琅琊榜

蝉蜕(うつせみ)1 (『琅琊榜 #54以降)

 ←情人7 (『琅琊榜』 #52~54) →百花魁1(『怪侠一枝梅&風中の縁』)
『情人』の続編です。藺蘇に突入します。
ます。
わたしの中で、藺パパは実は、胡歌版射鵰の黄薬師がイメージの一部だったりします。藺晨が年取ったら黄薬師・・・とかずっと思ってたのでw 
で、黄薬師が奥さんの遺体をずっと愛でてたあのイメージが、頭に残ってたのかなと思ってます。


「藺晨、頼むから少し休んでくれ」
 細い声で長蘇が言った。
 わかっている。自分がどれほどひどい顔色をしているか。だが、休むわけにはいかない。藺晨は薬草を擂り潰す手に力を込めた。
 戦場から梅長蘇を拐ったのは、大渝が鉾をおさめて軍を退いたその夜だ。
 いよいよ都へ帰れると、兵たちが酒を酌み交わすその喧騒に紛れて、飛流と共に長蘇を軍幕から運び出した。
 長蘇の容態は、既に誰の目から見ても抜き差しならぬところまで来ていて、都までの旅には耐えられるはずがないと、皆が承知していたはずだ。皇太子や霓凰郡主らに宛てた文は残してきた。もう随分前に、長蘇が書いたものだ。今の長蘇では筆を持つこともかなわぬ。
 人々は思うだろう。梅長蘇は死んだのたと。その骸を人目に触れさせることを嫌って、どこかでひっそり息をひきとったのであろうと。事実、長蘇はそれを望んでいた。
 だが、まだ死なせたくはないのだ。藺晨にはどうしても諦めがつかなかった。

 北の町の寂れた宿で、藺晨は弱った友を介抱し続けた。
 長蘇の身体は、もはやどんな薬も受け付けぬ。冰続丹が五体の既に隅々から長蘇の命をかき集め、奮い起こし、使い果たした。ほとんど空蝉同然となった長蘇は、やっと息をしているに過ぎず、それももう長くはあるまいと思われた。
 それでも、内功による治療だけはいくらか効き目がある。藺晨が己の気を注いでやると、しばらくは長蘇の削げた頬に血の色がさし、目には生気が宿るのだ。そのさまが美しくて、藺晨は度々気を注いだ。
 「焼け石に水だ。もうあきらめてくれ」
 長蘇は繰り返しそう懇願した。いくら内力を与えても、それが長蘇自身の身に付くことはほとんどなかった。割れた鍋に水を注ぐがごとく、半日ともたずに長蘇はまた人事不省に陥る。鍋の割れ目を塞ぐ術が、藺晨にはもはやなかった。
 「―――もう、眠らせてほしい」
 長蘇はそう言う。息をし続けることが、長蘇には既に苦痛でしかないのだ。
 楽になりたがっている。
 哀れには思うが、藺晨はやはりあきらめきれぬ。
 割れた鍋から水が零れ続けるならば、零れるより多く注ぎ続けるしかない。
 「わたしは丈夫なのが取り柄だからな。おまえに気を分け与えるくらいは痛くも痒くもない」
 そう言って笑っていられたのは、しかしなから初めの内だけだった。いかに藺晨だとて、その体力が無尽蔵というわけにはいかぬ。昼間は長蘇を抱えて馬を歩ませた。夜は長蘇に気を注ぎ、弱った身体をさすってやり、眠るまで添い臥してやる。藺晨自身はいくらも眠れはしない。眠っているうちに長蘇が息を引き取るのではないかと、不安でならぬのだ。
 こんな暮らしが、続くわけがない。やがては飛流にさえ気遣われるほど、藺晨自身が疲れ果てていた。

 藺晨は、薬を作る。長蘇に飲ませるためではない。もはや長蘇に薬は意味をなさぬ。藺晨自身が飲むのだ。
 肉を食らい、血をすすり、滋養の高い薬を飲んだ。そうして内力を奮い立たせては、長蘇に与える。
 長蘇の空っぽの身体に、己の命を注ぎ込む。それはまるで情を通わせるにも似て、藺晨はほとんど恍惚として長蘇に気を与え続けるのだ。

