琅琊榜

毒蛇9 『雷霆』 (『琅琊榜 #24補完)

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毒蛇その9です。ちょっと本編から寄り道・・・・。

 しばらく梅長蘇に会えずにいた。太皇太后の喪に服している間、外出もままならなかったのだ。
 天牢に繋がれていた謝玉が、流刑地へと旅立っていった。その報告がてら、誉王は久し振りに蘇宅を訪れたのである。
 暫く見ぬ間に、梅長蘇はまた一回り痩せたようだ。服喪で粗食に甘んじていた自分よりも、梅長蘇の方がよほど憔悴して見える。もっとも断食の期間とて、まともにしきたりを守っていたのは頭の固い靖王のみであったが。
 他愛ない談笑ののち、誉王は帰り際、足を留めて振り返った。
 「……いつぞやの約束を、覚えておいでか」
 「約束?」
 梅長蘇はとぼけたが、照れくさげに目をそらせたところを見れば、忘れてはおらぬようだ。
 「明日の朝、迎えに参るが、よいか」
 梅長蘇は、小さくうなづいた。
 「もっとも避暑用の別院ゆえ風通しが良すぎて、いかに夏とはいえ、朝晩は先生にはいささか肌寒いやもしれぬ。馬車に炭を積んでゆかねばならぬな」


 翌朝、馬車を仕立てて蘇宅を訪れた。
 飛流を伴うものと思っていたが、こちらに供がおらぬのを見て取った梅長蘇は、ついてこようとした飛流を無言で制した。
 黎綱と甄平が俄かに動揺して顔を見合わせたが、梅長蘇の一瞥だけで大人しくなる。
 「よいのか? 護衛がおらずとも」
 馬車が走り出してから、誉王はそう尋ねた。梅長蘇はしれっとして答える。
 「殿下のお腕前もかなりのものと聞き及びます」
 誉王は少々鼻白んだ。
 「そなた、わたしに守らせる気か」
 「守ってはくださらぬので?」
 小首を傾げてみせた謀士の額を、誉王は軽く小突く真似をした。
 「こやつめ」
 くすくすと梅長蘇が笑う。そして笑いを納め、梅長蘇は穏やかな口調で言った。
 「殿下がお供をお連れにならぬのに、わたしがこの身ひとつで参らずしてなんとします? 今日は身分の隔ても捨てて、友としてお連れ下さるのでしょう?」
 誉王の胸に、嬉しさがこみ上げる。己の思いに、応えてくれようというのだ。誉王はただ黙ってうなづいた。
 
 わざと遠回りをして、別院の先にある森へと馬車は向かった。
 森の中ほどで馬車を降りて、青草の上で昼餉をとる。木々を通して吹き抜ける風は涼しく、木漏れ陽は柔らかい。
 誉王はごろりと草の上に仰向けに転がった。
 「お召し物が汚れますよ」
 梅長蘇が笑った。
 「なに、一度やってみたかったのだ」
 それならばと、傍らに座っていた梅長蘇も、後ろ手に両手をついて脚を投げ出した。
 「幼い頃、年下の従弟たちはよく草の上を転がって遊んでいたものだ。あの霓凰郡主なども一緒に泥だらけになっては乳母を怒らせていた」
 誉王がそう言うと、梅長蘇が苦笑いする。
 「わたしはついぞそうした遊びに加わったことがなかった。衣も鞋も、決して汚さず、皇子としての品格を損ねぬようにと、そればかりを思っていたゆえな」
 「……まことは、共に遊びたかったのですか?」
 梅長蘇の声は、どこか悲し気だ。誉王は遠き日の記憶をまさぐった。
 「その頃は思いもせなんだが……。今思えば、そうであったやもしれぬ」
 そう言って、誉王は苦笑した。
 「もっとも、従弟たちはわたしを毛嫌いしておったゆえ、わたしが加われば恐らく蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったであろうが」
 「まさか左様な」
 梅長蘇が身体をねじって、誉王に向き直る。自分を憐れんでくれるのか、あるいは自分のかわりに従弟たちに腹を立ててくれているのか。
 誉王は梅長蘇の薄い手をぽんぽんと叩いた。自分はそんなことで傷ついてはおらぬのだと言い聞かせるように。
 梅長蘇は切なげに目を伏せた。
 寂しくなどはない。
 いまはこうして、友がそばにいてくれるのだから、と誉王は口辺に笑みを湛えた。
 目を閉じると、さっきまで気にも留まらなかった草の香りと小鳥のさえずりに気づく。
 これほど温かな心持ちになったことが、かつてあっただろうか。
 今という時が永遠に続くならば、皇位など誰にくれてやっても構わぬとさえ思った。
 

