東離劍遊紀

相身互い身もつれる縁 -後編-  (『東離劍遊紀』)

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はい、後編です。

 「そのゥ‥‥‥。殘雲たちから聞いたんだが。俺はあんたとその、なかなか浅からぬ因縁があるそうだな」
 夜になって、わざわざ部屋まで訪ねてきた不患が、そんなことを言った。
 遠慮がちの、他人行儀な物言いが胸に刺さる。
 雪鴉はため息混じりに笑った。
 「なに、綺麗に忘れてしまえる程度の縁さ」
 「す、すまん」
 困ったように謝る姿が、不患らしいような、らしくないような、不思議な気分で雪鴉はぼんやりそれを眺めていた。
 「一緒にいて色々と話でもしてりゃぁ、少しずつ思い出すかもしれん」
 不患はそう言ったが。
 思い出すかどうかなど、実はそう問題ではないと雪鴉は思う。思い出さぬなら、またひとつずつ積み重ねてゆけばいいことだ。
 だが。

 ―――忘れられた。
 殘雲でも、丹翡でもなく、自分が。
 不患の心から、閉め出されたのだ。

 「丹翡どのが言っていた。あんたが飯も喉を通らねェくらい心配してくれてたッてな」
 雪鴉は黙って顔を背けていた。
 「悪かったな」
と不患が言う。
 自分が気を揉み続けた間、不患はただの一瞬たりとも、自分のことを思い出しはしなかったのだ。それを恨みに思う気はないが、情けなくて、惨めだった。

 後悔など、もう長いことしたことのない雪鴉であった。他人からどう見えようと、己が愉快でありさえすればそれでよかった。この世は愉しまねば意味がない。
 見るもの聞くもの面白がって、口さえ開けば戯言で、ただふわふわと日々を送ってきたのだ。
 見栄や矜持を振りかざす世間を笑い飛ばし、そんなちっぽけな誇りなど、傷つけ叩き潰すのに何のためらいもなかった。
 だが。
 それは自分の驕りであったのか。
 自分のほうこそ、ちっぽけな、取るに足らぬ存在であったのだ。
 風を掠め取り塵を窃む、掠風竊塵が聞いてあきれる。風のごとくによるべなく、塵の如くに儚い身は、ほかならぬ自分ではないか。
 これほどたやすく、人ひとりの記憶の中から消し去られてしまう。
 惨めで寂しく、やるせない。
 (自業自得だろう?)
 そうは思うが。
 やりきれなかった。

 それでも。
 ―――生きていてくれた。
 たとえ自分を忘れ果てても。生きてさえいてくれたなら、それは重畳というものである。

 「俺が谷底へ落ちるのを、あんた見てたんだってな。死んだと思うのも無理はねェ」
 妖力をほとんど吸い取られてただの鈍らになっていたとはいえ、妖剣に腹を刺し貫かれて深い谷底へ落ちたのだ。生きていると思うほうがどうかしている。
 せめて骸なりとも見つけたいと、そう思ったのだ。
 「さすがの俺も、ついにお陀仏かと覚悟を決めかけたんだが。ふと思い出して、魔剣目録の中から一振り、召喚したのさ。―――あァ、魔剣目録のことは知ってるんだよな?」
 浅く、雪鴉はうなづいた。その目録を守るために、半死半生の目に遭ったこととてあるのだ。不患は忘れてしまっただろうが。
 「その剣ってのは、なんていうか、小さな結界を生じさせることの出来る代物でな。なかなかいうことを聞きやがらねェで冷や冷やしたが、どうにか谷底へ叩きつけられる前に、無事結界を張って俺を守ってくれたってわけだ」
 まさに九死に一生、強運の持ち主であることよ、と雪鴉はわずかに苦笑いした。
 「なにしろ深手には違ェなかったんでな、結界を張ったまんま、気を巡らせて傷の治療に専念してたのさ」
 不患の足取りがつかめなかったのはそのせいか、と雪鴉はため息をつく。
 内功で治すにしても、途中で邪魔でも入って気が乱れでもすれば、それこそ命取りである。それゆえ、結界の中で治療をしたのだ。
 あの谷は、足の豆が潰れて血を流すほどに、隅から隅まで幾度も探し回った。それでも不患の痕跡は見つからず、気配さえ感じることができなかったのだ。魔剣の結界とは、わずかな気さえも覆い隠すほどのものなのだろう。

