琅琊榜

情人3 (『琅琊榜』 #49)

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第三弾は、濡れ場なしです。困ったことにまだ続きます。

 養居殿へと参内すると、父皇の御前に梅長蘇のすらりとした姿が立っていた。
 少なくとも、まだ無事でいてくれたことにほっとする。
 梅長蘇が恭しく拱手する脇を通り抜け、まっすぐ父皇の正面に進み出た。
 「儿臣参見、父皇」
 型どおりに叩頭する。
 物々しい御林軍に守られた威圧的なこの場所から、一刻も早く梅長蘇を無事に連れ帰らねばと、固く心に決めて参内したのだ。
 が、父にしばらく待つよう言われ、景琰はさりげなく梅長蘇と視線を交わす。
 凛としたその梅長蘇の様子には、先日の情交を思わせるものはない。褥の中で見せるしどけない表情や心細げな風情は一切見えなかった。だが、少し前まであれほど不快だった、冷静沈着でむしろ余裕さえ感じられる謀士の佇まいを、景琰は今、ひどく好ましいと感じる。美しいのだ。一国の皇帝を前にして、物怖じせぬ不敵な態度が頼もしい。
 まるで武人が甲冑に身を包むがごとく、梅長蘇は完全に臨戦態勢に入っているように見えた。
 音に聞こえた麒麟の才子が覚悟を決めて臨む以上、父皇とて恐るるには足りぬ。
 そう思いはするが。
 (身体は、大事なかろうか)
 こうして立たせているだけでも、不憫でならなかった。
 つい不安がよぎって、浮足立つ。父に話を促そうとして、急くなと戒められた。今一人、誰ぞを招いているというのだ。
 景琰がいぶかる中、呼び寄せられたのは他でもない、逃亡中であるはずの罪人・夏江その人であった。

 なにゆえ重罪を犯した者が、このような場に召し出されるのか。
 景琰は驚いたが、梅長蘇は既に予見していたのか、達観した表情だ。
 ひどく―――、胸騒ぎがした。
 夏江は囚われたのではなく、自ら何かを訴え出たのであるらしかった。父はなにを今更、この悪人のいうことに耳を傾けようというのかと景琰は呆れたが、
 「将に死なんとする者の言は善し」
父皇は刑を前にした夏江の言葉を、どうやら聞き入れようというつもりのようだ。  
 夏江は神妙なふうを装って自分の罪を認めたうえで、しかし自分よりもさらに重い罪を負う者がいると、切に訴え始めた。
 そして。
 その者が誰かと問われた刹那。
 まるで大蛇が鎌首をもたげるかのごとく。夏江は一撃必殺の拳さながらに、その指を梅長蘇に向けたのだ。

 この者こそが、―――その昔、皇長子と結託した赤焔軍の生き残り―――、林燮の息子で、赤羽営を率いた林殊であると。

 耳を、疑った。
 事もあろうに、梅長蘇が林殊だなどと。

 確かに。
 夏江は以前にもそんなことを言っていた。埒もない戯言と、あの時は皆、一笑に付して取り合わなかったのだ。
 それを今更。
 この莫迦げた妄想を性懲りもなく蒸し返した夏江も夏江だが、こんな罪人の言葉に耳を貸す父皇もどうかしている。
 呆れてものが言えぬ。―――そう笑い飛ばすべき話であるはずだった。
 ―――だが。

 不思議なほど、夏江の言葉は景琰の胸を貫いたのだ。
 頭の中は瞬時にして白一色になり果て、景琰は表情を取り繕うことさえ出来なかった。

 夏江は高揚し、父皇は疑念を全身に溢れさせ、そして自分までもが衝撃のあまり己を御することもできぬ今、当の梅長蘇だけが落ち着き払っていた。
 その姿に、景琰は胸の動悸を必死に鎮めようとする。 
 どう思う、と父に問われて、懸命に平静を装おうとした。
 「どうもこうも、父上こそ林殊をよくご存じのはず」
 そう言い返したが。
 父は、妙なことを言い出したのだ。
 「―――火寒の毒を、知っているか?」
と。
 ―――それは、何だ‥‥‥?
 聞き慣れぬ、名。
 父は事もなげに言う。
 「火毒に焦がされ、寒毒が蝕む。梅嶺にいる雪蚧虫により、容貌は全く変わり、肉親でさえ見分けがつかぬ」
 何なのだ、―――それは?
 思わず、梅長蘇を見た。
 この男が、そうだというのか?
 (まさか景琰、おまえまで夏江に誑かされるのか?)
 そう自問した。
 だが。
 夏江の言葉に惑わされたわけではない。
 そうではなくて。
 ずっと。
 幾度も幾度も、疑いはしなかっただろうか。
 夏江などより、もっとずっと。
 自分こそが誰よりも疑っていたのではなかったか。

