琅琊榜

白月(後編) (『琅琊榜』 #54 補完)

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白月、後編です。

 静かな夕べであった。
 すだく虫の音ばかりが、いやに耳につく。
 夕風が、簾を通して吹き込むようになり、景琰は脱ぎ捨ててあった自分の褙子を林殊に着せ掛けた。
 自身は少しも寒くはない。武人である景琰には、それが精一杯の心遣いである。
 林殊は素直に微笑み、立ち上がって回廊へ出た。
 景琰もそれへ続く。

 「景琰、見てみろ。月が綺麗だ」
 促されて、空を見上げる。
 夕月は白く痩せて、幽かな光を投げかけていた。
 それはまるで、今の林殊のようで。 
 景琰はやるせない気持ちになって、林殊の肩を抱き寄せた。
 その肩は、細くひんやりとしている。

 こうしてより添っていられるのは、今だけだ。
 かつては、当たり前の日常であったものを。
 
 あと幾度、まみえることが出来るのだろう。
 そう思うと、今この一瞬が愛おしい。

 「夕風は身体に毒だ。中へ入るぞ」
 大切に抱えるようにして、林殊を部屋へ導き入れる。 
 「景琰、そんなに優しくされると気味が悪い」
 くすくすと林殊が笑った。 
 「何を言う。昔とてわたしはお前の心配ばかりさせられていたぞ」
 心外に思ってそう返した。
 「よせと言うのに大銀杏の木に登って落ちたとき。意地汚く町の子供から取り上げた菓子を食べて肚を下したとき。うちの佛牙にいきなり飛び乗ろうとして噛まれたとき。それから、豫津をからかおうとして‥‥‥」
 ひとつひとつ丹念に思い出して挙げてゆく内に、林殊の眉間に皺が刻まれた。
 「‥‥‥わかったから、もうやめてくれ」
 林殊はうんざりした様子で深いため息をつく。
 「これ以上、恥ずかしいことを思い出させるな」
 いつもは青白い頬が、心なしか朱い。
 「恥ずかしい思い出ならいくらでもあるぞ。一晩中でも聞かせてやる」
 自分ほどそれをよく知っている人間はおるまいと思う。
 誰よりも長く、誰よりも近くにいたのだ。
 いつも。
 「降参だ。勘弁してくれ」 
 林殊が苦笑いして両の掌を向けてきたので、景琰は思わず笑った。
 「まったく。あの林殊が、今は納まりかえって麒麟の才子だと? 聞いてあきれるではないか。気づかなかった己に腹が立つ」

 ほんとうに。
 探せばいくらでも、襤褸が出たに違いないというのに。

 「見事だったろう?」
 にやりとして肩をすくめて見せた林殊が、小憎らしい。
 こんなにも変わり果てた顔に、見慣れた林殊の表情が刻まれるさまを、景琰は悲しい思いで見つめた。
 「なにが見事だ。‥‥‥なにが」

 そんな芝居など。
 きっとその気になれば、簡単に見破れたのだ。
 誰よりも自分が、林殊を知っている。
 ほかの誰が騙されても、自分がだまされるはずなどないのだ。

 幾度もおかしいと思った。
 幾度も、林殊の影を見た。
 それなのに。

 「景琰。また泣くのか」
 「泣かぬ。誰が泣いてなどやるか」
 そう言いつつも涙が湧いて出て、景琰は袖でそれをごしごしと拭った。
 「こするな。赤くなる」
 林殊の指が、目の縁をなぞってくれる。
 可哀想なほど、細く冷たい指だ。
 もう二度と、あの強弓を引くこともできまい。

 「確かに」
と景琰はうなだれた。
 「『梅長蘇』のことは、少しも気遣ってやらなかったな、わたしは。‥‥‥すまん」
 詫びると林殊は笑った。
 「おまえが謝ることはない。わたしがそう演じたのだ。お前が嫌いな謀士を」

 権謀術数をもてあそぶ、一番嫌いな類の男。
 長兄も、最愛の従弟も、おそらくはそうした謀のために命を落としたのだと、事情を知らぬなりに景琰はそう考えていた。
 それゆえ。
 大嫌いだったのだ。謀士というものが。
 だが‥‥‥。

 「そうではない」
 景琰はゆっくりと首を振った。
 「皇宮の回廊で初めて会ったその日から、『梅長蘇』はわたしを見守ってきてくれたというのに」
 いや、あの日からではあるまい、と景琰は思う。
 十二年の間ずっと、梅長蘇は自分を見守り続けてくれていたのではないかと、今ならばそう思えるのだ。

