東離劍遊紀

相身互い身もつれる縁 -前編-  (『東離劍遊紀』)

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またまた長くなっちゃってます。

 「全く。仲間の生死も知れねェってのに、凛の旦那ときたら相変わらずの極楽とんぼだぜ」
 部屋に戻るなり、捲殘雲はうんざりした様子でどかっと牀台に寝転がった。
 凛雪鴉がこの新たな聖域を久し振りに訪れて半月。殤不患が消息を絶ってからは既にひと月近くがたとうとしている。 しかしこの半月、雪鴉のしていることといったら、朝は遅めに起きだして来て、日がな一日窓の外など眺めながら、のんびり煙草の煙をくゆらせているばかりだ。来る日も来る日もその調子で、いっかな不患を案じる気配もない。
 しかし、殘雲の言葉に新妻は軽く眉をひそめた。
 「貴方、まさか本気でそんなことをおっしっゃてるの?」
 可愛らしい唇から、少々厳しい声音が漏れたのを聞いて、殘雲は隻眼を見開き不思議そうな顔をする。丹翡が小さなため息をついて目を閉じた。
 「ろくにお食事も喉を通らないほど、ご心配なさってるじゃありませんか、凛さまは」
 「えッ、そうなのか?」
 思いもよらぬ言葉に、殘雲は驚いて体を起こした。
 「これだから貴方というかたは‥‥‥」
 ゆるゆると首を振る丹翡に、殘雲は困ったように頭を掻いた。
 「いや、どうもあの人は俺には理解しづらくていけねェや」
 真っ直ぐな気性の殘雲には、芝居がかっている上に持って回ったような凛雪鴉の言動は、正直さっぱりわからないのだ。
 「このところどれだけ鳥が往来しているとお思い? 凛さまが彼方此方へ鳥文を遣わして、殤さまの消息を探っておいでなのがおわかりになりませんの?」
 殘雲は大いに首をひねって、またしても妻に溜息をつかれた。 

 丹翡の言葉が気になって、殘雲は改めて雪鴉の様子を窺ってみる。
 なるほど、雪鴉は少しやつれたようだ。華やかな装いと艶やかなふるまいにすっかり騙されていたのかもしれぬ。
 そうと気づいてみれば、窓の外へ目を向けて煙管を吹かすさまも、どこか物憂く寂しげだ。
 と、雪鴉の紅い眼差しが、すい、とこちらを流し見たので、殘雲は慌てた。
 「さっきからそこで何を見ておいでかな」
 笑みを含んだ穏やかな声音で、そう問われた。
 「な、なんでェ、気が付いてたんなら早くそうと言ってくれりゃァいいのに、相変わらず人が悪いぜ、凛の旦那はよォ」
 ちょっと赤くなって、殘雲は雪鴉のそばへ寄る。雪鴉の艶めかしい目つきに、どうも落ち着かない気分になる。
 雪鴉は緩く笑った。
 「わたしが善人になどなっては、不患も草葉の蔭でさぞかし気味悪がろうよ」
 「ちょッ‥‥‥、草葉の蔭ッて、殤どのはまだ死んじゃァいねェんですけど?」
 軽々しく殤不患の死を口にする雪鴉に、殘雲は焦った。
 が、雪鴉は意にも介さぬ様子で煙草を吹かす。
 「随分楽観的なことを言うじゃないか。この掠風竊塵が、八方手を尽くして探しても見つからぬのだ。とても生きてなどおるまいよ」
 ゆるりと紫煙を吐いて微笑した雪鴉の、しかしながらどこか悲し気な声音に、殘雲はどきりとする。
 「そのゥ、鳥文の返事が全部揃ったわけじゃァないんだろう? だったらまあ、そう気を落とさねェでさ‥‥‥」
 殘雲がそう口にした途端、雪鴉はわずかに眉を寄せ、それから唇の端をくいっと上げて微笑した。
 「誰が気を落としていると?」
 「あァ、いや、えェと‥‥‥」
 いちいち相手の反応にたじろいで、殘雲は言葉に窮した。
 雪鴉がふん、と鼻で笑う。
 「なにしろあの男ときたら、いい齢をしてお人好しで間が抜けているからな。いずれ他人のために命を落とす羽目になろうと思っていたよ。今更驚くことでもない」
 「間が抜けてるって、あんた‥‥‥。殤の旦那はあんたの為に‥‥‥」
 詰ろうとして、殘雲は途中で口をつぐむ。面と向ってそれを言うのは、さすがに酷だと思ったからだ。
 が‥‥‥。
 「おや、何をつまらぬ気遣いをしている」
 可笑しそうに、雪鴉が問う。
 「おまえと話していると、なにやら不患を相手にしているようで面白いな」
 くすくすと笑われて、殘雲は鼻白む。
 「やれやれ、殤の旦那はいつもこうやってあんたの相手をさせられてたワケか。気の毒に」
 殘雲がそう言うと、雪鴉は笑みを浮かべたままで、ふいと視線を外した。
 「さよう、気の毒なことだ。さんざんからかわれた挙句に、その相手をかばって命を落とすなど、気の毒すぎて笑うしかあるまいよ」
 そう言って笑った雪鴉の仄白い顔を、―――殘雲はなぜかまっすぐ見ることが出来なかった。


