琅琊榜

希望 (『琅琊榜』 #54 補完)

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出陣に当たって、少しは希望があってもいいのかなと。

 その刹那、顔に血が上るのを感じて、景琰は思わず俯いた。 
 言いようのない敗北感が、胸の内に膨れ上がる。悔しさに、奥歯を噛みしめても尚、その思いは行き場を求めて体の中を駈け巡る。
 「ご苦労だった。隊列へ戻れ」
 努めて平静を装い、低くそう命じる。
 恭しく一礼して下がろうとする相手へ、思わず厳しい口調で言い添えた。
 「髪は縛れ。兜を着けよ」
 目を上げた相手が、微かに笑ったように見えて、景琰は更に屈辱感を覚える。もう一言、何か言ってやりたかったが、林殊の手前、かろうじて堪えたのだ。

 「景琰。なにか気に障ったなら、わたしから謝る。あれは江湖の者ゆえ、おまえから見れば無礼なところもあろう」
 藺晨の姿が見えなくなってから、林殊がそう言った。
 「ああ見えて頭も切れるし、腕も立つ。軍紀は乱さぬよう、わたしが目を光らせるゆえ案じることはない」
 そう言い訳する林殊に、傷口に塩を塗られた心地がして景琰は苛立つ。それでいて無理矢理、片頬で笑って見せた。
 「わかっているとも。あの者はおまえの命を預かる大事な男だ。何も案じてなどおらぬし、気に障ったわけでもない」
 「景琰」
 林殊が困ったような顔をする。
 「ならば、何を怒っているのだ」
 「怒っている? わたしが?」
 哈! と短く、景琰は笑った。
 「誰が怒っていると? 埒もない取り越し苦労をするようになったものだな。長年、梅長蘇などを演じたせいか?」
 言ってから、はっとして景琰は口を引き結んだ。
 なんという嫌味な物言いをしてしまったものか。病身に鞭打ってこれから出征しようという友に、こんな心無い言葉を浴びせるなど、自分にあきれてものが言えぬ。
 「すまぬ。気にしないでくれ」
 慌ててそう言ったが。
 林殊はため息混じりに微笑んで、心持ち目を伏せた。
 ずきり、と景琰の胸が痛む。
 こんな表情を、かつての林殊はしただろうか。
 あの快活で、奔放で、強気な林殊が。
 「十三年は、長すぎたようだ」
 林殊がそう言って仄かに笑う。
 「そんなことはない! たかだか十三年が何だというのだ。わたしにとってお前は今も変わらずわが友・小殊だ」
 思わず声を荒げたが、林殊はもう微笑さえおさめて、冷徹な謀士の顔に戻っていた。
 「殿下。これより蒙大統領の旗下にて出陣いたします。必ずや大渝を押し返して御覧に入れましょう」
 深々と頭を下げ、林殊は踵を返そうとした。
 その肩を―――-。
 景琰は強くつかんで引き戻した。  
 「小殊!」
 甲冑に身を包んだ友の身体を、景琰は思わず抱きしめていた。
 「殿下‥‥‥、景琰?」

 
   *


 あの男が、妬ましかったのだ。
 林殊と親し気に軽口を叩き合うさまに、自分は嫉妬したのだ。
 己の知らぬ、林殊の十二年を、あの男は知っている。
 己にはどうにもしてやれぬ林殊の身体を、あの男だけが癒してやれる。
 
 そもそも、礼を言うつもりで呼んだのである。
 林殊の病を最もよく知る医者が、此度の遠征に志願し、林殊の親兵として従軍するのだと蒙摯から聞かされ、どうしても会っておきいと思った。
 林殊が今日まで命をつないでこられたのも、その者の医術の腕があってのことだ。そして、過酷な戦地で林殊を支えてゆけるのもまた、その者をおいてほかにない。これまでの礼を言い、今日からのことをくれぐれも頼みたかった。それゆえに、出陣前の慌ただしいさなかに、そば近く召し出したのだ。