 琅琊山に辿り着く頃には、藺晨自身、馬から下りる足もふらついていた。
 この先は道が細く険しい。柴を刈ってきたらしい麓の村人に馬を託して、ここからは歩いて登るよりしかたがないのだ。琅琊閣まで、常ならば軽功であっという間の距離だったが、今の藺晨には遠く険しかった。
 長蘇を飛流に背負わせ、藺晨はそのあとを岩肌にすがりながら進む。振り返り振り返り前を行く飛流が、主を気遣う犬のようで微笑ましい。
 「いいから先に行け」
 笑ってそう言うと飛流は身軽に駆けて行き、それでもやはり気にかかると見えて、足を留めては振り返る。
 長蘇を背負った飛流が、沢の飛び石を一足飛びに越えていく。
 (やれ、これは難関だな)
 子供のころから通い慣れた道が、弱った身体にはかくも難しい。こう眩暈がひどくては、間違いなく足を踏み外す自信がある。
 ため息をついたところへ、飛流が戻ってきた。どこかに長蘇を下ろしてきたと見えて、ひとりきりだ。
 「藺晨哥哥」
 飛流が背中を向けて小腰を屈める。
 「‥‥‥なんだ? 負ぶってくれる気か?」
 早く、と肩越しに飛流はひらひらと手招きした。
 「お前に背負ってもらう羽目になるとは、世も末だな」
 笑いながら、藺晨は飛流の小柄な背に身体を預けた。
 あっという間に長蘇のもとへ運ばれる。長蘇は岩陰でぐったりと眠っていた。ならば、長蘇に指示されたのではなく、飛流が自分で迎えに来てくれたのだろう。
 「拾って養った甲斐もあるというものだな」
 藺晨は笑って飛流の頭を撫でながら、その背を下りた。飛流は嫌そうに頭を振ったが。
 「―――ああ、迎えが来たようだ」
 小閣主―――と呼ばわる声が、近づいてくる。琅琊閣へは昨日、信鴿を飛ばしてあった。
 やれやれ、と藺晨は息をついて、梅長蘇の隣へ座り込む。
 「藺晨哥哥?」
 飛流の声が、忽ち遠くなる。
 藺晨はそのまま眠りの底へと落ちて行った。


   *


 薬を煎じる匂いで、目が覚めた。
 頭を巡らせると、懐かしい姿がそこにあった。
 「爹」
 何年ぶりだろう。父に会うのは。
 「不甲斐ないな、小晨」
と父が笑った。
 「―――面目ない」
 「まあ、お前にしては上出来か」
 のんびりと言った父に、藺晨は仰臥したまま顔を覆う。
 「‥‥‥だが、もう限界だ。長蘇は助からぬ」
 そう言うと。
 「わたしがいるのに?」
 父はふん、と鼻を鳴らして言った。思わず、藺晨は跳ね起きる。
 「助ける方法があるのか?」
 薬湯を椀に注ぎながら笑みを浮かべた父に、噛みつくように藺晨は言う。
 「例の冰続草ではなかろうな。あれは無理だ、長蘇の道義とやらが邪魔をする」
 大体、冰続草のことを江左盟の連中に吹き込んだのはこの父であった。
 「そうではない」
 「ならば治す方法など‥‥‥」
 文献なら探し尽くしたのだ。ほかにどんな手立てがあるのか。
 「―――誰が治すと言った?」
 父は他人事のように言う。
 「長蘇どのを治してやることはわたしにも出来ぬ。なにしろ、お前が冰続丹などで長蘇どのの命を根こそぎ使い果たしてしまったゆえな」
 「しかたがなかったのだ、やつの願いを叶えてやるには」
 「わかっているとも。わたしがお前でも、そうしたであろうな」
 ならば。
 ならばどうしようというのか。 
 「今のままでは?」
と父。
 自分が長蘇に気を与えてどうにか生かしていることを、父は無論、見通しているのだ。
 「今のまま? しかし―――」
 こうして無様に伸びてしまっているではないか、自分は。この先が思いやられる。
 「お前の体さえもてば、問題なかろう?」
 「それは―――、そうだが」
 流石に年の功だ。
 確かに。自分の身体さえもてば、あとはどうにでもなるのだ。
 父が、この身体をもたせてくれるというなら。
 それでもう、充分だ。 
 「もっとも、―――長蘇どのがそれを喜ぶとは限るまいが」 
 そんなことは、わかっている。長蘇はそれを、よしとはすまい。だが。
 「たとえ長蘇がなんと言っても、生きてさえいてくれればよい」
 道義に反したことをするわけではない。長蘇に否やは言わせぬ。
 父は、少し目を伏せて、わらった。
 「そうだな。―――死んでしまってはどうにもならぬ」
 その顔は、ひどく疲れて見えた。 



