琅琊榜

实心6 (『琅琊榜』 #28)

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もうちょっと頑張ってラブラブしてくれー!!

 「そんなことをおっしゃったのですか」
 戦英がいつになく尖った声をあげる。
 「なんという、心ないことを‥‥‥」
 そうつぶやいた
 「お可哀想に」
 戦英は表情に乏しいその顔に、静かな憤りをにじませた。
 「あの夜‥‥‥」
と、戦英は言う。
 いつの話だ?と景琰は眉をひそめた。
 「密道で蘇先生のお体を抱き上げたとき‥‥‥」
 ああ、と思う。初めて梅長蘇を抱いた夜だ。自分を庇って負った傷が、まだ癒えてさえいなかった。
 「放心しておられた先生の目から、涙が一筋こぼれたのです」
 戦英は痛ましそうにそう言う。
 「胸が、引き絞られるような、美しい涙でした。―――身体を許すことに慣れているなどと、どうかお疑いなさいませぬよう‥‥‥」
 戦英の言葉に、ずきんと心が痛んだ。
 だが―――、と思う。
 「だが、抗わなかったのだ、梅長蘇は」
 確かにあの折、梅長蘇は傷を負っていて充分な抵抗もできなかったろう。だが、あまりにもたやすく受け入れはしなかったか。
 それゆえ、一層腹が立ったのだ。
 こんなふうに、誰にでも平気で肌を許すのかと。
 「殿下ゆえ」
 ぽつり、と戦英が言う。
 「殿下ゆえ、ご辛抱なさったのですよ」
 「え‥‥‥」
 考えたことも、なかった。

 大変な―――、了見違いをしていたのだと、ようやく景琰は気づいた。
 あの男には、あまりに謎が多い。
 だが、その操だけは、信じてやらねばならなかったのだと、梅長蘇がその身を汚された今になって知るとは。

 まことは、案じていたのだ。
 皇太子は失脚寸前、誉王とてかつての勢いは失っている。それに引き換え、自分は五珠親王に冊封され、宮廷内で着々と人脈を築き、足場を固めつつある。そんな中、―――気にかかっていた。
 誉王が梅長蘇への疑いを深めたら。
 梅長蘇の身に危険は及ばぬのかと。
 江湖で江左盟に及ぶ幇はそうあるまい。常日頃から黎綱が目を光らせ、甄平や飛流がぴったりと護衛を務めている。だが、宮中では?
 梅長蘇は身を守りきれるだろうか。
 そう思いながら、どこかで高を括ってもいた。これまでも梅長蘇は誉王をうまくあしらってきたではないかと。
 時には疑いもしたほどだ。あの男は、まことは誉王をこそ支持しているのではあるまいかと。
 それゆえ、梅長蘇を案じる気持ちを、自分で頭の隅へ追いやってしまっていた。
 それにしても、まさか今日、梅長蘇が宮中を訪れているとは知らなかったのだ。
 皇后からの急な招きであったと、あとから聞いた。
 (誉王め―――)
 不安に駆られて、梅長蘇を試す気だったのだろう。そして、梅長蘇と自分とのかかわりを。
 結果、梅長蘇はひとりで宮中を出た。
 自分の言葉に傷ついたせいもあるだろうが、一方でこの自分を守るためでもあったろう。連れだって宮中からさがっては、誉王の思うつぼだ。
 誉王は既にことの真相に気づき始めてはいるが、まだ梅長蘇を当てにしてもいる。
 少しでも長く―――。
 梅長蘇はそう考えているはずだ。それは、ぎりぎりまで矢を引き絞るさまにも似ていた。
 