 「小殊」
 景琰は膝を寄せ、そして頭を下げた。
 「すまなかった」
 「今度はなんだ?」
と林殊が苦笑交じりに問う。
 「なにもかもだ。わたしが梅長蘇に罵った言葉すべて、梅長蘇に向けた仕打ちのすべてだ。それから‥‥‥」
 悔いるべきことが多すぎて、景琰は眉をしかめて唇を噛み、林殊から目を背けた。
 「景琰」
 宥めるような林殊の声音に、景琰は口を引き結んだままぎこちなく息を吸い込み、そして吐き出した。
 そうして目をそらせたまま、口をひらく。

 「‥‥‥梅嶺の雪の中で」
 そのことに触れるのが、こわかった。
 けれど。
 「‥‥‥たった独りで辛い思いをさせたこと‥‥‥」
 そう続けて、景琰はおそるおそる林殊の顔に視線を戻す。
 林殊の哀しみに満ちた目が、自分を見ていた。
 「景琰、それは‥‥‥」
 「蒙大統領から聞いたのだ。どのようにして火寒の毒が作られるか。どうやっておまえが今の姿になったか」
 林殊は困ったようにうつむいた。
 思い出させたくなどない。だが、言わずにもおれなかった。
 「想像もつかぬのだ。炎に焼かれ、生きながら肉を喰らわれる苦しみなど。―――痛みを分かち合ってやることさえ出来ぬ。どれほど‥‥‥」
 「景琰」
と林殊が遮った。

 林殊の頬に、淡い笑みが浮かぶ。
 その透き通った微笑に、景琰は胸を衝かれた。

 林殊がゆるやかにかぶりを振る。
 「雪蚧虫は肉を喰らって、寒気の毒を吐いてくれたのだ。炎に焼かれた身体を救ってくれたのは、あの小さな蟲たちだ。おまえが思うほど、おぞましいことでもなんでもない」
 「小殊」

 そんなわけがない。
 どれほど恐ろしかったことか。
 そして、梅長蘇の姿を手に入れるまでの痛みと苦しみもまた。

 たとえ分かち合えずとも。
 せめて、そばにいてやりたかったのだ―――。
  



   * * *



 「なぜ泣かぬのだ」と景琰が責める。
 辛かったに決まっているのに、なぜその思いを打ち明けてくれぬのかと。
 梅長蘇は景琰から目をそらせた。

 今更。
 あの苦しみと恐怖を吐き出してどうなるのだ。

 ―――景琰! 景琰! ‥‥‥景琰!

 あの日、喉が裂けるほど叫んだ。その名を呼び続けた。
 呼んでどうなるものでもないとわかっていながら、それでも恐怖に駆られて叫び続けた。
 どんな窮地にあっても、かつて誰にも助けなど求めたことのなかった自分が、あの時はただ、狂ったように景琰を呼び続けたのだ。
 それを今、蒸し返してどうするというのか。

 焼けただれたむなしい骸となって景琰のもとへ帰るより、こうして生きて、人並の姿で全く別の人間として景琰を支える道を選ぶことができた。
 それで充分ではないか。 

 梅嶺での恐怖も、琅琊閣での苦しみも。
 景琰に知ってほしいとは思わない。
 健康で快活な林殊を、覚えていてくれさえすればいいと思っていたのだ。

 あの日、自分がどれほど泣いて、景琰に助けを求めたか。
 それは決して言いたくはない。

 頼むから泣いてくれと、景琰は言う。泣いて自分を責めよと。
 むしろそうしてやれたなら。
 景琰の気が休まるのやもしれぬ。

 十三年もの間、景琰は己を責め続けてきたのかもしれない。『林殊』のもとへ駆けつけられなかった自分を。
 恨み言のひとつも言ってやったなら、いっそ少しは救われるのか?