   *

 

 「‥‥‥景琰」
 長蘇の血の気のない唇が、甘い吐息混じりにそう囁いた。
 よりにもよって。
 情を交わそうかというこの時に。
 うつぶせになった長蘇の背中に、藺晨は唇を這わせていた。薄い体の下へ手を挿し入れ、胸の突起をまさぐった時に、長蘇はその名を呼んだのだ。
 一瞬、頭に血が上る。尖った肩甲骨に、歯を立て、舌を強く押し付けながら吸い上げた。指先は、長蘇の胸の小さな飾りを強く摘み上げている。 
 「―――は‥‥‥ッあ‥‥‥」
 果敢ない声で、長蘇が啼いた。
 ぐい、と厚みのない腹を抱えて腰を高く上げさせる。
 今日と言う今日は。
 なんとしても思いを遂げる。
 大丈夫だ。長蘇には充分気を与えてある。一夜の情事に耐えられるくらいには。
 たとえ長蘇が思い人の名を呼んだとて、それがなんだというのだ。
 長蘇の腹の下へ、右手を滑らせる。すでにそこは怒張して、熱くなっている。いま、長蘇をこんな風にしているのは、ほかならぬ自分なのだ。
 痩せた堅い臀に口づける。氷のように、冷たい。右手が掴んでいるものの熱さと、臀の冷たさと。同じひとりの人間のものとは思えない。その落差が、否応なしに藺晨を昂ぶらせる。
 もうずっと、待っていた。
 この身体が、自分のもとへ返ってくるのを。
 二年もの間、離れて暮らした。再会してからも、長蘇の身体を思うと、無理強いはできなかった。
 第一―――。
 再会した長蘇は、身も心も他人の物になっていたのだ。それはそもそも、金陵へ送り出したあの日から、薄々わかってはいたことだったが。




 限界まで高まった熱をふたりながら放ち終えて、恍惚とした中、腕の中の長蘇を抱きしめた。
 「―――わたしは幸せだ」
 「藺晨?」
 長蘇がいぶかしげな声を出す。確かに、らしくない科白だと思う。しかし。
 「わたしは幸せだ‥‥‥。お前はこうして生きているのだからな」
 乱れた髪をかき分けてやり、長蘇の白い顔を見下ろす。痩せて蒼ざめた顔でも、確かに生きている。その顔を見つめているだけで、切なくなった。
 「父が、―――哀れだ」
 漏らすつもりのなかった言葉が、漏れる。
 「老閣主が?」
 不思議そうに、長蘇が尋ねた。その細い肩へ、藺晨は顔を埋める。父が、ほんとうに哀れだった。
 「‥‥‥呼び掛けても、二度とは答えぬ相手を想い続けている。―――共に年を取ることさえかなわぬ相手だ」
 ぴくり、と長蘇の肩が震える。
 「―――なんのことだ? ‥‥‥その相手とはもしや」
 藺晨は少し躊躇い、それから顔を伏せたまま、浅くうなづいた。

 
 父は昔から美丈夫であった。だが、久しぶりに会ったその顔は幾分痩せて、髪に白いものが目立っていた。
 今までどこでどうしていたのかと、尋ねる勇気のなかった藺晨である。
 自分に薬湯を差し出した父の腕に、きらりと光るものがあった。藺晨には、見覚えがあった。
 ―――赤焔軍の、腕輪。
 そこに掘りつけられた林燮の名を、藺晨は確かに見た。
 「爹、それは」
 この腕輪がここにあるということは。
 見つけていたのか、―――林主帥の骸を。
 ならばなぜ、その形見の品を長蘇に返してやらぬのか、そう言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
 それは父に持たせておいてやりたいと、そう思ったのだ。
 林燮への、父の想いを知るのは、自分だけである。
 「‥‥‥石楠どのの墓は?」
 かわりに、そう尋ねた。
 「墓? 墓などあるものか」
 父が、淡く微笑う。
 「ならば、骸をどうしたのです」
 「骸などと、無粋な呼び方をするでないよ」
 そう言って。
 父は、連れて行ってくれたのだ。
 ―――梅嶺へ。 