   * * *


 誉王が訪ねてきたと聞いて、梅長蘇は枕から頭を上げた。
 来るに違いないと、思っていたのだ。
 「お加減が優れぬと言って追い返しますか」
 昨日の宮中での出来事を知らぬ黎綱が、そう尋ねた。
 宮中では影ながら飛流が護衛を務めてはいたが、あの房内で起こったことにまでは、飛流は思い至らない。飛流が知っているのは、誉王と連れだって房へ入る梅長蘇の姿。そして先に出てきた誉王。すかさず房へと入る内監。そして、今度は内監と入れ違いに入ってゆく靖王。まもなく姿を現した梅長蘇には、髪や衣の乱れもなかった。ただ、ひどく具合が悪そうで、飛流は甍の上から降りて、車寄せまで梅長蘇を支えたと、―――黎綱は飛流からそう聞かされただけである。
 蘇宅に戻るなり、梅長蘇は血を吐いて倒れた。診察した晏太夫は少し眉をひそめたが、特に何も言わなかった。
 「よい。通せ。―――話が終わるまで、誰も部屋に近づけてはならぬ」
 「―――畏まりました」
 黎綱が下がり、誉王が現れた。
 「蘇先生。臥せっておいでであったか」
 いつに変わらぬ、優雅な笑顔であった。
 (どこまで厚顔無恥な男であることか)
 梅長蘇は黙って目を伏せた。
 「挨拶もしていただけぬとは、昨日の件をよほど怒っておいでか?」
 皺にならぬよう丁寧に袖をさばいて、誉王は牀台の傍に腰かける。
 「いえ―――」
と梅長蘇は力なく首を振った。誉王は口辺に笑みを浮かべる。
 「あれほど抗ったではないか」
 窺うような、目。
 梅長蘇は嫌悪感を懸命に押し殺した。
 「突然のことで、驚いたまでです。まさか、あのような―――」
 「ほう? では、腹を立ててはおらぬと?」
 誉王がゆるりと手を握ってくる。おぞけが立ったが、梅長蘇は堪えた。
 「殿下のお情けを受けるなど、‥‥‥身に余る誉れにございますれば」
 「では、今度は抗わぬと?」
 どことなく淫らな、声音。梅長蘇は奥歯を噛みしめた。そして息を整えてから、微笑む。
 「―――無論に、ございます」
 そう言った途端、くちづけられた。
 虫唾が、走る。
 背筋が凍りそうだ。
 景琰の顔が浮かんだ。蔑んだような、目。
 (景琰、許してくれ‥‥‥)
 涙がにじみそうになるのを、必死で耐える。
 「お加減が悪いのであったな? お体に障りはすまいか」
 いまさら、誉王がそんなことを言う。長蘇は力なく首を振った。
 「構いませぬ」
 既に一度、身体を許したのだ。もう、同じことではないかと思う。
 あの時、誉王がわざわざ景琰を寄越したからには、誉王が既に深く疑いを持っているのは明らかだ。どのみち、そう長くは隠しておけまい。
 だが。
 一日でも長く。
 景琰を守っていてやりたい。
 既に景琰の足場は固めてやった。こちらの手駒は、あるべき場所に全て配した。雌伏のときは過ぎ、いよいよ正面から誉王に対峙するときが来ようとしている。それでも。
 せめて、あと少しだけ。時を稼げれば、と思う。
 この身が役に立つのなら。
 この病みさらばえた身でも、まだ景琰の盾となれるなら。
 「そなた、実は靖王府の者かと思うたが‥‥‥。取り越し苦労であったか?」
 誉王が笑った。
 身を任せたくらいで、簡単に信用するとは。世間知らずな皇子だけのことはある。幸か不幸か、苦労した分、景琰のほうが疑い深い。
 誉王の唇が、首筋を這っていく。 
 胸元を、はだけられる。
 ふと。
 誉王が手を止めた。
 「この傷は?」
 誉王の目が、油断なくこちらの反応を窺ってくる。昨日は薄暗い房内であったゆえ、気づかれずにすんだのだろう。
 「古い傷です。お目障りでしたら、どうぞご覧くださいませぬように」
 梅長蘇は衿を掻き合わせた。
 疑わしそうに、誉王は目を眇める。 
 晏太夫は腕が良い。いつぞやの傷は、とうに瘡蓋が落ちて、艶々とした桃色の膚が張っている。そう古い傷には見えまいが、昨日今日のものでないことは誉王にもわかろう。
 夏の盛りを過ぎた頃、景琰の一行が襲われた一件は、誉王も知るところである。だが、この傷を負った直後、自分は誉王と顔を合わせている。あの一件とこの傷を、誉王が結びつけることはあるまい。
 「こう見えても、江湖一の幇を預かる身。傷の一つや二つは、不思議もありますまい」
 「なるほどな」
 誉王は長蘇の手を払い、今一度胸元を広げて傷を眺めた。そして、そこへ唇を這わせる。
 ひっ、と長蘇の喉が鳴った。
 (この傷は―――)
 景琰を守って受けた傷だ。
 大切な―――、傷である。
 景琰の舌が、この傷をなぞってくれた。
 なのに。
 ぎゅっと、梅長蘇は目を閉じた。
 触れられたくない。毒蛇の舌などに。
 反吐が出そうだ。
 それでも今は、嵐の過ぎるのを待つしかなかった。


