琅琊榜

实心3 (『琅琊榜』 #25)

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ますます靖王が悶々としておいでです・・・・

 「殿下。いかがなされました」
 衣を乱し、唇に血を滲ませた主のただならぬ様子に、戦英は切れ長の目を瞠る。
 「―――密道に、蘇先生を残してきた‥‥‥。送って差し上げよ」
 「え‥‥‥」
 戦英ははっとして、慌てて駆け出した。
 隠し部屋から階段を駆け下り、置き座敷の上の無惨な姿を見つける。
 それはまるで。
 踏みにじられた真白き花にも似て、―――あまりに痛ましかった。
 「蘇先生‥‥‥」
 寝間着ははだけ、包帯も引き剥がされ、痩せて傷ついた胸も露に、梅長蘇は死んだように仰臥していた。
 両の眼は、虚ろに開いている。
 が、ぴくりとも動かぬ。
 一筋の傷の周りには、いくつもの痣。それはまるで、一本の紅い枝に咲く紅梅に見えた。
 何があったかは、―――一目瞭然だった。
 いくらなんでもこれは‥‥‥、と戦英は眉を寄せた。丁度その時、密道の奥から、慌ただしく駆けてくる足音がした。
 「宗主!」
 「―――黎綱どの」
 梅長蘇の身体を抱き起こしながら、戦英は黎綱を見上げた。黎綱が真っ青になって梅長蘇に取りすがり、そして戦英を見る。
 「これはいったい―――」
 「私にもわからぬ。なぜかような仕儀に至ったものか」
 おのが主の所業には間違いなかったが、なにゆえこのようなことになったのか。
 「とにかく手当てを致さねば」
と、黎綱が梅長蘇を抱き起し、寝間着の胸元を掻き合わせてやりながら言う。
 「うむ。わたしが運ぼう」
 戦英は梅長蘇を抱き上げた。
 大の男とも思えぬ軽さに、胸が痛む。
 (殿下、いったいどうして‥‥‥)
 忠義一筋の戦英にさえ、今度ばかりは主の心が測りかねた。

   *

 景琰が。
 夢中で政への疑問を口にしている。
 その真剣なさまが愛おしくて、長蘇は時のたつのも忘れ、ひとつひとつ丁寧に教え諭した。
 晏太夫に施された鍼の効き目がそう長くは持たぬと知りながら、景琰を追い返すことなどできはせぬ。
 案の定、鍼の効果が切れると目の眩むような痛みが襲ってきた。
 身体が、じっとり汗ばんでくるのがわかる。それでも景琰の話に耳を傾けていると、耐えられる心地がしたのだ。
 ―――ふわり、と気が遠くなり。
 そして、―――目が覚めた。

 また、あの日の夢を見たのだ。
 景琰はひどく怒って。
 隠しておくつもりだった傷を、見つけられた―――。

 「―――宗主」
 黎綱の声に、ようやく我に返る。
 「黎綱‥‥‥、景琰は‥‥‥?」
 声に出してそう訊ね、初めて思い出した。
 そうだ。
 昨夜は、景琰が見舞ってくれたのだ。あの日から、初めてのことだった。
 嬉しくて。
 この間の話の続きがしたくて、そうねだった。
 なのにまた、怒らせてしまった―――。
 腹を立て、それでいてひどく辛そうな景琰が可哀想で、追っていかずにはいられなかった。
 前の日、無理を押して誉王の話し相手をしたために、体はろくに言うことを聞かぬほど疲れ果てていた。それでも景琰が気がかりで、壁にすがりながら夢中で密道へと降りたのだ。
 (―――それから?)
 記憶を手繰って、不意に身体が熱くなる。心の臓が、高鳴った。
 少し身を捩ってみて、確信した。体の芯を、鈍い痛みが貫いたのだ。
 あれは―――、夢ではない。
 景琰に口付けられ。
 衣をはがされ。
 そして、胸の傷を舌で弄ばれた。
 それから‥‥‥。
 「宗主、その‥‥‥」
 黎綱が口ごもっている。なんと説明すべきか困っているのだろう。
 「いや、よい」
 もう、全て思い出した―――。
 
 景琰は―――、後悔しているのだろうか。苛立ちに任せた情事を。
 自分を置き去りにした景琰の心を思う。自分はそれほどまでに、景琰を傷つけたのだろうか。
 あの迸る熱の中に、ひとかけらの愛情もなかったろうか?
 
