琅琊榜

真珠 (『琅琊榜』#50~52補完)

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靖王目線でもおさらいしておこうと思って書きました。宗主愛しのあまり、ついつい靖王を責めてしまいがちな自分への戒めとしてw

 自分だけが、蚊帳の外であったのだ。

 ―――どうして。
 頭がうまく、働かなかった。

 父皇の御前を退いて、足取りさえ覚束ぬほど疲労困憊の『梅長蘇』が、蒙摯に抱えられるようにして去っていくのを見届けた。そして、気がつけば芷萝宮へと足が向いていたのだ。

 どうして、と景琰は又頭の中で繰り返す。

 为什么?
 その言葉だけが、ぐるぐると景琰の頭を巡り続けていた。

 母の目が、痛ましそうに自分を見ている。
 心が震え……、
 「……母上は」
 ……声も、震えた。
 悲しくて、悔しくて、情けなくて、怒りのやり場さえない。
 「母上は……、ご存じだったのですね―――」
 言わずもがなの問いであった。母の悲しげな眼差しが、とうに全てを物語っている。
 母が違うと言ってくれれば。
 これまで幾度もそうしたように、優しい嘘でたばかってくれたならば。
 どんなによかったことだろう。
 しかし、今度ばかりは、母も否定はしなかった。

 ―――もうずっと前から、母と『梅長蘇』との秘密を暴きたいと思っていた。半ば、真実に思い当たってもいたというのに。
 否定され、誤魔化され、それでも得心が行かず、悶々とした日々を過ごしてきたのだ。
 知りたい、と切望していたその真実が、けれどこうして唐突に暴きたてられ、あり得べからざるそれに説明がついてしまうと、景琰はただ途方に暮れるしかなかった。

 为什么。
 どうして自分だけが、知らされなかったのか。

 母も、衛崢も、蒙摯も、霓凰も、みな知っていた。
 そうだ。
 彼らはいつも、『梅長蘇』を気にかけ、敬愛し、庇い立てていたではないか。
 それなのに、なぜ自分だけが知らずにいたのか。

 ……悔しかった。
 「为什么不告訴我……!?」

 知らせてくれなかった友にも、気づけなかった己にも、腹が煮えてならなかった。
 恨み言が山ほどある。
 そして。
 それ以上に、数知れぬ詫び言が心に浮かんだ。

 二年の間、影のように寄り添ってくれたあの男のなかに、今こそ懐かしい友を想う。
 心は幾度もそれと気づきながら、頭が受け入れられずに来たのだ。突拍子もない妄想だと一蹴した。あれはたかが謀士に過ぎぬのだと、自分に言い聞かせ続けた。
 だが。

 自分は知っていたはずだ。常に冷静な謀士の眸が、時に狂おしいほど熱く燃えて訴えかけてくるのを。
 いつぞや、密道の鈴綱を断ち切った時のことが思い出される。
 あの時の梅長蘇の、「殿下」と叫んだ血を吐くような声。
 膝をつき、うちひしがれた蒼白い貌。
 なんという仕打ちをしたのだろう。
 弱りきった身体で、それでも智力を振り絞って自分を支えてきたあの男を。
 たとえそれが林殊でなかったとしても、なぜもっと信頼し、気にかけてやらなかったのだろう。

 常に心の隅で疑い、蔑み、ないがしろにしてきた。
 認められなかったのだ。あのような者が、林殊の成れの果てであるなどと。
 己の才気を恃みに謀を巡らせ、時には人の心を操り、傷つけることも厭わぬ男が、林殊でなどあるはずがないと。

 なんと愚かだったことか。

 ―――あれは、林殊だ。

 姿かたちは変わっても、あの魂はあれほどに林殊そのものであったというのに。
 今なら確信できる。

 出会ったばかりの頃、皇太子と誉王のどちらを選ぶのか、と侮蔑を込めて尋ねた自分に、『梅長蘇』は凛として言ったのだ。
 「あなたを選ぶ」と。
 ほかに選択肢がないから、と梅長蘇は穏やかに微笑っていた。
 あの涼しい微笑の裏で燃え上がっていた焔は、林殊のものでなくて何だったろう。