 景琰には、可哀想なことをしたと思う。
 一番つらい思いをしたのは景琰かもしれぬのだ。
 なにが起こったのかもわからぬまま、兄や友を失い、長い間冷遇され続けた。そうして十二年たって戻った『林殊』は、姿を変え、名も変えて、景琰を欺き続けたのである。ほかの誰に正体を知られても、景琰にだけは明かさなかった。
 景琰の身にもなってみよ、とは思うのだ。
 突然現れた胡乱な謀士に巻き込まれ、帝位を目指すことになった。冷遇された十二年もつらかっただろうが、帝位を目指す孤独な道は、景琰にとって更に辛く厳しいものだったに違いない。

 泣けと迫る景琰自身が、既に泣いている。
 黒目がちの大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれてやまぬのだ。

 哀れで。
 申し訳なくて、梅長蘇はその頬に触れた。

 可哀想な景琰。
 自分が静かな眠りについたあとも、この友は、重い荷を背負って生き続けねばならぬ。
 その荷を半分背負ってやることは、もう自分にはできないのだ。

 「どうすればいい? わたしはお前にどうしてやれるのだ? これまで何一つしてやれなかった。その分、わたしは何をすればよいのだ?」
 景琰が、泣く。
 「‥‥‥お前は充分働いてくれている。そしてこれから先、おまえは誰よりも重い定めを背負ってゆくことになるのだ」

 泣かれれば。
 置いてゆくのがつらくなる。
 それゆえ黙っていようと思っていたのに。

 「‥‥‥その険しい道に踏み出させたのは、ほかならぬわたしだ。許してくれとは言わぬが、わかってほしい。わたしには、お前しかいなかったのだと」
 ほかに選択肢がなかったのです、と言った、あれは嘘や方便ではないのだ。
 景琰だけが。
 自分の思いを叶えてくれる。

 「全ておまえに押しかぶせた。すまぬと思っている」
 その言葉に、景琰の声がかぶる。
 「すまぬと思うなら! 生涯そばにいて支えてくれればよい!」

 梅長蘇は目を細めた。

 駄々っ子のような景琰の言い分を、叶えてやれる自分ではないのだ。
 ―――応えてはやれぬ。

 微笑んだつもりが、つい表情が歪むのが自分でもわかった。
 食い入るような景琰の視線が痛い。

 そばにいてやることは、もうできぬのだ。
 景琰がどれほど求めても。
 (‥‥‥これでおあいこだろう?)
 一番そばにいてほしいときに、互いにそれは叶わぬのだ。 

 「あまり見るな」
と梅長蘇は顔を背けた。
 「こんな仮初めの顔など眺めてどうなる」
 梅長蘇の面差しなど、心に刻んでほしくない。

 不意に、―――力いっぱい抱きしめられた。 
 「景琰?」
 景琰は腕に力を籠め、そして深々と息を吐きだした。
 「‥‥‥不安でならぬのだ。おまえは痩せる一方で、なのに少しも身体をいとわない。心配で胸が張り裂けそうだ」

 だから知られたくなかったのだ。
 景琰を二度も泣かせることになる。
 「わたしなら平気だと言っているだろう?」
 自分を抱く景琰の腕を、優しく撫でながら梅長蘇は言った。
 「流石にこの二年は、少しばかり無理をしたかもしれぬが。都を離れてしばらく養生すれば、また丈夫にもなろう。おまえが気に病むほどのことか?」

 そんな嘘が、もう通らぬことはわかっている。
 それでも、そう言うしかないではないか、と思う。

 自分は間もなく都を去る。
 梅長蘇は、消えてなくなるのだ。

 麒麟の才子など、はじめからいなかったのだと、今に誰もが忘れ去る。 

 だが、やはり。

 ―――覚えていてほしいと、心の隅で思う。

 この二年、景琰を支えた謀士の姿を。
 『梅長蘇』という男の、短い生涯を。





   * * * * *




 「そんなに懇を詰めて何を書いている?」
 手元を藺晨に覗き込まれた。
 「景琰に宛てた文だ」
 「全部か?」
 書き散らした紙が山積みになっているのを見て、藺晨は呆れたような声を出した。
 「季節毎、一年に四通として、まだやっと三年分だ」

 景琰の為に、梅長蘇はかつての筆跡で文を書いている。林殊の筆跡で文を書くのは、梅長蘇にとって骨の折れる仕事であった。林殊の生き生きと力強い筆遣いは、すっかり力の萎えた梅長蘇の手では、長く書き続けることが困難なのだ。
 それでも、景琰への文は、この筆跡でなければならぬと思う。
 「おいおい。一生騙しおおせる気か?」
 たとえこの命が尽きたあとも、遠くで生きていると景琰が思ってくれれば。そう考えたのだ。
 季節ごとに林殊からの文が届けば、景琰の心も慰められよう。
 「騙しとおすのが無理なことくらい、わかっている。だが、何かしてやらずにはおれぬのだ。‥‥‥景琰に申し訳なくて」
 そばに胡坐を組み、手近な紙を手に取って文面に目を走らせながら、藺晨が「やれやれ」と溜息をこぼす。
 「申し訳ないと思うなら、一日でも長生きしてやれ。こんなことをして命を削っている場合か」
 正論だと思う。
 思いはするが。
 「一日二日長く生きたとて、何になる。‥‥‥毎日会えるわけでもあるまいに」
 つい、拗ねた口調になった。

