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情人2 (『琅琊榜』 #49)

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『情人』の第二弾です。

 梅長蘇が父皇の御前に召し出されたという。
 ただの茶飲み相手として召し出したのでないことくらい、明らかだった。でなければ、高湛や母が火急のことと知らせて寄越すはずもない。よほどの大事であるに違いなかった。
 (蘇先生―――)
 何としても、救わねばならぬ。
 父には既に最愛の友を奪われた。この上、梅長蘇まで喪うなど、耐えられようはずもない。
 わずか数日前、この腕に抱いた美しい謀士を、必ず救い出すと景琰は固く心に決めた。



   * * * * *



 (珍しいこともあるものだ)
 蒙摯が迎えに寄越した馬車に揺られながら、梅長蘇はぼんやり思った。
 蒙摯は日頃、軽功に物を言わせて始終蘇宅に出入りしているのだ。今さらわざわざ屋敷に招くとは、どういうわけだろう。
 (まあよい、行けばわかる)
 梅長蘇は考えるのをやめて、ぐったりと深く掛け直した。
 近頃、ひどく疲れやすい。
 毎日のように発作に見舞われ、その度になけなしの体力は奪われて行く。藺晨が幾度も己の気を注ぎ入れてくれるが、それすらもその場しのぎに過ぎぬありさまだ。
 それゆえ甄平などは、こうして出掛けるのを止めようと躍起になっていたが、黎綱はさすがに幾分ものわかりがよかった。蒙大統領のお宅ならば、と少しため息をついたばかりだった。
 「これは蘇先生!」
 大股に迎えに出てきた蒙摯に、型通りの挨拶を返す。
 「さあ、中へ中へ!」
 蒙摯が背中を抱くようにして、屋敷の中へ招き入れてくれた。
 「大哥、なにか火急の用でも」
 周囲の耳を憚って小声でそう問うと、
 「いや?」
太い眉の下、人のよさげな目をぐりぐりさせて、蒙摯は笑顔を返してくる。
 「急ぎの用ならばわざわざ呼びつけたりするものか。わたしが飛ぶほうが遥かに速かろう?」
 「‥‥‥それはそうだが」
 釈然とせず、梅長蘇はわずかに眉を寄せた。が、蒙摯はまるで気に止めぬ様子だ。
 「たまには共に食事でもと思ったまでのこと。さあ、こっちだ」
 奥まった部屋へと通されて、そこで初めて合点がいった。
 「殿下」
 既に座について酒杯を傾けている景琰の姿を、そこに見つけたのだ。