   * * *


 靖王府側の扉が開いて、梅長蘇は身を固くした。
 「蘇先生?」
 現れた蕭景琰も、驚いたように立ち尽くす。
 階段を降りることも忘れたかのようだ。
 しばらく、二人は黙って互いを見ていた。
 梅長蘇が軽く咳き込むにいたって、ようやく蕭景琰は密道へと駆け降りてきた。
 置き座敷に上がり、寝間着の上から羽織った毛布ごと身体を抱いてくれる。
 咳はすぐおさまったが、蕭景琰は眉を寄せた。
 「髪が湿っているではないか」
 また、不機嫌な声だ。悲しくなったが、懸命に微笑を取り繕う。
 「先ほど、沐浴いたしましたゆえ」
 晏太夫が沐浴を許してくれぬゆえ、夜が更けて皆が寝静まってから、飛流一人に手伝わせたのだ。
 疲れきった体に沐浴は堪えたが、身を清めずにはいられなかった。
 「ここで何を?」
 景琰がそう尋ねる。
 「別に、何も」
 梅長蘇はそう答えた。
 景琰に会いたかったのだと、そうは言えなかった。
 会いたくて会いたくて、それでも訪ねることは憚られて、せめて初めて景琰に抱かれたここで、眠れぬ夜を過ごそうと思ったのだ。
 「ひどい顔色ではないか」
 「―――燭台の灯で、そう見えるのでしょう」
 沐浴のあと、また少しばかり血を吐いた。顔色が悪いのは、そのせいだ。
 「ここは冷える。部屋に戻ったほうがよい」
 さっきとは打って変わった優しい声音に、涙が出そうになる。
 また、誉王に抱かれたなどと。口が裂けても言えはせぬ。
 頑なに黙っていると、景琰の小さなため息が聞こえた。
 「戻りたくないなら、わたしの部屋へ」
 手を握られて、どきりとする。
 「こんなに冷たいではないか。この刻限ゆえ、火鉢の用意をさせることはできぬが、それでもここよりは温かかろう」
 さあ、と手を取られる。立ち上がりざまよろめいたところを、しっかりと腰に腕を回された。
 「大丈夫か?」
 「足が‥‥‥痺れただけです」
 そう言い訳した。
 「そんなに長く座っていたのでは、体の芯まで冷えたであろう?」
 ゆっくりと、抱くようにして置き座敷から下ろされた。
 優しさが、胸にしみる。
 もう何もかも、ゆだねてしまいたくなる。
 林殊は既に亡く、梅長蘇の命が潰える日もそう遠くはない。どうせ短い命なら、いま、この時くらいは甘えてもいいだろうか?
 梅長蘇はそっと、景琰の腕に身を添わせた。


   * 


 なんと詫びてよいかわからなかった。
 ずっと疑っていたことも、それをあのような折に口にしてしまったことも。
 いまさら詫び言を言えば、一層梅長蘇を傷つけるのではあるまいか。そんな気がした。
 梅長蘇の部屋を訪ねるか否か、幾度も迷い、そして密道への扉を開いたのだ。
 まさか、そこに梅長蘇の姿を見出すとも思わず。
 たった一日で。
 梅長蘇は可哀想なほど憔悴しきっていた。
 この男の負った傷の深さを改めて見た気がして、胸が痛んだ。
 たったひとりで、こんな場所で。何を思っていたのか。
 哀れでならない。
 冷え切った身体を、抱き寄せた。
 こんな夜に、ひとりでおいてゆけるわけがない。
 部屋へ誘うと、存外素直に応じた。
 細い身体を支えて、ゆっくりと階段を上りかける。腕にすがっていた梅長蘇の手から、ふわりと力が抜けた。
 「蘇先生?」
 頽れそうになる梅長蘇を、景琰は抱き上げた。
 「―――殿下」
 「よい。こんな軽い身体くらい、何ほどのこともない」
 梅長蘇を抱いたまま、景琰は身軽く階段を上がった。
 驚くほど素直に、梅長蘇が胸に身体を預けてくる。こんなことは、初めてだ。
 大人しく抱かれているその細い身体を、景琰はしっかりと抱え直した。  