 「石楠どの!」
 それはまさしく、林燮の骸に違いなかった。
 梅嶺の、さらに少し北。標高も高い。夏でも雪の融けまいその白銀の地を、父は我が庭のごとくに歩いた。そうして辿り着いた窟屋の奥に、それはあった。
 その顔は無惨に焼けただれてはいたが、林燮だと判別がつかぬほどの損傷ではない。
 十四年の時を経て、驚くほど骸は損なわれていなかった。
 「見るがいい。わたしは十四年分歳を取ったが、石楠はあの頃のままだろう?」
 「爹」
 万年氷の柩の中で、林燮はこうして眠り続け、父はその骸に寄り添い続けてきたのだ。
 ―――哀れだった。

 「小晨」
 父は、氷の上を撫でてから藺晨を振り返った。
 「この腕輪を、長蘇どのに」
 そう言って、腕から赤焔軍の腕輪を外した。
 「わたしは石楠の骸に寄り添っていられる。長蘇どのの身体では、ここまで会いには来られまい。せめて、これを」
 形見の、品だ。父がそれでよいと言うのなら、やはりこれは長蘇に渡すべなのだろう。そう考えて、藺晨はそれを受け取ったのだ。


 その腕輪を、藺晨は今、布団の下からそっととり出した。梅長蘇に差し出す。
 「これは、父上の‥‥‥」
 「ああ‥‥‥」
 長蘇は、震えていた。
 今になって、父親を偲ぶよすがに出会えるなど、思いもしなかったのだろう。
 長蘇は、なぜ、とは訊かなかった。なにゆえ藺晨が己が父を哀れだと言い、なにゆえその父が林燮の腕輪を持っていたのか、長蘇は一切尋ねなかった。
 (おまえも、―――知っていたのだな)
 父が林燮に寄せる思いを。梅長蘇もまた、気づいていたのだ。
 腕輪を抱きしめて、声も立てずに泣く長蘇を、藺晨は胸に抱いた。 
 「わたしは幸せだ。こうして生きているお前を抱ける。―――たとえお前が、まぐあいのさなかにほかの男の名を呼ぶとしてもだ」
 そう言って少し笑うと、長蘇が泣き濡れた顔を上げる。
 「―――わたしは、景琰の名を呼んだのか」
 困惑したような、顔だった。
 「かまわん。今こうしてお前を抱いているのは、間違いなくわたしだからな」
 そう言ってくちづけると、長蘇は甘い息を漏らした。
 「息が、白いな」
 「‥‥‥当たり前だ。こう寒くては」
 長蘇が苦笑いする。
 「お前の息が、温かいからだ」
 生きているから。
 温かな息が、白く凍える。
 こんな冷たい体でも。確かに生きているのだと、その白い息が教えてくれた。
 