 それでも。
 「―――そんな滑稽な話を信じるので?」
 精一杯、己を励ました。
 「‥‥‥儿臣不信」

 今はただ。
 梅長蘇を養居殿から無事に救い出すことが先決だ。
 そのために来たのだ。
 しかし。

 夏江の言葉には、果たして裏付けがあるのか? それゆえ、父皇もその言を取り上げるのか?
 ならばそれを、この耳で確かめずともよいのか? と、再び景琰は自分自身に問うた。

 ひどく、息苦しかった。
 己の心ひとつが定まらぬ。
 この腕に抱いて慈しんだ男を、ただ守りたいだけだというのに。その男にはもうひとつの顔があり、それがよりにもよって―――。

 続けさまに突き付けられたことどもに、既に景琰の頭はついてゆけぬ。
 景琰の心は、決してこうした情報を処理することに長けてはいない。生真面目すぎるのだと、人からも言われ、自分でも思う。生真面目で、融通がきかない。頭で得た情報や知識を、心で嚙み分けて自分のものとするのに、ひどく時間がかかるのだ。戦場でこそ、そうした心の動きの一切を省いて、迅速に対処すべきことを実務的にこなすすべを身に着けたが、今は動くことで対処できる局面ではない。頭と心で、事態を正確に把握せねばならぬ。景琰の心はすでに、いっぱいいっぱいなのだ。

 頭の中が坩堝のようだと思った。全てが溶かされ、熱く滾って、ぐるぐると渦巻いて形さえ定かでない。
 大切なものがその中にあるはずだと思うのに、煮えたぎったそこから何かを拾い上げることさえ叶わぬのだ。

 「そちは本当に何も知らなかったのか?」
 そう問われて、身体が震えた。




   * * *




 可哀想に。

 景琰の大きな瞳からは、今にも涙が溢れ出さんばかりだった。
 景琰はすっかり狼狽えている。
 無理もなかった。
 こんな場面で、何の前触れもなく、この真実をつきつけられては。
 
 養居殿へ召し出され、物々しい警護の中で腕や首筋の痣を確かめられたとき、いよいよ正念場であると悟った。
 たとえ夏江と正面から対峙して舌戦に勝ち、皇帝を言いくるめることが出来たとしても、もう景琰を欺き通すことは難しい。できることなら、景琰にはこの場に立ち会ってほしくはなかった。
 にも拘わらずである。先刻、参内してきた景琰の姿を目にした瞬間、嬉しさのあまり頬が緩みそうになったのだ。
 何も怖くはないと思った。
 こうして景琰が傍にいてくれる。
 それだけで気力を奮い起こすことができる。―――戦えると思った。
 騙し通しててきた自分を、たとえ景琰が許さぬとしても。
 
 景琰は恐らく自分を救い出そうと思って来てくれたに違いなかった。皇帝の御前へ進み出たときの張りつめた表情が、まさにそれを物語っていた。その思いだけで、全てが報われる気がする。
 しかし今、景琰は夏江の告発を聞いた衝撃で恐慌を来たしてしまっている。ならば。
 (わたしがしっかりするしかない)
 なんとしても、この場を切り抜けねばならぬ。最悪、この梅長蘇がいかな罪に問われることになっても、景琰だけは無疵の皇太子として守り抜かねばならない。
 そう思うと、不思議に心が定まった。
 身体はすでに悲鳴を上げかけていたが、頭は冴えた。 
 守るべき者がいる―――、それほど心強いことはないのだと、改めて気づいた。


 

