琅琊榜

白月(前編) (『琅琊榜』 #54 補完)

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赤焔事案の最新が決まったあと、靖王と宗主にゆっくり会える機会をあげたくて書きました。

 血の気が引いていくのが、己でもわかった。
 梅嶺の、雪の中で。
 なんという……、なんと壮絶な、と吐き気すら覚えて、景琰は口元を手で覆った。
 「それで……。小殊はどうして今の姿に?」
 「それは……」
 蒙摯が口ごもる。しかし、先を知らずにはいられない。
 あの珍獣が聂锋であったこと、その聂锋と同じ火寒の毒に林殊が侵されていること、その火寒の毒がいかにして作られるかということ、そこまで聞いてしまったからには。
 唇が震え、喉がひりつく。それでも、尋ねずにはおれぬのだ。
 「‥‥‥小殊とて聂锋と同じような姿であったはずだ。聂锋はあのままであるのに、なぜ小殊は?」
 蒙摯が困り果てているのはわかったが、なればこそ聞いておきたかった。

 蒙摯はためらい‥‥‥、しかしついに口にしたのだ。

 火寒の毒の治療法は、二つあるのだと。




 ―――肉を削ぎ、骨を削る。
 そんな思いをして、林殊は『梅長蘇』となったのだ。
 それなのに―――。

 梅長蘇の、さまざまな表情が脳裏によみがえる。
 涼やかな微笑。
 底知れぬ悲しみを湛えた顔。
 静かな怒りを秘めた眼差し。
 峻厳な横顔。

 『梅長蘇』の顔、声、姿、それを得るために、林殊は命を削って生きてきたのだ。
 だのに自分は、さんざんに蔑み、罵った。

 なんと愚かだったのだろう。
 なんという、非道い仕打ちをしたのだろう。
 『梅長蘇』の仮面の下で、林殊がどれほど傷ついたことか。

 病に蝕まれた身を、自分はどれほど責め苛んできたのかと、景琰はそのひとつひとつの場面を頭の中でなぞった。
 覚えているだけでも、息が苦しくなるほどだ。
 己の罪深さに、景琰はぞっとする。
 
 「小殊―――」
 呻いた景琰を、蒙摯が痛ましげに見つめていた。



   * * *



 「話したのか、景琰に?」
 梅長蘇は大きく目を瞠り、それから蒙摯から顔を背けて深くため息をついた。
 「―――貴方という人は」
 梅長蘇がうんざりしたように首を振るのを見て、蒙摯は躍起となって反論する。
 「わたしの立場にもなってみろ。相手は皇太子だぞ? 詰問されれば誰だって口を割る」
 梅長蘇は恨めし気に蒙摯の顔を見、それから目をそらせた。
 「霓凰や冬姐でなく、景琰は貴方に尋ねたのだ。なぜだかわかるか?」
 蒙摯は一瞬きょとんとした。首をひねってから、自信なさげに答える。
 「一番、身近にいたから……だろう?」
 梅長蘇はじろりと蒙摯の顔を一瞥してから、もう一度深く息をつく。
 「一番、口が軽いと思われたんだ」
 「你っ……」
 蒙摯が心外だとばかりに突き付けてきた指をつかんで、梅長蘇はその顔を睨みつけた。
 「霓凰ならば、上手く言い抜けたはずだ」
 「そ、それは‥‥‥」
 放された指のやり場に困ったように、蒙摯は手をぶらぶらさせながら少し不貞腐れる。

 わかっているのだ、蒙摯とて好きで話したわけではない。確かに蒙摯の立場であれば、皇太子に詰め寄られて白を切りとおすのは難しい。実際には、霓凰や夏冬とてそうに違いないのだ。
 林殊であると知れたからには、いずれは全て、と覚悟はしていた。
 だが。
 こう立て続けでは、景琰の心が受け止めきれまいと不安になるのだ。



 梅嶺の凍える寒さを、梅長蘇は思った。
 そして、燃え盛る炎に炙られた灼熱の地獄を。
 肉の焦げる臭い。
 焼けただれた兵士たちの顔。
 父も、自分も。

 崖の下で意識を取り戻したとき、最初に思ったのだ。
 こんな姿で、帰れない、と。
 謝玉らへの怨みでもなく、散っていった父や仲間の無念でもなく、そんなことを思ったのだ。