 降りしきる雪の中、喉も張り裂けんばかりに自分を罵り戒めた、あの迸るような熱は、林殊以外の誰のものであるというのか。

 どうして気づいてやれなかったのだろう。
 なぜもっと早く。

 ―――不意に。

 恐ろしくなった。

 「……小殊の病状は?」

 小殊であると知って初めて。
 心から気にかかった。
 梅長蘇の病が決して軽くはないと、とうにわかっていたはずなのに。

 母は目を背け、深いため息をついた。
 「言えることはひとつ。小殊の悲願を叶えて……」

 その言葉で、充分だった。
 今こそ全て悟らずにはおれぬ。

 「一歩たりとも、間違いは許されぬのよ」
 母の言葉がようやく胸に響く。

 「あなたなら―――、失敗しても耐えられる。でも、小殊には……」
 母が伏せていた目を切なげに上げる。
 「……耐える力は、残っていない」
 厳かでさえあるその声音に、景琰はその重みを合点せずにはいられない。

 失敗は許されない。
 たった一度きりの機会のために、林殊は病み衰えた身に鞭打って、周到に企てを進めてきた。ともすればその足枷になろうとするこの自分・簫景琰を、時に宥め、時に叱りつけながら、辛抱強く事を練ってきたのだ。
 焔のように熱かった男が、我慢に我慢を重ねてその時を待ち続けた忍耐を思うと、胸が締め付けられた。
 林殊に二度目はない。
 もう決して、林殊の歩みの邪魔だてをしてはならぬのだ。
 いや、自分こそが、林殊の手を曳いて、渠の悲願を叶えてやらねばならぬ。

 今ようやく、心が定まった。


  ***


 馬蹄の音を聞いた気がして、梅長蘇は浅い眠りから覚めた。
 「景琰?」
 全身の力をかき集めて、疲れきった身体を起こす。起き上がるだけで息が切れ、目眩がした。
 「蘇哥哥」
 睡衣姿のままの飛流が、枕元へやって来る。
 「水牛」
と飛流は言った。
 「水牛が来た」
 空耳ではなかったと知り、梅長蘇は飛流の手を借りて寝台から降りた。
 黎綱の案内で書房へやって来た景琰は、強ばった顔を少し紅潮させていた。
 「殿下」
 そう呼んで臣下の礼をとると、景琰はあからさまに不快感を示したが、少し目を泳がせてから、「蘇先生」と軽く礼を返してきた。
 「請」
 座を勧めると、硬い表情のまま、景琰は渋々腰を下ろした。
 黎綱の助けを借りながら向かいに座する自分を、景琰の目が気遣わしげに見ている。
 「休んでいたところを、起こしてすまぬ」
 「いいえ。前にも申し上げたでしょう。眠りは浅い方なのです」
 黎綱が火鉢の炭を寄せて、火を掻き立てる。炭が赤みが増すと、黎綱は黙って部屋を出ていった。
 「……こんな季節でさえ、火を焚くのだな」
 火鉢の中で赤赤と燃える炭に目を落として、景琰はぽつりと言った。
 「暑ければ火を落とします」
 微笑って火匙に伸ばしかけた梅長蘇の手は、しかしながら景琰に掴まれ、止められる。
 「顔が火照っておいでですよ」
 そう笑うと、景琰は泣き出しそうな顔をした。
 「お前の手は、こんなに冷えきっている」
 思わず、梅長蘇は目をそらせる。

 わかっていた。
 もう、皇太子と謀士のままではおれぬのだ。
 皇太子は、決してこんなふうに梅長蘇を気遣いはしない。
 こんな目で梅長蘇を見たことなどない。
 共に歩むと誓いながらも、その目の奥には不信と侮蔑が常に見えかくれしていた。それは梅長蘇にとって辛いことではあったが、同時にそうあってくれねばならぬと割りきってもいた。
 未来の皇帝は、謀士の生臭い策を易々と受け入れる男であってはならぬ。
 景琰の真っ直ぐで清廉な、融通の利かぬ気性は、梅長蘇を充分満足させていたのだ。