   * * *




 夏江の言い分はこうだ。景琰が知らぬはずはなかったと。梅長蘇が林殊であればこそ、二年前、取るに足らぬ身の上であった靖王を補佐したのであり、靖王もまた、それを受け入れたのだと。
 麒麟の才子が入京してから、都の情勢がどれほど変化したか、夏江は父皇に向かって得々と説いている。
 権勢を二分していた前太子と誉王の末路がどうであったか、そしてそれとは逆に、それまで冷遇されてきた靖王が、いかに日の出の勢いとなったかを。
 それに耳を傾ける父皇に、しかしながら梅長蘇は淡々と説き始めたのだ。
 失脚した前太子の罪も、謀反を起こして自決して果てた誉王も、自ら罪を犯し、悲惨な末路を辿ったこと、そして誉王謀反の折りに、九安山で命がけの働きをし、全てを終えたあと、その気になれば我が物にできた兵符を、いささかのためらいもなく皇帝に返した皇子が誰であったのか。それを梅長蘇は、改めて父皇に諭した。
 淡々としていた梅長蘇の声音は次第に高くなり、口調も熱を帯びてくる。何が真実で、人として皇族として、何が大切か、梅長蘇は熱く語った。
 その真摯な声を聞くうちに、景琰はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
 梅長蘇は、この簫景琰を守ろうとしてくれているのだ。
 簫景琰が、国を思い、民を思い、父を思う心は真実のものであると。太子となったことは決して麒麟の才子の企てによるものなどではなく、そうなるべくしてなったのだと、父皇に納得させるために、梅長蘇は気力を振り絞って説いている。
 梅長蘇の病状がよくないことは、景琰自身がよくわかっていた。本当はここにこうして立っているだけでもつらかろうにと思うのだ。それにも拘わらず、全身全霊をかけて、この簫景琰を守ろうとしている姿に心を打たれた。
 自分こそが梅長蘇を守るつもりで参内したことを、景琰はようやく思い出していた。

 夏江は盛んに吠えたてる。梅長蘇が林殊であることを。なぜなら、梅長蘇もまた、かつて火寒の毒に侵された痕跡―――、熱と寒気による脈の異常があるはずだなのだと。

 そこまで聞くに及んで、ようやく景琰は飲み込んだ。

 夢物語では、ないのだ。

 生きているはずのなかった林殊。
 林殊であるはずのなかった梅長蘇。

 幾度も幾度も疑い、しかしありえぬと自ら否定してきた。

 だがそれは、決してありえぬことではないのだと、今ようやく知った。
 ならば―――。

 (―――小殊)
 目の前にいるこの男が林殊であっても、もはや何の不思議もありはしないのだ。

 景琰がそう思い至ったときである。
 執拗に林殊であることを暴き立てようと躍起となっている夏江に対し、梅長蘇が不意に態度を変えた。
 「好吧」
 自分が林殊であることを認める―――、そう言い出したのである。
 景琰も驚いたが、夏江も父皇もぎょっとしたように目を瞠った。 

 梅長蘇はすっかり居直っていた。
 自分がまことに林殊であるかどうか、その真実がどうであれ、こうして暴き立てることで夏江は命拾いし、皇帝は安心を得る。ただ、それだけのことであると。
 そのふてぶてしさといったら、むしろ聞いていて惚れ惚れするほどだった。閨の内でのしおらしさとは似ても似つかぬ。
 (やはり、小殊か?)
 確信せぬわけにゆかぬ。
 この、人を食ったような物言い。曲がったことを嫌い、己が正しいと思う道を通す為ならば、誰にも膝を屈することのない、揺るぎない魂。
 間違いなく、わが友・林殊だ、と。
 そう確信した。
 ―――と同時に。
 褥の中でこの腕に抱いた男―――。
 かつて誰よりも守りたかった友と、いま誰よりも守りたい情人。
 (おまえだったのだな、小殊―――)

 息子を信じ切れず夏江の言に耳を貸す皇帝を、梅長蘇は責めた。その言葉に、父皇はさすがに眉をひそめる。自分は皇太子を疑ってはおらぬと。
 「では今日―――」
 景琰はようやく口を開いた。
 「私たちを参内させた目的は何です?」
 もう、梅長蘇ひとりに戦わせておくわけにはいかなかった。
 夏江がしようとしているのは、疑いを植え付けることだと、景琰は父に説いた。 
 梅長蘇もまた、その言葉を引き継ぐ。ふたり、言葉を重ね合うようにして父を諭した。
 それはまるで、戦場で共に剣をとって戦うのにも似ていた。互いの背中を預け合える友がいれば、恐れるものなど何もない。
 もはや、夏江など敵ではなかった。