   * * *


 「凛さま。少しはお召し上がりあそばせ」
 丹翡が雪鴉のそばの卓に蒸籠を置いて、蓋を取った。蒸し上がったばかりらしい点心が、湯気を立てている。
 「ああ、丹翡どのか。そなたはいつも気が利くな」
 雪鴉は振り返って、ゆったりと微笑んだ。
 「殘雲は果報者だ。よい嫁を得た」
 「いえ、そんな」
 少し赤くなって丹翡は俯いたが、すぐに顔を上げて気遣わし気に眉を曇らせた。雪鴉の手元へ目をやる。
 「また、鳥文が戻ってまいったのですね。なんと言って寄越しましたの?」
 雪鴉はさっきから何度も眺めた小さな紙切れの文面に、今一度目をやった。そして小さなため息をついて微笑む。
 「やつの行方は、皆目知れぬようだ」
 鳥文が返ってくる度こうもがっかりさせられてばかりでは、さすがに気も滅入ろうというものであった。
 「しっかりなさいませ。そのようなことでは、いざという時に殤さまをお助けすることも叶いますまいに」
 丹翡が柳眉を寄せて、叱咤する。
 「ふふふ。丹翡どのはおかしなことを言う。わたしはこの通り、しっかりしているつもりだがね」
 雪鴉はそう言ってあしらおうとしたが、丹翡は引き下がらなかった。
 「ならばちゃんとお召し上がりなさいまし」
 丹翡の語気は強い。雪鴉がはぐらかそうとしたことに腹を立てているようだ、
 「おやおや、手厳しい。さぞかし殘雲は尻に敷かれているのであろうな」
 雪鴉が笑うと、丹翡は苛立って荒いため息をついた。
 「ご自分のお顔を、鏡で御覧あそばしたらいかがです?」
 そう言いおいて、ぷいと部屋を出て行ってしまう。

 「やれ、怒らせてしまったようだ」
 低く笑って、雪鴉は立ち上がった。
 「わたしの顔がどうだというのだ」
 小箪笥の上の手鏡をとって、覗き込んでみる。
 そして、深々と嘆息した。 
 「―――なるほど、確かにひどい顔には違いないね」
 鏡の中の、憔悴した自分にあきれ果てる。
 殤不患が命を落としたとて、それがどうだと言うのか。
 勝手に首を突っ込んで、勝手に庇ってくれただけだ。決して雪鴉が無理強いしたわけではないし、渠にはそうする義理とて別になかったのだ。
 (わたしのせいだなどと恨まれては困る)
 そうひとりごちてから、いや、と雪鴉はすぐさま否定した。
 恨んで化けて出てくるならば、それもまた一興というものだ。恨み言の一つも言いに来るがいい。
 でなければ―――。
 このまま会えぬなど、我慢がならぬではないか。
 (恨み言を言いたいのは、わたしのほうだ)
 こんなに早く、置いていかれるなどとは、夢にも思わなかった。あれほど強い男ならば、自分より先に死ぬことはあるまいと、まことはそう思っていたのだ。
 ひどいではないか、と思う。
 不患がおらぬ世などつまらぬ。この先の人生の半分、いや、それ以上に面白味が失せてしまう。
 だが。