   *




 「薄すぎるな」
 仰臥したまま、藺晨はぼやいた。
 「ん?」
と、長蘇が聞き返す。
 「―――膝が」
 「ああ」
 長蘇の膝を枕に古い竹簡を眺めていた藺晨は、目を上げて長蘇の顔を見た。都にいた頃と違って、長蘇は髪を結い上げていない。細い顔を縁取り、はらりと肩にこぼれるその黒髪が、妙に艶めかしく見える。
 「‥‥‥もう少し肉をつけろ。寝心地が悪い」
 長蘇が眉を寄せた。
 「文句を言うなら、わたしの膝で寝るのはやめろ」
 藺晨の帯に挿していた扇子が、長蘇のほっそりした手にするりと抜き取られる。その扇子でぴしゃりと額をはたかれた。
 「やめんか。文句ではない。助言だ、医者としての」
 そう抗議したが。 
 「患者の膝で寝る医者がいるか」
 もう一度額をはたかれ、思わず竹簡を放り出して長蘇の細い手を掴んだ。
 「力で敵わんくせに、いい度胸だな」
 腕を伸ばして、長蘇の二の腕をぐいと掴み寄せる。引き寄せられて前のめりになった長蘇へ、藺晨は首をもたげて口づけた。
 存分に味わってから、腕を放してやる。長蘇はゆっくりと体を立て直した。ひどく、困った顔をしている。 
 「―――いつまで続けるのだ?」
 長蘇が言った。
 「なにが?」
 藺晨も身体を起こし、白々しくそう聞き返す。長蘇は目を逸らせた。
 「わたしをいつまで生かす?」
 「わたしが生きている限りずっとだ」
 当たり前ではないか、と思う。ずっと、共に生きるのだ。なぜ、そんな顔をするのか。
 「わたしのそばで生きるのが、そんなに嫌か?」
 わざとそう言うと、長蘇はますます困った顔をした。その顔が見たくて言ったのだから、藺晨としては至極満足である。
 「そういう問題ではない。お前の身を案じているのだ」
 「ほう、しおらしいな」
 可愛いことを言ってくれる。もう一度、唇を奪いたくなる。顔を近づけると、また扇子ではたかれた。
 「茶化すな。わたしの為にお前が命を削るなど、迷惑だ」
 拗ねたような顔が、ますます愛おしい。
 「わたしは医者だぞ?しかも神がかった天才だ。その上、丈夫に出来てもいる。お前にちょっとやそっとの気を与えたくらいで命をすり減らしたりするものか」
 父の処方してくれた薬は、効果覿面だった。あとは自分でも処方できる。長蘇を治してやることは無理だが、自分の命の続く限りは、長蘇を生かしてやれる。
 藺晨は長蘇の手から扇子をとりあげた。それで、優しくとんとんと長蘇の頭を叩く。
 「―――私の為に、生きろ」
 そう言うなり、長蘇の顎をとらえ、軽く唇をついばんだ。  
 目を閉じる暇もなかったらしい長蘇は、唇を離すときょとんとしたように目を瞬かせていた。
 「おまえが生きることに疲れたというなら、自分の為でなくわたしの為に生きろ」
 顎をつかんだ指に少し力をこめて、ぐいぐいと揺さぶる。
 長蘇は少し驚いたような顔で、じっと見つめ返してきた。
 「‥‥‥わたしが生きることが―――、お前の為なのか?」
 そう言われて、藺晨自身もすこし戸惑う。
 子供の頃から、自分はずっと長蘇のために生きてきたのだ。べつに見返りがほしいと思ったことは、ない。たとえ長蘇が自分以外の誰かを思おうと、それは関係なかった。自分が長蘇の為に生きても、長蘇に自分のために生きてほしいと思ったことなどなかったのだ。
 初めて。
 芽生えた思いである。
 いちど口にしてしまうと、その思いはあっという間に胸の内に広がった。   
 「お前の、為に―――」
 長蘇もまた、初めて思い至ったように、その言葉を反芻しているようだ。
 なぜもっと早く―――、と藺晨は思った。なぜもっと早く、求めなかったのか。
 与えるばかりで。それで満足していた。
 自分ではない相手―――、簫景琰を見ていた長蘇を、それでもいいと思っていた。簫景琰を想う長蘇を、まるごと愛おしんでいるのだと、自分に言い聞かせて。
 「わたしを、見ろ」
 自分でも可笑しいほど、気弱な声で藺晨はそう言った。
 ほんとうは昔から、そう言いたかったのではなかったか。
 自分だけを見てくれと。
 「藺晨?」
 「忘れろとは言わん。だが、これからは―――、わたしを見て、わたしの為に生きろ」
 軽口を叩くのは得意だが、こんなふうに真面目に思いを口にするのは、ひどく気力を必要とした。顔を見ていられず、藺晨は長蘇を胸に抱き込んだ。
 拒まれるのが、怖かったのだ。子供のころからずっと。
 林殊など、知らぬ。知っているのは梅長蘇だけだ。それゆえに、怖かった。梅長蘇の中の林殊。自分の知らぬその林殊を、簫景琰は知っている。はじめから勝てぬと、心のどこかで思っていたのだ。
 ちっぽけな自尊心のために、懐の大きい男を演じてきただけではなかったか。
 「―――あまり妬かせてくれるな」
 「‥‥‥藺晨」
 胸に顔を押し付けられた長蘇が、くぐもった声で名を呼ぶ。
 長蘇の答えが、応か否か、それを訊くのはやはり怖い。今はただ、己の想いを伝えられただけで大きな進歩だ。
 
