琅琊榜

毒蛇16 『因果』 (『琅琊榜』 #46~54 補完) 

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毒蛇16です。我慢できずに最後までいっちゃいました。
BSの放送を見ながら、そのペースで書いていたのですが、
いよいよ勢い余って、54話分まで一気に書き終えてしまいました。
ネタバレがダメなかたは、全話見終えてから、ご覧くださいね・・・・。


















 都へ戻って真っ先に、梅長蘇は天牢を訪れた。
 便宜を図ってくれるよう頼んだ景琰は、少しばかり渋い顔をした。梅長蘇が、九安山の行宮で体調を崩していたせいである。帰りの馬車の中でも具合が悪くなった。それゆえ、邸で大人しく養生せよというのだ。
 かつて、謝玉を詰問するために天牢を訪れようとした梅長蘇を、誉王が案じたことがあった。それさえ今は懐かしい。


 "寒"の牢。
 罪を犯した皇族を収監する房である。
 十三年前、この同じ牢内で、祁王は毒を呷って命を落とした。
 そして今、誉王がそこに囚われているのだ。

 誉王は泣いていた。
 妻・藍謹が別の牢へ移されていくのを、泣き叫びながら見送っていた。
 泣きながら、
 「你別怕‥‥‥別怕‥‥‥」
と繰り返すさまは、妻にというより己に言い聞かせているかのようで、哀れを催す。
 その誉王に、梅長蘇はゆっくりと近づいた。

 これがあの、自信に満ち、誰よりも誇り高かった誉王であろうか。見る影もない。
 お仕着せの衣、乱れた髪、やつれた頬。

 ここにいるのは、ただの一人の囚人だ。
   
 牢の前に立つと、うずくまっていた誉王が顔を上げた。
 憎々し気に、
 「你来干什么」
と問う。
 誉王は自分を憎んでいるのだと、梅長蘇は今更ながらに痛感した。
 当然だ。自分がこの男からすべてを奪ったのだから。

 せめて、憎ませてやらねば、誉王の気持ちのやり場があるまいと思う。
 そして己もまた、誉王を蔑んで、これまでの思いを拭い去りたかった。

 全てを清算するつもりで来たのだ。
 ふたりの間に芽生えていた友情は、すべて幻であったのだと。そう確認し合うために。





   * * *




 何をしに来たのかと問うと、
 「知り合った縁です。見送りに来ました」
と、梅長蘇は淡々と答えた。
 「早々に手を引けば富貴な身でいられたのに、なぜ罪人に成りさがった?」
とは、よくも言えたものだと思う。
 誉王は梅長蘇に背中を向け、そして壁際に腰を下ろした。
 靖王にすべて横取りされたというのに、どうしてその足元にひれ伏すことができるだろう。地位も名誉も父の寵愛も、そして麒麟の才子も。なにもかも奪われて、大人しく手を引けなどと、一体どの口がいうのか。
 「帝位への執念が骨の髄までしみついているとは」
 溜息をつき、侮蔑と悲哀をこめて梅長蘇が言う。
 「後悔はないようですね」
と。
 冗談ではない、と思う。
 「後悔するとも。‥‥‥おまえを簡単に信じた」
 梅長蘇の顔を見ずに、目を伏せたまま誉王はそう答えた。
 ことの始めから‥‥‥、自分は梅長蘇を信じたのだ。父親譲りの疑い深さも、どういうわけかあの時ばかりは役に立たなかった。
 「‥‥‥陥れたのはわたしでなく、‥‥‥あなた自身だ」
 沈んだ声で、梅長蘇が言い、牢の入り口にかかった木札を手にする音がした。
 簫景桓、と書かれた木札だ。十三年前には、やはり簫景禹、と書かれた木札がかかっていた。
 梅長蘇の賢しら顔など、見る気にもなれなかったが、その声を聞けば、萎えた心にも微かに火が点るような気がする。
 「天下を知ったつもりか? ―――教えてやる。九安山を攻めたことは、生涯で最も痛快なことだった」
 そう、あれほど心が沸いたことなど、かつてなかった。
 (なにしろ、貴様がいたからな)
と誉王は思う。
 九安山には梅長蘇がいた。それだけでも、わくわくしたものだ。
 友との遊び方など、知らなかった。
 だが、敵として戦う楽しみならば、誉王とてわかる。
 まるで、親しく碁でも楽しむように、誉王は梅長蘇との戦の駆け引きを楽しんだのかもしれない。

