偽装者

ともに守らむ愛しき者を 中編 (『偽装者』 #41以降)

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やっぱり前後編では終わらなかった

 上海へ戻った阿誠は、その足で上班し、前日の成果を報告した。
 杭州での任務は、表向き国民党支持者からの寄付を受け取りに行くことだったが、その実、地下共産組織と接触し、上海の同志との連携をはからせることが本来の目的だった。
 表と裏、双方の任務を滞りなく終えたことを告げると、大きな肘掛椅子に深く掛けた明楼は軽く頷いた。
 それから、目の前の阿誠をじっと見上げてくる。
 「昨夜のうちに、戻れたと思うが?」
 そう問われるのは、わかっていた。阿誠は悪びれずに、
 「崔先生に、お目にかかっていたものですから」
と答えた。
 ―――崔先生。
 無論、それだけで明楼には正しく伝わったはずだ。
 明楼は少し眉を顰め、視線を泳がせた。それから短くため息をついて、机の上で両手を組み合わせる。
 「崔先生には、‥‥‥お変わりなかったか」
 「ご健勝でした」 
 そうか、と明楼は目を閉じた。
 あの日の上海站を、思い出してでもいるのだろうか、と阿誠もまた少しうなだれた。
 明鏡にとりすがって泣き叫ぶ明台を、無理矢理引き剥がして列車に乗せた。あの時の胸の痛みは、阿誠も生涯忘れ得ぬだろう。まるで幼い子供のように泣きじゃくっていた明台を、兄はずっと案じていたはずだ。
 明台に会うことは、話していなかった。話すつもりもなかったが、問われれば隠すことでもない。阿誠とて弟は可愛い。安否を気遣い、会いたいと思っても不思議はないだろう。なまじ隠せば、勘ぐられる。
 明台に自分の愚痴を聞かせるため、などとは口が裂けても言えない。ましてや、―――昨晩の出来事は。
 早々に話を打ち切ろうとして、しかし、阿誠はもうひとつ大切な知らせがあるのを思い出した。
 「杭州で聞いた話によれば、元地下党に在籍していた男が、黎叔を頼って上海に潜り込んだとか」
 明楼が少し眉を顰める。
 「黎叔はしかし今、上海には」
 阿誠はうなづいた。
 「ええ。そう教えられたのを、黎叔に会わせぬ口実と受け取ったようです。かつては勇敢な同志だったそうですが、妻を亡くしてからは酒浸りで、素行が良くないので党からは締め出されたと」
 明楼の眉間に、しわが刻まれた。
 「―――面倒を起こさなければいいが」
 なんでもないことが、命とりになる。
 「潜伏先は知れませんが、各方面に声をかけて、それとなく気にかけさせておきます」
 「頼む」
 ようやく、ひととおり話し終え、阿誠はほっとして明楼に背を向けた。
 明台に会って、いくぶん気持ちが紛れたと思ったものを、その明台のおかげで更に重い気分を抱えることになった。
 (冗談にしてもたちが悪い)
 血のつながりはなくとも、兄弟なのだ。悪ふざけにしては、度が過ぎていた。
 しかも。

 (―――大哥だと思った)
 目覚めた一瞬。そう勘違いしたのだ。
 ひどく心地よくて、思わず、「大哥」と呼ぼうとしていた。
 (俺もどうかしている)
 明楼の顔を見ただけで、あのときの快感を思い出してぞくぞくする。無論、そんな感情はおくびにも出さない。心を殺すことには馴れている。
 が―――。