 景琰は今頃、王妃とむつまじく過ごしているだろうか。
 ふとそんなことを思う。

 若く賢い王妃と、景琰はこれから先も手を携えて生きてゆく。
 その時、そこに自分はもういないのだ。


 梅長蘇は苦笑して筆を置いた。
 「疲れた。少し、横になる。―――これは全部、火にくべておいてくれ」
 言い捨てて、梅長蘇は牀台のほうへ向かう。
 「おい、せっかく書いたのだろう? おい!」
 藺晨の声を背中に聞きながら、梅長蘇は牀台に上がると、そのまま毛布に潜り込んだ―――。




   * * * * *




 「皇太子が病?」
 声を上げた甄平を、黎綱が「しっ」と嗜めたが、既に遅かった。
 「景琰がどうした?」
 書房から、すらりとした姿が現れる。
 黎綱は溜息をついて顔を背け、甄平は困ったように俯いた。
 「わたしに白を切りとおせるとでも?」
 わずかに片眉を上げて見せると、黎綱もたまりかねて、
 「少々お風邪を召したご様子で」
としかたなさげに答えた。 
 梅長蘇は少し考えてから、
 「見舞いに行くぞ。支度を」
と命じる。
 「何をおっしゃいます。宗主こそ昨夜も発作が‥‥‥!」
 慌てて止めようとするふたりを、梅長蘇は一瞥した。
 ふたりは、しゅんとして黙る。
 梅長蘇は満足してうなづいた。
 
 近頃は皆、大抵の我儘は聞いてくれる。 
 先の短い病人に、誰もが甘い。
 藺晨が触れて回っているせいもある。どうせじきに死ぬのだから、なんでも好きにさせよと。
 無神経な物言いだと思うが、おかげで梅長蘇はこれまでよりもずっと気楽に暮らせている。
 回廊の向こうを行く晏太夫と眼があったが、やはり何も言わずに通り過ぎた。この二年近く、心を砕いてくれた晏太夫には申し訳ないと思うが、残された時を思うままに過ごしたいのだ。
 


    * * *



 「蘇先生がお見舞いにおいでですが」
 昨日一日外に出なかったせいで、すっかり退屈していた景琰は、戦英の言葉に顔を輝かせた。
 「小‥‥‥蘇先生が? すぐ通せ」
 そう言うと、戦英が少し困った顔をした。
 「それが、蘇先生ご自身かなりお加減が優れぬご様子で‥‥‥、少し休んでいただいております」
 「加減が優れぬだと?」
 景琰は眉を顰めた。
 「黎綱どののお話では、昨夜ひどく血を吐かれたとかで」
 「そんな身体で見舞いだと? よい、わたしが参る」
 冗談ではない。
 何が見舞いだ、と思う。
 腹を立てながら、景琰は大股で書房を出た。

 「蘇先生!」
 ぐったりと腰かけていた林殊が、こちらへ目をやり、黎綱の手を借りて立ち上がった。 
 「‥‥‥殿下」
 「礼はよい。ひどい顔色ではないか」
 拱手しようとするのを押しとどめ、景琰は林殊を抱えるようにして座らせた。
 見るからに具合が悪そうだというのに、林殊はむしろ気づかわしげな眼差しをこちらへ向けてくる。
 「わたしの病は今に始まったものではありませんが、日頃頑健な殿下が臥せっておいでと聞き、ただごとではないと、矢も楯もたまらず参上した次第です」
 「わたしは見てのとおり元気だ。病知らずなのは知っているだろう? 皇太子などというものになったばかりに、ちょっとくしゃみをしただけで太監どもが大騒ぎをしただけだ」
 ちらりと後ろに控えている太監に目を走らせる。太監は居心地悪げにうつむいて、更に後ろへと離れた。
 「小殊」と太監らに聞こえぬよう、小声で呼ぶ。
 「奥で休むか? 座っているのもつらそうだ」
 白い額に、冷や汗をにじませながら、林殊は気だるげにかぶりを振った。
 「皇太子殿下が、謀士ごときに過分のお気遣いはなさいますな」
 その言葉に。
 つい、かっとする。
 景琰は林殊の脇に手を入れると、ぐいと立たせた。
 「いいから来い」
 引きずってでも連れてゆこうとするその前に、がくん、と林殊の身体から力が抜けた。
 「小‥‥‥蘇先生!」
 頽れる身体を、黎綱とふたりで慌てて抱きとめる。 
 後ろでただ驚いている太監に、景琰は命じた。
 「侍医を呼べ! いや、侍医では埒が明かん。芷萝宮へ人をやって母上を呼んでくるのだ」
 「貴妃娘娘を、ですか?」
 太監が呆気に取られている。
 「早くせよ!」
 厳しい口調で言い捨てて、景琰は林殊を抱き上げた。