 「殿下。殿下」
 呼ばれて初めて、転寝していたのだと気づく。
 目を開けると、梅長蘇の整った顔が覗き込んでいた。誉王は我知らず、その貌に見入ってしまう。
 「いかがなさいました?」
 いぶかしげに、梅長蘇が尋ねる。
 「いや、目覚めて最初に見る顔がそなただというのは、なにやら不思議な心地がしてな」
 梅長蘇は瞬きをしてから、笑みを浮かべた。
 「わたしとて、よもやこのような場所で殿下をお起こしする日が来ようとは、夢にも思っておりませんでしたよ」
 そう言って笑ってから、ふと真顔になる。
 「そろそろ参りませんと。一雨来るやもしれませぬ」
 その言葉に、誉王は眉をひそめ、空を仰いだ。
 「雨だと? 明るいではないか」
 「風に雨の匂いが交じってまいりましたゆえ。恐らく降ろうかと」
 誉王にはとんとわからなかったが。
 「ふむ。麒麟の才子の言うことに間違いはなかろう」
 身軽く起き上がった誉王の髪や衣から、梅長蘇の細い指が草の葉を払ってくれた。



 ガラガラピシャーン、と耳を劈くような音がした。
 落雷である。
 近くの木の幹が割ける音がして、二頭の馬が棹だちになる。大きく傾いだ馬車のなかで、誉王は梅長蘇の体を支えた。
 ボキッっとイヤな音がして、今度は車体が前のめりにガクンと傾いた。
 前へ投げ出されそうになる謀士の軽い体を抱き戻しながら、誉王は叫んだ。
 「何事か!」
 問う間に、ぐらりと左側へ身体が持っていかれる。
 「ぬかるみにはまり込んで、車軸が折れたのです」
 御者が切羽詰まった声で答えた。
 「なんだと?」
 「そのうえ、傾いた拍子に轍もずれたようで、馬車を進めることができません。もう目と鼻の先ですのに」
 誉王は舌打ちした。
 先刻、馬車に乗り込むなり空が俄かに掻き曇ったかと思うと、梅長蘇の言った通り雨が降り始めた。「間一髪であったな」と笑っていられたのも束の間で、あっという間に土砂降りの雨となったのだ。
 もともと落ち葉の折り重なった地面は柔らかく、忽ちどろどろのぬかるみとなって、馬車の車輪を絡めとった。 
 挙句、この始末である。
 「馬は無事なのであろう?」
 「なんとか……」
 御者の応えに、誉王は眉をしかめつつ息をついた。
 「ならば、馬で参る。いつまでもここで立往生しているわけにもゆくまい」
 そう言った途端、梅長蘇が困惑したように口を挟んだ。
 「殿下、わたしは馬はたしなみませぬ」
 心もとなげな様子に、誉王は微笑んだ。
 「先生は案じずともよい。わたしが乗せてまいる」
 梅長蘇がわずかに目を瞠った。何か言おうとするのを手で制して、御者に向かって指示を出す。
 「そのほうは別院へ先触れして、着替えや湯の用意をさせよ。それからその足で誉王府へとって返して、明日の朝までに別の馬車を仕立てて参れ」
 御者は馬車から二頭の馬を離すと、そのうちの一頭に跨り、誉王の指示を遂行すべく駆け去った。
 誉王は梅長蘇にしっかりと雨よけの外套を着せ掛けた。
 「先生、雨風にさらすことになるが、しばし辛抱していただきたい」
 「このありさまでは致し方ありません。わたしにはどうかお気遣いなく」
 気丈に微笑んだ梅長蘇の手をとり、鞍の前へ乗せる。馬はたしなまぬと言ったが、鐙に足をかける時の様子や馬上での姿勢の保ち方は、なかなかどうして堂に入ったものであった。
 「すこし飛ばすゆえ、しっかりわたしに身体を預けておられよ」
 梅長蘇が浅くうなづいたのを確かめるや、誉王はもう馬の腹を蹴っていた。



