東離劍遊紀

明けの鴉が啼くまでは (『東離劍遊紀』)

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『珊瑚の子守唄』の、雪鴉目線バージョンです。
『珊瑚の子守唄』は、あれはあれで自分的には過不足なく書いたので、わざわざ雪鴉バージョン作るのは蛇足なんですが、
まあせっかく書いたんでアップしておこうw


 「お頭。今度もまたこいつの口から出まかせでしたぜ」
 手下たちがうんざりした様子で戻ってくると、頭立った男は眉を怒らせ地団太を踏んだ。
 「貴様、本当に命が惜しくねェと見えるな」
 胸倉を掴まれて、凛雪鴉はにっこり微笑んだ。
 「すまぬすまぬ、悪気はなかったんだ。なにしろわたしも盗賊稼業が長いものでね。何をどこへ隠したやら、記憶がさだかではないのさ」
 「こいつめ、よくもぬけぬけと!」
 腹をしたたかに蹴られた。幾度も幾度も蹴り込まれて、雪鴉は血反吐を吐いた。
 「お頭、殺すにゃ惜しい玉ですぜ」
 傍らで見ていた手下が、下卑た笑いを浮かべる。
 「そうさな」と頭目は舌なめずりをした。
 「いいだろう、縄を解いてやんな」
 縛めは解かれたが、抗う力などもとよりありはしない。このひと月にわたって痛めつけられた身体は既に襤褸襤褸で、手足は毒で痺れて言うことをきかない。その上これだけ血を吐いたのでは、息をしているのがやっとのありさまだ。
さすがに少々戯れが過ぎたやもしれぬな、と思う。思いはするが、べつだん後悔はない雪鴉である。充分退屈しのぎにもなったし、お山の大将を気取るこの男を大いに振り回してもやった。楽しませてもらった以上、文句はない。
 ただ、その代価は高くつきそうだ。
 目の前の男に押し倒されるに及んで、雪鴉はやれやれと溜息をついた。何をされるかなど、容易く想像がつく。この姿に生まれついたことが、そもそも災いの種であるのだから。
 雪鴉は従容として男に身を任せた。
 躰くらいは、いくらでも好きにするがいいと思う。こんなことで傷つけられるような、柔な誇りは持ち合わせておらぬ。この程度でいちいち嘆いていては、少年のころにもう気が触れていたことだろう。


