました。
ってゆーか、そんなに造詣深くないですから!(汗)
民族学・考古学専攻だっただけですから!!
そして腐女子だっただけですから!!!!(;^_^A

kaishikaさんに、余計なプレッシャーをかけてないといいのですが…。
ゆっくり気長に、楽しみにお待ちしております。

皆さん、華ドラマだけでなく、中国語や中国茶や、いろいろな方面に詳しい方が多くて、ツイをのぞくのが楽しみです。
集いの会があったら、アレコレたくさん教えていただきたい…。
どなたか音頭とって、「琅琊榜日本支部集いの会」とか勝手にファンミーティング、やっていただけませんか~?

折り紙も、皆さんの作品、とても綺麗で素敵でした!
無事に届いて、お手元に…う、うらやましい。

次回作も毎晩(笑)お待ちしております。

>>Rintzuさん

ほんとに皆さん、中国に関して教養が深くていらっしゃいますよねー。
わたくし唯一ズブの素人ですので、全く話についていけてませんが(笑)。

自主ファンミ、あるとよいですねー。
Rintzuさんは関東のかたですか?
もしそうならうらやましい♡
大阪から出はなかなか東京の皆さんにお会いできないので・・・・。

折り紙も皆さん届いたようですね。
わたしはどうもそういうのが苦手で、送らずじまいでしたが(^^;
皆さんの熱い思いが届いてよかったです。
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