 あと一羽―――。
 最後の鳥文が返ってきたら、それで諦めようと思う。
 出会う前の自分に返るだけだ。そう難しいことではあるまい。また面白い遊び相手を見つければすむことだ。
 そう思うのに。
 鏡に映る顔は、やはり今にも泣き出しそうに見えた。

 

   * * *



 「てめェ、なんだってこんな化け物に魅入られやがッた!?」
 すぐ後ろを走りながら、不患が喚いた。
 ひと月前のことである。
 「わたしとて好きでつきまとわれているわけではないよ」
 「嘘をつけ!」
 確かに原因は自分にありそうだ、と雪鴉は思う。
 虫の好かぬ悪党を見ると、さんざんに弄んで誇りを傷つけ、屈辱を与える。それが雪鴉の愉しみである。゜
 いま、雪鴉を追ってくるおぞましい化け物も、かつてそうした小悪党のひとりであったのだ。―――と思う。正直、ろくに覚えてもいなかった。雪鴉にとって、その程度の相手であったのだ。
 が、相手は心底、雪鴉を憎んでいた。わからなくもない。かの殺無生や刑亥とて、あれほど執拗に自分を殺したがっていた。
 小悪党の剣の腕は大したことがなかったはずだが、困ったことにどこから持ち出してきたものか、怪しげな妖剣を携えていた。無敵の剣を手に入れたつもりで、小悪党は意気揚々と雪鴉の前に現れたのだ。雪辱を果たさんと。
 が、悲しいかな、その男の内功といったらお粗末なもので、妖剣の力を制御できるだけの力などもとよりありはしなかったのだ。いともたやすく妖剣に身体も魂も乗っ取られ、男は暴走を始めた。
 姿かたちさえ醜くおぞましく変わり果てたそれの相手は、できれば御免こうむりたいと雪鴉は思ったのだ。
 (美しくないからな‥‥‥)
 美しくも面白くもない。
 もはや奪って楽しむだけの誇りすら、その化け物にはなかった。化け物は、なぜ自分が雪鴉を憎み、追い回しているかすら、もうよくはわかっていないのだろう。
 「逃げていても埒が明くまい。殤不患、お前、なんとかしたらどうだ」
 「ッ! こんな時だけ俺に振るな!」
 そう怒鳴られたが。
 「なにしろ生憎、行き止まりでね‥‥‥」
 ぴたりと足を留めた雪鴉は、止まり損ねた不患にぶつかられてつんのめる。
 「うわッ」
 「莫迦! 落ちるなッ!」
 断崖から足を踏み外しかけた雪鴉を、すんでのところで不患の手が抱きとめた。
 ふたりしてどうにか踏みとどまり、ほう、と息をつく。
 「畜生。ぞっとしねェがしょうがない」
 いつぞやの妖荼黎なんぞという魔神に比べれば、ほんの下等な化け物だ。
 「あの妖剣を制するよいものを見繕っておくれなのだね」
 不患が懐から出した魔剣目録を、雪鴉は興味深く見守った。
 「妖剣の力はほとんどあの化け物と一体化しているらしいからな。こいつでその妖力を吸わせるまでのこッた」
 目録から選び出した剣を、不患は素早く発現させる。一振りの威風堂々たる剣が、不患の手の中に現れた。
 「おや‥‥‥。これは美しいねェ‥‥‥」
 しげしげと見入ると不患に顔をしかめられた。
 「お前にはやらん!」
 「‥‥‥けちくさい男だな」 
 雪鴉のため息を無視して、不患は追いついてきた化け物を迎え撃つ。
 ほんの数合斬り結んだあと、不患はたやすく魔剣を化け物の胸に突き立てた。
 雪鴉は煙管をふかしてそれを眺めていた。
 化け物の身体から、緑青のような色をした妖しい光が立ち上り、それが魔剣を突き立てられた傷口へと渦を巻いて集まってゆく。
 妖力を吸い続ける魔剣を、不患は己の内力を使って抑えている。どくどくと、波を打つように魔剣へ化け物の力が飲み込まれていくのが、はた目にもよくわかった。化け物の身体から立ち上る光はやがて薄れ、その手の中にある妖剣は、すでにただの鉛の塊かのごとき鈍い色になっている。少しずつ干からびていく化け物に、雪鴉は眉をひそめた。
 「なんともまァ、死に際さえも美しくないとはな。小悪党の慣れの果てが、このぶざまなおぞましい化け物とは。哀れな末路よな」
 感に堪えず、雪鴉はそう漏らしたのだ。
 その刹那。
 くわっと化け物の双眸が見開かれた。
 「ッ!?」
 不患が異変に気付くよりも早く、激昂した化け物の身体が跳ねあがった。
 不患の魔剣にほとんどの力を吸い取られたというのに、自分への憎しみはそれほどに強かったと見える。胸を魔剣に貫かれたままの姿で宙を切るや、こちらをめがけて身を躍らせた。
 さてどうしたものかと悠長なことを考えた雪鴉の前に、次の瞬間、こともあろうに不患が立ちはだかっていた。
 「ぐうッ‥‥‥」
 不患の口から呻き声が漏れた。
 「不患!?」
 不患の腹に、妖剣が深々と刺さっている。
 ごぼっ、と不患の口から赤黒い血が噴き出した。
 支えようとした雪鴉の手を、しかし不患は振り払った。
 「どいてろ。このまま逃がせば、妖力を吸った魔剣のほうが暴走しちまう」
 不患は片手で化け物の胸に刺さった魔剣の柄を引っ掴むと、もう一方の手で己の拙剣を抜いた。
 この期に及んで木剣ごときで、と雪鴉はいくぶん狼狽えたが、不患は自分の腹に刺さった妖剣には構いもせず、必殺の気合を込めて、拙剣を化け物の額に突き立てた。。