 「―――それで、傷は?」
 雪鴉は低く尋ねた。
 「ああ。見てみるか? もうほとんど治りかけてる」
 着物の前をはだけると、不患はするすると腹の包帯をほどいて見せた。
 なるほど傷は塞がって、もう開く気遣いもなさそうだ。
 「―――よかった」
 思わず、ぽつりと、そうつぶやいた。
 途端に不患が、目を瞠る。
 「なんだ。‥‥‥あんた、ひねくれ者の天邪鬼だって聞いてたが、少しもそんなこたァねェな」
 破顔した不患から、雪鴉は思わず目を逸らせた。
 不患が自分に対して、これまでこんなふうに笑いかけたことなど一度もなかった。
 当たり前である。わざと怒らせるようなことばかり言って、それを面白がっていたのだから。怒ったり慌てたりするさまを見るのが、何よりも愉快だったのだ。
 だが。
 屈託のない笑顔を向けられると、なんとも言えぬこそばゆい気持ちになる。それは思ったより、ずっと心地よいものだった。
 雪鴉は、微かにほほ笑んで見せた。
 「―――悔い改めて、宗旨替えしようかと思ってね」
 そう答えると、不患が少し首を傾げた。
 「わたしはどうやら、おまえの心から閉め出されてしまったようだが、おまえはこうして無事でいてくれた。‥‥‥それだけで、神仏に感謝したい心持ちだよ」
 不思議なほどするすると、素直な気持ちが口をついて出た。
 雪鴉の言葉に、不患が申し訳なさそうな顔をする。
 その頬に、雪鴉はそっと手を当てた。
 「もう、わたしのせいで危ない目に遭わせるのはこりごりだ。目の前でお前が殺されるさまを見せられるなぞ、二度とごめんだ」
 「殺されちゃいねェ、こうしてぴんぴんしてるだろうが」
 肩をすくめて、不患が笑う。雪鴉も微笑を返した。
 「ああ。それゆえ崇めたことすらない天に、礼を言いたいのだよ」
 「―――えッ、おい」
 不意に、不患が狼狽えた。
 その時初めて、―――雪鴉は自分の目から涙が一粒こぼれたことに気づいたのだった。
 「‥‥‥ッ!」
 こんなことは初めてで、雪鴉自身も動揺を抑えられない。
 男として、音に聞こえた盗賊として、己でも信じられぬ。
 これほどに、自分はこの男を失いたくなかったのかと、今更ながら知ったのだ。
  
   
 
   * * *
 


 「いかがですか? 凛さまのこと、何か思い出されまして?」
 庭の園桌で茶を勧めてくれながら、丹翡がそう尋ねる。
 「いや、それが皆目‥‥‥」
 受け取った茶杯を弄びつつ、不患は情けない声で答えた。
 「なにせ相手が、あァ無口じゃァなあ‥‥‥。取りつく島もありゃしねェ」
 「えッ‥‥‥」
 「無口ッて、凛雪鴉がかィ?」
 丹翡と殘雲が、揃って驚きの声を上げる。
 「あン? ろくすっぽ返事もしてくれねェときたもんだ」
 不患がそう答えると、よほど信じがたいことと見えて、殘雲が長々と息を吐いた。
 「あの口の達者な旦那がねェ‥‥‥。信じられねェなあ」
 そう言われても事実だからしかたがない。
 最初の夜に、少し口をきいてくれたかと思えば、突然涙なんぞこぼされて大いに動転させられた。丹翡の涙にも少々狼狽えはしたが、まさか大の男の凛雪鴉が、自分の為に泣いてくれるなどとは、思いもよらなかったのだ。
 「よほど堪えていらっしゃるのですわ。そもそもの原因が、ご自分の軽口にあるのではないかと気に病んでおいでかと‥‥‥」
 「まァ、確かにあの人が原因には違いないからなァ‥‥‥」
 思わず本音を吐いたらしい殘雲が、丹翡に軽く睨まれている。
 不患は首をひねった。
 「その‥‥‥、凛雪鴉はそんなにも天邪鬼で人を食った男なのか?」
 殘雲が呆れたような顔をする。
 「人を食ったも何も、あんたが一番いいように使われて‥‥‥、ッてェ!」
 丹翡からぎゅうッと二の腕の内側をつねりあげられて、殘雲は隻眼に涙を潤ませている。丹翡は夫をじろりと睨んでから、不患に向かって口を開いた。
 「凛さまは確かにお人の悪いところがおありだし、殤さまのことをからかったり利用なさったりもしたけれど、でも、本当は心根の優しいおかたと、わたくしは信じています」
 丹翡が懸命に雪鴉の肩を持つ。
 「―――あんたがそう言うんなら、まァ、そうなんだろうなァ‥‥‥」
 確かに、悪い人間には見えなかった。
 派手な衣を着たちゃらちゃらした男かと思ったが、紅い瞳からぽろりと転がり落ちた昨夜の涙は、偽りとも見えなかった。