 それでも、構わぬと思った。
 (景琰‥‥‥)
 たとえ、心が添わずとも、あのとき確かに肌はふれあい、吐息がまじわった。
 あの熱を。身体の奥深くに刻み付けた。
 もう、充分だ。
 (景琰。わたしが、知らなかったとでも?)
 梅長蘇は天井を眺めながら、弱々しく微笑んだ。
 かつて。
 若き林殊が負った傷を、景琰の舌先がなぞったことを。
 (あの日、わたしが素直に目を開けていれば)
 ふたりは思いを遂げられただろうか。
 長い年月を超えて、あの日から時がつながったかのように、景琰の愛撫を受けた。
 景琰と林殊ではなく、―――靖王と梅長蘇として。
 もう、あの日には、戻れぬ。
 戻れはせぬが。
 梅長蘇は、己の胸の傷を、寝間着の上からそっと押さえた。
 たとえこの傷痕が薄れても、昨夜のことは忘れまい。ようやく遂げた思いを、大切に抱いてゆきたいと、梅長蘇は思った。
 
 
   * * *


 日々はうつろい、梅長蘇の傷も、もうすっかり癒えたことだろう。
 さすがに、あれから顔を合わせづらい。一時の激情が去れば、苦い後悔ばかりが残った。
 せめて梅長蘇の期待を裏切らぬよう、慎重に己の足場を固めてきた。母・静妃もまた、皇宮での地盤を確固たるものにしつつある。
 巡防衛を任されたことを、梅長蘇に知らせたいと思った。恐らく既に耳に入ってはいるだろうが、会って話したい。それを土産にすれば、いくらかでも訪ね易い気がしたのだ。
 が。
 (―――蒙大統領?)
 ひさしぶりに密道へ足を踏み入れた景琰は、そこに蒙摯の姿を見て少々驚いた。
 ちりっと、胸に小さな痛みが走る。
 慌てて蒙摯が勧めてくれたのは、過日梅長蘇と契った置き座敷だ。
 (契っただと?)
 思わず自問する。
 契ったなどと耳当たりのよい言葉で誤魔化せはせぬ。
 あれは。
 (手込めにしたと、言うのではないか)
 傷を負い、ろくに抗うこともできぬ相手を。
 何をどう言い訳したとて、あれは自分が悪い。しかも。
 さんざんに嬲っておいて、自分はここに梅長蘇を置き去りにした。
 身動きひとつできぬほど憔悴仕切った相手を、肌も露わなまま此処に放置し、自分だけが逃げ帰ったのだ。
 (なんという卑怯な真似を)
 自分のしでかしたことがただ恐ろしく、戦英に全てを委ねた。
 いや―――。
 自分とて、ひどく傷ついていたのだ。
 友ではないと、そう言われた。
 主と臣の隔てを説かれた。
 無念で‥‥‥ならなかったのだ。
 長兄や林殊を喪ってから、自分は常に孤独だった。
 誰も真実を語ろうとはせず、景琰自身も、もはや誰も信じらなくなった。父からは疎まれ、兄弟や朝臣も、巻き添えになることを怖れて自分には近づかなくなった。
 だれも自分の心に踏み入ろうとはせず、自分もまた己の殻から出ようともしなかった。
 十年以上もそうして生きてきたのだ。霓凰からは頑固な水牛だと罵られもした。しかしもう。何を信じればよいのか、まるでわからなかった。
 そんなときに、土足で自分の内側まで入ってきた男。最も自分が忌み嫌う、謀士だなどという輩。
 信じまいと思った。
 梅長蘇が自分を利用しようとするなら、自分も目的のために梅長蘇利用するまでだ。決して心の奥までは受け入れぬ。そう思っていたのに。
 あろうことか、折に触れて重ねてしまう。かつて最も愛した友と。一番大事な者の面影を、素性も知れぬ冷徹な謀士に重ねてしまっているのだ。
 そう気づくたび、己を責めた。林殊にすまぬと思った。こんな男と一緒にできはせぬ、小殊は特別なのだと。
 それなのに、嫌も応もなく梅長蘇は心に踏み入ってくる。いや、梅長蘇が踏み入ってくるのではない。こちらが引き寄せられる。
 受け入れたいと―――、ついにはそう思わずにいられなくなった。それなのに―――。
 手をとろうとすると、するりとかわされる。
 最後の最後で、いつも梅長蘇は一歩退くのだ。
 もどかしく、腹立たしい。
 君臣の間には、隔てがある。そう説かれたとき、心が張り裂けるような失望に襲われたのだ。
 頭に血が上り、自分が何をしているのか、既にわからなかった。
 ただ、梅長蘇を貪った。心を手に入れられぬなら、せめてその身体なりと思いのままにしたかったのだ。白い身体に走る紅い傷さえも、誰にも渡したくなかった。