 その男・藺晨は、甲冑を身に着け、型どおりに膝まづいて拱手こそして見せたが、その態度はどこか嘘臭く、ふてぶてしい。それでも、正規の兵ではないのだからやむをえまいと、景琰はさほど気には留めなかった。景琰自身、都で四角四面の軍紀に縛られ、形ばかりの調練に終始する輩とは違い、常に最前線にあって臨機応変に才知を働かせて戦い抜いてきた武人である。一目で、この男の武芸の高さと気骨を見抜くくらい雑作もなかった。
 「江湖一の医者と聞き及ぶ。北の戦場は厳しい地だ。小殊のことをくれぐれも頼みたい」
 膝まづいている藺晨を立たせ、景琰は間近く寄ってその手を取り、そう言った。
 が。
 「医者が本業というわけでもないが、皇太子殿下御自ら頭を下げてなどいただかずとも、この男のことは私が一番よく心得ておりますれば」
 初めて対する皇太子に気おくれするでもなく、顎を聳やかせ、眉を少しばかり上げて、しゃあしゃあと藺晨は言ってのけたのだ。
 同時に、林殊が小さく笑った。
 「大した自信だな」
 「当たり前だ。何年お前と共に過ごしたと思っている。飛流を連れて共に旅をする約束も、まだ生きているのだ。なんとしても戦場から生かして連れ帰るぞ」
 藺晨が林殊ににやりと笑みを返すのを、景琰は最後まで見ていられずに、目を伏せたのだ。
 

   *

 
 腕の中の林殊が、わずかに身じろぐ。
 少し身体を離してその顔を見ると、林殊の瞳が心もとなげに揺れていた。先刻、あの男に向けた笑みは、昔の小殊のように悠々として屈託がなかったというのに。
 「戦から戻ったら、あの男と旅に出るのか」
 そう問わずにおれなかった。
 林殊は少し驚いたように目を瞠ってから、その視線をわずかに外した。
 「飛流に、猿を見せてやると約束したゆえな」
 そう言って、林殊は後ずさる。背中を向けて、大梁とその周辺諸国が描かれた大きな地図へと歩み寄った林殊を、苦い思いで景琰は見た。
 「‥‥‥わたしには、お前の身体を治してやることも、共に旅をして労ってやることも出来ぬ。役立たずの友だ」
 つい、拗ねた口ぶりになる。驚いたように林殊が振り向いた。
 「莫迦を言うな。お前はわたしが最も願うことを背負ってくれたではないか」
 慌ててそう言う林殊の顔に、景琰は恨めし気な眼差しを返さずにはいられない。しばし友の顔を見つめてから、深く息をついた。
 「―――悔しいのだ」
 こらえようとしても、眉が寄る。少し俯いて顔を背けながら、それでも景琰は本音を口にした。何でも言っておきたい。次はいつ会えるとも知れぬのだ。
 「あの男は、自分が一番お前のことをわかっていると言った。わたしとて、自分が誰よりもお前をわかっているつもりだったというのに」
 林殊本人に言ったとて、詮無い繰り言ではあった。林殊は困ったようにそこに立っていた。
 「おまえが最も苦しんだ十二年を、わたしは知らぬ。そして、これからのお前に寄り添って生きることも叶わぬ」
 景琰は目を閉じ、息を吸った。その息を、しばし堪えてから吐き出す。
 己の心など、既に分かり切っていた。
 「笑いたくば笑え。―――わたしは、あの男を妬んでいるのだ」

 目を閉じていても、林殊が俯くのがわかった。
 困らせているのはわかっている。林殊にとて、どうにもできまい。
 それでも、もてあましてしまったこの気持ちは、林殊に向かって吐き出す以外に持っていきようがないのだ。平気なふりをして林殊を送り出すことも、やってできぬことはあるまいが、今は自分の気持ちを素直に明かしたかった。
 小さな吐息が聞こえて、景琰は眼を開けた。
 目の前に林殊の顔があり、冷たい手が自分の手を握ってくれる。  
 「景琰」
と、林殊は深く情の籠った声音で呼びかけてくれる。
 「たとえ身は離れても、私の心はお前の傍にとどめよう」
 そう言ってから、林殊は微笑した。
 「‥‥‥なに、永の別れでもない。戦から戻ったら、存分に酒でも酌み交わして別れよう。そして言ったろう、数年たったら会いにくると。その頃にはわたしもすっかり丈夫になって、あの大弓とて引けるようにもなろう」
 穢れのない、笑みだった。
 心から信じたいと思わせてくれるような。

