琅琊榜

蝉蜕2 (『琅琊榜』 #54以降)

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まだ完全に吹っ切れてなかった長蘇(>_<)。
でも、今回でいよいよ春がやってきた・・・かな?


 『―――私の為に、生きろ』
 それは、ひどく耳に心地よかった。

 けれど―――-。



   * * * * * 



  「痛むか?」
 梅長蘇は飛流の拳に薬を擦り込んでやりながら、尋ねた。
 飛流は大人しく薬を塗らせつつ、ぶんぶんとかぶりを振る。
 甲冑をまとった兵士たちを相手に、拳を振るい続けたのだ。痛まぬ道理がなかった。闘いのすんだあと、飛流の拳は血まみれで、それが敵兵の血なのか、自分の傷のためなのか、見分けすらつかなかったほどだ。
 もともと、痛みには鈍い子である。そのように育てられたのだ。己の痛みに頓着せずに戦い続ける道具として。
 それでも、痛みを知らぬわけではない。知っていればこそ、梅長蘇が晏太夫の鍼治療を受けるときには、自分のことのように眉を寄せて痛そうな顔をしたものだ。
 「今日はよく頑張ってくれた。飛流が立派で、蘇哥哥も鼻が高い」
 そう言ってやると、心底嬉しそうに大きくうなづいた。
 「ちゃんと、守った」
 飛流は誇らしげに言った。
 豫津哥哥の傍にいろと、梅長蘇は飛流に命じたのだ。豫津と宮羽の無事は、飛流の奮闘によるところが大きいだろう。
 飛流の忠義も勇敢さも、梅長蘇は嬉しかった。
 だが。
 「蘇哥哥が一番うれしいのは、飛流が無事に戻ってきたことだ」
 そう言って抱き寄せると、飛流は猫のように擦り寄ってきた。
 「今日は剣を使えと言ったろう?」
 「‥‥‥うん」
 包帯の巻かれた自分の手をしげしげと眺めながら、飛流がこくんと頷いた。
 「でも」
と小首をかしげて飛流は言う。
 「蘇哥哥、好きじゃない」
 「え?」
 咄嗟に意味を判じ兼ねて、梅長蘇もまた首をひねった。
 「悲しそうにするから」
 はっとして、梅長蘇は薬を片付ける手を止めた。
 飛流はもう、炊き出しの粥のほうに気をとられている。
 梅長蘇は、飛流の齢のわりにあどけない顔に眉を曇らせた。
 この子に剣を持たせたくないと、自分がそう思っていることを、飛流はよくよく察しているのだ。
 「‥‥‥粥を食べておいで」
 胸のふさがれる思いで、梅長蘇は飛流にそう言った。飛流は嬉しそうにうなづいて、炊き出しの列に加わりにすっ飛んで行く。
 自分を悲しませぬために、飛流なりにあれこれ考えているのだ。
 (―――そうではないのだ)
 梅長蘇は嘆息した。
 確かに飛流が剣で人を屠るさまなど見たくはない。飛流の魂が無垢であるがゆえに、意味のわからぬままその手を汚させたくはないのだ。
 飛流が剣を持てば、それは必殺必中となるに違いなかった。それゆえ、飛流に無暗に得物は与えない。しかし。
 得物がなくとも、飛流には拳がある。人を殺傷するのに変わりはない。そうと知りながら、自分は飛流のその力に頼ってきたのだ。飛流に剣を持たせたくないと願う一方で、その大人になりきってさえおらぬ拳を血で染めさせてきた。身勝手なこと、このうえもない。
 飛流はどういうわけか自分を慕って、なんでもよく言うことを聞く。殺せと言えば殺すであろうし、もしも死ねと命じたならば、深く考えることもなく命を差し出すだろう。そんな飛流を、自分はいいように使ってきたというのに。
 なのに、こんな自分の思いを推し量って、飛流は剣を持たぬのだ。あれほどの激しい戦いにあっても、飛流は剣を手にしはしなかった。その気になれば、そこいらじゅうにあらゆる武器が転がっていたにもかかわらずである。
 飛流の知恵は、幼い。幼いがゆえに、武器さえ持たねば自分が悲しまぬと思っている。それゆえ死闘のさなかにも得物を手にしない。
 (だが、飛流)
 梅長蘇は、嬉しそうに粥をよそってもらっている飛流を眺めやった。
 飛流には、難しかろう。自分の中のこの相反する思いを、正しく知るのは。
 刃など振るわせたくないという願いと、剣をとって飛流自身の身を守ってもらいたいという思い。
 (わたしのそばに置きさえせねば、それはたやすく叶うのだ)
 そうは思いつつ、飛流を手放すこともできぬ梅長蘇であった。
 第一、あの子は自分から離れはすまいとも思う。
 こんなにも深い絆で結ばれてしまっては、自分がいなくなった時に、あの子は一体どうするのだろうと、梅長蘇は切なくなる。
 (わたしの死を、理解できるだろうか)
 受け入れることが、できるのか。
 切なくて。
 涙が、溢れた―――。