 こんな無惨な姿で帰ったら。
 景琰がどれほど悲しむだろうかと。

 それでも、こんなところで死にたくはないと思った。
 生きよと、父が言ったのだ。

 林殊はうつぶせに倒れたまま、それでも腕を前へ伸ばした。降り積もった雪に指を突き立てて、ぐい、と身体を前へ引き寄せる。

 その雪が。
 もぞもぞと蠢いて見えた。
 いや、雪ではなく。
 雪と同じ色の、無数の蟲。
 その蟲たちが、ぞわぞわと林殊のほうへ寄ってくるのだ。

 蟲たちは、林殊の焼け焦げた手の甲に這い上った。
 あんなに怖いと思ったことは、あとにも先にもなかった。

 誰が知ろう。

 生きながら。
 身体を食われる恐怖と苦痛を。

 恐怖に駆られて、林殊は呼んだ。父を、母を、そして景琰を。
 来るはずのない助けを、ひたすら求めて、必死に景琰の名を呼び続けた。
 そしてやがて、声さえ出なくなった。
 喉は涸れ、舌が膨れ上がって、ものが喋れなくなった。
 景琰の名を呼ぶことさえ出来なくなると、ますます林殊は恐慌をきたした。

 どんな勇猛な将をも、恐れはしなかった林殊である。
 繰り出される槍にも、降り注ぐ矢にも、怖じることなどなかった。
 それでも、怖くてたまらなかったのだ。こんなちっぽけな蟲たちに、己の身体を食い荒らされることが。

 そしてどんなに呼んでも、決して景琰が助けに来ることはないのだという現実が。



 あれほどの恐怖の中で、どうして気が狂わなかったのかと、梅長蘇は今も思う。
 狂ってしまえば、どれほど楽であったことかと。
 (いや。わたしは既に、狂っているのか?)
 あの梅嶺の雪の中で。
 自分はとうに、正気を失ってしまったのだろうか。

 

   *



 「長蘇」
 ぼんやりと回廊にたたずんでいた梅長蘇は、呼ばれてようやくそちらへ顔を向けた。
 「‥‥‥藺晨」
 ぐいと肩を抱かれて、梅長蘇は煩わし気に藺晨の手を睨んだ。藺晨が笑って手を離す。
 「友ならば肩くらい抱かせろ。減るものでもなかろうに」
 「人恋しいなら妓楼へでも行ってくるがいい」
 冷たく突き放したが、藺晨がへこたれるはずもない。
 「妓楼へ繰り出すのも一人ではつまらぬ。どうせお前は付き合ってもくれぬくせに」
 「邸で大人しく養生しろと言ったのはおまえだ」
 ふいと顔を背けると、肩を乱暴に引き戻された。  
 「全く冷たいやつだ。蒙大統領のこともやりこめたろう、随分萎れていたぞ?」
 梅長蘇は眉間に皺を寄せた。
 「最悪だ」
 藺晨が苦笑いする。
 「まあ、そう言ってやるな。やつとて辛い立場だろうに」
 らしくもない、慈悲深い言葉を吐く。
 「‥‥‥わたしや景琰が辛くないとでも?」
 この男の前では、不思議に駄々をこねるような口調になってしまうのだ。
 つい、我儘を言い、弱音も吐きたくなる。
 梅長蘇は藺晨から視線を外した。
 「なぜ‥‥‥」
 いちばん言うべきでない言葉を、口にしてしまう。
 「なぜ、わたしを助けたのだ」
 藺晨が、目を瞠った。

 この男は、琅琊閣閣主にして、医者である。その藺晨に、なぜ助けたと尋ねるほど愚かなことはないというのに。わかっていながら、恨み言を言わずにはおれぬ。
 「あのまま狂い死にしてしまえば、こんな思いはせずにすんだ」
 「なんだと? わたしの聞き間違いか? 梅長蘇ともあろう男がそんなことを言うなど、信じられん」
 ぐい、と顔を近づけられた。
 後悔したが、言い出した以上あとにも引けぬ。
 「‥‥‥見殺しにしてくれればよかった」
 藺晨が荒々しく息を吐きだし、付き合いきれぬというふうに首を振った。
 「わたしのせいではない。うちの親父に言え」
 「気がふれればよかったのだ」
 しつこく食い下がると、藺晨は呆れたような顔で笑った。
 「おまえに出来るはずがないだろう? お父上の最後の言葉にも、同胞の無念にも目をつむって、狂ってしまえるほど、気楽な男ではないからな、おまえは」
 そう言われては、ぐうの音も出ない。
 それでも負けを認めるのが悔しくて、梅長蘇は顔を背けた。
 