 だが。
 「敗れた以上、当然最後は死ぬ。だから受け入れよう。―――所詮、昔の祁王と同じだ」
 そう言った途端、案の定、梅長蘇が声を険しくした。
 「祁王と同じだと?」
 その声は、怒りに満ちている。
 どこが同じだと、梅長蘇は憤然とした口調で言い募った。
 「天下と民を案じた簫景禹には、永遠に及ばない」
 なるほどなと思う。
 天下と民。
 確かに自分は、そんなものを案じたことなどなかった。
 天下を欲しはしたが、何のためにそれを望み、誰のために政をわが手で行おうというのか、そのような志は己にはなかったのだ。
 祁王には、それがあった。―――そうかもしれぬ。あの兄が君主となれば。さぞ清く正しく、美しい国造りを目指したことだろう。民の為の、政を。

 「あなたが死んでも誰も偲ばず―――、誰も恥辱を雪ぎはしない。身から出た錆だからな」
 容赦のない、厳しい言葉だった。
 誉王の胸を、虚しさが吹き抜ける。
 『誰も偲ばす』と梅長蘇は言った。
 ―――おまえもか? 梅長蘇よ。
 祁王を偲ぶことはあっても、この自分のことなど思い出しもせぬと?

 「‥‥‥なぜそんなことが断言できる」
 誉王は言った。
 「この世には因果があって報いとなる」
 なにが因でなにが果か。
 けれど、おまえは知らなくていい。この自分が、どれほどの痛みにうちひしがれたかなど。
 「罢了‥‥‥。言ってもわかるまい」
 おまえは勝ち、自分は負けた。それでよいではないか、と誉王は思う。
 自分は簫家の尊い王子である。この男の前ではそれでよい。滑族の血がなんだというのか。
 梅長蘇の言うとおり、一度は大人しく手を引くつもりであったのだ。突然つきつけられた忌まわしい過去が、それを許さなかったのだ。
 だが、父と自分との間の確執など、今更言って何になろう。
 何も知らずにいてくれれば、それでよい。 

 「おまえには散々踊らされたが、―――最後に謎を残せた。何が因果で、何が報いか」
 そもそもの始まりが何であるのか。
 母は父を信じ、父は母を利用して帝位を得、そして裏切った。父は自分に情けをかけて、皇子として手元に遺し、やがて自分は帝位を望んだ。父と母の間に起こったことを知った自分は、父を憎み、かつて父がしたように帝位を簒奪しようとして、果たせなかった。
 『父、子を知らず。子、父を知らず』
 かつて祁王が言い遺した言葉。
 自分もまた、父の何を知っていただろう。そして、父もこの簫景桓の何を。
 兄・祁王とその母・宸妃にもまた、父との間に秘められた物語はあるに違いない。
 すべてには因果があり、やがてその報いは受けねばならぬ。その理からは、誰も逃れられはせぬのだ。

 謎は謎のままでよい。
 その謎を思うとき、梅長蘇は自分を思い出さずにいられないだろう。

 「それくらいわかる」
 負けん気強い調子で、梅長蘇が食いついてきた。
 「その昔、あなたは―――。長兄が毒酒を飲むのを見届けたが、長兄が残した陛下への言葉を伝えなかった‥‥‥。そして今、長兄と同じ立場にいる。それがあなたの報いだ」
 見てきたようなことを言う。
 だが、その通りだ。この"寒"の牢で。確かに自分は、長兄の最期を見届け、その最期の言葉を父に伝えなかったのだ。
 「やはり思ったとおり、祁王とゆかりのある者か」
 そう言うと、梅長蘇は憎々し気に言った。
 「私の正体など、永遠にわかるまい」
と。
 なんと小癪なことを言うのだろう。
 この気位の高さ、鼻っ柱の強さ。
 遠い昔に、この自分を蔑み、忌み嫌った、あの‥‥‥。