 ぐあァァァァァァァァ―――――

 化け物の断末魔の悲鳴が響き渡る。
 そして、力尽きた化け物は、霧散する寸前、不患の上へと覆いかぶさったのである。
 「殤不患ッ!」
 化け物もろとも、不患の身体が崖から宙へ踊る。
 雪鴉は手を差し伸べたが、とても間に合わなかった。
 すでに化け物の姿は粉々になって風に散り、殤不患の身体だけが、真っ逆さまに深い谷底へと落ちて行ったのである―――。

   
 

   * * *
 



 雲一つない、高い青空を鳥が舞っていた。
 雪鴉はすぐにも手を上げて鳥を呼び寄せようとしたが、なんとなく気おくれがしてしばらく迷った。鳥は止まるべき場所のないままに、うろうろと頭の上を回っている。
 しかたなく、ゆっくりと腕を伸ばした。その手に、鳥が舞い降りる。
 長旅をしてきた鳥の背を撫でて、その脚から文を外す。指先が、少し震えた。
 文を開いて、雪鴉はその紙面に目を走らせる。そうしてしばらく、文字の上に目を落としたままでいた。
 やがて小さく息をついてから微笑を漏らすと、鳥を空へ放ってやる。
 鳥は、天高く舞い上がっていった。
 「おい。鳥文が届いたようだな」
 殘雲と丹翡が、駆け寄ってくる。
 振り返ってゆるやかに微笑んだ雪鴉に、殘雲が顔をほころばせた。
 「おっ。いい知らせだったのか」
 「よい知らせだったとも」
 雪鴉はそう答えて、鳥が飛び去ったほうを振り仰ぐ。
 「‥‥‥これでわたしも、明日ここを発てる」
 「殤の旦那の居所が知れたのかい? なんなら俺も一緒に‥‥‥」
 殘雲が身を乗り出したが。
 「そうではないよ」
 雪鴉は緩やかにかぶりを振って遮った。
 「もはや万に一つも殤不患が生きている見込みもないゆえ、ここで知らせを待つ必要もなくなったまでのこと」
 そもそも、ここへ来たのは、殤不患と落ち合えるとしたらここしかあるまいと踏んだからだ。はじめの半月、不患の落ちた谷底を皮きりに辺り一帯を探し歩いたが、その消息は杳として知れなかった。不患が自力で動けるならば、その内きっとこの聖域を訪ねるのではないか。そう思って、雪鴉はここへ来たのだ。
 ここで不患の帰りを待ちながら、雪鴉はこの半月、あらゆる手づるを使って不患の消息を尋ねたのである。
 「もうここへ戻る気もないゆえ、おまえたちも二度とわたしの揉め事に巻き込まれることもあるまい」
 そう言って微笑んだ雪鴉に、殘雲は怒気を露わにした。
 「殤不患ともあろう男が、そう簡単にくたばるわけがねェだろう? 俺は信じねェからな! 骸を見るまでは絶対に信じねェ!」
 足を踏み鳴らして主張する殘雲を、雪鴉は微笑みながら眺めた。
 「‥‥‥妖剣に腹を貫かれて、断崖から真っ逆さまに落ちたのだ。助かる見込みなぞ、はなから無かったのだよ」
 「けど、あんただって生きてると思やァこそ、こうやって何日も手を尽くして探したんだろうが」
 「まさに、未練であったねェ」
 他人事のように暢気な口調で、雪鴉はあっさりとそう言った。
 「しかし、これで諦めもつこうというものさ。あの男のことは忘れて、何か面白いことでも探さねば」
 呆然とする殘雲夫婦に、にっこりと笑みを残して雪鴉はその場をあとにした。 