 「で、その凛の旦那は、今なにを?」
 殘雲に問われて思い出した。
 「あァ、俺の傷に効くとかいう薬草を煎じてたようだが‥‥‥。もう傷のほうはほとんど痛まねェと言っても、耳を貸してくれねェんで弱ってる」
 不患は鼻の頭を掻いた。
 「凛さまも、何かしておいでにならないと落ちつかないのでしょう」
 丹翡はそう言うが。
 実はこのところずっと、何かと雪鴉が自分の身の回りの世話を焼いてくれる。
 話しかけてもろくに返事もせぬのに、何くれとなく面倒を見てくれるのだ。
 「なんていうかその‥‥‥、痒い所に手が届くッつゥか、至れり尽くせりの待遇でなァ。どうも居心地が悪い」
 それでこうして逃げ出してきたのだ。
 丹翡が小さく笑う。
 「あの凛さまにそんなふうにしていただけるなんて、この東離の隅々まで探しても殤さまくらいなものですわよ。それを居心地悪いだなんて、贅沢をおっしゃっては駄目です」
 人妻とは思えぬ可愛らしい仕草で、丹翡はくすくすと笑った。
 「そういうもんかねェ。まァ、せいぜい何か思い出すように頑張ってみるか‥‥‥」  
 溜息をついて、不患は立ち上がった。



   * * *



 殘雲がそれとなく二人の様子を見ていると、確かに雪鴉は不患の面倒をよく看ている。
 不患の言うとおり、雪鴉はろくに口もきかないようだが、それでも時折、不患の近くでのんびり煙草などふかしている姿は、久し振りにゆったりと落ち着いて見えた。 
 夕餉の準備をしている丹翡に、殘雲は話しかけた。
 「なァ、―――あのままでよかァねェかな」
 「え?」
 丹翡がいぶかしげな顔をする。
 「あのふたり、当たり前に仲のいい友達同士に見えるじゃねェか」
 「それはそうですけれど‥‥‥」
 丹翡の答えは歯切れが悪い。
 「凛の旦那もすっかりしおらしくなっちまって、甲斐甲斐しく殤どのの世話なんぞ焼いて、あれはあれでなんてェかこう、幸せ‥‥‥なんじゃねェのかな」
 「でも‥‥‥」
 ちょっと睫毛を伏せて、丹翡は切なそうな顔をした。
 「相変わらず、食がお進みにはなりませんもの」
 殘雲も、軽く頷く。
 「確かに、そのようだなァ」
 さすがに殘雲とて、気にはなっているのだが。
 「なんとしたものでしょうね」
 少し萎れた丹翡を背中から抱きしめて、殘雲は妻の髪に顔を埋めた。 
 「まァ、なるようにしかなるまいさ‥‥‥」
 丹翡がこのところ二人の心配ばかりしているのが、少々不服な殘雲なのである。殘雲とて二人のことは気がかりであるし、そこが妻のよいところと知ってはいるが。
 (殤の旦那がとっとと思い出してくれりゃァなあ)
 そんなことを思って、殘雲は丹翡の額にくちづけた。