 「―――蘇。長蘇」
 肩を揺さぶられて、梅長蘇は眼を開けた。
 「藺晨‥‥‥?」
 目の前に、藺晨の気遣わし気な顔がある。
 「どうした。嫌な夢でも見たか」
 褥の中、優しい声でそう問われて、長蘇は両腕を差し伸べた。藺晨の首にその両腕を巻きつけると、そのまま力強い腕で抱き起こされた。
 すがりついたまま、長蘇はゆるくかぶりを振った。
 「泣いていたくせに」
 藺晨が小さく笑って、顔を覗き込んでくる。指先で、涙を拭われた。
 「―――死にたくないと‥‥‥、夢の中で、そう思っていた‥‥‥」
 素直に、長蘇はそう言った。
 赤焔軍のため、大梁のため、自ら選んで命を削ったものを。
 飛流を遺していくと思うと、胸が痛んでならなかったのだ。
 藺晨が、こつんと額を合わせてくる。
 「そんな夢は、もう見なくていい」
 ぐりぐりと額を押し付けられて、梅長蘇はすこし顎を引いた。
 「お前は死なん。わたしと飛流と、三人で生きていくのだ。ずっと」
 ふわり、と口づけられる。常の横柄な調子からは考えられぬほど、藺晨の口づけは優しい。
 「‥‥‥んっ」
 唇の離れ際、つい甘く声を漏らしてしまう。まるで、名残を惜しんで甘えるているかのようで、長蘇はそんな自分がひどく恥ずかしい。それで意味もなく眉根を寄せて、不機嫌な顔を作らずにおれぬ。
 藺晨は苦笑いをして、髪を撫でてくれる。
 「わたしと居る限り、おまえは死なん。死なせはせん。ここでこうして、わたしと共にある限り」
 そう言われて、ふと、心に引っかかるものがあった。

 この琅琊閣で。
 藺晨と共に、ある限り。
 それでは、まるで―――。

 「どうした?」
 訝し気に問われて、長蘇は更に眉をひそめた。

 病んだ五体の隅々から、冰續丹で命の残り火をかき集め、燃やし尽くしたこの身は、既に空蝉のごとく成り果てた。もはや藺晨の内力を注ぎ入れてもらうことでしか生きられぬ。
 藺晨は言った。
 『わたしの為に生きてくれ』と。
 それは妙に、胸に響く言葉だったが。

 何もせず。
 誰の役に立つわけでもなく。
 ただ、こうして琅琊閣の奥深く。
 息をしているだけの身。
 人形のように。

 藺晨の為に生きる―――。
 それは満更、嫌でもない。
 これまで何の見返りも求めずに尽くしてくれた藺晨が、共に生きよと言うのなら、そうあっても構わぬと思う。だが。