 ことり、と木札の懸かる音がした。
 立ち去ろうとする梅長蘇を呼び止めるでもなく、誉王は言葉を継いだ。
 「この世には―――、第二の簫景禹は現れまい」
 そう言うと、梅長蘇は足を留めた。
 「たとえ現在、覚えめでたく、東宮位をほぼ手中に収めた靖王殿下でも、その背中を遠くから拝むしかないのだ」
 ほかでもない、貴様が一番よく知っているだろう? と誉王は思った。
 永遠にわからぬだと?
 気づいてしまったやもしれぬのだ、自分は。
 



   * * *



 「たとえ現在、覚えめでたく、東宮位をほぼ手中に収めた靖王殿下でも、その背中を遠くから拝むしかないのだ」
 誉王の乾いた笑いに、梅長蘇はうなだれた。
 わかっている。祁王は―――、自分たちにとって特別な存在だった。誰も祁王のかわりになどなれはせぬ。
 誉王もまた、梅長蘇と同じように、祁王の影を追いながら生きてきたのだ。
 (誉王の言うとおりだ‥‥‥。兄長、あなたはあまりに遠い)

 笑いを納めた誉王が、再び言葉を継いだ。
 「‥‥‥なにゆえ」
 誉王の声に、梅長蘇は身体をこわばらせる。
 「なにゆえ、もっと早く、そなたの言うたことを理解できなんだのかと、自分で自分に腹がたつ」
 梅長蘇はびくりとして、牢の中の誉王に視線を戻した。
 乱れた髪の間から覗く誉王の目は、今はすでに穏やかだ。
 「そなた、言うたであろう。‥‥‥叔父上のこどく、共に隠棲しようと」
 かつてのごとく優しい声音で、誉王は言った。
 「病んでさえおらねば、そなたはそうしてくれたのであろうな」
 たちまち、胸に熱いものが込み上げてきた。
 ―――わかってくれているのだと。
 『梅長蘇』を憎みながらも、この思いだけはわかってくれているのだと。
 そう思うと、たまらなくなった。
 「‥‥‥いつかわたしに仕えることができなくなろうとも、共に過ごした時をそなたは慈しんだのだと……、そう申したな」
 なぜ、あの時、あんなことを言ってしまったのか。
 言わずにおけば、誉王は自分をただ憎み、自分は誉王を蔑んだまま、全てを終えることができたものを。
 唇をかみしめた梅長蘇に、誉王はさらにつづけた。
 「今度生まれてくるときには、もっと長く仕えたいと‥‥‥」
 言わねばよかった。
 言うべきではなかったのだ。

 「ちゃんと覚えていたであろう?」
 誉王が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。
 格子を挟んで、向かい合う。
 そうだ、懸鏡司の獄でも、やはりこうして向かい合った。立場は今と、ちょうど逆であったが。