 それきり藺晨が黙ったので、ふと心細くなって視線を戻す。
 藺晨は口元に笑みを刻んだまま、まぶしそうに空を見ていた。
 「‥‥‥後悔しているのか? 自分の選択を」
 そう問われて、梅長蘇はうつむく。
 藺晨は空を眺めたまま、扇子を小さく開いたり閉じたりしている。
 「わたしは、あの姿のお前も気に入っていたのだがな」
 のどかな口調で、そんなことを言う。
 ―――そうだった。
 藺晨はあの時、あの姿のままでいればよいと言ったのだ。
 たとえ異形であっても、言葉を話すことがかなわずとも、そのまま受け入れてくれると。
 ふと、尋ねてみたくなった。
 「あの頃のわたしは、聂大哥と似ていたか?」
 藺晨がこちらを見て、にやりとする。
 「ああ、そっくりだったとも」
 そう答えてから、ちょっと考えるそぶりをして、
 「いや……。おまえのほうが毛並みがよかったがな」
と付け加えた。
 「毛並み?」
 思わず問い返す。
 「もっと真っ白で、ふわふわした毛並みだった。あの毛並みを撫でていると、幸せな気分になったものだがな」
 「……。わたしは飼い犬ではないぞ?」
 不服を唱えたが、藺晨は笑うばかりだ。
 「似たようなものだった。わたしにとっては」
 「藺晨……」

 ぷっと、と梅長蘇は吹き出した。
 「お前と話していると、思い煩うことが莫迦莫迦しくなる」
 全くこの男は、と思う。
 藺晨は軽く肩をすくめた。
 「長くもない命だ。くよくよしていては時が勿体ないだけだろう」
 「それもそうだな」
 笑って、どんと藺晨に肩をぶつけると、今度こそしっかりとその肩を抱かれた。そのままふたり笑いあう。

 (景琰。わたしはそれなりに愉快に暮らしているのだ)
 心配などしてくれずともいい、と梅長蘇は思った。

 むしろ。
 景琰の行く末ばかりが、案じられてならぬのだ―――。
 



   * * * * *



 
 「顔色がよくないな}
 開口一番、景琰はそう言って真正面から両腕を掴んできた。
 景琰は梅長蘇の全身に目を走らせ、二の腕から手首まで確かめるようにさすり、最後に両手をしっかりと握った。
 「また少し痩せたか? ちゃんと食べているのか、小‥‥‥」
 景琰は小殊と言いかけ、さすがにそばに控えていた太監の目を気にして、「蘇先生」と言い直した。
 景琰に呼び出されて東宮を訪れ、馬車を下りようとした途端に、皇太子自ら馬車に駆け寄って来てこのありさまである。
 「つつがなく過ごしております。どうぞお気遣いくださいませぬよう」 
 周囲を慮って、梅長蘇は恭しい口調で答えたが。
 景琰はそんな社交辞令など上の空だった。
 「走吧」
と言われて、梅長蘇は慌てた。
 「殿下。どこへ‥‥‥」
 その問いさえ、景琰は聞いてもいない。 
 「馬‥‥‥というわけにはいかぬな。このままおまえの馬車で行こう。戦英に先導させる」
 そういうや否や、強引に馬車へ乗り込んでくる。
 押されて片側へ寄った梅長蘇は、ただただ呆れるばかりだ。これではまるで穆青ではないかと。
 
 戦英について黎綱が馬車を走らせると、景琰はまたそわそわと心配を始める。
 「いやに揺れるな。身体に障りはせぬか。もう少ししっかりした馬車をあつらえてはどうだ」
 梅長蘇はため息をついた。
 「景琰、少し落ち着け」
 そう言うと、景琰は心外そうに大きな目を瞠った。自分では落ち着いているつもりだったのかと思うと呆れる。
 「皇太子がろくに供も連れずに出歩くのはいかがなものだ」
 「供などぞろぞろついてきたのでは、小殊と呼ぶことすらできぬではないか」
 それはそうだが、だからと言って‥‥‥と梅長蘇は頭を抱えた。
 「どうした、頭が痛むのか? 馬車を止めさせたほうがよくはないか?」
 顔を覗き込まれて、さすがにたまりかねる。
 「景琰。少し静かにしていてくれ。お前らしくもない」
 幾分語気を鋭くすると、景琰はようやく口を閉ざした。
 きまり悪げに目をそらせると、そのまま大人しくなる。
 それはそれで気詰まりなまま、馬車はやがて見覚えのある通りへと入ってきた。
  