 しばらく黙って抱かれていた長蘇が、ふと思い出したように自分の懐をごそごそ探った。
 「なにをしている? 色気のないやつだな」
 藺晨が顔をしかめて身体を離すと、長蘇は懐から腕輪を取り出した。
 「これは、―――老閣主に返してくれ」
 「―――いいのか?」
 長蘇がゆっくりと頷いた。
 「父の為に、老閣主は随分尽くしてくださった。これは老閣主に持っていていただくのが一番よい」
 「‥‥‥そうか。預かる」
 藺晨が腕輪を懐にしまうのを眺めながら、長蘇がぽつりと言う。
 「お前も―――、わたしの為に随分尽くしてくれたのだったな」
 正面切ってそんなことを言われると、どんな顔をしてよいやらわからぬ藺晨である。思わず眉を寄せて渋面を作る。
 「お前が与えてくれるものが、―――いつの間にか当たり前になっていた」
 「長蘇‥‥‥」
 「そばにお前がいて、何もかも与えてくれるのが、あまりにも当たり前すぎて」
 途方に暮れたような顔をする長蘇がいじらしい。
 「正直、よくわからぬのだ」
 本当に困っているのだと、知れた。
 「かまわん。とりあえずは、生きていてくれさえすればよい」
 浅く、長蘇はうなづいた。
 「‥‥‥これから、考える」
 そのうなだれたさまが、妙に子供じみていて、藺晨は長蘇の頭を撫でた。
 「ああ。ゆっくりでいい。二十年以上も待ったのだ。今更急いだとて始まらん」
 申し訳なさそうに、長蘇が上目づかいに眼差しを寄越す。ひどく艶めかしく、それでいて、どこかあどけなくもあるその眼―――。それにほだされて、藺晨は思わず目を逸らせた。
 「無論、―――少しは急いでくれていい」
 早口にそれだけ言うと。
 「お前―――、照れているのか」
 少し笑いを含んだ、長蘇の声。
 かっと、頬に血が上る。
 「う、うるさい!」
 ぷっ、と長蘇がふき出した。
 ほっそりした指で藺晨の腕をつかみながら、可笑しそうに長蘇は笑った。

 長蘇がこんなふうに笑うのを、―――久し振りに見た気がする。
 生きていてくれさえすれば。
 これからも、こうして笑った顔や怒った顔、拗ねたり、喜んだり、さまざまな顔を見ることができるのだ。

 生きていてくれ―――、と心から思う。
 それが果敢ない空蝉の身でも。
 肉親を失い、まことの名と姿を失い、最愛の友を失い、本来いるべき場所を失い―――、全てを失くした空っぽの蝉蜕であっても。
 その病みさらばえた虚ろな身体と心に、全てを注ぎ込んでやろうと思う。

 そして。
 できることならば。
 (わたしの為に、生きよ)
 そう思うのだ。

 「いつまで笑っている」
 「すまぬ。もう笑わぬ。笑わぬから‥‥‥」
 そう言いつつ、まだ長蘇は笑いをおさめきれずに俯いている。
 「飛流!」
と藺晨は呼ばわった。
 いつものように、ぶらん、と軒先から飛流がさかさまにぶら下がる。
 「蘇哥哥に薬を持ってこい。知っているだろう、一番苦いやつだ」
 「莫迦。飛流、うそだぞ。持ってこなくていい」
 慌てて長蘇が飛流を止める。どのみち今の長蘇には大して効かぬ薬だ。ならばわざわざ不味いものなど飲みたくはなかろうが。
 「いいから持ってこい。蘇哥哥は藺晨哥哥を虐める悪いやつだ。あの薬で懲らしめねばならん」
 「飛流は蘇哥哥の嫌がることはしないだろう? いいから蜜柑をおあがり」
 「こいつ、餌で釣るのは卑怯だぞ」
 「うるさい。飛流はお前よりわたしに懐いている」
 言い争うふたりを、ぶら下がったまま半ばうんざりした様子で聞いていた飛流が、大きなため息をついて頭をひっこめた。
 「おい! 飛流!」
 立って行って屋根の上を見上げたが、もうすでに飛流の姿はない。
 「近ごろ少しはわたしに懐いたかと思っていたのに、あてにならんやつだ」
 腕組みする藺晨の後ろで、また笑い声がした。

 藺晨は空を見上げたまま少しため息をつき、それでも顔をほころばせずにいられない。
 こうして長蘇の笑い声を聞きながら、この先もずっと共に暮らしていくのだ。

 長蘇と飛流と、自分と。

 風はまだ冷たくとも、春はもうそこまで来ていた―――。
 
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~ Comment ~

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藺晨にやっと、やっと、ご褒美がきたーーーっ!!!!
遥華さん、有難うございます~。
藺晨の幸せ、誰も書いてくれなかったら、どうしようかと思ってました。

藺晨は、子供のころから神童と呼ばれて、同世代の子供なんて眼中になかったでしょうし、下手したら、周りの大人たちのことも小馬鹿にしていたかも。
そんな彼が、初めて他人に興味を持ったのが、白いフサフサ(笑)
そりゃもう初恋ですもんね、長いこと思い続けるのは、靖王とどっこいどっこいでしょう。

照れる藺晨も、すごくいいです。
いつも周りを馬鹿にしていた分、自分の正直な気持ちを、相手に素直に伝えるのが、とても苦手なんでしょうね。
素直に言えないから、普段は軽口や減らず口ばかりなんだろうなあ。
あれ、結局、藺晨もツンデレなんですね。

藺パパも素敵~。
生涯、たったひとりの相手を思い続けるのが、琅琊榜の醍醐味!(…なんか違う?)