 「蘇先生。一別以来である」
 座したまま、景琰はこちらを見上げて軽く拱手した。慌てて梅長蘇も礼を返す。
 「まあまあ。挨拶はそれくらいにして、今日はお二人の日頃の労をお慰めするべく、ささやかながら膳をご用意した次第。ごゆっくり召し上がっていただきたい」
 そう言って、蒙摯から景琰の向かいの席を勧められ、梅長蘇は少しばかり居心地悪い思いで座した。
 目の前の景琰が気になって、食事の味などろくにわからなかった。蒙摯が座を盛り上げようとあれこれ話題を振ってきたが、景琰も梅長蘇も、なんとなく当たり障りのない返事に終始し、やがて膳は引き上げられた。
 俄にそわそわし始めた蒙摯が、所用を思い出したなどと見え透いたことを言って部屋を出ていくに及んで、梅長蘇はいやでも緊張を強いられた。
 不意に景琰が立ち上がる。
 「ついてこられよ」
 勝手知ったふうに、景琰は回廊を巡り、離れへと向かった。それは丁度、謝邸で身を寄せていた雪蘆にも似た造りであったが、それに比べると質素で武骨な佇まいが、蒙摯の人柄を思わせた。
 部屋に入り、扉を閉めるなり、景琰は両腕を広げた。強く抱き締められ、身体がこわばる。が、景琰もまた、はっとしたように身を離した。
 その眉が、ひそめられている。
 景琰の手が、梅長蘇の襟元を掴んだ。
 「先生、そなた‥‥‥」
 痛ましげに自分を見る景琰の眼差しが、つらかった。
 衣の裏地に綿を打たせていると、抱き締められればさすがに気付かれぬはずもない。このところ一層痩せた身体にいくらかでも厚みを持たせるため、薄く綿を打った衣を重ねて着込んでいる。こんな季節でもひどい寒症に悩まされる梅長蘇にとって、それは一石二鳥ではあったのだが。
 分厚い衣の上から両腕を掴み、景琰は悲しげな顔をした。
 「すまぬ。ただ一目、会いたかったのだ」
 景琰の手が、遠慮がちに梅長蘇の頬に添えられる。 
 「蘇宅へ会いにゆくは憚られたゆえ、蒙大統領に頼んで呼び出してしまったが、出掛けてきて大事なかったか? 身体に障りはすまいか」
 「さようにご心配いただかずとも」
 そう言って微笑んで見せたが。
 「しかし、わずかの間にまた痩せた。先ほどとて、膳にはろくに箸をつけておらなんだろう」
 「‥‥‥先ほどは、思いがけず殿下にお目にかかって、驚きのあまり食事が喉を通らなかっただけ―――」
 「蘇先生」
 言葉を遮られ、次いで、唇で更なる言葉を封じられた。
 軽く唇を啄んでから、景琰は苦笑いした。
 「嘘しか言わぬ口ならば、ずっと塞いでおくが?」
 梅長蘇も思わず苦笑を漏らした。
 「驚いたのは、まことです」
 思い至ってもよいはずだった。しかし、まるで想像もしなかったのだ。蒙摯の邸で待つのが景琰その人であるなどと。
 一別以来、と景琰は言った。そうだ、一別以来、ふたりは互いにまみえることもなく、ただそれぞれの成すべきことを淡々とこなしてきた。共に目指すものの為に。
 たとえ身は離れていても、思いはひとつ。そう思えばこそ、日々弱り行く身体をなんとか奮い立たせることができたのだ。
 それでも。
 逢いたかった。
 一目逢えれば、それでまたしばらくは持ちこたえられる気がした。
 たやすく会うわけにいかぬとわかっていればこそ、なおさら逢いたかった。
 そう思ってうなだれた途端、足元がふわりと持ち上がった。
 「殿下?」
 抱き上げられたのだと、すぐには理解できなかった。ただ、自分の身体が宙に浮き、景琰の顔が常より幾分上に見える。
 不思議に、抗う気にはならなかった。むしろ、やっと、という思いが強かった。景琰の胸に軽く頭を凭せかけて、梅長蘇は思った。これほどまでに恋うていたのだと。
 そのまま、奥の牀間へと運ばれた。
 牀台に仰向けに寝かされ、今一度口づけられる。
 当たり前のように舌が割り入れられてくるのを、梅長蘇はぎこちなく受け止めた。
 景琰の一部を己の躰に受け入れることに、まだ気恥ずかしさと後ろめたさがある。
 林殊としての自分にとって、景琰は幼い頃から知っている相手だ。若き日に、ふざけて接吻したことくらいはある。だが、それとはまるで違う濃密な口づけは、ひどく照れくさいものだった。
 そして、梅長蘇にとっての景琰は、これまで欺き続けてきた相手である。そして、近い将来、重責を負わせたまま一人遺してゆかねばならぬ相手。こんなふうに愛される資格など、ありはしないという思い。
 それでも、今この時のぬくもりが嬉しかった。