 ―――それだけか?
 それでは、あまりにも‥‥‥。



   * * *
 

 
 「何が気に入らん? 手活けの花の何が悪い?」
 つい、不機嫌な声で問うてしまう。
 視線の先、枕辺に活けられた水仙の花は、風に折られてうなだれていたのを、飛流が今朝、庭から採ってきたものだ。 夜露や朝霜に耐えて凛と咲くさまも美しいが、こうして書軸の下に活けて愛でるのもまた別の風情がある。
 茎が折れては萎れ行くのを待つばかりであったものが、こうして手活けにすればまたその清々しい姿で人の目を楽しませてくれる。己の力で生きられぬ梅長蘇を、こうして大切に守って愛でて、どこが悪いのか。   
 「退屈だと言うなら、書でも画でも、お前の好きなものを何でも持ってきてやる。何なら宮羽を呼び寄せて琵琶のひとつも奏でさせるか? 町へ出たいなら、連れていってやらんこともない」
 なにも無理矢理、閉じ込めておこうというのではない。
 だが。
 長蘇はいまだ受け入れきれぬのだ。
 これまでの生が烈しかった分、突然降って湧いたような平穏さに、長蘇は馴染むことができずにいる。
 「そんなことは言っていない」
 長蘇が苛立った声を上げた。
 もどかしげに、瞳を揺らす。
 なぜわかってくれぬのか、と問いかけるように。

 「ひとりにしてくれ」
 長蘇は顔を背けた。
 「頼むから。ひとりにしてくれ」
 
 それきり、長蘇は藺晨の内力を受け入れようとしなかった。
 長蘇が強く拒めば、気を注いでやることは出来ない。
 互いの気が乱れ合えば、ふたりながら五体の気脈をずたずたにされかねぬのだ。 

 長蘇の気持ちが落ち着くまで、待つよりほかに手立てがなかった。
  


   * * *




 琅琊閣で春を迎えるのは、久し振りだ。
 清明節には春游に出かけようと、藺晨はそう言っていたのだ。ずっと引きこもってばかりでは、気もふさぐだろうと。
 それなのに。
 結局こうして一人きり、褥の中で明日の清明節を迎えることになろうとは。

 自分が悪い。
 夢見が悪くて、心が乱れていた。それでつい、言わずもがなの不平を口にした。
 あれほど尽くしてくれる藺晨に、つまらぬ不服を唱えた自分が悪いのだ。
 それはわかってはいたが。

 「―――うそつきめ」
 小さな、つぶやきが漏れた。
 口には出さずとも、楽しみにしていたのだ。共に出かけることを。 
 悔し涙が出そうになって寝返りを打ったところへ。

 「蘇哥哥!」
 ぴょんと、飛流が臥室に飛び込んできた。
 この幾月かでまたぐんと背丈が伸びたようだが、ちょこんと褥の傍に膝を揃えて座る姿はあどけなくて、梅長蘇も我知らず顔が綻んだ。  
 「見て」
 飛流が抱えてきた紙銭を見せる。
 「燃やそうよ」
 そう言って、庭の方を顎で示す。
 清明節には先祖の霊を敬い、墓参するのだと、長蘇と長く暮らして飛流は知っている。長蘇が都の霊廟には行けぬことを察して、せめて紙銭なりと燃やそうという、飛流なりの心遣いに違いなかった。
 長蘇は苦笑いした。
 「蘇哥哥は、起きられそうにない」
 「―――蘇哥哥」
 飛流はすこし悲しそうにうなだれて、ただそばに座っていてくれる。

 都でも。
 この子はいつもこうして、そばにいてくれた。

 やはり、この子を遺して逝きたくはない、と梅長蘇は強く思った。

 

 その宵、ふらりと姿を見せたのは藺晨の父である。
 「おや。長蘇どのには加減が優れぬと見えるな。―――どれ」
 促されて梅長蘇は手を出した。脈をとられる。
 その時に、老閣主の袖口から、腕輪が見えた。
 「―――老閣主」
 長蘇の視線に気づいて、老閣主は袖を伸ばした。
 「父のこと‥‥‥、礼を申します」
 そう言うと、老閣主はわずかに微笑んで、長蘇の手を毛布の中へ戻してくれる。
 「石楠どののことは?」
 「‥‥‥詳しくは聞いていません。老閣主が―――、弔ってくださったのですね?」
 父をこよなく愛してくれた人だ。手厚く葬ってくれたに違いない、と梅長蘇は思った。
 が。
 「弔ってはおらぬ。今も石楠どのの身は、わたしと共にあるのだから」
 梅長蘇はいぶかしんで目を瞠る。
 老閣主がすこし目を伏せた。
 「冰生花というのを、知っておろう?」
 「―――冰生花? 氷に閉じ込めた生花のことですね」
 なぜ、そんな話をするのか、梅長蘇にはわからない。
 だが―――。