 「あのとき、もっと正しくそなたの言葉を聞き分けていたならば、わたしは全てを捨てていただろう」
 誉王の言葉に、梅長蘇は弱々しくかぶりを振った。こんな言葉は、聞いてはならない。聞けば、苦しくなるだけだ。
 それでも、誉王から目が離せなかった。誉王の言葉を、聞き漏らしたくはなかった。
 誉王もまた悲し気に梅長蘇を見つめ、そして梅長蘇の真似をするかのように、ゆるく首を振る。
 「いや、それでもそなたは、わたしの息の根を止めねば安心できなんだであろうな」
 哀切を帯びたその声音に、梅長蘇は耐え切れず、その場に膝を折った。
 「梅長蘇!」
 格子の間から、誉王が手を差し伸べてくる。その手に思わずすがろうとして、梅長蘇はそんな自分に驚き、半歩後ずさった。
 そして、言う。
 「‥‥‥安心するがいい。そういくらもかかるまい、わたしの上に天罰が下されるのに」
 いやになるほど、情けない声音だった。
 強気のままで、牢を去る気でいたというのに。
 「天罰だと?」
 誉王が問う。
 そういえばいつのことだったか、沈追が言った。誉王の上に雷が落ちればよいものを、と。今は思う。自分こそが稲妻に貫かれてしまえばよいと。
 「貴方をたばかり、貴方からすべてを奪った、その報いを、わたしは受けねばなるまい」
 そして、それよりはるか昔、寂しい少年から年かさの兄を奪った、その報いを―――。
 「梅長蘇、そなたは‥‥‥」

 ―――ただ、今少し‥‥‥。今少しだけ時をくれ、と梅長蘇は思った。
 もうすぐ。
 もう少しで、全てがうまくゆく。

 何もかも終わった、その時は―――。
 すべての罪を抱いて、この大舞台から退くのだ。

 だから、それまで―――、と梅長蘇は全てを振りきるように、踵を返した―――。
  
 



   *





 衝撃は、予想をはるかに超えていた。
 そう仕向けたのは自分であったのに。
 息の根を止めんとしたのは、ほかならぬ自分自身であったというのに。
 いざ、それが現実となると、梅長蘇は身体が震えるほど動転せずにはいられなかった。

 ―――誉王が、死んだ。

 妻子の無事を請うて、自ら縊れ死んだのだと言う。
 あの男が。
 父の情に訴えて、己の命を引き換えに哀願するとは。

 梅長蘇は庭先で天を仰ぎ、顔を覆った。それでも涙は止めどなく溢れる。
 涙が流れ出た分だけ、心は空っぽになっていくようだ。

 王妃の懐妊については、既に天牢で漏れ聞いて知っていた。
 それゆえ先手を打ち、王妃と孕の子を逃す算段もつけた。
 そこまで先を見越していながら、それでも襲ってきた悲しみはあまりに大きかったのだ。

 「殿下‥‥‥。簫景桓」
 声に出して、そう呼んでみた。
 二度と、応えてはくれぬのだ。
 
 「蘇哥哥?」
 飛流が、おずおずと背中を抱いてくれる。
 梅長蘇は身体の向きをかえて、飛流をだきしめた。少年の肩に顔を埋めようとして、少し苦笑する。
 (あともう少し、大きくなってもらわねばな。‥‥‥もっと楽に顔を伏せられるほどに)
 けれど、自分の命のある内に、飛流の背丈は自分に追い付いてくれはすまい。

 「景桓。そう長くは待たせぬ」

 飛流の温かい身体を抱きながら、梅長蘇は静かに涙を流し続けた。






   *






 「‥‥‥羨萬物之得時 感吾生之行休 已矣乎 寓形宇内復幾時 曷不委心任去留 胡爲遑遑欲何之……」
 詩を吟じる己の声は、心持ち嗄れて弱々しい。
 薬草の選別をしていた藺晨が顔を上げ、こちらを見た。
 「ほう。いつから陶淵明の信奉者になった?」
 梅長蘇は仰臥したまま、続きを吟じた。
 「‥‥‥聊乘化以歸盡 樂夫天命‥‥‥復奚疑」
 ひどく息が切れた。
 藺晨がそばへ来て、脈をとってくれる。
 藺晨はもう以前のように、脈を診る度に表情を険しくすることはない。脈など診たところで、もはや何もできぬことをよく知っているからだろう。ただの気休めであり、それゆえ一喜一憂することもない。 
 「いささか化に乗じて以て尽くるに帰し。かの天命を楽しんで、またなにをか疑はん……か」
 藺晨はそう言って、ふん、と鼻を鳴らした。