 両手で顔を挟み込まれ、深く深く口付けられた。景琰の長い指に撫で回され、鬢の髪はもうすっかり乱れてしまったことだろう。
 やっと唇が離れ、梅長蘇は顔を横に向けて少し咳き込んだ。
 「大事ないか」
 喘ぎながら、梅長蘇はゆるくかぶりを振って微笑む。
 「すこし、息が切れただけです」
 そう言ったが、景琰は却って辛そうな顔をした。
 「今日は何もすまい。こうして二人、添い臥ししていよう」
 「されど‥‥‥」
 すでに景琰の中心が熱く昂っているのを梅長蘇は知っている。激しく怒張したそれは、その熱を迸らせたがっているのだ。このまま抑え込むのは辛かろうにと思う。
 「ならば、せめて‥‥‥」
 梅長蘇は身を起こし、それから静かに景琰の下腹へと、そろりと指を滑らせた。
 「殿下、御召し物を‥‥‥」
 「蘇先生、それは‥‥‥」
 言わんとするところを察して、景琰が眉を寄せた。
 「殿下にご辛抱いただいたのでは、申し訳もありません。どうか、わたしにお任せを」
 景琰は困ったように目をそらせたが、それは諾とも見て取れた。
 帯を解いてやり、衣の前を寛げて、梅長蘇はするりとその手を潜り込ませた。その刹那、びくんと景琰の身体が震える。
 はっとして、手を引いた。
 「手が、‥‥‥冷とうございましたか」
 自分ではすでに当たり前になっている手の冷たさが、他人にはそうでない。ましてや今の景琰のように熱を帯びたそれには。
 「いや‥‥‥」
と景琰は言ったが。
 梅長蘇は少し躊躇い、それからゆっくりと、景琰の下腹へ顔を落とした。
 「蘇先生?」
 熱くたぎった一物に、ちろり、と舌先を添わせる。
 「んッ‥‥‥」
と、景琰が低く呻いた。
 つつ、と舌の先を這わせると、景琰の身体がのけぞった。
 「やっ‥‥‥。やめよ、先生。そなたがそこまですることは‥‥‥」
 景琰の指が鈎爪のように曲がって、衾を鷲掴みにしている。
 やめよと言われたとて、もはや抜き差しなるまい。景琰も困るだろうが、梅長蘇とて既に夢中になっていた。 
 舌で丹念に愛撫を繰り返し、そして固く膨れ上がったそれの先端を、そっと口に含む。
 軽く歯を立てると、景琰はまたも呻いて腰を捻ろうとした。その腰を両手で支えながら、梅長蘇は更に深く咥え込む。
 口の中で、それはいよいよ膨れ上がった。
 喉元まで熱い塊に満たされて息ができず、梅長蘇は既に朦朧としていた。
 「蘇先生、もうよい。もうよいから離せ‥‥‥」
 景琰の切なげな声も、もはや梅長蘇の耳には半ばも意味をなさない。
 苦し紛れに、舌でそれを押し戻そうとした刹那。
 ついに、景琰が性を放った。
 愛液が口中に弾け、梅長蘇は反射的にそれを飲み下していた。
 「蘇先生、何をッ‥‥‥」
 噎せて激しく咳き込む梅長蘇の背中を、跳ね起きた景琰が必死にさすってくれる。
 「吐くのだ、先生。身体に障る」
 梅長蘇は咳き込みながら、かぶりを振った。
 「‥‥‥おなさけを」
 半ば正気を失いながら、梅長蘇はそう哀願した。頭のどこかでは、そんな慎みのないことをねだる己を恥じつつ、それでもそう乞わずにはいられなかった。
 「殿下。やはり、お情けを‥‥‥」
 景琰と、ひとつになりたかった。
 「しかし、先生の身体が耐えられまい」
 景琰に刺し貫かれたまま死ぬるなら、それも本望に思えた。
 宿願を果たすまでは死ねぬと頑なに思い続けてきた心が、今は情に流されようとしている。
 (構わぬ。この身が果てたとて、必ず景琰が志を継いでくれる―――)
 虫のよい願いではある。つらいさだめを、景琰一人に委ねようとは。どのみち、そう遠くはない先に、先立たねばならぬ身と知ってはいても、せめて景琰が足元を固めるまで支えてやろうと、そう思っていたのではなかったか。
 だが今は、そんな思いさえ押し流すほど、情が勝っていた。
 「―――よいのだな?」
 切なげな景琰の声に、梅長蘇は頷いた。まだ愛液にまみれた唇が、景琰のそれで優しく塞がれる。
 愛しかった。
 こんなにも。
 慈しみに満ちた口づけが、嬉しかった。  
 景琰の唇が首筋を這い、耳朶が甘噛みされると、既に梅長蘇は陶然としていた。
 「―――殿下。―――殿下」
 殊更に、そう呼ばわった。
 自分は梅長蘇である。『景琰』と呼んではならない。自分にとってこの愛しい男は、幼馴染みの従兄ではなく、主である。夢見心地で何を口走るか知れぬ自分を戒めるために、梅長蘇はただひたすら、「殿下」と呼び続けていた。