 梅嶺。
 冰生花。
 老閣主の愛した男。
 それら断片が示すものは。

 「‥‥‥石楠は、氷の棺の中で今もその身を保っている」
 「―――!」

 ぱっと、頭の中にそれが浮かんだ。

 雪深い北の地で。
 氷の中に眠る父。
 それに寄り添う老閣主。

 一瞬にして、理解した。藺晨が言った「父が哀れだ」という言葉。
  
 「無論、石楠の命は十四年前に尽き、二度と眼を開けることも、その口が言葉を紡ぐこともないが」
 老閣主は苦笑する。
 「それでも、わたしには、生きるよすがとなっているのだよ」
 遠く、北の地に眠る友のもとへ、渠の心は既に飛んでいるようだった。
 ずっと寄り添っていたかろうに、友の忘れ形見を案じて、こうして様子を見に来てくれたものか。
 胸が、苦しくなる。
 「何も見ず、何も語らぬ、‥‥‥命の抜け殻であっても、ですか?」
 長蘇の言葉に、老閣主はくすりと笑った。
 「そうだ。石楠が、わたしを生かしているのだから」
 不思議に、誇らしげな顔だった。

 「哀れだと思うか、わたしが」
 「―――いえ‥‥‥」
 「そう見えても不思議はない。だが、石楠の身があそこでああしてわたしと共にあってくれるだけで、わたしは満たされる。物言わぬ亡骸にさえ、人を生かす力はあるものだよ」
 死んだ友をよすがに生きることを、少しも愧じてはいない。むしろ、それほど固く結ばれた友をもったことに、渠は胸を張っているのだ。   

 その顔は、藺晨にとてもよく似ていた。



     * * * 
 


 「飛流、それはよくない」
 藺晨は、真面目くさってそう言った。
 夜の回廊で出会い頭、いきなり飛流に両手を握られたのだ。 
 「わたしとお前は兄と弟のようなもの。お前が実はわたしに懸想していたなどとはついぞ知らなかったが、あきらめてくれ」
 「違う!」
 すっかり腹を立てて、飛流は掴んでいた藺晨の両手を振り払った。
 「蘇哥哥、ぐったりしてる」
 長蘇の臥室のほうを指さして、飛流はもどかしげに地団太を踏む。
 藺晨は眉をひそめた。
 本当は。飛流の言いたいことくらい初めからわかっている。長蘇に気を与えよと言うのだ。藺晨がいつも長蘇の両手をとって気を与えているのを、飛流は覗き見て知っているのだろう。
 「―――そうか、ぐったりしていたか」