 手下どもにまでさんざんに蹂躙されて、雪鴉は襤褸ぎれのように転がっていた。
 「まだ死なせるな」と頭目の声がした。
 「あの殤不患とかってェ野郎を呼び出すための、大事な人質だからな」
 そう聞いて、雪鴉は伏せていた睫毛を開いた。
 「‥‥‥魔剣目録の在り処は、‥‥‥わたししか知らぬと言ったはずだが?」
 その声に、男たちはぎょっとしたように雪鴉を見下ろした。
 「てめェ、まだ口がきけるとは恐れいったぜ」
 半ばあきれ、半ば気味悪そうに、頭目がそう言ってひきつった笑いを見せた。
 「だが、もうその手には乗らねえ。さんざん俺たちを虚仮にしやがって」
 男のつま先が、うつぶせになった雪鴉の腹をちょいちょいと軽く蹴る。
 「てめェははなッから目録なんぞ盗んでやしなかったのさ。だろう?」
 男の足で、ごろりと体をひっくり返されて、雪鴉は仰向けに転がった。その無防備な体勢でさえ、雪鴉は笑みを浮かべずにおれぬ。
 「やれやれ、ようやく気づいたか。‥‥‥だが、言っておこう。わたしは人質としては、少々不向きかもしれぬよ」
 くくく、と笑った雪鴉に、男が眉をひそめた。
 「どういう意味だ」
 「なにしろ殤不患は‥‥‥、わたしを嫌っているからねェ」
 そう口にして、雪鴉はひどく胸が痛むのを感じた。
 そうだ。自分はさんざんあの男を利用し、からかい、翻弄した。そんな自分の窮地に、不患が果たして助けになど来るものだろうか。
 「ほう。そいつは気の毒だな。貴様が身体を張って奴をかばったというのに、あちらは知らん顔ッてかい?」
 男の意地の悪い言いように、雪鴉は少し目を瞠った。
 「わたしが身体を張って庇った? 誰を?」
 「殤不患に決まっているだろう? 奴から俺たちの目を逸らせる為に、てめえはこのひと月、自分の命も顧みねェで出まかせを吐き続けたんだろうが。健気なこッた」
 言われて雪鴉は少し眉根を寄せた。そんなふうに言われるのは不愉快だ。それではまるで、好いた男の為にわが身を犠牲にする、しおらしい乙女のように聞こえるではないか。
 「なにやら勘違いしておいでのようだね。わたしはお前たちと遊ぶのが面白かっただけのこと。おまえがいちいち喜んだり怒ったりするさまが可笑しくて、ついつい遊びに興じたまで‥‥‥」
 雪鴉が皆まで言い終えぬうちに、男の足が雪鴉の腹を踏みにじった。
 「貴様、本気で死にてェのか」 
 「‥‥‥ッ、わたしを生かして人質にするんだろう?」
 雪鴉がそう言って笑い、ごぼりと血を吐くと、男は忌々しそうに腹から足を下ろした。
 身をよじってしばらく咳き込んでから、雪鴉は尚も笑った。
 「‥‥‥だが、おまえとの遊びにも飽きたな。そろそろ潮時だ。‥‥‥殤不患が助けに来てくれればよいが‥‥‥。望み薄であろうな‥‥‥」
 そう言って、ちらりと男の顔を見上げる。男は怒りで、顔を真っ赤にしていた。
 「ほざいてやがれ。どうせ貴様も殤不患も、ここから生きて出られるなぞと思わぬことだ」
 「さて、どうなるやら‥‥‥、お楽しみだね」
 こんな小悪党どもなど、不患の敵ではない。自分とて、常ならば歯牙にもかけぬ輩である。
 そんな連中が、不患と自分を生かして返さぬと大言を吐くなど、莫迦莫迦しいことこの上もない。生きてここを出られぬのは、果たして誰になるであろうか―――。
 
 
 再び両手を縛られて、雪鴉はぐったりと冷たい床に転がされていた。どのみち逃げる力など残してくれてもおらぬくせに、念の入ったことである。
 さて、と雪鴉は息を吐いた。深く呼吸するだけで、胃の腑から熱い塊がせり上がってきそうになる。体中が、疼いた。
 縛められた状態ではあっても、少しは眠っておかねばと思う。
 不患が来たときに、あんまりぶざまな姿はさらしたくない。―――そう考えて、雪鴉は思わず己を嗤った。
 ほんとうに、助けに来るなどと思っているのか、自分は。
 (わたしも随分おめでたい)
 それに。
 充分ぶざまではないか、と思う。
 笞で打たれた傷ばかりではない。幾たりもの汚らしい男どもに、この躰は深く抉られたのだ。―――そこまで考えて、雪鴉はわずかに首を振った。
 それが何だと言うのだ。生娘でもあるまいに。
 くすりと笑って、目を閉じる。
 いずれにしても、眠っておくに如くはないのだ―――。



   * * *



 「おや。まさか本当に来るとは、どこまでも呆れた男だね、おまえは」
 我知らず、笑みがこぼれた。
 心のどこかでわかっていた。たとえどれほど自分を嫌っていようと、不患は恐らく助けに来る。殤不患とはそういう男だと。
 わかっていながら、自分に言い聞かせていたのだ。あてにするなと。あてにしなければ落胆することもない。
 縛めを解いてくれる不患が、やけに頼もしく見えて笑える。
 「あの連中ときたら、身の程知らずにも程がある。魔神すら時空の彼方へ飛ばしてしまうような御仁に挑もうというのだから、無知ほど恐ろしいものはない」
 不患の顔を見るとそれだけで心が浮き立って、つい饒舌になる。
 なにはともあれ、さっさとこんな所から退散しよう、と足を前に出そうとして、膝にまるで力が入らないことに気づいた。不患の太い腕に支えられる。
 これでは掠風竊塵の名も泣こうというものだ。
 不患に毒消しをとってきてもらい、それを飲み下す。さすがに、たちどころに効くというわけにはいかぬらしい。不患に支えられ、無駄口を叩きあっている間に、ようやく手足のしびれが和らいできた。
 傷の痛みは、耐えればすむ。これまでとてそうやってやり過ごしてきたのだ。
 こうして肩を貸してくれる相手がいるだけ、上等である。