   * * *



 出血が、ひどすぎた。
 そうでなくとも血の薄いたちであるのが、あれほど出血したのではひとたまりもなかった。
 朦朧としながら、梅長蘇は温もりを求めてみじろいだ。
 隣にあったはずの温かい胸を探し当てられず、梅長蘇は膠で貼り付けたように重い瞼を必死にひらいた。
 「殿下‥‥‥?」
 「蘇先生」
 そう答えた声は、しかし景琰のものではなかった。
 焦点の定まらぬ目を励まし、相手の顔を見る。
 「ああ、‥‥‥戦将軍」
 戦英の、常に冷静な、しかしどこか青年の名残を残した顔が、そこにあった。
 「よかった。なかなかお目覚めにならぬゆえ、案じておりました」
 ほとんど表情は変わらないが、本当にひどくほっとしているのがわかる。
 「‥‥‥殿下は?」
 頭を起こすことさえならず、梅長蘇は視線の届く限り、景琰の姿を探した。
 戦英が申し訳なさそうな顔をする。
 「どうしても今朝のうちに決裁せねばならぬ事案があり、一度戻られました。夕刻までには、またお見えになります」
 「‥‥‥そう、ですか」
 どこか、ほっとする。
 とうにわかってはいたことだが、少なくとも、景琰は情欲に溺れて務めを疎かにする男ではないのだ。
 安心して、しかし、それとは裏腹に寂しさがひた寄せる。
 「殿下にお戻りいただくには及びません。わたしも帰らねば―――」
 頭を起こしかけた途端、ひどい目眩と吐き気に襲われた。思わず口元を押さえる。
 「いけません。まだお動きにはなれますまい」
 戦英の武骨な手が、背中をさすってくれた。しばらくすると、いくらか楽になってくる。
 「ご心配なく。蘇宅のほうへは先ほど蒙大統領が使いをやって、もう一晩お泊りになるとお伝えになりましたから」
 「‥‥‥しかし」
 また甄平あたりが、心配のあまり騒ぎ立てはすまいか。
 「黎綱どのが、うまくやってくれます」
 梅長蘇の不安を察したように、戦英がそう言った。無口だが、人の心を汲むことのできる男だ。景琰はよい部下を持ったと改めて思う。そして。
 「やはり、黎綱も一枚噛んでいたのですね‥‥‥」
 そう言って苦笑いすると、戦英はすまなげに視線を落とした。
 「‥‥‥申し訳ありません」
 そんなふうに詫びられては、何も言えなくなる、と梅長蘇はまた苦笑した。

 

 「戦将軍‥‥‥」
 障子に映る日影が伸びてきたのに気づいて、梅長蘇は戦英に声をかけた。
 「はい?」
 先刻から首をひねりながら書物と向き合っていた戦英が、どこかほっとした様子で顔を上げた。どうやら書を読むのにも飽き始めていたが、特にすることもないのでしかたなく眺めていたのだろう。声を掛けられて、渡りに船とばかりに書物を閉じた。
 その様子を少し微笑ましく見ながら、梅長蘇は言った。
 「‥‥‥厚かましいお願いと承知してはいるのですが」
 「なんでしょう。今日は殿下から、先生のお世話を申しつかっています。なんなりとおっしゃってください」
 やっと主から言いつかった役目を果たせるのが嬉しくてしかたがないといったふうに、戦英は表情の薄い顔を輝かせた。
 「‥‥‥着替えをしたいのです。手を貸していただくわけには‥‥‥」
 半身を起こしてそう言うと、戦英は少し眉を曇らせた。
 「しかし、まだお起きには‥‥‥」
 「お願いします。もうじき殿下がお戻りになりましょう。せめて身仕舞いを整えておかねば失礼かと」
 戦英は少し考えるふうだったが、やがて小さく頷いた。
 「わかりました」
 戦英は承諾すると、手慣れた様子で着替えを手伝ってくれた。眩暈と身体の痛みは、いまだにひどいが、身体を起こして居れぬほどではなくなっている。寝乱れた髪を掻き上げていると、戦英が言った。
 「髪もお結いになりますか」
 「そうしたいのは山々ですが、そこまで甘えては‥‥‥」
 梅長蘇は少しばかり困惑したが、戦英はもう腕まくりを始めている。
 「いえ。いつも殿下の髪を結わせていただいておりましたから」
 「‥‥‥そうでしたか」
 どこからか櫛を取り出してくると、早速髪を梳いてくれ始める。
 「まあ、近頃はそれもお役御免になりました。太子妃殿下がなかなかご器用でおいでなので」
 そう言って、手早く頭頂で形の良い髷を作ると、垂らした髪を編んで、まとめあげてくれた。
 身なりが整うと、ぼんやりしていた頭も幾分すっきりしたように思われた。
 景琰はいつ頃戻るだろう。
 そろそろ障子の外に赤く夕日が照り映えてきた。