 別院の管理を預かっていた老僕に手伝わせて着替えを終えた誉王は、髪を拭きながら梅長蘇に与えた部屋へ向かう。
 「先生、お着替えは終えられたか」
 返事がない。
 「蘇先生?」
 入ると、梅長蘇は、濡れそぼったままの姿で壁にもたれ掛かるようにして、うなだれて立っていた。 渠の足元には衣から滴り落ちる雫で水溜まりができている。
 「なにをしておいでだ。そんな格好のままでは風邪を……」
 歩み寄って腕を掴んだ途端に、梅長蘇の身体がぐらりと傾いた。
 「先生!?」
 抱き止めた梅長蘇の体は、氷のように冷たい。立ち尽くしていたのではなく、動けずにいたのだと、ようやく悟った。
 ともかくも、濡れた衣を脱がせねばならぬ。帯を解こうとする梅長蘇の指は、しかしながらひどく震えていて、水をしたたかに吸ってきしむ細帯をほどくには用をなしそうにない。
 「よいから任せよ」
 誉王は少し苦労しながらも、梅長蘇の帯を解いてやった。深衣を脱がせにかかると、梅長蘇はすこし抗った。
 「貧相な身体ゆえ、お目汚しになります」
 「そんなことを言うておられる場合か。……全部は脱がさぬゆえ、安心するがよい」
 初夏だというのに重ね着した衣を脱がせるのに手間取りながら、一枚を残して誉王は溜息をついた。
 濡れた衣が肌にはりついて、いやがうえにもその体つきがじかに目につく。貧相だとは思わぬまでも、なるほど細い身体だ。
 「湯の用意が整っている。身体を温めてこられよ」
 梅長蘇の痩身を抱きかかえるように支えながら、誉王は湯殿へと導いた。 



 梅長蘇が湯を使う間、誉王は湯殿の外で待っていた。
 せっかく着替えた誉王自身の睡衣も、梅長蘇の濡れた身体から水気をもらって湿ってしまった。また着替えねばならぬな、と苦笑する。
 やがて、湯から上がる音がした。続いて微かな衣擦れの。
 (これで身体もあたたまったろう)
 そう思って待っていたが、なかなか出てこない。
 「先生?」
 少し慌てて、誉王は湯殿へと入った。見ると、梅長蘇は床に力なく座り込んでいる。
 睡衣だけは身体に纏ったものの、それで力つきたと見える。
 髷を解いた髪が、海松のごく乱れて睡衣の肩を覆っている。
 「髪を拭かねば、また衣が濡れてしまおうに」
 梅長蘇の濡れた髪を束ねて持ち上げると、浴巾を肩にかけてやる。ざっと髪の雫を浴巾に吸わせてから、誉王は謀士の身体を抱き上げた。




   * * *



 「……殿下」
 いきなり抱き上げられた梅長蘇は弱々しく抗議の声を漏らしたが、誉王は笑ってとりあわない。
 「このほうが早い」
 部屋に連れ帰られ、牀台の上に下ろされた。
 誉王に大人しく髪を拭われながら、梅長蘇は呆けたようになっていた。
 琅琊閣にいた頃は、藺晨がよくこうして世話を焼いてくれたものだったが、まさか誉王にこれほど手厚く労わられることになろうとは、あの頃思いもしなかった。
 卑しい毒蛇と蔑んでいた男である。敵と呼ぶにさえ値せぬ、宿願を果たすための駒に過ぎなかったはずである。祁王亡きあと、身の程知らずにもその地位を狙った太子と誉王を排除することなど、梅長蘇にとっていささかも心痛みはせぬはずだったのだ。
 それなのに、いつの間にこの男は、こうも心に入り込んできたのか。
 老僕が用意した熱い茶を、誉王が手渡してくれる。
 それを啜る間、誉王の手が優しく背中をさすってくれた。
 「身体を大事にせよ。苦労ばかりかけるが、わたしにとってそなたはまだまだ必要だ。元気でいてもらわねば困る」
 ねぎらいの言葉が、身に染みた。 
 「わたしがいつか皇位についた暁には、先生をいかようにも遇する心算だ」
 いたわりに満ちた深く優しい声で、そうささやかれ、梅長蘇はゆるゆると首を横に振った。
 誉王の謀士としての仮面を、外してはならぬ。そう長くだましおおせることは出来まいが、なるだけ長く、油断させておかねばならない。その間に、着々と景琰の足元を固めるのだ。
 「いいえ。……わたしはこうして、英明なる殿下にお仕えできただけで充分です」
 「何を言っている。あらゆる栄華を約束すると申しておるのだぞ」
 誉王はすこし笑って、梅長蘇の湿った髪を撫でた。
 『わたしを皇位につかせても栄華は保証できぬ』
 かつて景琰はそう言ったものだが。
 それにくらべて誉王の言葉のなんと耳当たりのよいことか。あらゆる栄華を約束すると。
 自分が当たり前の謀士であれば、一も二もなく誉王に与するであろうと梅長蘇は思う。そっとついた溜息を、誉王に見とがめられた。
 「どうした?」
 だしぬけに、切なさが胸から溢れ出した。
 