 景琰と梅長蘇の言い分を是とせぬわけにゆかなくなった父皇は、ついに癇癪を起し、夏江に見切りをつけた。
 勝敗は―――、ついたのだ。

 ―――が。 
 うなだれたかに見えた夏江が、突然、獣のように跳ね起きたのだ。
 窮鼠猫を噛む、のたとえの通り、追い詰められた夏江の反撃は常軌を逸していた。
 もとより夏江は高い武芸を身につけてはいる。だが、追い詰められた今、常にも勝る力を、夏江は奮い起こしていた。その跳躍のすさまじさに景琰は目を瞠った。
 ―――間に合わぬ。
 距離がありすぎた。 
 胸が、鷲掴みにされる思いだった。その胸の内で、「小殊」と呼んだのか、「蘇先生」と叫んだのか、もう自分でもわからなかった。ただ、目の前の愛しい男の危機に、息が止まりそうになったのだ。
 身動きの取れなかった景琰に代わって、御林軍の働きは目覚ましかった。
 御林軍はあっという間に梅長蘇の盾となった。その盾の内へ、梅長蘇はするりと姿を隠す。御林軍も、梅長蘇も、そのあまりに滑らかな動きは戦場に慣れた軍を思わせた。瞬時に、心配は要らぬのだと景琰は理解した。夏江の毒牙が、梅長蘇に届くことはもう決してない。
 見る間に夏江の身体は御林軍の放つ鎖に搦めとられ、縛められた。
 ―――景琰は、ようやくほっと安堵の息をついた。

 「疑わしきは殺すべし!」
 怖ろしい呪いの言葉を吐きながら、夏江は御林軍に連れ去られていった。




   * * *




 自分を捕らえるはずであった御林軍に守られて、夏江の凶刃から辛くも逃れた。
 夏江が御林軍に運ばれてゆくのを見送りながら、梅長蘇はようやく息をついた。足元が少しふらついたが、まだ倒れるわけにはいかない。
 ふと―――。
 皇帝が高湛に何やら耳打ちするのが眼に入った。
 悲しいことに。
 梅長蘇はその意味を、瞬時に理解したのだ。
 夏江が言い残した言葉。
 ―――『疑わしきは殺すべし』
 その呪いの言葉は、皇帝の心に楔のように打ち込まれたに違いなかった。
 あの疑い深い叔父が、このまま自分を帰すはずがなかった。

 皇帝は不意にいそいそと、景琰に静貴妃への挨拶などを促し始めた。明らかに、景琰をここから追い払いたいのだ。
 景琰は固辞し、自分を送ってゆくと主張している。無論、皇帝がそれを許すはずもない。

 酒杯が、運ばれてきた。
 「こちらを、蘇先生に」
 高湛がそう言って盃の一方を示す。
 皇帝が忌々し気に高湛を見た。
 その盃は、毒酒で満たされているのだろう。高湛の今の一言は、充分それを匂わせた。
 案の定、景琰が皇帝に噛みつく。
 しかし、皇帝はもはや動じなかった。
 これが最善の道であると、渠は信じているのだ。
 悪臣の付け入る隙さえなくば、父と子のきずなは守れる。景琰が誰に陥れられることもなければ、皇帝と皇太子の間にわだかまりが生じることもないのだと、哀れにも疑い深い皇帝は本気でそう信じているのである。
 かつて、その才を愛で、期待をかけた祁王との間に、いつしか芽生えたあの思いを、いままた景琰との間で繰り返したくはないと、皇帝とて思っているのだ。
 『疑わしきは殺すべし』
 それだけが、息子との確執を避けてくれると信じて。
 「わたしが死ねば、憂いを断てます」
 そう言って微笑むと、そばで景琰が息を呑むのがわかったが。
 皇帝が自分の盃を手に取る。ならば自分も、盃を受けねばなるまい。
 ほんの一瞬、どう切り抜けたものかと梅長蘇は思案しかけた。
 ―――しかし、それを考えるには、梅長蘇はすでにあまりにも疲労困憊していた。
 (もういい‥‥‥)
 そう思った。
 少なくとも、景琰は守れたのだ。
 皇帝がこの自分にどうしても消えてほしいというならば、それはそれでしかたがない。自分が消えることで、景琰を守り切れるなら、それでもよいと思う。
 梅長蘇は、酒杯を乗せた盆に近づいた。
 疲れ果てていたのだ。
 一杯の酒で喉を潤して、それで景琰を守って死んでゆけるなら、それは本望というものだろう。
 景琰は、その腕に抱き起してくれるだろうか。
 景琰の腕で果てることができたら、それはきっと、何にも勝る喜びではなかろうか。
 それとも、欺き通したこの自分の最期を、景琰は冷たく見守るだけだろうか。もしそうであっても、しかたがないのだ。ただ、赤焔軍の雪辱と次の御代の治世だけを、しかと引き受けてもらえれば、それでもう思い残すことなどなかった。