    ・
    ・
    ・
    ・ 

 「殿下は遅うございますね」
 夜が更けても戻らぬ景琰に焦れた様子で、戦英が溜息をこぼした。
 「今夜はおいでになれぬのかもしれません」
 梅長蘇がそう言うと、戦英は少し悲しそうな顔をした。
 「申し訳ありません。先生がわざわざ起きてお待ちだったものを」
 戦英のせいではないのに、詫びてくれる。気の毒になって、梅長蘇は微笑んだ。
 「わたしはそろそろ休みますから、将軍もどうぞ」
 「―――はい。ではよくお寝みに‥‥‥」
 悄然と部屋を出ていく戦英を見送って、梅長蘇は牀台に腰かけたままぼんやりしていた。
 景琰は、今頃何をしているだろう。
 急な病などでなければよいが。
 いや、それとも何か揉め事が起きているのかもしれぬ。処理すべき問題が山積しているのやも。
 (景琰は真面目ゆえ、あまり懇を詰めねばよいが‥‥‥)
 梅長蘇は、小さくため息をついた。



   * * *



 「蘇先生。まさかお休みにならなかったのでは‥‥‥」
 夜が明けて様子を見に来た戦英が、昨夜のまま牀台に腰かけている梅長蘇を見て慌てた。
 「いえ。そんなことは‥‥‥」
 そう言ったが、髪にも衣にも乱れがない以上、あまりに見え透いているだろう。戦英は困ったように息を吐いた。
 気まずい思いで、視線を逸らせたとき。
 早朝の空気の中、遠く蹄の音が近づいてくるのが聞こえた気がした。
 梅長蘇が目を瞠ったのに気づいて、戦英もすぐ耳をそばだてた。
 「蘇先生。殿下がお戻りです」
 嬉しげに言って、戦英はいそいそと主を迎えに出て行った。
 「蘇先生」
 扉を開くと同時に、景琰がそう呼ばわるのが聞こえた。
 立ち上がろうとして足に力が入らず、ただ景琰が駆け込んで来るのを待った。
 「殿下」
 「随分お早いな。お加減はどうだ」
 景琰は大股に近づいてきて、すぐ隣へ勢いよく腰かける。揺れが響いて躰の芯に痛みが走った。
 「殿下、先生は昨日からずっと起きてお待ちで‥‥‥」
 「将軍」
 たしなめようとしたが、間に合わなかった。痛みを堪えた分、止めるのが遅れたのだ。
 「それはまことか」
 景琰が黒目がちの目を見開いた。
 ふと、―――微かな香りがした。深く気にも留めず、わずかに微笑を返す。
 「―――眠くなかっただけです」
 そう言ったが、戦英がまた口を挟む。
 「昨日、まだお体をお起こしになるのもおつらいご様子でしたのに、殿下がお戻りになる前にとお召し替えをなさって、ずっと‥‥‥」
 「待ってくれていたのか」
 眉根を寄せて、景琰が顔を覗き込んでくる。
 「そうではありません」
 「―――すまぬ。出ようとしたところに母からの使いが参ったのだ。妃だけ行かせようかと思ったのだが」
 「いいえ、娘娘も太子妃殿下も大切なお身内、わたしのことなどご放念頂いてよろしかったものを」
 静貴妃自ら選んだ妃であった。静貴妃としては、景琰と妃が睦まじく過ごすさまを傍で見て安心したいのであろう。
 ―――嗅ぎなれぬ香の匂いは太子妃のものか、と梅長蘇は頭の隅で合点した。甘く、それでいて清涼な香りは、若く利発な太子妃には似合いの香であった。
 しかし。
 軽い吐き気がして、梅長蘇は少し俯いた。それをどう受け取ったか、景琰が顔を寄せてくる。
 「許せ。やはりわたしが悪かった。そのかわり―――」
 ふわり、と太子妃の移り香が鼻腔を満たす。決して強くはない、ゆかしい香りであるのに、また吐き気がこみあげて、思わず口を袖で押さえた。
 「蘇先生!?」
 景琰の声に答えようと思うのに、気が遠くなってゆくのをどうにもできなかった。