  
   * * *


 寝返りをうとうとして身体の自由がきかず、梅長蘇はしぶしぶ目を開けた。
 「景‥‥‥殿下‥‥‥?」
 自分の身体を抱いているのが景琰だと気づいて、慌てて身を離そうとしたが果たせない。  
 「やっと目を覚ましたか」
 こちらも欠伸を噛み殺しながら、景琰が言う。
 窓の外がいやに明るい。
 「今、何刻でございますか?」
 「もう午だ。いい加減に腹が減ったな」
 こともなげに、景琰がそう答えた。
 梅長蘇は狼狽えた。
 「昼? 参内は?」
 「今日は風邪だと言ってある。委細、戦英がうまく取り計らっていよう。黎綱にも知らせをやった」
 景琰がそう言って苦笑いする。
 「お恥ずかしゅう存じます‥‥‥」
 眠りは浅いと、前にそう言っておきながらこの体たらくでは、さぞ呆れられたことだろう。
 だが、―――ひどく心地よかった。
 こんなに安心して眠ったのは、金陵へ戻ってから初めてのことだ。
 腹を。
 括ったのだ。
 命はとうにあきらめている。手は血に汚れ、偽りの上に偽りを重ねて心も凍え果てた。そして、誉王に身体を玩ばれ、もはや己の中に守るべきものなど何ひとつないではないかと。
 ただ、このひとときが、心穏やかに過ごせれば。それに勝る喜びはない。
 一度ならず、誉王に身を任せたと知れば、景琰はまた怒り、蔑むことだろう。
 だが、今は。
 景琰の労りに満ちた表情が、ここにある。
 それだけで十分だ。
 「今日は一日、このままでいるか? 食事もここへ運ばせるゆえ」
 そう言われて、心が跳ねた。
 景琰が眉を顰める。  
 「さほどに嬉しいのか?」
 そう問われて恥ずかしくなる。そんなにも、顔に出ていたとは。
 思わず、景琰の胸に顔を伏せた。
 そして、問う。
 「―――救済の‥‥‥主事の件は、いかがあいなりました?」
 いかにも話をそらせたように聞こえるだろうか。そう思いつつ、梅長蘇は言葉を続けた。
 「夏の収穫の際に、殿下はお話しくださいましたね。蝗の被害で作物がとれず、難儀している村の話を‥‥‥」
 「ああ。―――あの折りはすまぬ。そなたが傷を負っているとも知らず、長話をした」
 鬢の乱れを景琰の長い指にかきあげられ、梅長蘇は顔を上げた。
 「いいえ」と首を振る。
 「―――殿下の話を窺うのは、楽しゅうございました。殿下が国や民を思う心も、嬉しゅうてなりませんでした。傷が痛みさえせねば、あのまま一晩中でも聞いていとうございました」
 梅長蘇がそう言って微笑むと、景琰は面映ゆげな表情をした。
 「殿下こそが、救済の主事にふさわしい。沈追どのと同じく、わたしもそう存じます」
 真心こめて、梅長蘇は景琰の顔を見つめた。身は穢れても、景琰を信じる心には一点の曇りもないと。そう眼差しで伝えられたなら。
 景琰が、柔らかく微笑んだ。
 こんなふうに、笑いかけてくれるのは初めてだ。まるで林殊に微笑みかけるかのように。
 「そなたがそう言ってくれるなら、主事の座はなんとしても勝ち取らねばな」
 そう言って、景琰が軽くくちづけてくれる。
 嬉しくて。
 梅長蘇は今一度、景琰の胸に顔を埋めた。 


 
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