 足元の悪い山道を下りながら、不患が不平を唱えた。
 「こら、あんまり凭れかかるな。重てェだろうが」
 「重いはずがなかろう? このひと月、粗食に甘んじてきたのだから、目方はだいぶ減ったはずだが?」
 わざと力を抜いて重みをかけてやると、不患は不機嫌な顔をしながらもしっかりと脇を抱えてくれる。
 黙ってしまった不患に、すこし不安になって雪鴉はその顔を盗み見た。
 「怒ったのか?」
 凭れかかっていた身体を、雪鴉は心持ち不患から離そうとする。
 「うるさい」
 離れかけた躰をぐいと引き寄せられた。
 「黙って寄りかかってやがれ」
 本当に機嫌を損ねているらしいのがわかって、雪鴉はさすがに口をつぐんだ。
 「まったく‥‥‥」
と吐き捨てるように不患が言う。
 「なにが目方は減ったはず、だ。こんなに痩せちまう前になんで俺を呼ばねェ」
 不患の手は、雪鴉の脇腹を支えている。すっかり肉の落ちた身体をじかに感じたのだろう。
 幾分ばつが悪くなって、雪鴉も黙った。
 すると今度は、不患のほうが顔をこちらに向けてくる。
 「おい。口もきけねェほど痛むのか?」
 言葉は乱暴だが、気づかわしげな声音だ。
 「困ったお人だね。おまえが黙れと言ったから黙っているだけなのだが」
 そう答えたが。
 「人の言うことをしおらしく聞く玉でもあるめェに。‥‥‥お前が大人しいと、調子が狂う」
 「ならばどうしろと言うんだ」
 深々とため息をついた拍子に、腹がひどく痛んで思わず前かがみになる。
 「おい?」
 「‥‥‥大丈夫だ、なんでもない」
 笑って見せたが、どっと脂汗が吹き出した。
 「町まで戻れそうにねェな」
 見かねた様子で不患がそう言ったが。
 「野宿なぞは御免こうむりたいね」
 まともな宿のあるところまで這ってでも行くと主張したが、とりあってもらえなかった。
 「この先に、古い祠があった。どうにか人二人くらいは入れるだろうから、今夜はそこで辛抱するンだな」
 不患の言葉に、しぶしぶうなづく。屋根のあるところで眠れるだけでも、ましと言うものであった。
 
 
   * 


 目覚めると、不患の姿がなかった、
 置いていかれたのだろうかと、少し心細くなって、雪鴉は身を起こした。
 そんな自分を、笑いたくなる。助け出されただけでも、上出来ではないか。
 さて、これからどうしたものかと思う。
 頭の芯は重いし、体中がひどく痛むが、動けぬほどではない。とはいえ、この格好では街へ出るのも憚られる。それより、何か食わねばとも思うが、さんざんに腹を蹴られたせいで、胃の腑が痛んで食欲がまるでない。第一この身体で獲物など捕まえられもすまい。せいぜい草の実でもかじるのが関の山だ。
 ならば、と雪鴉はひとつ息をついた。急ぐ用があるわけでなし。もうひと眠りして体を休めておくか、と開き直って、小さな欠伸を噛み殺した途端、祠の扉がきしみながら開いた。
 薬草の束と野兎をぶら下げた不患が、祠の狭い扉を入ってくる姿は、どこか微笑ましく、愛嬌があった。
 嬉しくなって、さっきまでの心細さもどこへやら、やはりついつい減らず口をまくしたててしまう。それから雪鴉は、着替えをねだった。
 持ち合わせが少ないと言いながらも、衣を調達しに行くことを承知した上で、不患は何くれとなく雪鴉の世話を焼いてくれた。
 その様子が面白くて眺めていると、不患が眉を寄せてこちらを向く。
 「何を見てやがる」
 「なかなか甲斐甲斐しいと思ってね」
 薬草をすりつぶす手際も、どこから拾ってきたものか古びた鍋で兎の肉を煮込むさまも、ひどく好もしい。
 「丸焼きにしたほうが美味いんだが、まだ肉に食らいつく元気がねェだろうと思ってな」
 そんなことを言いながら、これもどこからか調達してきたらしい欠けた椀に、肉を汁ごとよそってくれる。
 肉の匂いに、また吐き気がした。
 口元を押さえた雪鴉を、不患が見とがめる。
 「食えそうにねェなら、鼻をつまんで汁だけでも飲んどくんだな。少しは精がつく」
 不患の言うことももっともだと、雪鴉は吐き気を堪えて肉の煮汁をすすった。