 それでも‥‥‥、とふと思う。
 ―――さっきは、心地よかった。
 ふたり、心を合わせて言葉を紡いだ。
 景琰の言葉を自分が引き継ぎ、それへまた景琰が言葉を重ね、更に自分が言葉を添える。まさに琴瑟相和すかのごとき心地がした。
 景琰の熱い腕に、抱きしめられるのと同じくらい、ぞくぞくしたのだ。

 だが。
 この自分が林殊であると、すでに景琰は確信しただろう。
 偽り続けてきたこの自分を、景琰は許しはすまい。

 ―――あれほど、慈しんでくれたものを。

 梅長蘇が盃を掴んだその刹那、である。
 不意に、肩を掴まれた。
 はっ、とする。
 景琰が、自分を引き留めたのだ。
 
 景琰の右手が、自分の手から、盃をとりあげる。
 (わたしを死なせまいと、‥‥‥思ってくれるのか)
 嬉しさとともに、不安が広がる。景琰の気性ならば、父親への抗議のために、毒酒を呷って見せるくらいのことはやりかねない。それが怖ろしかった。  
 いざとなれば、盃を奪って自分が飲み干そうと、梅長蘇は腹を括った。自分が飲まねば、皇帝は納得せぬだろう。
 「今日のことは、わたしと夏江の因縁であり、先生は無関係です。不安ならば、わたしを罰してください」
 盃を手にしたまま、景琰は皇帝にそう言った。
 梅長蘇は、思わず景琰の横顔を見た。
 景琰の気迫が、本気で自分を守ろうとしてくれている真心が、弥が上にも伝わってきた。
 「一介のの民のために!?」
 皇帝は信じられぬといった面持ちで問い返した。
 「どうする気だ?」
 「これがわたしです。犠牲は望みません」
 今にも景琰が毒を呷るかと、梅長蘇のみならず、皇帝もまた景琰の手元を凝視している。
 景琰の手首が動きかけた途端、思わず梅長蘇は一歩詰め寄り、皇帝は「よせ」と声を上げた。

 が―――。

 父親を睨みつけたまま、景琰の手は、その場で盃を傾けていた―――。
 とろり―――、と盃から毒酒が床へと零れ落ちた―――。

 こと、と景琰が盃を盆に返す。
 それと同時に、梅長蘇は膝から力が抜けるのを感じた。




   * * *



 傾いだ細い身体を、咄嗟に抱きとめる。
 「‥‥‥殿下‥‥‥」
 もう、とうに体力と気力の限界を超えているのであろう。蒼ざめた顔は、今にも気を失いそうだ。思わず、このまま強く抱きしめてやりたくなる。だが。
 景琰は梅長蘇の身体から手を離すと、皇帝に一礼して踵を返した。
 今はこれ以上、父に疑いを与えてはならない。
 危機はすでに去ったのだ。
 まずはこれで上首尾とせねばならぬ。
 今はとにかく、何食わぬ顔で御前を辞するのだ。
 無事にこの、養居殿を出る―――。それが何よりも、大切なことである。
 ゆっくりと、扉に向かって歩いた。
 梅長蘇が、あとに従う気配を背中で感じながら。

 疲れ果てた梅長蘇には、これだけの距離を歩くのもさぞ骨が折れよう。振り返って肩を抱いてやりたい。抱き上げてそのまま馬に乗せてさらってゆきたい。
 だが今は、それはならぬのだ。
 そしてまた、そうするにはあまりにも、景琰自身の心も揺れていた。
 (蘇先生が、小殊―――)
 その事実が、一足ごとに確かなものになってくる。
 心の中の坩堝で煮えたぎっていたものが、少しずつ冷えて固まり、形を成し始める。

 幼き日より睦んだ従弟。
 共に勉学に励み、武芸を磨き、夢を語った無二の友。
 ある日、突然目の前に現れた胡乱な謀士。 
 賢く、冷徹な、麒麟の才子。
 そして、この腕の中であえかな吐息を漏らした情人。
 
 すべてが溶けあい、ひとつになった。

 ようやく。
 養居殿の扉を出た。
 陽の光が、眩しい。
 蒙摯が、駆け寄ってくる。
 自分に続いて扉を出てきた梅長蘇を、蒙摯は気づかわしそうに支えた。
 そうか―――、と思う。
 蒙摯も、知っていたのだ。
 恐らくは霓凰も。
 あらゆることが、腑に落ちた。
 
 ―――泣きたいような気分になる。

 やりきれなかった。


 蒙摯に支えられて去っていく細い背中に、景琰はついに、かける言葉を持たなかった。







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