 「林府?」
 梅長蘇は低く、驚きの声を上げた。
 戦英は、かつて林殊が暮らした邸の前で、馬を止めたのだ。
  
 いつであったか、梅長蘇として都へ上り、まだ謝邸に寓居していた頃、霓凰に連れられて林府の前までやってきたことがある。
 あれからもう一年半にもなるだろうか。
 秋の陽ざしの下、林府はやはり変わらず、過去の亡霊のようにそこに在った。

 景琰に手を取られて、馬車を下りる。
 やはり、近寄ることはためらわれた。
 すでに赤焔事案は覆り、林府はもはや禁忌の場所とは言えぬ。
 それでも、自信がなかった。かつて自分が暮らした邸の、寂れ果てたさまを目にして耐えられるかどうか。
  
 景琰がぎゅっと手を握ってくる。
 その手に導かれて、梅長蘇はついに林府の門をくぐった。

 邸の中は、幾分黴臭い匂いがした。
 朽ちかけた回廊を、景琰に手を引かれて足早に歩く。
 「早く来い。見たら驚く」
 「待て。そう引っ張るな」
 梅長蘇が足を縺れさせるに至って、景琰はようやく気づいたように足を留めた。
 「すまん。大丈夫か」
 慌てて身体を支えてくれる景琰は、少し悲しそうな顔をしている。
 無理もない。やっと会えた『林殊』が、今は共に手を携えて駆けることさえ難しい。こんなひ弱な男が、かつての友だなどと、景琰は信じたくないに違いない。
 梅長蘇は微笑んで見せた。
 「‥‥‥急に足を速めるから、少し息が切れただけだ」
 景琰は小さく息をついて、気を取り直したように笑みを返す。
 「行こう。おまえの部屋だ」 
 「わたしの―――」
 梅長蘇は、思わず景琰の手を握り返した。
 
 
 「父上に内緒で時々人を入れて、おまえの部屋だけはずっと昔の儘に保たせていた」
 確かに―――、『林殊』の部屋は、かつての姿であった。
 十三年の歳月が、まるでなかったもののように。
 つい昨日、ふらりと出かけて今もどってきたかのような錯覚に陥って、梅長蘇は少しよろめいた。
 景琰の手が、支えてくれる。
 「景琰‥‥‥」
 声が、震えた。
 「小殊」
 そっと頭を抱き寄せられる。
 涙が、あふれそうになる。
 この身は変わり果てたというのに、この部屋はずっと、主の帰りを待っていたのか。 
 
 呆然と佇む梅長蘇をよそに、戦英が忙しく食盒を運んでくる。  
 「殿下。ここにおいていきますよ」
 「酒はどうした? 持ってきただろう?」
 景琰が尋ねる。
 「蘇先生のお体に障ると‥‥‥黎綱どのがおっしゃるものですから」
 「―――ああ、そうなのか」
 景琰はまた、少しがっかりしたようだった。
 「ああ。‥‥‥それから火鉢だ」
 「はい。今、火を熾しているところです。すぐお持ちします」
 戦英が立ち去ると、なんとなくしんと沈黙が降りた。

 昔と同じこの部屋で。
 けれど、自分は友と酒を酌み交わすことさえできぬ。 

 「今宵はここで過ごそう」
と、景琰が言った。
 「ここで?」
 皇太子が、こんなところで一夜を明かすというのか。
 「食べるものもある。寝床も用意させたゆえ、おまえが疲れればいつでも寝んでもらっていい」
 景琰はそう言うと、冠をむしりとり、褙子を乱暴に脱ぎ捨てた。
 「―――今だけは、皇太子でも謀士でもない」
 勢いよく冠を取ったせいで髷が解けて、常よりも景琰は若く見えた。まるで十三年前の、あの頃のように。
 「‥‥‥景琰」
 「今から、ただの景琰と小殊だ。いいか」

 ―――景琰がそれを望むなら、せめてかなえてやろうと思った。
 「‥‥‥わかった」
 景琰は嬉しそうに、乱暴な仕草で肩を抱いてくる。かつて、そうしたように。

 「ただし、朝までだ。明日は蔡荃と約束がある」
 そう言うと、景琰は太い眉を少し逆立てた。
 「蔡荃とだと? やつが相手ではお前の身体が持たん。話し出すとおまえの体のことになど、まるで気の回らぬ男だぞ?」
 景琰の言葉に、思わず吹き出す。確かに、喋り出したら止まらず、納得がいくまで食い下がる男だ。
 だが、それだけに。頼りになるとも思う。必ず景琰の治世を支えてくれるだろう。
 「わたしなら大丈夫だ。都にいる間に、なるだけ話をしておきたい」
 蔡荃や沈追、言侯。豫津や景琰、穆青ら若者とも。
 景琰が切なげな顔をした。
 「わたしの政を、託すためか? そのためにお前は、自分の身を削ってくれているのだな」
 黒目勝ちの大きな目を潤ませて、景琰は無理に少し微笑んだ。