 少しうとうとして目覚めると、幾分具合もよくなっていた。
 これならどうにか動けそうだ。
 丁度、不患が着替えを買って戻ってきた。
 「ほう。女物を買ってきたのか」
 不患の買ってきた古着は安物の生地には違いなかったが、色柄は雪鴉の趣味に合っていた。
 (野暮な男だと思っていたが、存外見る目があるらしい)
 機嫌をよくして、雪鴉は着物を手に取った。
 と、荒ら筵の上へころりと転がったものがある。
 ―――紅い珊瑚玉の、簪だった。
 店の親爺が勝手に付けたというそれは、一目で紛い物とわかる玩具同然の代物だったが、意匠はそれなりに凝っていて、雪鴉は「ふうん」と微笑んだ―――。
 
  

   * * *



 ―――まずいな、と思う。
 頭が、ぼんやりしてきた。
 不患の贖ってきた衣を着て町へ出て、人さまの懐から拝借した金子で瀟洒な衣を手に入れた。着替えを済ませて、ようやく人心地ついたと思ったら、途端に具合が悪くなってきたのだ。
 胃の腑はむかむかするし、頭がぼおっとして、雲を踏んでいるような心地がする。
 不患は派手ないでたちの自分と並んで歩くのをいやがって、少し遅れてついてくる。
 夕暮れの涼しい風が火照った頬を撫でてくれるのが、せめてもの救いだ。
 「―――雪鴉!」
 不意に。
 腕を、つかまれた。
 ぐい、と後ろへ引き寄せられた瞬間、鼻先を掠めて行ったものがある。
 (―――吹き矢!?)
 失態であった。
 不患が腕を引いてくれねば、丁度耳の後ろ辺りにその小さな矢は刺さっていたはずだ。
 雪鴉はごくりと唾を呑んで、息を整えた。
 「やはり持つべきものは友だな」
 ゆっくり振り返って微笑むと、ぼやッとするなと怒鳴られた。
 好きでぼやっとしていたわけではないが、とにかく不患のおかげで命拾いをした。
 忽ち幾たりかの刺客に囲まれ、不患が拙剣を抜き放った。
 拙剣は、木剣である。己の剣技におぼれて軽々しく剣を振るうことを戒めるため、不患は木剣を携えているのだ。
 それでも殤不患であれば、小悪党どもの相手など拙剣一本で充分であると、雪鴉はよくよく知っている。
 (もとより今のわたしでは役に立ちそうにもないのでね)
 苦笑いして、雪鴉は脇へと退いた。
 不患の拙剣が、ひとり、またひとりと刺客を屠るさまは、何とも小気味よい。なにしろ得物が木剣であるから、いちいち強い気を込めて振るわねばならぬ。それゆえ見た目にも武骨で鋭さにも欠けるが、不患の深い内功が、はたで見ている雪鴉にも痛いほど伝わってくるのだ。
 「―――!」
 突然、風を切る音がした。雪鴉も、今度はそれを聞き逃がすものではない。
 不患が吹き矢を剣で叩き落すのと同時に、それが放たれた方へと、雪鴉は己も懐の得物を投げ放っていた。
 吹き矢の主が短く悲鳴を上げてぐらりと屋根からその身を傾け、屋根瓦と共に音を立てて地に落ちる。
 男の首に刺さったものを見て、不患が雪鴉を振り返った。
 「着物と一緒に捨ててきたんじゃなかったのか」
 残った刺客たちへ剣を振るいながら、不患がそう問うてくる。
 男を絶命させたそれは。
 珊瑚玉の簪、であった。
 新しい衣を買って着替えた折に、不患の贖ってくれた着物は脱ぎ捨ててきた。だが。
 「護身用になるかと思ってね」
 そう答えたものの、気恥ずかしくて雪鴉は顔を背けた。
 ほんとうは。
 手放しがたかったのだ。
 玩具同然の簪を後生大事にとっておくなど、自分らしくもない。
 それでも、捨てることができなかったのだ。