   * * *



 井戸の水を汲もうと釣瓶の縄に手をかけようとした途端、さっと白い手に先を越された。
 何かしようとするたびに、雪鴉が先回りして世話を焼く。傷の心配をしているのはわかるが、四六時中やることなすこと手出しされたのではたまらない。 
 「傷口なんぞとっくにふさがってるさ。あんたも見ただろう?」
 不患がそういうと、雪鴉は顔を背けて、少し考えてから言った。
 「‥‥‥あれだけの深手だったのだ。癒えたあととて疼きもしよう」
 「あんたこそ、朝から晩まで俺の世話を焼いて、草臥れてるんじゃねェのか? 相割らず、ろくに食わねェようだし、そっちが倒れちまうぞ」
 雪鴉は、答えない。
 やれやれ、と不患が頭を掻いたそのとき、雪鴉がはっとしたように耳をそばだてた。
 「どうした?」
 雪鴉は黙って風の匂いを嗅ぐような仕草をする。
 「‥‥‥表の様子がおかしい。いやな気配がする」
 確かに、生臭いような、瘴気がこの裏庭まで漂ってくる。
 「いけねェな」
 不患は腰の拙剣をぐいっと掴み寄せると、あとも見ずに駆けだしていた。
 
 ―――魔神・妖荼黎を封じ込めた須彌天幻・劫荒劍に、どこから湧いて出たか、無数の下等な妖魔どもが群がっていた。
 妖荼黎の、妖気の残り香のようなものが、いまだ辺りに漂っているのかもしれぬと思う。それが妖魔どもを呼び寄せる。魔神の底知れぬ妖力を慕って、その封印を解かんとあとからあとから醜い姿の妖かしどもが押し寄せてくるのだ。丹翡のはった結界に、未熟な点があったのやもしれぬ。
 すでに殘雲と丹翡が、剣を振るって妖魔どもを次々に薙ぎ払っている。
 不患が駆けつけた時、丁度殘雲が苛立って剣を放り出すところだった。
 「畜生め、こちとらまだ剣の修行が未熟でね。槍のほうが使い勝手がいいんだ!」
 愛用の騰雷槍を、嬉々として振り回す。
 「殘雲、加勢するぜ」
 不患は拙剣を抜き放って、殘雲の背後にぴたりと背中をつけた。
 「ちょっと、旦那。怪我人の出る幕じゃねェっての」
 「どいつもこいつも、いつまで人を怪我人扱いしやがる!」
 鼻で笑うと、不患は手近な妖魔どもをまとめて四、五匹叩き斬った。
 「お見事」
 殘雲がヒュウと口笛を吹いた。
 「不患!」
 後を追ってきた雪鴉が、殘雲に弾き飛ばされた妖魔をよけながら駆け寄ってくる。
 さっき殘雲が投げ捨てた剣を拾い上げるなり、雪鴉は飛鳥のごとき迅さで不患の前へと躍り出た。
 武骨な造りの剣を、いとも軽やかな手さばきで横ざまに薙げば、鋼刃は風音も鋭く妖魔の肉を斬り裂いた。
 艶やかな衣の裾が翻る度に、まとめて数匹、妖魔が黒い血しぶきを上げて斃れる。
 右へ左へ、雪鴉の躰の動きにつれて、白銀の髪が波を打ちながら靡いた。
 (なんつゥか、やっぱり綺麗な男だな、おい)
 不患は肩をすくめて、雪鴉が取りこぼした妖魔を一匹仕留めた。
 仲間の屍肉の匂いにつられて、うじゃうじゃと出てくる妖魔どもを、この際根こそぎ退治ておかねば、先々殘雲たちも手を焼くことになる。
 四人がかりの大掃除であった。 

 宵の明星がくっきり見える頃になって、ようやく辺りは静まった。
 殘雲と丹翡は互いに寄りかかりあって、肩で息をしながらほっと安堵の表情を浮かべている。
 雪鴉は銀の髪をわずかに乱し、青い月の光を浴びて剣を提げたまま立っていた。   
 「すげェ腕だな、あんた」
 不患がそう声をかけると、雪鴉が振り返った。
 「怪我はないか?」
 気がかりそうに、雪鴉の目が不患の全身を探る。
 「あるわけねェだろ。俺の周りの連中は、あんたがほとんど片付けちまったんだから。‥‥‥ッてか、おい?」
 ふわり、と。
 白銀の髪が浮き上がったように見えた。
 雪鴉の身体が、前のめりに傾いだせいだ。 
 「凛さま!?」
 丹翡が声を上げるより早く、不患の腕が、雪鴉の身体を抱きとめていた。
 「まさか、お怪我を!?」
 駆け寄ってきた丹翡に、不患は苦笑した。
 「そうじゃねェ。なにせろくに飯も食ってなかったくせに、あれだけ動きゃァ精根尽き果てもするだろうよ」
 片腕で雪鴉の身体を抱えたまま、不患は拙剣を鞘におさめた。