 「……殿下を皇位に押し上げる手助けは惜しみませぬが……」
 筋書きのない科白を、梅長蘇の口がひとりでに絞り出した。
 「……玉座にお座りになるお姿を見ることは、……この蘇哲にはかないますまい」
 言ってしまってから、身体がこわばった。それでももう、どうにもならぬ。
 「どういうことだ」
 聞きとがめた誉王が、眉をきつく寄せた。
 梅長蘇の頬を、涙が伝った。
 「……あと一年」
 己の唇からこぼれた言葉を、梅長蘇はもはや飲み込むこともできない。
 「一年?」
 「あと一年と、……医者から命の期限を切られております」
 涙が、堰を切ったように溢れ出た。
 「莫迦な!?」
 誉王が怒鳴り、怒りに我を忘れたように、梅長蘇の腕をつかむ。
 「冗談もほどほどにするがよい」
 眉間に深い皺を寄せ、誉王は激高していた。その憤慨のほどは、梅長蘇の腕をつかんだ力の強さが物語っている。
 なぜ、こんなことを誉王に明かす気になったのか、自分でもよくわからなかった。
 憐れみを引き、より信用させるためか?
 「冗談でかようなことが言えましょうか」
 涙の止まらぬままにすこし微笑んで見せると、誉王は言葉を失い、落ち着きなく視線を左右へ泳がせた。
 幾度か口を開きかけては唇を噛み、顔をしかめて溜息をつく。そしてようやく言葉を探し出した。
 「……なに、案ずることはない。わたしが国中の名医を集めてでも治してやる」
 まるで自分に言い聞かせるように、誉王はそう言って笑みを浮かべようとしたが。
 梅長蘇は、腕に食い込む誉王の指に触れた。
 誉王がはっとしたように、力を緩める。
 「それには及びませぬ。既に当代一の名医にかかっておりますれば」
 「当代一?」
 誉王が怪訝そうな顔をする。
 「肩を並べる者とておらぬ神医の誉れ高き、かの琅琊閣閣主……」
 藺晨の傲岸な表情を思い浮かべて、梅長蘇は淡く微笑んだ。
 「……琅琊閣閣主だと」
 誉王の声が、震える。
 梅長蘇はうなづいた。
 「その神医をもってしても、わが命はあと一年と」
 「なんということだ……!」
 誉王が両手で頭を抱え込んだ。その姿に、却って梅長蘇の心が鎮まる。
 梅長蘇は深く嘆息した。
 「……『神亀はいのちながしといえども なお終る時あり 騰蛇は霧に乗ずるも 終には土灰となる』」
 誉王はぐったりした様子で顔を上げた。
 「曹操の歩出夏門行か」
 「はい」
 梅長蘇は微笑した。
 「『老驥は櫪に伏すも 志 千里にあり 烈士暮年 壮心やまず』……たとえ限られた命であろうとも、最後まで己の思う道を貫くまでのこと。それゆえに都に参ったのです。残された時を、優れた主のもとでお仕えしたいと」
 そう言った梅長蘇の手をとり、誉王は苦し気に眉を寄せた。
 「……そうであったのか」
 不意に、荒々しく抱きすくめられる。
 誉王の胸は厚みがあって逞しかったが、武人のそれよりもっちりと柔らかい。
 「そうであったのか……」
 今一度、震える声で誉王はそう繰り返した。
 誉王が自分のために泣いてくれているのだと気づいて、梅長蘇は抗うことをせずにじっと抱きしめられていた。