   *


 莫迦な男だと思う。
 自分などに関わり合ったばかりに。
 いや、そうではあるまい。自分が勝手に、あの男を気に入ったのだ。
 「とんだ疫病神だったわけだね、わたしは」
 懐から取り出した珊瑚の簪に、雪鴉はそう囁いた。

 (気の毒な殤不患―――)
 紅い珊瑚玉を、そっと胸に押し当てる。

 すべては。
 自分の減らず口が招いた災いなのだ。



   * * *

 

 「凛さまは大丈夫でしょうか」
 丹翡がこの朝いく度めかの溜息をついた。
 「平気で次の面白ェことを探すなんぞとほざいてやがったじゃないか。ほっときなッて、今日にはここを発つと言ってるんだし」
 殘雲は肩をすくめて見せたが、丹翡の顔は晴れない。
 「最後の一羽を恃みに、今まで気を張っておいでになったのですもの。おひとりにするのは心配ですわ」
 そういうもんかね、と殘雲は首をかしげたが、間もなく妻が正しいと知ることになる。
 旅支度を整えて部屋から出てきた雪鴉の姿に、殘雲は胸を衝かれたのだ。
 たった一夜で憔悴しきったさまは、まるでつがいの片割れを亡くした鳥のようだ。常には艶やかな白銀の髪も、今朝はどこか色褪せて見えた。
 「凛さま。お発ちになるのはいま少し先でもよろしゅうございましょう?」
 外まで追って出た丹翡の問いに、しかし雪鴉は黙って首を横に振った。
 「今日は空模様もあまりよくありませんもの。途中で降られておしまいになるといけませんから、せめて明日になさっては」
 丹翡がなだめすかそうとするが、雪鴉は知らぬ顔で歩みを進めようとする。
 さすがに殘雲も眉をひそめた。
 「おい、あんた。口がきけなくなっちまったんじゃなかろうな」
 足を留めた雪鴉は、やつれた頬に淡い微笑を浮かべた。
 「口を開けば戯言や憎まれ口をたたきたくなる性分でな。少々慎もうと思っているのさ」
 「おいおい、口八丁の掠風竊塵が、喋るのをやめちまったら‥‥‥」
 殘雲が苦笑いしてそんな軽口を叩きかける間に、雪鴉の目はどこか遠くを見つめている。
 「ちょっとあんた、人の話を聞いて‥‥‥、なァ、凛の旦那?」
 雪鴉はもう、殘雲の声など耳に入っておらぬ様子だった。
 ただ一心に、ひとところを見つめている。

 「殤不患‥‥‥」

 雪鴉の唇から、その名が漏れた。
 「えっ」と夫婦は雪鴉の視線の先を振り返る。
 はじめは点にしか見えなかった人影が、やがて次第に近づいてきた。
 「殤‥‥‥さま?」
 丹翡が小さく驚きの声を上げた。殘雲の隻眼にも、その姿が見て取れる。
 ゆっくり歩んでくる姿は。
 すっかり髭麺になってはいるが、確かに殤不患その人に違いない。