 無理もない。
 もう丸三日、内力を与えていないのだ。
 そろそろ限界か。
 そう思って、溜息をつく。
 「しょうのないやつだ」
 そうつぶやいて首を振る。

 「蘇哥哥をたすけて」
 「無論、助けるとも」
 助けなくてどうするのか。
 長蘇を生かすために、苦労してここまで連れ帰り、己の命を削っているのだ。
 だが。

 当の長蘇が、納得できていない。
 自身で折り合いをつけてくれるしかない、と思う。



 重い気持ちで、梅長蘇の臥室へ向かう。
 長蘇は眠ってはいなかった。 
 「‥‥‥藺晨‥‥‥」
 すぐに、毛布の下から痩せた手が力なく差し伸べられる。
 傍らに胡坐をかいて、藺晨は長蘇の手を握った。
 長蘇の目が、ひたと藺晨に向けられている。
 「どうして‥‥‥顔を見せてくれなかったのだ‥‥‥」
 「勝手なことを言うな。お前が拒んだのだろう」
 長蘇は泣き出しそうな顔で無理にほほ笑んだ。
 「‥‥‥わたしのほうから、這っていこうかと、思っていた‥‥‥」
 「莫迦なことを」
 そう言って、手を毛布に入れてやろうとしたが、長蘇は頑なにその指をほどこうとしなかった。
 「また‥‥‥、九安山の、夢を見たのだ」
 長蘇は言った。すがるような眼だ。
 「‥‥‥飛流の手が、血まみれで。‥‥‥わたしはあの子に、‥‥‥そんなことをさせたくはないのに」
 息を乱しながら、長蘇が言う。
 「ああ。もうその必要はない」
 なだめるようにそう答えて、藺晨は長蘇の手をさすった。
 長蘇の目から涙が零れる。
 「あの子を‥‥‥遺して、‥‥‥死にたくなどないのに」
 「ああ。お前は死にはせん」
 生きられると知った今でも、まだ死の影におびえているのかと思うと、あの頃の長蘇の苦悩が推し量られて胸が痛くなる。
 「‥‥‥生きていても、あの子に‥‥‥何も、してやれない」
 「お前がいるだけで、飛流は健やかに育つ」
 生きることも、死ぬことも、長蘇にとってはつらい選択だというのか。
 生きてさえいれば、さまざまな喜びが溢れていることを、思い出してほしいと藺晨は思った。
 「‥‥‥藺晨‥‥‥」
 長蘇の瞳が、切なげに藺晨を見上げている。
 「なんだ?」
 「―――寒い‥‥‥」
 か弱い声が、痛々しい。
 「身体が弱っているからな」
 藺晨は長蘇を毛布ごと抱き起こした。
 「すぐに気を入れてやる。じき楽になる」
 長蘇の襟元を整え、髪をかき上げてやりながらそう励ます。長蘇は消え入りそうな微笑を浮かべた。
 「‥‥‥忘れて、いた‥‥‥。お前に、気を与えてもらわねば‥‥‥、こんなにも、苦しいということを‥‥‥」
 弱々しくあえぐ長蘇が愛しい。
 「悪かった。わたしももっと、お前の気持ちに添ってやるべきだった」
 長蘇は力なく、かぶりを振る。
 「‥‥‥お前なしでは、‥‥‥ただ生きることさえ出来ぬのだな。‥‥‥わかっていたつもりなのに」
 『お前なしでは』などと、ありえぬことを言う。どうして離れたりできるだろう。もう、嫌と言うほど離れ離れに過ごした日々を、これから埋めていこうというのに。
 「わたしはずっと、お前と共にある」
 そう答えると。

 長蘇は少し目を瞠り、それから目を閉じて、また一筋涙をこぼした。
 「‥‥‥そう、か‥‥‥。囚われているのは、わたしではなく、‥‥‥むしろ、‥‥‥お前なのだな」
 「長蘇?」
 「‥‥‥お前の、ほうこそ‥‥‥、わたしの為に、自由を、捨てた‥‥‥」
 藺晨は、眉を寄せた。
 「それは違う」
 絶対に、ちがう。
 とんでもない思い違いだ。長蘇はなにも、わかっていない。
 「わたしなど‥‥‥、うち捨ててしまえば‥‥‥、お前は、面白おかしく、暮らせるというのに‥‥‥」
 「長蘇」
 「‥‥‥何の、役にも、‥‥‥立たぬ身だ‥‥‥」
 これほどまでに。
 長蘇は己の生きる意味を見失っていたのか。
 「役に、立たぬからこそ‥‥‥、都も、‥‥‥振り捨ててきた」
 それほどまでに。
 己の生きる価値を知りたいのなら。
 いくらでも教えてやろうと思った。

 「―――そうではない」
 藺晨は長蘇を抱きしめた。 
 「お前は生きているだけで、―――わたしの腕の中で息をしているだけで、充分役に立っている。―――たとえ都での役割はなくなっても、ここにはお前の生きる意味がある」
 抱きしめた薄い背中が、ぴくりと震えた。
 「‥‥‥わたしの、‥‥‥生きる意味―――」
 不安げな長蘇の顔を覗き込み、藺晨は微笑いかけた。