 その皇太子が自分を見る今の目は、すでに昨日までのそれとは違う。
 それは、林殊を見る簫景琰の目にほかならなかった。

 「では、このままで……」
 やっとそれだけ答えて、梅長蘇は景琰の手から自分の手をゆっくり引き抜こうとした。
 が。

 「!」
 離れかけた手を、更に掴み寄せられ、梅長蘇ははっとする。

 息が、止まりそうになった。
 景琰の気持ちは、痛いほどわかる。自分も、太皇太后の前で霓凰の手を今の景琰と同じように、離すことが出来ずにいた。

 「蘇先生」
 まるで己を御そうとするかのように、景琰は無理矢理声を低めてそう呼んだ。そう呼ぶことで昨日までの二人に戻れるのなら、どれほどほっとできるだろうかと、梅長蘇もまたそう思う。
 真実を知ることと知らぬこと、どちらがより景琰を苦しめることになっただろう。
 知らさぬことと知らせること、どちらが梅長蘇自身にとって心安きことだったろう。
 既によくわからなくなっていた。

 確かなことは、ただひとつ。
 既に戻れはしないのだ。

 「殿下……」
 絞り出すようにそう呼んだ刹那、片手で火鉢を脇へ寄せた景琰に、梅長蘇はそのまま腕を強く引かれた。

 「小珠!」
 ついに景琰の口からその名が迸り出る。
 その顔を、しかし梅長蘇は見ることができなかった。
 なぜなら、渾身の力で、友の胸に抱きすくめられていたからである。

 「回来了……。小珠、回来了」
 震える声で、幾度も幾度も景琰はそう繰り返した。
 武人の腕は余りに強くて、梅長蘇は息も出来ずに半ば朦朧としながら、それでもじっと身を委ねていた。

 ひどいことをしたと思う。
 この、正直で心優しい友に、なんという過酷なさだめを負わせたことか。
 幾度打ち明けようと思っただろう。
 自分は林殊だ。こうして生きて戻ってきた。悲しまずに、自分らしく生きてほしいと、そう言って抱き締めてやれたなら。
 復讐など放り出して、あの頃のように生きられたなら。
 だが、それはかなわぬのだ。
 無念のうちに散っていった七万の英霊を見捨てて、己だけがぬくぬくと暮らすことなどできるはずもない。
 そして、大業を成し遂げるためには、この友を巻き込む以外に術はなかったのだ。

 対不起と、せめてそう言ってやりたかったが、次第に気が遠くなる。

 梅長蘇は懐かしい温もりのなかで、意識を手放した。





 騒がしい気配に、ようやく梅長蘇は目を開く。
 すぐそばで藺晨と飛流が何やら揉めていた。
 「ああっ、飛流。大事な蘇哥哥がお目覚めだぞ」
 目ざとく気づいた藺晨にそう言われて、飛流が慌てて枕元へ顔を近づけてきた。
 「蘇哥哥」
 微笑いかけてやると、飛流は満足げに破顔した。そして、藺晨の手から薬湯の入った椀を強引に取り上げると、莞爾として差し出してくる。
 梅長蘇は苦笑いして少し頭を起こすと、飛流の手から薬を飲んだ。
 「自分が飲ませるといって聞かぬのだ」
 藺晨が辟易したように言うと、飛流がむっとした顔をする。
 「気持ちが悪い」
 少し怒ったように、飛流は藺晨を指差した。
 「気持ちが悪い?」
 梅長蘇が訊ねる。
 うん、とうなづいて、飛流は藺晨を睨みつける。
 「口から口だって」
 「え?」
 言葉足らずの飛流の言わんとすることを悟って、梅長蘇も軽く藺晨を睨んだ。
 「誰が口移しで飲ませてくれと頼んだ?」
 藺晨はとぼけて明後日の方へと目をそらせたが、二人分の視線に観念してひらひらと手を振った。
 「なかなか目覚めぬのだからしかたあるまい? 宮中より戻ってから丸二日眠りっぱなしだ」
 「丸二日……」
 梅長蘇は軽く目を見開いた。
 それでは、あの夜遅くに景琰が訪れたと思ったのは。

 「夢、だったのか」
 思わずそうつぶやいた。

 景琰は、来なかったのだ。
 可哀想に、悶々とした思いを抱えたまま、長い夜を過ごしたのだろう。
 今すぐにも、慰めてやりたかったが。
 それもかなわぬ。
 いや、むしろ。