 「やれやれ、まったく、しょうのねェ‥‥‥」
 よっこらしょ、と不患は両手で雪鴉を抱き上げた。
 そして。
 「―――ん?」
 「どうかなさいまして?」
 いぶかしげな面持ちになった不患に、丹翡が首を傾げる。  
 「あァ、いや‥‥‥。大の男がこんなに軽くて大丈夫かと思ってね」
 まるで翼でも生えていそうだ、と考えて、やはり不思議な気持ちになる。

 まえにも。
 こんなことがあった気がするのだ。
 頭の芯が、ずきりと痛んだ。

 軽く頭を振って歩きだそうとしたとき、殘雲に呼び止められた。
 「落とし物だぜ?」
 不患は振り向き、―――そして、目を瞠った。



   * * *



 目覚めて最初に目に入ったのは、眠る不患の髭面だった。
 そしてふと気づく。手指の自由にならぬことに。
 いぶかしく思って自分の手のほうへ視線を下げ、雪鴉ははっとした。
 雪鴉の手は、不患の手にしっかりと握りしめられていたのだ。
 「なッ‥‥‥」
 瞬間、頬に血がのぼる。
 慌てて手を引き抜こうとしたとき、不患が目を覚ました。
 「ああ、なんだ。起きたのか‥‥‥」
 手をほどきそこねて、雪鴉はなんとなく狼狽えながら視線を泳がせた。
 「世話を‥‥‥かけた」
 ぎこちなく、そうつぶやいた途端。
 ぷっ、と笑われた。
 「―――なにを畏まってやがる」
 揶揄うような、不患の声に、雪鴉は目を瞠った。
 「‥‥‥不患、おまえ、思い出して‥‥‥?」
 心臓が、早鐘のように打つ。
 鼓動が、つないだ手から伝わってしまいそうで、雪鴉は懸命に己の心を鎮めようとした。
 しかし。
 「ちゃんと手ェ握っててやったろう?」
 にやりと不患に笑われて、かッと頬が熱くなった。
 いつぞや安宿の部屋で、ねだったことがあったのだ。眠るまで手を握っていてくれと。
 戯れで言ったに過ぎぬ。不患もまた、にべもなくはねつけた。
 それなのに。
 今更、聞き届けられるとは。

 「ほれ、落としもンだ」
 不患が懐から出した珊瑚の簪を、雪鴉はゆっくりと身体を起こして受け取った。
 「なんだ? ちょと会わねェ内に、ほんとに無口になっちまったのか?」
 笑われて、雪鴉は顔を背ける。
 「口は‥‥‥、災いの元だからな」
 そう答えると。
 暫しの沈黙のあとで、不患の笑い声がした。
 「おまえが大人しいと調子が狂うと、何度も俺は言ったはずだがな」
 それでもまだ、雪鴉はためらった。
 「この口が、―――またお前にまで災いを引き寄せて、構わぬと?」
 自分を恨み、命を狙う者は数知れぬのだ。『この男を殺したがる人間なら、呼び集めただけで行列ができる』と、かつて刑亥にそう言われたほどに。
 ふふん、と不患が笑った。
 「俺のほうこそ、魔剣目録なんてェもんが悪党どもを招き寄せちまう。俺とつるんでちゃァ、前みたいにとばっちりを食らうこともあるだろうぜ」
 そう言われて、雪鴉は苦笑した。
 「ならば、あいこというわけか」
 「ま、そういうことになるかな」
 二人そろって、低く笑う。
 「だから、お前はお前のまんまで構わねェ」
 不患の言葉に、雪鴉は、きゅっと簪を握りしめた。