 「もう一度、確かめさせてくれ」
 そう言って、景琰が両腕を延ばしてくる。抱きしめられて、梅長蘇は少し身体をこわばらせた。景琰が肩口に顔を埋めてくる。
 「小殊の、‥‥‥においがする」
 「景琰‥‥‥」
 景琰は顔を上げ、泣き笑いのような表情をした。 
 「もっと早くこうしていたら、すぐにおまえだとわかったのにな」
 梅長蘇は苦笑いした。
 「おまえに知られぬように、どれだけ腐心したと思っている」
 「ひどいやつだ」
 景琰が眉を寄せ、ぽろりと一粒涙を落した。
 それみろと思う。
 「おまえは泣き虫で、莫迦正直で、本当のことを知ったら使い物にならぬではないか」
 「口の減らぬやつめ」
 額と額が、こつんとぶつかる。
 梅長蘇は笑って景琰の額を押した。

 
 小さな咳払いが聞こえて、梅長蘇は景琰の腕から身体を離した。
 「その‥‥‥火鉢をお持ちしました。お茶の用意もこちらに。わたしは黎綱どのとあちらで控えておりますので、何かあればお呼びください」
 ぎこちない様子で戦英が去って行ったあと、ふたりは顔を見合わせてぷっと笑った。
 「戦英に気を遣わせたな」
 苦笑しながら景琰がそばに置かれた提盒を引き寄せた。
 蓋を開けると、さまざまな点心がぎっしり詰まっていた。
 「食べろ。母に作ってもらった」
 「おば上に? 貴妃娘娘手ずからとは恐れ多いな」
 以前ならともかく、今は東宮の母だ。やがて景琰が即位すれば、皇太后となる。
 「母上はお前の為なら何でも骨を折ってくれる。息子のわたしよりお前の心配ばかりしている」
 「おば上は医女でおいでになったから、わたしの身体を気遣っておられるだけだ」
 そう言うと。
 景琰が食盒から目を上げた。じっと見つめられて梅長蘇は少し戸惑う。
 「それだけではないだろう?」
と言って、景琰はふっと目をそらせた。
 「母上は、林主帥を慕っておいでだったのだな」
 「景琰」
 どきりとして、梅長蘇は景琰の顔を見た。
 景琰が笑う。
 「かまわん。今更それをどうこう思うほど子供ではない」
 そう言った景琰は、確かに清々しい顔をしている。
 「母上は昔から楠が好きでな。不思議に思っていたが‥‥‥。林主帥の号が石楠と知ってから、初めて腑に落ちた」
 梅長蘇はくすりと笑った。
 「おまえでも頭を働かせることがあるんだな」
 「こいつめ」
 拳でちょんと胸を小突かれる。
 そんな些細なやり取りが、ひどく心地よかった。


 「おまえの好物ばかりだ。わたしはいいから全部食べろ」
 「莫迦を言うな、こんなに一人で食べられるわけがないだろう。手伝え」
 そう言うと、景琰が少し悲しそうな顔をした。
 「食が細くなったのだな」
 どきりとして、梅長蘇は言いつくろった。
 「今日は朝餉が遅かったからだ」
 そうか、と景琰はうなづいたが。それでもひとつ溜め息をついた。
 「‥‥‥昔はあんなに食い意地が張っていたのにな」
 「おい、‥‥‥人聞きの悪い」
 藺晨とは違い、悪気がないだけに困惑させられる。そうだ、景琰とは確かにこういう男であったと、梅長蘇は苦笑した。
 正直で、言葉を飾らず、誠実で生真面目な。
 (そして、融通も利かねば気もきかず、どこか間が抜けてさえ見えるのだから、もう‥‥‥)
 かなわぬな、と思う。

 昔から。
 景琰には弱い。

 虐めてみたくもなるものの、結局は無垢な瞳にほだされてしまう。
 
 梅長蘇は笑って点心をひとつ口に入れると、庭越しに午下がりの空を眺めた。

 秋の高い空に、白い三日月がうっすらとかかっていた。

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