自分も何か書きたくなってきました。
いや、ストレスたまった今の私だと、妄想爆走の上に変態さんになりそうで怖い(笑)
お願いですから、あんまり妄想のタネをまかないで…でもそれだと欲求不満になりそうだし、うーん悩むなあ。

毎晩、心の栄養を有難うございます。
また明日も頑張ります。

>>Rintzuさん

わたくしの本分は藺蘇ですからして(笑)。
ただ、藺蘇を書こうとすると、どうしても第1話以前か54話以降になっちゃうので、
本編からすると外伝的になっちゃうというか・・・・
つい本編から離れて暴走しちゃいそうで、
そうなると本編の匂いをなくしてしまいそうなのが不安なところですw

藺パパ、姿が出てこなかった分、色々妄想してしまいます。
ネット上で見かける二次創作マンガの藺パパは
藺晨と同じような姿をしてらっしゃることが多いように思うので
(日本のものでなかったりするからビジュアルをチラ見する程度で
どういう設定で書いてらっしゃるとか全然わかってないのですが・・・・)
わたしの中での藺パパもビジュアルは藺晨をそのまま老けさせた感じで、
黄薬師風味・・・・・・(笑)

Rintzuさんもぜひ何かお書きなさいませー♡
pixivだと使い勝手もよろしいですよーー(そそのかす悪魔の声w)。
妄想は吐き出しませんとね(笑)。


今日も読み返してます

遥華さん、お返事有難うございます!

宗主を死なせたくないファンの頭の中では、きっと、外伝としてこんな風に続いているのだろうと思います。
うわあ、藺晨と宗主が幸せだと、私も幸せ~~~。

ちょっと気が付いたのですが、靖王といる時の宗主と、藺晨といる時の宗主を比べてみると。
靖王といる時は、「林殊」でありたいはずなのに、すごく「梅長蘇」の要素が大きい(正体を隠している分、そうせざるを得ないのでしょうが)。
藺晨といる時は、「梅長蘇」であるはずなのに、すごく「林殊」っぽい(ワガママで子供っぽかったり、笑ったり怒ったり忙しいですよね)。
その人のまえで、そうありたい人格が、入れ替わってますよね?
宗主が本心から「林殊」に戻りたいのであれば、藺晨のそばにいる方が、本当は幸せなのです。
きっと、ええ、きっと(ただの藺蘇オシ)。

華ものって、「自分の本当の気持ちを押し殺してしまう」設定が多くて、「ジャクギ」とか、「風中奇縁」もそうでしたが。
考えてみれば、「琅琊榜」もそうですね。
宗主も、靖王も、藺晨も、群主も、相手を想いすぎるがゆえに、諦めてしまっていて。
相手に素直に気持ちをぶつけてれば、こんなややこしいことにならずに、幸せになれるのに~、と、時々地団太踏んでました。
あ、でもそれだとドラマにならない、終わっちゃう(笑)

「器の大きい男だとカッコつけてただけ」と気づいた藺晨が、とても素敵です。
藺晨、相手に告白するのは、とっても勇気のいることなんだよ~。
宗主、一番大切なものは、案外、自分の身近にあるものなのよ~。
二人とも、やっと分かってくれて、お母さん嬉しい(泣)。

遥華さん、実は。
先日、ツイを眺めていて(注:私はツイッターやっていません)、とある方の琅琊榜妄想ネタにハマってしまい、頭の中に2つほど話ができてしまいました。
鬼畜にも、宗主をイジメる(または泣かせる)話で、R18どころではなく、とても公表できないレベル。
琅琊榜ファンには、BLをお好きではない方も多いようですので、書くかどうか迷っています。

藺パパって、どんな感じなんでしょう?
カイシカさんの翻訳、是非読んでみたいです。
あと、漢詩について、もう少し知っていれば、もっと華ドラマが楽しめるのになあ、と思っています。

>>Rintzuさん

そうなんですそうなんです!!
靖王の前では梅長蘇の仮面をかぶり、藺晨の前では林殊の本音がこぼれてしまう。
この矛盾が宗主を圧迫してもいるし、それがまた宗主の魅力でもある。