 丹翡が駆けだした。
 「殤さま! ご無事で!」
 まるで抱き着かんばかりに殤不患のもとへ走り寄った妻に、殘雲は少々複雑な顔をしたが。
 「お行方が知れぬと聞いて、どれほど案じたことか」
 不患のそばへとたどり着いて、丹翡は両手で顔を覆った。
 「あァ、こいつはいけねェ。人の女房を泣かせる気は毛頭ねェんだ」
 困惑したように額を掻いて、殤不患は少し笑った。
 殘雲も駆け寄って、妻の肩を抱き、殤不患の胸を小突いた。
 「全く、心配させやがるぜ、旦那はよォ」
 「ああ、すまん。しかし、俺が行方知れずだなんぞと、よく知れたもんだな」
 少し不思議そうに不患が言う。
 「そりゃ、あんた‥‥‥」
 殘雲はちらっと後ろを振り返った。
 その視線を追った不患が、棒を飲んだように立ち尽くしている雪鴉に、ようやく気づく。
 そして、丹翡に言ったのだ。
 「あァ、客人だったのか。こいつは悪いところに来ちまったかな」

 「‥‥‥え?」
 丹翡が涙に濡れた目を瞠る。
 殘雲もはっとして不患の顔を見た。
 不患はふたりのいぶかる様子など、気にも留めていないようだ。
 「俺は勝手にやってるから、客人の相手をしてやってくんな」
 「ちょっとあんた、なに冗談言って‥‥‥」
 殘雲はおろおろして、今一度雪鴉を振り返る。
 雪鴉は凍り付いたように、動かなかった。
 蒼ざめた顔は強張って、紅い瞳は瞬きもせずに不患を見つめている。
 「凛さま」
 丹翡が、雪鴉のもとへそばへ駆け戻った。

 「凛さま、あの‥‥‥」
 どう取り繕ってよいかわからず丹翡が戸惑っていると、雪鴉は青白い頬に微笑を浮かべた。
 「どうやらわたしは、あの御仁にとって余計な存在のようだねェ。初手からいなかったも同然らしい」
 低く笑って、雪鴉がそう言う。
 「凛さま、そんなふうにおっしゃらないで。殤さまはお怪我のせいで、少し混乱なさっているだけですわ。しばらくお休みになればきっと」
 「おや、あなたや殘雲のことは覚えているというのに?」
 ふん、と雪鴉が小さく鼻を鳴らした。
 「きれいさっぱり忘れ果ててくれたのなら、何の遺恨もなくむしろさっぱりしようというものじゃないか。わたしはこのまま旅立てばよいだけのこと」
 「おい待ちなッて。このまんま別れ別れじゃあんまりだ」
 殘雲が言い、丹翡が雪鴉の袖を引く。
 雪鴉は顔を背けて、歩き出そうとした。
 殘雲は慌てて不患を顧みる。
 「ちょっ、殤の旦那。あんたからも引き留めてくれよ」
 「ええッ!? なんで俺が見ず知らずのその客人を?」
 不患が困惑した声をあげると、雪鴉はいよいよ頑なにを丹翡を振りきろうとする。
 丹翡は行かせまいと雪鴉の旅荷を掴んだ。
 「殤さま、後生ですから口添えしてくださいませ」
 哀願する丹翡の声に、不患も困って頭を掻いている。
 「しょうがねぇな‥‥‥」
 不承不承、不患が歩み寄ってきた。
 びくり、と雪鴉が動きを止める。
 「なァ、あんた。どこのどなたか知らねェが、ここはこの殤不患の顔を立てると思って、このふたりのいう通りにしてやっちゃァくれめェか」
 近づいてきた不患がそう言った途端、雪鴉の手が緩んで、旅荷をもぎとろうと躍起になっていた丹翡は勢い余ってどすんと殘雲に背中からぶつかった。

 「やれやれ、凛の旦那、思い直してくれたかィ‥‥‥」
 殘雲がほっと息をついた途端。
 不意に雪鴉が笑いだした。
 気でも触れたかと思うほど、激しく。

 不患は少々驚いてそれを眺め、殘雲と丹翡は痛ましい思いで見守った。
 やがて雪鴉は笑いをおさめ、疲れ果てたようにうなだれた。

 「刃無鋒どのの顔を立てろと言われては、そう無下にもできまいね‥‥‥。いましばらくは、ここにとどまるとしようか‥‥‥」
 そう言って、凛雪鴉はうっすらと微笑ったのだった。











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