 やはりまだ、梅長蘇に会いたくはないと景琰は思った。
 とはいえ、ここでこうして蒙摯に会ってしまったのでは、どうにも引っ込みがつかぬ。
 梅長蘇は誉王と話をしていると言う。しかたなく、蒙摯と待つ羽目になった。
 ふと、蒙摯が携えていた書物に目が留まる。
 『翔地記』と書かれてある。梅長蘇のものだと蒙摯が言った。
 開いてみれば、本文の隙間にびっしりと細かい文字が書き込まれている。―――不思議な、心地がした。
 (小殊も‥‥‥。よくこうして書物に書き込みをしたものだ)
 景琰は昔から、あまり書物を汚したがらぬたちであった。書き込んだ方が使い勝手がよいとわかっている時でも、他人が記した書物に己の手を加えることは、なんとはなしに遠慮があった。なのに、うっかり林殊に本を貸すと、丁度こんなふうに所狭しと文字が書き込まれて返ってくる。持ち主の自分ですら手垢一つつけておらぬのに、と抗議しても、ああ、ついいつもの癖なのだと、笑って取り合ってもくれなかったものだ。
 (蘇先生も、小殊と同じたちであったか)
 文字は無論、似ても似つかぬ。それでも何やら懐かしい心地がして、胸が温まった。
 やがて。
 梅長蘇が、密道をやってくる。
 (なんだ、随分元気そうではないか)
 蒙摯を大声で呼ばわりながら、大股でこちらに向かってくるさまは、常の梅長蘇らしくもない。口調と言い、歩き様といい、まるで武人のような、と思った。これがこの男の、本質なのかと少し驚く。そして、自分には見せぬ素顔を蒙摯には見せるのか、と少々心に引っかかった。
 薄暗い密道のこと、近くまで来て梅長蘇はようやく景琰に気づいたようだった。
 蒙摯への言葉は途中で途切れ、梅長蘇の表情が一変する。わずかな狼狽、そして心細げに蒙摯の顔を窺ってから、慌てて景琰に拱手した。
 一別以来―――である。
 「どうぞ」と蘇宅の方へいざなわれた。
 蒙摯の手前、互いに先夜のことはおくびにも出せなかった。

 梅長蘇の弁舌は、相変わらず切れ味がよい。
 父皇から得たばかりの親王の特権と巡防衛の指揮権についても、梅長蘇は適切な読みを持っていた。偶然の恩恵に見えても、全てが梅長蘇の手の上で転がされていたのだと、改めて腑に落ちる。
 だが、思うのだ。このところ、梅長蘇にとっては心穏やかならぬ出来事が続いたはずだ。全ては自分が原因であると景琰自身わかってはいるが、それにしても、景琰が思い煩う間にも、梅長蘇は病床から次々に謀をめぐらせていたのかと思うと、何か釈然としない。
 なにゆえ、平気な顔をしていられるのか。
 あの夜のことも、梅長蘇にとっては何ほどのこともなかったと?
 (まさか―――)
と思う。
 (まさか誉王にも、平気で身体を許すのか?)
 不意にそんなことが思われて、かっと身の内が熱くなった。
 謀のためには、それくらいやってのけるやもしれぬ。一度そう思うと、そうに違いないという気がしてならなくなった。 
 ならば。
 (いずれがまことの顔なのか)
 そんな疑いさえ、頭をもたげる。
 自分と誉王。どちらに見せる顔が、梅長蘇の真実か。
 (知れたものではない)
 怒りがゆらゆらと立ち上る。
 が、次の刹那、そんな己が恥ずかしくもなった。
 梅長蘇は、あやうく命を落とす目にも遭ったではないか、と思う。その忠心を、疑うとは。
 だが、しかし。
 あれは見かけほど深傷ではなかった。自分を欺くための狂言だったとしたら? 蘇宅の者が皆、口裏を合わせていたとすれば?
 疑い出せば、もうきりもなかった。
 いや、ありえぬ。
 自分は、とるに足らぬ郡王に過ぎなかった。それをわざわざ、こんな手の混んだことをして欺く必要がどこに?
 思いは千々に乱れ、景琰はますますやりきれなくなる。
 (梅長蘇―――。そなたのまことが、見えぬ―――)
 信じたいのだ、ほんとうは。
 自分の心は、この男を信じたがっている。なのに、考えずにはいられない。この男が自分を支えてくれる理由を。
 考えれば考えるほど、わからなくなる。この男が命がけで尽くしてくれるほどに、疑いが生じる。
 梅長蘇とは、―――誰なのだ。
 なにゆえ、自分を守ろうとしてくれるのか―――。
 言葉を交わしながらも、さまざまな思いが心を去来する。
 梅長蘇は、何食わぬ顔で話し続けている。ならば、こちらにも意地があった。

 やがて、話を終えて座を立つ。
 「―――ようやく先生も休めるな」
 皮肉で言ったつもりではなかったが、ほんの一瞬、梅長蘇の顔に翳が差した。
 それには気づかぬふりで立ち去ろうとして、そしてふと思いつく。
 先刻の『翔地記』を、借りて帰ろうと。
 少し覗いてみただけであったが、内容は興味深かった。いや、むしろ本の中身よりも、梅長蘇の施した注釈に関心がある。
 梅長蘇はこれを読み、何に気付き、どう感じるのか。それを、じっくり確かめてみたかった―――。
 すこしでも。この男の真実に、近づきたかったのだ―――。



 
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