 刺客はすでに、一人残らず斃されていた。
 不患が骸の首から引き抜いた簪を、屍の衣の裾で拭って差し出してくれる。
 「護身用なら、しまっときな」
 雪鴉はゆっくりと手を伸ばして、それを受け取ったが‥‥‥。
 指と指とが触れ合ったとき、不患ははっとした様子で眉をひそめたのだ。
 「おい。おまえ‥‥‥」
 雪鴉もまた、ぎくりとして指をひっこめたが、既に遅かった。
 己の指の燃えるような熱さに、気づかれてしまったのだ。  



   * * *



 体中の傷が、熱を帯びて疼いていた。
 夜中に目覚めたときには、だいぶ楽になったと思っていたのだ。
 傍らで腕組みしたまま転寝している不患の姿が微笑ましくて、安心してまた目を閉じたのだ。
 それが明け方になって、またひどく苦しくなってきた。
 眼を開けて、雪鴉は不患の姿を求めた。
 今度こそ置いていかれたかと、またぞろ不安になる。思えばこのところ、見捨てられる心配ばかりしている。そんなしおらしさなぞ、もうずっと昔に捨て去ったつもりであったというのに。
 たったひとり、この身一つで江湖を渡ってきたのだ。これから先もそうするものと、思っていた。
 憂きことばかりの江湖とて、その気になれば愉悦に満ちてもいるものだ。面白おかしく生きねば、生まれてきた甲斐もあるまい。
 殤不患との出会いも、雪鴉にとって愉快なことこの上もなかった。どこか世を拗ねたようなうわべとは違って、情義に篤く心根のまっすぐな不患をからかうのは、面白くてならぬ。
 けれど、その楽しみとは裏腹に、常に別れへの不安もつきまとうようになったのだ。
 まるで、子供ではないか、と思う。
 自分の中にこんな『情』が眠っていたなどと、思いもしなかった。

 熱を持った傷の疼きにも構わず、雪鴉は無理矢理身体を起こした。
 部屋の中はしんとして、人の気配もない。
 手の中に握りしめたままだったものを、見下ろす。
 紅い珊瑚玉が、暗い部屋の中でもくっきりと浮かび上がって見えた。
 「不患‥‥‥」
 もう一度、その名を呼んだとき。
 部屋の扉が開いた。昨日の朝と同じように。
 雪鴉は簪を懐に忍ばせた。
 「ああ、目が覚めたのか」
 今度は薬草や兎ではなく、盥と水差しを携えている。
 「殤不患‥‥‥」
 「どうしたィ、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして」
 少々驚いた様子で、不患が言った。
 部屋に入ってくると、卓の上へ盥と水差しを置く。
 そのさまを目で追いながら、雪鴉は力なく笑った。
 「―――置いていかれたかと、思ってね」
 そう言うと。
 「はァ?」
と不患は頓狂な声を上げた。
 「そうしたかったのは山々だが、生憎、熱にうなされている病人を放っていくだけの度胸がなくてな。見捨てたあとでくたばられでもした日にゃァ寝覚めが悪すぎる」
 せっかく素直に心細かったと言ってやったのに、色気も何もあったものではない。雪鴉は少しむっとして言った。
 「確かに、化けて出るくらいのことはするかもしれない」
 「だろう?」
 にやりとして、不患は雪鴉の枕の傍に丸まっている手巾を手に取り、盥の水で絞る。 
 「そら、水を汲みかえてきた。冷やせば少しは楽になるだろうよ」
 そう言った不患の手巾を持つ手に、雪鴉はそっと指を伸ばした。ふわり、とその手を握ると、不患が眉を顰める。
 「お前の手まで濡れちまうぞ」
 「―――冷たくて気持ちがいい」
 雪鴉は不患の手を持ち上げて、自分の頬に当てた。うっとりした気分になる。
 「熱が高いからな。いいから横になってろ」
 無慈悲に手を払われて雪鴉は苦笑し、素直に横になった。
 その額に、不患の大きな手がそっと置かれた。
 「どうだ、気持ちいいだろう?」
 いつになく、優しい声でそう言われて、どきりとする。