 それゆえに。
 景琰もまた、笑って頷いた。
 「そのためには、あの男にはせいぜい働いてもらわねばな」
 「そうだとも」
 二人で笑いあい、肩をぶつけ合った。

 そうだ。
 林殊にとって北の戦場は庭も同じ。三月もあれば凱旋しよう。
 たった三月。
 あの十二年の歳月を耐えたのだ。三月が待てずになんとしよう。

 互いの背中を預けて、共に戦場で戦うことは叶わずとも、自分はここで林殊の帰る場所を守る。それもまた、友情ではないか、と景琰は己を慰めた。

 「行ってくる。戦勝祝いの酒を見繕っておいてくれ」
 今度は蘇哲としてではなく、林殊として、友は軽く手をあげ、屈託のない笑みを残して踵を返した―――。



   *  *  *



 「藺晨」
 振り返った藺晨の顔を見て、梅長蘇は小さく吹き出した。
 「なにが可笑しい」
 「いや‥‥‥」
 笑いをおさめようとして口を引き結んだが、やはりまた頬が緩んでしまう。
 「そこまで似合わぬとは」
 堪えかねてそう言うと、藺晨は不機嫌な顔つきで腕組みをした。
 「似合わぬことくらい自分でよくわかっている。だが、しかたあるまい。皇太子の命とあらば」
 大体、小さすぎるのだ、と頭にかぶった兜を脱いで、藺晨は長い髪を捌き、こめかみを揉んだ。  
 「それはともかく。充分、名残を惜しんできたか」
 そう尋ねられて、梅長蘇は微笑した。藺晨がふんと鼻で笑う。
 「どうせわたしの悪口でも言っていたろう、水牛殿下は」
 「おかげで景琰も信じただろう、お前が意地でもわたしを生かして連れ戻ると」
 そう言った途端、藺晨に睨まれた。
 「おい、あれは方便でもなんでもない、本気で言ったのだぞ」
 藺晨は眉を寄せたまま、少し微笑った。
 「わたしをただのお調子者だと思うな。まだ三月あるのだ。そう簡単に諦めはせん」
 梅長蘇は瞬いて、それからまた、くすりと笑った。
 「往生際の悪い男だな」
 「わたしが往生するわけでもなかろうが。おまえを簡単に往生させる気がないだけだ」
 藺晨の言いように可笑しくなって、梅長蘇は笑いながら俯いた。
 「まあ、覚悟しておけ。三月後にまた水牛どのと別れの愁嘆場を演じさせてもやるし、旅に引きずり出してもやる」
 梅長蘇は頷き、真っ直ぐに藺晨の顔を見た。
 「頼りにしている」
 微笑んで藺晨の肩を叩き、自分の馬を繋いだほうへと歩み出す。

 よき友らを持った、と思う。
 藺晨も、景琰も。
 これほどまでに、信じてくれる。
 この自分に、限りない明日が訪れることを。
 ならば。
 自分も信じてみたいと思う。
 友らと笑いあう日々が、まだ尽きはせぬことを。

 馬に跨った梅長蘇のそばへ、霓凰が馬を寄せてきた。
 今生で妻にすると、たやすく口にすることはできずとも、その行く末をせめて陰ながら見届けてやりたい。
 生きて、戻るのだ。
 北の戦を勝利に導いて。

 生きて都に戻り、改めて景琰に別れを告げて、この身は江湖に生きてゆこう。

 (頼むぞ、藺晨)

 今一度、口辺に笑みを浮かべてから、梅長蘇は軽く馬の腹を蹴った―――。



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~ Comment ~

ずっと楽しく読ませて貰ってます。
今回は、ほんのりと心に希望が灯るような気がするお話でした。
きっと林殊は… 梅長蘇は… それぞれの元に帰って来てくれるのだと思います。

Re: >>Akiakiちゃん

いつもありがとう♡
あっちこっちにいろんな約束してるんだもんね、宗主は。
ちゃんと帰って約束は守らないといけませんw
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