   * * *



 「ほら食え。いつまでも病人臭ェ顔してられたんじゃ、こっちが鬱陶しくなる」
 「だからと言って、朝っぱらからこんなに食えるわけがなかろう!?」
 翌日。
 どういうわけか、朝から喧嘩腰になってしまう。
 卓に並んだ朝餉は、丹翡に頼んで品数も量もいつもの倍だ。
 「俺は既に同じだけ食ったぞ」
 そう嘯くと、雪鴉は眉間に皺を寄せ、細長い指でこめかみを抑えながらゆるゆると首を振った。
 「わたしをお前と一緒にしないでもらいたいものだな。わたしの胃袋は上品にできているのだよ。お前のような野人とは違う」
 その刺々しい口調に、不患もつい向かっ腹が立つ。
 「こん畜生めが。ゆうべ言ったことは撤回だ。昨日までのしおらしいお前のほうが、何百倍可愛げがあったかしれやしねェ」
 「おや、可愛げがなくて悪かったね。わたしがしおらしいと調子が狂うから元のまんまがよいなんぞと、お為ごかしを言ったのはそちらではないか」
 「だからそいつを撤回すると言っているんだ」
 「男に二言はないものだろう。刃無鋒ともあろうものが、随分往生際が悪いじゃないか」
 返す返すも、自分の甘さに腹が立つ。
 せっかく物静かで人畜無害な男になりかけていたものを。これでは、みすみす元の木阿弥である。
 「朝からずっとその調子でいらっしゃいますのね」
 更に一品、運んできた丹翡が、くすくす笑った。
 「まったく、人んちで騒々しいといったねェな」
 殘雲も、半ばあきれつつ苦笑している。
 「でも、やっぱりこのほうが、お二人らしくてほっとしますわ」
 丹翡の言葉に、不患は眉を寄せた。
 『お二人らしい』というのは一体どういう意味か。ひとまとめに『お二人』にされるのも心外である。何か言い返そうとする前に、殘雲がパンパンと手を打った。 
 「いずれにせよ、二人ともすっかり元気になったようで何よりだ。となりゃ‥‥‥」
 何を言い出す気かと、不患はもちろん、雪鴉も殘雲のほうを見る。
 殘雲はこほんと小さく咳払いをして、
 「そろそろ夫婦水入らずの平穏な毎日に戻りたいんだがなァ」
と言ってのけた。 
 「客に出ていけと?」
 雪鴉が眉をひそめたが、殘雲は動じずへらっと笑って見せた。
 「ひとつ所にとどまるなんざ、あんた達らしくもねェからな」
 「おふたり一緒なら、きっとどこへいらしても愉しゅうございますわね」
 「はァ!?」
 またひと括りにされてうんざりしながら、不患は不平の声を上げたが―――。
 
 ―――腐れ縁、かもしれぬと思う。
 (‥‥‥だからなんだろうな)
 それだから、ほかの誰でもなく雪鴉のことだけを忘れたのだ。
 たとえ忘れ果てたとしても、必ず再び出逢い、また奇妙な縁で結ばれる。 
 昨日にこだわる必要などない。好むと好まざるとにかかわらず、この先もずっと関わり合わねばならぬさだめやもしれぬ。
 そう考えて、不患はぶるっと武者震いした。
 「やっぱりてめェとはこれっきりにしよう。金輪際いっしょに旅なんぞしねェから、ついてくるな」
 不患がそういうと、雪鴉はしどけなくほほ笑んだ。
 「あれ、随分邪慳におしだねェ」
 「当たり前だ。てめェみてェな疫病神を連れて歩いたんじゃ、こっちの身が持ちャしねェ」
 不患の言葉に怯む気配もなく、雪鴉は瀟洒な煙管を婀娜な仕草で弄んでいる。
 「埒もない。わたしとお前は一蓮托生ではないか」
 「うるさい!」
 「つれないことを言うでないよ」
 くくく、と笑った雪鴉は、憎らしいながらもやはり艶やかで綺麗な男である。
 このひと癖もふた癖もある美丈夫に、気に入られたのが運の尽きだ。

 「旅は道連れ、世は情けというではないか。相身互いの二人旅だ、愉しみ尽くさずしてなんとするのだイ?」
 雪鴉の声はどこか弾んで、ますます不患を暗澹たる気分にさせはしたが―――。
 
 紅の瞳からこぼれた涙の玉に免じて、いましばらくは道連れになってやってもよいと。
 不患はひとまず観念したのであった。




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