 ―――恐かった。
 景琰に会うことが。



  ***



 林殊の思いが通じたのだろう、と景琰は嘆息する。
 莅陽長公主も、ついに腹を括った。
 子らへの処遇を慮って亡夫・謝玉の旧罪を公にすることを渋っていた長公主だが、いったん覚悟を決めると頼もしかった。景琰にとっても、林殊にとっても、血のつながった伯母である。
 「もう一つ頼みがある」
と、伯母と景睿が去ったあと、林殊がそう言った。
 「何を遠慮する?」
 胸に小さな波が立つのを、景琰は努めて抑えた。
 「……誕生日の宴に、同席したい」
 熱い塊が、喉元までせりあがる。
 怒りとも悲しみともつかぬ、もどかしい思い。
 沈黙を誤解したのか、林殊がわずかに不安げな顔をした。
 「なにか、問題が? ……いちおう、客卿という立場もある」
 ―――そうではない。
 誰がそんなことを言っているというのか。
 これほど賢い男が、なぜそんな愚かなことを尋ねるのか。
 「……怎么了?」
 そう問われて、景琰の胸を苛立ちがつきあげた。
 「頼むことか? 当然、同席できる!」
 長い年月、この日の為に心血を注いできた林殊に、結末を見せぬはずがない。
 声を荒げずにはいられなかった。
 病んだ友を労りたいのに、自分は腹を立ててばかりだ。

 夏江との決着をつけたあの日のあと、一度だけ顔を合わせる機会があった。
 その折り、景琰は林殊を天牢へといざなったのだ。
 敬愛して已まなかった兄の最期を、林殊とともに悼むためである。兄が果てた場所で、林殊を前にして誓いを新たにしたかった。
 今度こそ、『小殊』と呼ぶつもりでいたのだ。十三年分の想いをこめて。
 だが。
 いざ『梅長蘇』を目の前にすると、どう接していいかわからなかった。
 梅長蘇が林殊であるという事実は、既に景琰の中でゆるぎないものになってはいたが……。
 それなのに、。
 兄の逝った牢内で、黙って佇む林殊の後姿に、かける言葉が見つからなかったのだ。

 そうして今日こそ、二人の間に横たわる十三年の歳月を埋めようと思った。
 梅長蘇を林殊に戻す。
 喜んでくれると思ったのに。
 伯母に会う前、そう切り出すと、にべもなく拒まれた。
 謀士・梅長蘇が、林殊に戻ることはないのだと。
 景琰が憤れば憤るだけ、林殊は静かな面持ちを崩さなかった。

 腹立ちを通り越して、悲しかった。
 林殊はこうして、生きて戻ってきたというのに。
 あと幾許かの命を、林殊として過ごさせてやりたい、ただそれだけだというのに。
 やがて皇帝となる身の自分には、そうしてやるだけの力があるはずなのに。
 それすら許してくれぬ林殊が、悲しかった。
 「梅長蘇でいることにも慣れた」
 そう微笑んだ悲しい嘘を、はねつけることは出来なかった。
 林殊が切り開いてくれる新しい世を、台無しには出来ぬのだ。

 それでも。
 伯母にぶつけた梅長蘇の熱い言葉の中に、やはり林殊を見出さぬわけにはいかなかった。
 梅長蘇でいることに慣れたというその言葉とは裏腹に、渠はこれほどまでに『林殊』なのだと思い知らされた。

 なのに、今。
 戸惑ったような顔をして、「殿下」とやはり林殊は自分をそう呼ぶ。
 いまだ林殊は、『梅長蘇』を演じようとしている。
 皇太子とその謀士という立場を、猶も装おうというのか。
 我慢がならなかった。
 「何が『殿下』だ!」
 思わず、抗議の言葉を吐かずにいられない。激しい怒りが、胸を焦がす。
 平気なのか、林殊は。
 この二年、どうして平気な顔をして、自分のそばにいられたのか。
 「林殊の身分に戻れなくても、わたしの前でまで梅長蘇でいるな」
 苛立ちを、ぶつけずにいられない。
 林殊の視線が、心もとなげに揺れる。
 「……景琰」
 細い声に、景琰の心は震えた。
 林殊はあれほど、熱く朗らかな男であったのに。

 いや、たとえ林殊であることを差し引いたとしても。
 こんなにも、儚げだったろうか、『梅長蘇』は。
 狡賢く、したたかな、鉄面皮の謀士。
 そう見えたのは、景琰自身が心に壁を築いていたからにほかならない。
 そして『梅長蘇』もまた、必死で壁を作り上げていたに違いなかった。
 二年の間、自分はいやというほど、この男を傷つけてきのだ。