   * * *




 「小殊、気分はどう?」
 優しい手で頭を撫でられて、梅長蘇はうっとりした気分で薄く眼を開けた。
 「‥‥‥もう平気です、おば上」
 静貴妃の美しい顔が、間近にあった。
 その傍らから、景琰が心配そうに覗き込んでいる。
 梅長蘇は少し微笑んで、景琰に手を差し出した。待っていたかのように、景琰がその手を掴む。武骨で、しかし温かい手だ。 
 「こうしていると、昔に帰ったようですね」
 笑って静貴妃にそう言うと。
 「この子は、何を暢気な」
 静貴妃は、うんざりしたように溜息をついた。
 「あなたは昔からそうだった。暢気で、無鉄砲で‥‥‥。いつも無茶ばかりして、お母上に気を揉ませていたわ。本当にちっとも変わりやしない」
 美しい眉を顰めて静貴妃がたしなめるのを、景琰が止めた。
 「母上、小言は後にしてやってください。まだ具合が悪そうだ」
 昔もよくこうやって庇ってくれたものだと、梅長蘇は懐かしく思い返したが。
 「あなたに言われたくはないわ、景琰。春猟のあと、臥せっている小殊を問い詰めたのは誰だったかしら」
 横槍を入れられた静貴妃が、珍しく息子に反論している。
 「あの時は‥‥‥」
 痛いところを衝かれて、景琰が押し黙った。頼りになせぬ援軍である。
 静貴妃は景琰への牽制が功を奏したとみて、再びこちらへ向き直る。
 「小殊。ご両親に代わって言うのです。ちゃんと養生しなさい」
 「おば上、わたしなら大丈夫です。少し休めば‥‥‥」
 そう言ったが、義叔母の表情は取りつく島もない。
 「言うことを聞かないところも、少しも変わらない。今だから言うけれど、本当に手のかかる子供だったわ、あなたは」
 いつも慎ましい静貴妃にも似ず、言いたい放題だ。よほど腹に据えかねているのか、あるいは―――。
 (思い出話をできるのも、これが最後と察しておいでなのか)
 そう思うと、静貴妃の小言も温かく感じられる。

 そんな心を知ってか知らずか、景琰が小さく笑った。
 「泥まみれ傷だらけになっては、母上のお手を煩わせていましたからね、小殊は」
 援軍どころか、また余計なことを思い出してくれる。どうにも旗色が悪く、梅長蘇は大人しく口をつぐんでいた。
 「雨上がりは泥が跳ねるからと止めても、この子ときたらまるで聞き分けがなかった」
 静貴妃は深く嘆息する。
 景琰も懐かしそうに目を細めた。
 「母上が慌てて着替えさせて、もうすぐ林主帥と長公主殿下がお迎えに来られると‥‥‥」
 「景琰!」
 静貴妃の厳しい声に、景琰がはっとしたように黙った。

 梅長蘇は思わず頬を緩めた。

 そう、もうじき父と母が迎えに来てくれるだろう。
 "よい子"にして待たねば、また父に尻をぶたれる。

 「小殊」
と静貴妃が声の調子を落とした。
 いつもの、穏やかな表情で微笑む。
 「林主帥も長公主殿下も、まだまだご夫婦水入らずでのんびりお過ごしになりたいはず。いくら愛息子とて、お邪魔をしてはならないわ」
 静かな声音でそう諭す義叔母に、梅長蘇は素直にうなづいて見せる。
 「おば上の仰せはごもっともです」
 しれっとしてそう言ってのけると、静貴妃に軽く睨まれた。
 静貴妃は大きくため息をつくと、握り合った梅長蘇と景琰の手をそっと撫でた。