 「―――わたしを、満たしてくれる」

 長蘇は探るような眼差しで藺晨を見つめる。
 「―――お前を‥‥‥?」
 藺晨は長蘇の額にくちづけを落とした。
 「―――お前を失えば、わたしはただの空蝉となる。お前が生きていてこそ、わたしは満たされる」
 抜け殻同然の長蘇を満たしてやっているつもりだった。
 だが、そうではないと、藺晨は思う。自分こそが、長蘇によって満たされているのだ。

 「頼むから、―――わたしを空蝉にしてはくれるな」
 「‥‥‥藺晨」

 そうだ。
 長蘇を失うことなど、考えられぬ。

 「簫景琰には、国がある。統べるべき国と、守るべき民、重い務めがある。それが奴の生きる糧となるだろう。お前が遺してきたものだ。奴のために」
 長蘇が命がけで積み上げたものを、あの男はそのまま形見として抱いて生きるのだ。
 「藺晨‥‥‥」
 「わたしには、お前の抜け殻しか残らなかった。―――だが、それで充分だ。お前がただの抜け殻だと言うなら、わたしがお前に命を注いでやる」
 たとえ儚い空蝉であっても。こうして友の身が自分の手の中に残されたことを、藺晨は感謝している。 

「お前はもう、充分務めを果たした。林殊として。梅長蘇として。今は休んでいい、わたしの腕の中で。―――お前が生きているそれだけで、わたしもまた、生かされる」
 やはり自分は、父の子だと思う。
 まるで、同じではないかと。
 これほどまでに愛しいと思える相手を、友として選んだ自分を、誉めてやりたい。

 「―――ゆっくり休んで、それから考えろ」
 髪を撫で、そこに幾度も口づけた。
 「もう焦ることは何もない。お前に命の期限などないのだ。―――お前がわたしの為に何かしてくれるというのなら、それはお前が自分でゆっくり考えればよい」
 「藺晨‥‥‥」
 「どうしてもわたしの世話になるのが嫌だと言うのなら、少しずつでもお前の身体を回復させる術を考えてやる。いつかお前がわたしから離れても生きて行けるように」
 長蘇が喜ぶことなら、なんでもしてやりたいと、藺晨は思う。
 「たとえわたしの元から去っても、お前が生きてさえいてくれれば、失ったことにはなるまいからな。だから、今は―――」
 藺晨は、長蘇の髪に顔を埋めた。。

 「今は辛抱してくれ。―――頼む」
 
 


   * * *



 辛抱してくれと、藺晨が言う。
 苦し気に。
 たとえいつか離れても、生きていてくれさえいればよいのだと。
 これほど愛してくれる者を、どうして置いて逝けるだろう。

 「‥‥‥しかたが、ないな‥‥‥」
 長蘇は微笑った。
 「お前を‥‥‥、空蝉には、できぬから‥‥‥」
 藺晨の胸にすがる手に、梅長蘇はなけなしの力を込めた。 
 「そばに‥‥‥、いてやる」

 そう言った途端。
 更に強く、抱きしめられた。

 「長蘇!」
 同時に、ゆるゆると温かな気が、身体にひた寄せてくる。

 「‥‥‥ああ‥‥‥」
 心地よさに、思わず吐息が漏れた。

 冷えた身体が温まり、ふわりと軽くなってゆく。
 力が、身体の隅々まで満ちてゆく。

 生きるということ。
 自分のため、誰かのため。

 生きているということ。

 これほどにも温かく、穏やかな。

 生きているだけで。
 ―――充分だ。 



   *



 「飛流。おいで」
 回廊から呼ぶと、飛流が甍を蹴って舞い降りてきた。
 「また花を摘んできたのか」
 飛流の手には、どこから手折ってきたのか、桃の枝が幾本か抱かれている。