   *


 『林殊』の手は、すでに景琰には届きはしないと知っている。
 そして『梅長蘇』の手からもまた、やはり景琰は遠いのだと―――、そんなことを思った。
 林殊も梅長蘇も、景琰の中をただ一時風のように吹き抜けてゆくことしかできぬのだと。共に手を携えて生きる未来は、ない。
 息苦しさに眉を寄せながら、梅長蘇はうっすらと眼を開けた。

 目の前に、景琰の顔がある。
 ほっとして、気持ちが和んだ。
 「―――よかった。もうお帰りになっておしまいかと」
 そう言うと、景琰が少し笑った。
 「帰りはせぬ。昨夜の埋め合わせに今日は一日共にいると、そう言おうとしたら先生が気を失われたのだ」
 「‥‥‥面目ございません」
 たかだか香の微かな残り香に酔ったなどと、みっともなくて言えなかった。
 「あんなあとで一人にして悪かった。動くこともできず心細かったであろうな」
 大の男に向かって言うことでもなかろうにと、少し可笑しくなる。だが、その心遣いが嬉しかった。
 「‥‥‥戻ってきてくださいましたから」
 「当たり前だ」
 景琰が笑う。昔、よく見た笑顔だった。
 「今はまだ、朝でしょうか?」
 「ああ‥‥‥。丁度、午刻だ」
 梅長蘇は微かに眉根を寄せた。
 「わたしはそんなに眠っていたのですね」
 「しかたあるまい。昨夜眠らなかったのだから」
 「勿体ないことをしました‥‥‥」
 たった一日。
 共に過ごせる時の、なんと限られていることか。
 そのうちの何刻かを、既に無駄にした。
 なんとはなしに萎れた気分でいると。

 不意に、手を握られた。
 いつの間にか自分で知らぬうちに、景琰に向かって手を差し伸べていたのだと気づく。

 差し出した手を、握り返してくれる今がある。
 ふと―――。
 それだけでもう、充分ではないかという気がした。
 たとえ明日、景琰の隣に立つことができずとも。
   
 戦英がおり、太子妃がおり、静妃がおり、蒙摯がいる。
 高湛も言父子も、皆が景琰の世を支えるだろう。
 (わたしが先々まで抱え込むことはない)

 林殊としても、梅長蘇としても、慈しまれた。
 今日のこの温もりで、充分なのだ。

 梅長蘇は、微笑んだ。 
 



   * * * * *




 かつて。
 友を守ってやることはかなわなかった。
 だが。
 梅長蘇は。
 梅長蘇だけは、なんとしても守り抜くのだ。
 悲願の成就さえ見せぬうちに、父の手にかけさせることなど決してあってはならぬ。
 
 一夜の情事、一日の逢瀬でも、梅長蘇は幸福そうだった。
 人目を忍んで逢う短い時間を、ひそやかに慈しむ姿が愛おしかった。
 せめて。
 梅長蘇が命を削って敷いてきた道のその結末を、見届けさせてやらねばならない。

 午の刻までに決着がつかねば。
 兵を挙げて宮城を責める。
 最も梅長蘇が好まぬ結果となるかもしれぬ。
 それでも、梅長蘇の命にはかえられぬのだ。

 だが。
 兵を挙げるのは最後の手段だ。

 必ずこの手で、梅長蘇を救い出すと。

 心に決めて、景琰は参内した―――。



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