 ついに冰続丹も尽きた。
 今の梅長蘇にできるのは、ただ牀台に横たわっていることだけだ。あとはただ、時が尽きるのを待つのみと、梅長蘇は己の天命を従容として受け入れている。
 藺晨の小さなため息が聞こえたが、知らぬふりをした。

 「そこの書をとってくれぬか」
 梅長蘇は藺晨に頼んだ。
 「今日はもうよせ。無理だ」
 横柄な口調で藺晨がそう言ったが。
 梅長蘇は知っていた。明日にはもっと無理になる。
 いや、その明日が来るかどうかも、もうさだかではないと。
 「‥‥‥今日、読んでしまいたい。あと少しで‥‥‥読み終えるゆえ」
 ずっと読まずにいたそれを、起き上がれなくなってからようやく開いたのだ。
 読んでおかねば、あの世で約束を果たせぬではないかと思う。
 やれやれといったふうに、藺晨が書をとって、顔のすぐそばへ置いてくれる。枕を台にして、見やすいように立てかけてくれた。すでに書を支えるだけの力さえ梅長蘇にないことを、誰よりも藺晨がよく知っている。
 「ほどほどにするのだぞ」
 そう言いおいて、藺晨は軍幕を出て行った。
  
 霞みがちな目を励まして、梅長蘇は文字を追い続けた。
 震える指で、最後の一葉を繰る。
 瞼が重い。一文字一文字を、苦労して読み進めた。

 ―――ふと気配を感じて、梅長蘇は目を上げた。

 すぐそばに、―――懐かしい姿があった。

 「殿下……」
 
 誉王・簫景桓、その人であると認めた刹那、梅長蘇の胸を喜びが満たした。
 
 「迎えに来てくださったのですか」
 誉王のほうへ腕を伸ばしかけて、梅長蘇ははっとして毛毯の中へ手を戻した。あまりにも痩せ細った腕を愧じたのである。
 「‥‥‥夢枕にさえお立ちくださらぬゆえ、もうお忘れかと思うておりました」
 すこし恨み言を言ってみせる。すると、
 「わたしとて辛抱していたのだ。なにしろ、わたしを袖にしてまで為し遂げんとした、そなたの大望ゆえ、邪魔をしてはならぬとな」
 見事に切り返されて、梅長蘇はたちまち萎れた。
 すると。

 「そう苛めてやるものではない」
 誉王の背後から涼しい声がして、梅長蘇ははっとする。
 「‥‥‥兄長!」
 懐かしい祁王・簫景禹の姿が、そこにあった。かつて実の兄のように慕い、我が主と思い定めていたその人に、ようやく再会できたのだ。

  「よかった……」
 祁王に会えた喜びよりも、むしろ梅長蘇は安堵に胸をなでおろしていた。
 不思議そうに、祁王と誉王が顔を見合わせる。
 梅長蘇は苦笑した。
 「ずっと心につかえておりました。兄長と殿下を遠ざけたのは、このわたしではなかったかと」
 誉王が微笑んだ。  
 「過ぎたことを気に病むではない。……それは?」
 枕許を覗き込まれて、梅長蘇は少し嬉しくなった。  
 「たった今、読み終えました。‥‥‥間に合ってよかった。これでお約束通り、殿下に講義してさしあげられます」
 そう言うと、祁王も顔を寄せてきた。
 「ほう、黎崇先生の。わたしも聞かせてもらいたいものだな」
 「兄長に講義するなど、とんでもありません」
 恐縮してかぶりを振った梅長蘇に、祁王は優しく微笑みかける。
 「そなたはこの世で、私よりさまざまなことを学んだではないか」
 そう言って、祁王の手が髪をなでてくれる。幼い頃にそうであったように。この世でやり遂げたことを、祁王に褒められたのだという嬉しさに、梅長蘇は目を細めた。