 可哀想に。
 『簫景琰』だけが、盾になってやれたはずなのに。
 むしろ。
 矛となって傷つけてきた。
 どれだけ悪辣な敵と戦うよりも、この自分に傷つけられることが、林殊には一番こたえたに違いないというのに。

 平気なはずなどないのだ。
 林殊の二年間の苦しみ、いや、この十三年の思いを、わかっていないのは自分のほうだ。
 残された自分たちもつらかったのは本当だ。
 何がどうなったのかも知らされぬまま、あっという間に兄や友を失い、その謎について語ることさえ許されなかった。
 悼むことも、悲しむことすらも。
 つらくて、悔しくて、心を閉ざし、戦いに明け暮れた。
 苦しみに満ちた歳月だったのだ。
 けれど、林殊の苦しみはいかばかりだったか。
 目の前で父と七万の同胞を失い、己も死に直面し、毒に侵され、姿さえ変わり果て。
 それでも戻ってくるために、背負った人々の思いに応えるために、文字通り『骨身を削って』今日という日まで耐えたのだ。
 なんという強い意志だろう。
 平気でなど、あったはずはないのだ。

 心も体も悲鳴を上げながら、それでも決して口には出さず、『梅長蘇』の仮面をかぶって、いつも静かに根気強く自分を教え諭してきてくれた。
 日々弱りゆく身体を抱えて、疑い、蔑み、噛みついてばかりの自分に、どれほど苛立っていただろうかと、景琰は悔やまずにおれぬ。

 今は、抱きしめて泣くこともできなかった。己の感傷など、林殊の苦しみと覚悟の前にはとるに足りない。

 今にも力尽きて倒れてしまいそうなこの男に、なんとしても見届けさせてやらねばならない。
 長い、長い、十三年の、その結末を。

 林殊が、梅長蘇が、命を削って導いた、その結末を。

 してやれることといえば、それしかないのだから。



  ***



 手元を覗き込んでくる飛流に、梅長蘇はそれをつまみあげて見せた。
 「綺麗だろう?」
 うん、と飛流が興味深そうに眺めている。
 部屋に入ってきた藺晨が、すこし眉をひそめた。
 「……真珠、か?」
 小さく笑って、梅長蘇はそれを藺晨のほうへ掲げる。
 「……」
 顔を近づけてしばらく見つめた藺晨は、何か言いたそうにしたが、ふっと目をそらせて微笑した。
 「大事なものだろう? しまっておけ」
 梅長蘇もほほえんで頷くと、大粒の真珠玉を箱に戻した。
 「十三年かかって、やっと手に入れた」
 「……そうか。よかったな」
 渠にも似ぬ穏やかな口調でそう言うと、藺晨はそばに腰を下ろして自分で茶を淹れた。

 そうだ。
 この真珠の真贋など、問題ではない。
 これは、景琰が自分のために求めてくれたものだ。
 そして、十三年分の、景琰の思いが宿った品にほかならない。

 十三年、いや、じきに丸十四年がたつ。
 なんと長い年月だったろう。
 たとえ身は離れ離れでも、心は寄り添いあっていた証の品。

 「蘇哥哥」
 飛流が心配そうに身体を寄せてくる。
 「莫迦。泣くな」
と藺晨がわらった。
 「泣いてなど……」
 泣いてなどおらぬと言おうとしたが、声が震えて、真珠の箱の上に涙がぽたりと落ちた。
 「別哭……蘇哥哥、別哭……」
 困ったように、飛流が手を差し出して涙を拭ってくれる。
 「いい子だな、飛流」
 梅長蘇は飛流の温かい身体を抱き寄せた。

 もうじき終わる。
 『梅長蘇』の役目が。
 そしてそれは、景琰にとって新たな長い苦しみの始まりかもしれない。
 今度はもう、支えてはやれぬ。
 せめて心は、景琰のそばに残してゆこう。
 景琰から自分に手渡されたこの真珠を、今度は自分から景琰に。

 その時がきたら。
 思いを込めて託そう。

 梅長蘇は飛流を抱く腕にぎゅっと力をこめ、その肩に顔を埋めた。

 藺晨が茶をすする音さえ耳につくほどに、静かな夕べであった―――。
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