 「好……。よかろう、先生。ならばこうしよう」
 おもむろに、誉王がそう言った。
 「殿下?」
 いぶかしむ梅長蘇の頭がそっと引き寄せられる。
 「一年は待たせぬ」
 誉王の肩に顔を埋めたまま、梅長蘇は身じろいだ。
 「玉座は無理でも、―――東宮の主となったわたしの姿を、必ずそなたに見せよう」
 「殿下……」

 自分のために、皇位への道を急いでくれようというのか。
 その焦りがいかなる結果を産むか、この男はわかっているのか。
 (こちらの思う壺ではないか)
 梅長蘇は胸の内でひとりごちた。
 誉王は自滅への道を辿ろうとしている。こちらの手間もいくらかは省けようというものだ。
 「殿下……」
 それでも、涙があふれてならない。
 
 誉王は梅長蘇の背をとんとんと優しく叩くと、そっと身体を離した。
 頬を濡らす涙を気恥ずかし気に分厚い掌で拭い、誉王は微笑んだ。 
 「夕餉を用意させているゆえ、出来上がるまで少し横になるといい。わたしは湯を浴びてこよう」
 言われて初めて気づいた。
 「申し訳ありません。殿下より先に湯を頂戴するなど……」
 相手は主で、七珠親王だというのに。
 しかし誉王は少しも気にした様子はない。
 「構わぬ。夕餉は大したものもないが、あの年寄りは実はかつて宮廷の厨房にいた男でな。なかなかの腕ゆえ、安心するがいい」
 快活な調子でそう言った誉王に、梅長蘇も微笑を返した。





 半時ほど、のちである。
 梅長蘇は笑いを噛み殺していた。
 「なんだ?」
 「いえ……。かような恰好で食事をなさる殿下など、そう拝見できるものではないと」
 睡衣のまま、髪さえ結わずに料理を頬張る誉王を、梅長蘇は目を細めて見た。
 自分も睡衣の上に羽織った部屋着に帯さえしめず、生乾きの髪も軽く束ねただけというありさまではあったが。
 今度は誉王のほうが梅長蘇を見る。
 「……なんでしょう」
 居心地悪くなってそう尋ねると、誉王は少しばかり気づかわし気な面持ちになった。
 「そなた、……まだ気に病んでおったのだな、謝玉の一件を」
 「え?」
 一瞬、何を言われたのかわかりかねて、梅長蘇は思わず聞き返した。誉王は痛ましそうな表情になる。
 「眠っているときに、景睿の名を呼んでおったぞ」
 「景睿……ですか」
 どきりとする。
 誉王が湯殿から戻るまで、ついうとうとと眠ってしまったのだ。
 「しかとは聞き取れなんだが、わたしには景睿と聞こえた」
 「……ならばそうでしょう。時折り夢を見ますゆえ」
 冷や汗が出る。
 呼んだとすれば、それは景琰の名に違いなかった。勘違いしてくれたのは、幸いである。
 「あれには可哀想なことをしたが、先生のせいではない」
 慰めるようにそう言う誉王に、梅長蘇は苦笑を返した。
 「そうでしょうか。友と慕ってくれる景睿を、わたしは手ひどい形で裏切りました。夢で恨み言を言われたとてしかたがない」
 そう言うと、誉王もまた苦く笑った。
 「謀士としては、優しすぎるな」
 「優しければ、あのようなことはいたしませぬ」
 そうだ、この男をだましもせぬものを。
 「身も細るほど、悔やんでおるではないか」
 誉王の口調はあくまでも優しい。梅長蘇はわずかに狼狽えた。
 「悔やんでなどおりませぬ。己のすべきことをしたまで」
 誉王に慰めてもらうようなことではない。
 「ならば何故かように悲しむ」
 「悲しんでなど……」
 そこまで言って、どうしようもないやるせなさが、胸に広がる。

 誉王の言うとおりだ。
 ずっと悲しかった。
 胸が苦しくて、どうしようもなかったのだ。

 梅長蘇は目を閉じ、長いため息を漏らした。



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