 「さあ、参ろう」
 祁王の声に、しかしながら梅長蘇は少しためらった。
 「どうしたのだ?」
 梅長蘇は目をそらせる。
 「景琰を、ひとりにしてゆかねばなりません」
 もう、支えてはやれぬ。すべて景琰に押し付けてゆくことになる。
 「あれを残して行くのが気がかりか?」
 祁王が穏やかにそう尋ねた。
 梅長蘇はすこし考え‥‥‥。
 そして微笑った。
 「‥‥‥いいえ。景琰ならば、もうひとりでもきっと」

 そうだ。
 景琰は、立派にこの国を担ってゆくだろう。
 頑なで融通の効かぬ、泣き虫だった少年が、誠実で情義に厚い、英明なる君主として梁を統べてゆくのだ。
 玉座に座る、頼もしい姿が目に浮かぶようだった。

 祁王がうなづいた。
 「ならばさあ、その不自由な身体はおいて行くがいい」
 そう言われて、梅長蘇はふと寂しくなる。
 「‥‥‥。すこし、名残惜しゅうございます。親からもろうたままの姿ではありませぬが」
 この器を、手放さねばならぬのか、と。
 「苦労して得た身体であったな」
 そうだ。生きながら肉を食われ、人ならぬ獣のごとき身となった。そうして、皮を剥がれ、肉を削がれて、ようやく今の身体を得たのだ。
 「そのか弱き身で、都に風雲をもたらしたのだな」
 祁王がそう言うと、誉王が小さく笑った。
 「わたしを篭絡し、打ち負かしたのも、その脆弱な身だ」
 「殿下‥‥‥」
 篭絡だなどとは人聞きが悪い。意地の悪い言葉に、梅長蘇はわずかに眉を寄せて見せた。
 「よいから参れ。お婆様も首を長くしてお待ちだ」
 生前のごとく優雅な仕種で、誉王が手招きした。
 それに誘われたように、ふわり、とからだが軽くなる。 
 途端に、息苦しさも消えた。
 目の下に、梅長蘇の脱け殻が横たわっていた。
 痩せ細ったその脱け殻は、しかし満足そうな微笑をたたえていた。

 終わったのだ、と思う。
 すべて。

 従兄らが、笑ってうなづいてくれた。
 「兄長。‥‥‥殿下‥‥‥」
 「小殊」

 小殊、と誉王に呼ばれた瞬間に、全てが許された気がした。
 幼き日の。
 ただの景桓と林殊であった昔から、今一度やり直すのだ。毒蛇と呼んで忌み嫌ったあの過ちも、今は遥か昔のこと。

 ふたりの従兄に手を曳かれて行く先には、懐かしい曾祖母や、父母。そして、七万の同胞たちが待つ。
 父は、誉めてくれるだろうか。
 梅嶺のあの灼熱の煉獄も、身を凍えさせる火寒の毒の苦しみも、どこかぼんやり遠く感じられた。





   * * *





 「『不疑策論』か」
 脈をとっていた藺晨は、梅長蘇の手許のそれを見下ろした。
 「‥‥‥読み終えることが出来たのであればよいが」
 そうつぶやいた途端、そばで宮羽がわっと泣き崩れた。
 立ち尽くしていた蒙摯の口からも、低く嗚咽が漏れる。

 「見てやれ。満ち足りた顔をしている」
 藺晨は言い、梅長蘇の髪の乱れを指先で直してやってから、ひとり閨房をあとにした。

 ―――夜明けの軍営に、宮羽のすすり泣く声だけが、細く長く、続いていた。










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~ Comment ~

遥華様

本当に感謝です。
今は、ただそれしか書けません。

途中から、滂沱の涙でした。

梅長蘇にも、誉王にも、清らかな救いを与えて下さって、ありがとうございます。

Re: タイトルなし

ええっ、そんな、恐縮です。
泣かせてスミマセン(^^;;;
ラストに関しては、何とおりも妄想しちゃってて・・・・
藺蘇バージョンもラストだけは頭にあるんですけど、どう持って行こうかなーと考え中ですw