 冷たくて。
 ―――涙が出そうになる。

 雪鴉は黙って目を閉じた。

 「おい、おまえに黙られると調子が狂うと言ったろうが」
 自分とて、常の如く皮肉のひとつも返したいのに、あまりに満たされていて、言葉など見つからなかった。
 「―――大丈夫か?」
 労りの言葉が、今日は素直に胸に沁みる。    
 雪鴉は浅くうなづいて、そっと瞼を持ち上げた。
 心配そうな不患の顔が、すぐ近くにある。

 『少しは信用しろ』と、昨夜、不患はそう言い、『しているとも』と雪鴉は答えた。
 だが、ほんとうは、いつ見離されるかと常にびくびくしていたのだ。
 しかし、それも今はもう余計な心配だと思う。
 たとえ明日、別れ別れになろうとも。いまこの刹那の優しさを、自分はきっと忘れぬだろうから。

 「殤不患‥‥‥」
 我知らず、唇が友の名を口にする。
 「なんだ? どこかつらいか? 何かしてほしいか? あァ、水でも飲むか?」
 少し狼狽えた様子の友が可笑しくて、ますます幸せな気分になる。
 雪鴉はゆるゆると首を振った。

 「お前が、そばにいてくれるだけでいい―――」

 万感の想いを込めて、そう微笑んだ途端。
 不患がなんとも言えぬ表情をした。
 「おまえ―――。人が本気で心配してやってるのに、そんな冗談が言えるなら上等だな」
 「え‥‥‥」
 ぴしゃ、と額に手巾が乗せられる。
 「不患、わたしは冗談など‥‥‥」
 本気でそう思ったのだと言い訳したかったが、やめておくことにする。
 これまでの自分の言動を考えれば、いまさらそんなしおらしい言葉が通用するはずもない。ならばいっそ、これまで通り。
 「不患、わたしが眠るまで、手を握っていてはくれないか」
 からかうような口調でそう言うと、不患は忽ち大袈裟に溜息をついた。
 「生憎、野郎の手を握って子守唄を歌ってやるほど、俺はおめでたい人間じゃねェんでな」
 心底嫌そうにそう言うさまがあまりにもこの男らしくて、雪鴉は目を細めた。

 このままで。
 このままでいい、と思う。

 口を開けば皮肉と悪態の応酬で、それでもきっとこの先も、ふたりのゆく道は交わりあいながら続いていくだろう。
 多くは求めまい。
 あの雨の日の、この男との出会いに感謝するだけだ。

 いつの間にか胃のむかつきも治まっていた。
 何のかのと言いながら、不患は牀台のそばの椅子にどっかりと腰を下ろしてくれる。
 雪鴉は、懐に忍ばせた簪を、衣ごしにきゅっと握った。 

 不患の姿がそばにあって。
 不患のくれた簪がこの手にある。
 ほかに何を望むだろう。

 夜が明けきるまで、今少し眠ろう、と雪鴉は目を閉じた。
 明けの鴉が朝を告げるまで、幸せな夢をむさぼるのだ。

 やがて、とろとろと、雪鴉は眠りに引き込まれていった―――。



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