そうそう、中国ドラマ見てて、イラッとすることありますよね(笑)。
そこ!! 素直に一言言っておけば、あとあと誤解も招かず、
気持ちもすれ違わず、何の問題もないはずなのに、
なんでそこでたった一言をのみ込んじゃうの!? って場面だらけですよねw
それがあるからドラマがハラハラドキドキイライラムズムズ面白いんですけど・・・・。
わたし、日本人以外は、そういう「忍んで気持ちを飲み込む」感覚はないと勝手に思っていて
だから中国ドラマを見始めたときにびっくりしたものです。

宗主を虐める話!!
読みたい読みたい(笑)。
そう、琅琊榜ファンには真面目に歴史や世界観を愛している方たちも多いので
(いや、わたしだってもちろんそうですが、それにプラスして腐っているだけなのです)
わたしも初めはおっかなびっくり及び腰で、なるべく腐発言はすまいと心がけたり
腐用に別アカ作ったり、まあ色々苦心はしてみたのですが、
この溢れ出る腐魂をいかんともしがたくて、最近は垂れ流し状態です。
一部のかたたちには嫌われるだろうなと思いつつ、
でも、わたしだって「腐」だけではないんだよと、
複雑なところです・・・・。
アカを分けても、同じテーマで話していて完全に人格を分けることが難しいし
琅琊榜ツアーとかにも行っちゃってるから面も割れているしで
結構な疚しいところです(笑)

藺パパ、どんなかたでしょうねえ。
原作の設定、色々すごく知りたいですけど、
知ってしまうことでこれまで書いた妄想小説が根底から揺らぐのではとビビっていますw
もしそうだとしたら、原作を知っておられるかたたちは、
わたしの妄想小説を鼻で笑っておいででしょうwww

漢詩、本当に基礎だけでもあればと。
高校あたりで少しは教えてくれればよかったのにと思います。
カイシカさんはご自分で漢詩をおつくりになる才女ですが、
わたしは今、古琴のレッスンで習っている曲の歌詞すら理解できません(T_T)
情けなし。

今夜もお邪魔してます

遥華さん、今夜も「宗主監禁ネタ」で、ツイが盛り上がってるようですね(笑)
おかげで、妄想が刺激されまくるので、ほんともう勘弁してください(爆)
PCの前で、琅琊榜愛にあふれたツイを見ていると、一人でニヤけている、ただの変な人になってしまいます~。

うう、妄想は出産しちゃった方がいいでしょうか?
双子なんですけど…嫉妬にかられて宗主を監禁しちゃった靖王、嫉妬にかられて宗主を力技で抑え込んだ藺晨、の二人組なのですが。
またの名を、「宗主を泣かせてみた靖王篇・藺晨編」…うわあ、私、腐ってるわ~(号泣)

遥華さんの悪魔のささやきに負けそうです。
ピクシブって、そもそもこのPCで使えるんだろうか…。

ドラマ版でも小説版でもいいのですが、琅琊榜の設定ムック本とか、出版されないでしょうか?
設定基礎があれば、もう少し二次創作が楽になりそうなのですが。
そしたら藺パパも…。

私が知っている中国の方たちは、割と率直な人が多かったので、「一言を飲み込む」タイプには会ったことがありません(笑)
在日年数が長い人たちは、感覚的にはほぼ日本人に近くなっているようですが(たまに本土に帰ると、「もうやだ、マナー悪い、中国人恥ずかしい」とか言ってます)。

カイシカさん・花岡さん・葛さん・ぽんさんあたりに、中国に関するワークショップ(テーマ何でも可)でも開いていただきたいところです。
もっと勉強しとけば良かったなあ、とこの年になって思うことしきり。
オリンピック前に、英語と北京語(もはや自己紹介ぐらいしかできない)再チャレンジしようかな、と思っています。

>>Rintzuさん

あらあら、出産しちゃうましょう。
pixivきっとPCさえあればどなたでも簡単に登録できるはずw

Rintzuさんは折角英語も中国語もおできになるのであれば
その分、わたしなんかよりうんと世界が広がるのですから、
色々楽しんでいただきたいです(^^)。
わたしは英語も中国語もできない、中国に興味ゼロの状態だったまま
これだけ遊ばせてもらってるんですから・・・・www
今頃慌てて、中国語や古琴を習いに行っても一向に追いつきやしません(笑)
まあ、それでも何もしないよりマシかと思ってやってる程度でしてw

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