お疲れ様です♪

遥華さん、こんばんは♪
『毒蛇』連載お疲れ様でした。
ずっと前に書かれた『傀儡』と違って、こちらは梅長蘇が亡くなってしまうバージョンだったんですね~
そしてまさかの誉王のお迎えにびっくり‼
祁王が来るのは想定内でしたけど。
靖王がこちらの世界で頑張ってる間、あちらの世界では祁王を挟んで誉王と林殊がワイワイ楽しそうにやってるのが目に浮かんで来ます。
靖王があの世へ行った時に誉王に嫉妬しないと良いけれど(笑)

次回作も期待しております。

Re: お疲れ様です♪

最後までありがとうございました。
実は逆に、ラストで祁王を出す気は当初なかったんですが、 
途中でちょいちょい話の中に出てきてしまってたので、
ラストにご登場いただきましたw
こんなに長くなると思わず、自分でもびっくりです。
さて、今後は靖王や藺閣主も書きたいところです・・・

太棒了!

はるかちゃん、お疲れ様です!
もう、もう、凄いよ… こんなお話が、書けるなんて。
思い切り泣かされてしまいました。
宗主は亡くなってしまったけれども、皆が救われた気がします。感動…
また次なるお話、期待してます!

感激しました。

遥華さんは「妄想」というけれど、すごい構成力です。とにかく面白い!テレビだけではわからない登場人物の心の機微までよくわかり、ますます物語が深くなっていきます。本編の最後がどういう展開になるのかはわからないけど、なんとなく気持ちが楽になりました。

Re: 太棒了!

えーっ、Akiakiちゃんまで泣いてくれたの!?
最後まで読んでくれてありがとう(>_<)
次は靖王とか藺閣主とかで遊ぼうと思ってますwww

Re: 感激しました。

うわ、勝手にねつ造した心の機微もあるので、どうだろうwww
これはこれとして、また別の目線で見た話も書きたいので、
まだまだ琅琊榜で遊んじゃいますwww

最後

林殊、長蘇の視点からの最後の瞬間…って、初めて見た気がします。涙が出ました。。。
2人のお迎えで、手を引かれた先に、懐かしいみんなが待っている…書も読み終え満足出来て、安らかな穏やかな最後でしたね。。。
想像ではなく、本人目線でしたので実際にそう思ったことがわかって、よかったです。。
藺晨も最後まで側にいてくれたし、悲しいけれどこういう最後もありですね。。。
有難うございました。

>>わた雪さま

Twitterでも触れましたが、『毒蛇』シリーズはかなり自己流に創作してまして、
『琅琊榜』本編を見て自分がこう感じた、というのとは少し違うのですが、
誉王という人が本来こういう人であればよかったとか、
宗主が満足して最期を迎えられるといいとか、
そういう願望をこめた話として書いたのかなと、今にして思ってます。
『毒蛇』以外の話は、「わたしは琅琊榜のここをこんな風に感じた」という
自己主張のつもりで書いています。
口下手で、Twitterではうまく議論に乗っかれなくて、
ツイの文字数では誤解されることも多いので、
お願い、わたしの思いはこれなの、という感じで書いているのですが
なかなか沢山のかたに読んでいただくのは難しいですねw

Twitterの文字数制限…って難しいですよね。私もいつも文字数オーバーしてしまって、収まるように削っていくと、本来思っている真意が上手く伝えられない事も…。。
(文章力、語彙力がないのも原因)

遥華さんが口下手…っていうのはないと思いますが(笑)、ツイ文字数では収まらないのではと思います(笑)
その分こちらで吐き出して下さい♪

>>わた雪さま

いやいやいやいや、わたしはこうやってお話をダラダラ書くのは好きなのですが
会話力がてんでダメでして、ほんとに口下手というか、
ものすごい人見知りで初対面のかたとはろくにしゃべれないし、
親しくても4日以上寄ると結構黙ってますwww

そう、ツイでも、ツイ文字数では結局言いたいことが言えないので、
これまた「もういいや」って投げちゃうとこありますw
とにかく、ひとつのことをクドクド長々語りたい困った人間なのですwww
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