 自分が重き荷を負うて生きていたとき、飛流の手もまた血濡れていた。ずっと、すまぬと思っていたのだ。
 あれほど、頑なに武器をもつまいとした飛流が、大渝との戦の折りには得物を携えていた。この梅長蘇を守ってくれるために。

 琅琊閣に戻って。
 飛流のその手が血にまみれることは、もうない。
 来る日も来る日も、その手は花を摘み、愛でる。
 飛流の武功を生かせぬことを、惜しいとは思わぬ。こうして静かに暮らして行くことが、かつて傷つけられ損なわれた飛流の心には、一番よい。

 「ずっとここで暮らしたいか? 蘇哥哥と、藺晨哥哥と、三人で」
 「うん」
 迷いのない、健やかな答えが返ってくる。
 「わたしはお前に、何もしてやれぬぞ? それでもよいか?」
 「いい」
 単純明快な、飛流の応え。
 この笑顔を見れば。
 思い煩っていたことが、莫迦莫迦しくなる。
 

 「おい、ふたりとも。支度はいいのか?」
 藺晨の声に振り返ると。
 ふわり、と薄手の外套を着せ掛けられた。
 久しぶりの外出に心が浮き立つ。
 ずっと引きこもってばかりで萎えた脚は、まだ少しばかりふらつくが。藺晨と飛流が支えてくれるなら、何の不安もありはしない。


 春を探しにゆくのだと、藺晨が言った。

 清明節のこの日、人々は春游に出かける。春の緑を愉しむのだ。
 それを人は、踏青といい、探春という。
 天も地も、冬を乗り切り、明るく清らかな季節を迎える。

 春を探しに。

 うららかな陽ざしの下、命芽吹く緑の中へと、梅長蘇は踏み出した。

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~ Comment ~

しみじみと読みました

遥華さん、こんばんは。
最終回があまりにも辛くて、宗主やっぱり死んじゃ嫌だ、藺晨なんとかできなかったの~、と悶えていたので、このお話は本当に救いです。
あの「幻のその後」、飛流が入れたお茶を藺晨から受け取る手、あの3人の日々が、こんな風であるといいなあ、と思います。

それにしても、藺晨いい男だ!!
宗主はぐちゃぐちゃ考えすぎ~。
「分からなくなったら、考えるのをやめて感じるといいのよ、おバカさん」とつい言いたくなります。

どうも華ドラマは、私にはイライラする人物設定が多くて、片付けしながら横目で見ている「秀麗伝」も、途中で挫折しそうです。
「風中奇縁」は、九爺さまがあんなにハイスペックな男なのに、「脚が悪いだけで、どーしてそんなに卑屈になるのよ~(怒)」と、ジタバタしてました。
CCの役柄も、「ジャクギ」と一緒で、あんまり好きになれなくて…。
明日は、撮りためた「弘文学院」を観ます。
元気になれそうですよね。

英語も中国語も、ここ20年ほど離れていたので、現在はさっぱり喋れません(笑)
耳もほとんど聴き取れなくなってるので、字幕に頼りきりでございます。
カイシカさんほか皆さんすごいなあ(尊敬の眼差し)。

次回作も楽しみにお待ちしております。
ピクシブは…検討中です(笑)

>>Rintzuさん

なにしろこれまで進み続けてきた宗主ですからね・・・・。
いきなり、ただ守られるだけの存在には、なれないと思うのですよ・・・・。

CCちゃん、わたしもジャクギやシン月ちゃんより、路先生や三娘みたいな役の方が好きです。
ジャクギもシン月ちゃんも、もちろん賢くていじらしいところもあるんですが、
結構ワガママで強引なくせに、肝心のことはグズグズしていたりしてイラッとします。
それに対して、男性のほうもまた。
そういう意味では無忌なんかはかなり男らしくて積極的で一途でいいやつなんですが、
ただ、無忌の九爺に対する言動が、わたしとしては胸が痛くて悔しくて。
まあ恋敵相手なんですから、しかたがないんだけど・・・・。

「幻のその後」はいいですね。
あれのおかげで琅琊榜ロスは最小限に食い止められましたから。

ピクシブでお待ちしておりますよーwww
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