   * * *



 「ほんとうに、あなたたちときたら‥‥‥」
 静貴妃に溜息をつかれ、ふたりはばつの悪さに顔を見合わせる。
 まるで幼き日のままに、二人ともこの人には頭が上がらぬのだ。
 静貴妃は、ゆるゆるとかぶりを振った。

 「あなたたちときたら、―――よくもあれだけの大事を成し遂げて‥‥‥」
 
 「母上?」
 てっきり小言の続きだと思っていた二人は、少し驚いて静貴妃を見た。
 三人重ねた手の上へ、静貴妃の目からぽとりと涙が落ちる。

 「誇らしく思いますよ。‥‥‥わたしだけではない、きっと林主帥も、晋陽長公主も」
 「おば上‥‥‥」

 その言葉を。
 どれほど聞きたかったことか、と林殊は思う。
  
 「よく頑張ったわね、小殊。偉かったわ」
 「静おば上‥‥‥」

 ぽろぽろと林殊の目から涙がこぼれるのを、景琰は見た。
 ああ、やっと‥‥‥と景琰は思った。
 やっと、林殊の涙を見ることができた、とほっとする。
 
 「いい子ね。いい子。‥‥‥もう何もかも全てよくなった。ゆっくり休んでよいのですよ」
 
 何もかも。
 終わったのだ、と静妃の手に撫でながらふたりは深く息をつく。

 逝ってしまった魂たちは、もう二度とは還らぬが。
 今は渠らも、安んじて眠りについたことだろう。

 あとは‥‥‥、と林殊は思った。
 『梅長蘇』をどう終わらせるか。それだけだ。

 それまでは暫し、まどろんでいたいと。
 林殊は懐かしい日々を心に映しながら、そう思った。

 景琰と静姨の手のぬくもりは、昔と少しも変わらない。
 十三年の月日が、まるでうたかたのごとく解け去るようだ。


 (帰ってきたのだ、この手のもとへ)


 ―――林殊は目を閉じ、短い眠りの中へ落ちて行った。





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~ Comment ~

Re: タイトルなし

いつでもどこでも見れるのに、こうやって最終回まで連続して見せられると、やっぱりロスに陥りますねえ。
琅琊榜を好きな気持ちは永遠ですし、書きかけのものもいくつかありますが、
わたしは「不意に」書くのをやめるので、書けるときに書き溜めようとハイペースでやってきました。
明日から中国に行ってきます。
色々インスパイアされたら、また何か書けるかもしれませんし、
あるいは燃え尽きるかもしれませんが、
できればまだまだ続けたいです~~~♡

中国!

いいですね‼︎
琅琊榜を生んだ、歴史と文化の国を堪能してきて下さい♪(v^_^)v

NoTitle

二次創作、よかったです!!宗主や景琰が本編の中では言えなかったことをちゃんとここでは思い切り言ってるんですもの。私も二次創作を拝見することで、本編にたいする「?」が氷解して、とてもすっきりして物語を楽しめました。ありがとうございました。

Re: >>Uraraさん

コメントありがとうございます!!
お返事遅くなってすみません。
琅琊榜ツアーに出かけていたもので・・・(*´ω`*)

読んでいただけで本当に嬉しいです。
現在、琅琊榜ツアーの日記を書き留め中で、
二次創作のほうが滞っていますが、
日記を書き終えたらまたコチラを書き進めたいと思いますので
どうぞよろしくお願いします!

ちなみに日記は http://blog.goo.ne.jp/harukanbo66/e/bbea1a581351cff5a6478301f2af974c コチラです♡

Re: タイトルなし

堪能いたしましたよー!!!
日記書き始めていますので、よかったらご覧になってみてくださいねー!!
http://blog.goo.ne.jp/harukanbo66/e/bbea1a581351cff5a6478301f2af974c

Re: NoTitle

本編では、思いを秘めて外に出さないからこその美しさというのがあると思うんです。
日本のドラマならクドクド表現してしまいそうなところを、
ぐっと抑えて何も言わず、また何か言いそうな雰囲気になると
さっと場面が転換されてしまって、何があったかは視聴者には知らされない。
そういうストイックなところが琅琊榜のよさだし、
だからこそ二次創作の余地があって、余計にハマるのですよね・・・。

NoTitle

おかえりなさい!

旅日記、ゆっくり読ませていただきますね。

Re: ymさん

はーい(^O^)
少しでも伝われば・・・♡
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