 自分はどうかしてしまったのか。
 不安でならず、明台にやつあたりしたくなる阿誠であった。
 

   * * *


 夜の港に、銃声が響いた。
 「阿誠―――!」
 あまりにも。
 一瞬のことだった。
 積み荷の影から現れた一団に、いっせいに銃口を向けられた、次の刹那である。その銃声と共に、阿誠が明楼の身体を押し倒したのだ。
 阿誠の肩先を、銃弾が掠めた。
 そして。
 先に立ち上がった阿誠は、明楼を背に庇うと素早く構えた銃を撃ち放った。全弾が敵に命中したのを見届けた阿誠は、あろうことか両手を広げてその身を晒したのだ。
 銃声が、重なるようにして響く。
 間髪を入れず、地下党の同志らの銃口も火を噴いた。
 ゆっくりと―――。
 阿誠の身体が仰向けに倒れる。
 明楼はその薄い身体を抱きとめた。
 「阿誠! 阿誠!」
 ごぼっ、と阿誠の口から血が噴き出る。明楼は狼狽して、おのれの手でその血を押さえた。押さえて止まるものではない。むしろ気管に血がつまりかねぬと、頭でわかってはいても、明楼の頭は恐怖でいっぱいだった。まさか阿誠まで失うのか。そう思うと、滅茶苦茶に叫び出したい思いだった。
 弾丸が、尚も明楼の腕すれすれにとび、更に阿誠のこめかみの辺りを掠めようとする。
 明楼は阿誠を抱えたまま、四方へ銃弾を放った。弾は過たずに周囲の敵を撃ち抜いた。
 「こっちへ!」
 同志に促されて、明楼は初めて我に返り、阿誠を抱いて貨物の影へ走りこんだ。
 「阿誠―――。阿誠、しっかりしろ」
 肩先の傷は、大したこともない。脇腹を掠めた銃弾もあるようだが、それも致命傷ではあるまい。ただ―――。
 左の胸の傷から、血が溢れ出していた。
 急所は、わずかにずれている。だが、あまりに出血がひどい。こうしている間にも、コンクリートの地面に血だまりができゆく。
 「しっかりしてくれ、阿誠」
 阿誠を揺さぶろうとして、さっきの同志に止められた。
 「無闇に動かしてどうする!」
 はっとして、同志の顔を見る。
 「‥‥‥明台」
 「大哥。しっかりしてくれ」
 ぐい、と腕を掴まれて、明楼はようやく息を吐きだした。
 まるでたった今まで水の中で息を止めていたかのように、不意に肺の中へ空気が入ってきて咽る。
 「大丈夫か、大哥」
 明台が背中をさすってくれるのを、振り払う。
 「わたしのことはいい。阿誠を早く、病院へ―――」
 しかし、明台の答えは剣もほろろだった。
 「無理だ。こんなありさまで迂闊に病院になどつれていってどうする」
 明楼は目を瞠る。
 「阿誠を見殺しにする気か」
 頭の中が真っ白になった。が。
 「莫迦な! 黎叔と錦雲に診させる。早く、車へ」
 そう叱咤されて、明楼はやっと、ふらふらと立ち上がった。


   * * *


 「わたしがもっと早く気づくべきだった」
と黎叔が詫びる。
 今夜、地下党は港で貨客船から下ろされる積み荷を受け取る手はずになっていた。いわゆる兵糧である。
 常ならば、無論そのような場に明楼たちが居合わせることなどない。ただ、今宵は少しばかり事情が違ったのだ。
 積み荷を守る同志の中に、明台も混じっているというのである。
 積み荷は表向き、とある貿易商のものとなっている。党員たちが貼りついて護衛するわけにはいかないが、食糧や衣類のほかに、武器や弾薬も含まれた荷である。他人任せにもできなかった。それゆえ、同志数名が、各々身分を偽って乗船することになったのだ。 
 阿誠はせんだって杭州で明台に会っているが、明楼にしてみれば一別以来である。弟の無事な姿を見たいという思いがあった。
 ところがである。
 無事に貨客船が入港し、上海地下党の同志が積み荷を受け取る手配をしている最中に、件の男が現れたのだ。
 「黎叔。なんだ、やっぱり上海にいたじゃないか」
 船でたった今港へ着いた黎叔に、男は千鳥足で近づいてきた。
 黎叔にしてみれば、任務の最中である。人違いだと突っぱねようとした。この男とて、もとは地下党の党員である。共に死線を潜った仲でもあったのだ。そう言えば察してくれるものと思った。
 が、男は酩酊していた。黎叔の都合などあったものではない。しきりに金の無心を始めた。
 深夜の船とあって、乗客も積荷も少ない。幾人かの乗客は既に去り、少し遅れて一組の夫婦が舟を下りてくるところだ。
 がらんとした港で、男の喚き散らす声ばかりが耳についた。
 「いいかげんにしろ」
 積荷を受け取り、分散させて送る手配をすませた同志たちが、仲裁に入ってきた。
 明楼と阿誠も、渠らのほうへ向かって歩き始めた。
 その時だったのだ。
 港に積まれていた荷の陰から、日軍の軍服に身を包んだ一群が銃を構えたのは。

 男は、地下党から追放されて、ひとりで街から街へ流れ歩いていた。そして特高科に目をつけられたのだ。
 かつては切れ者と呼ばれた男だった。往時であれば、自分を取り巻く敵の匂いに気づかぬはずはなかった。しかし、男はあまりにも荒み切っていたのである。戦いの中で妻を亡くし、もはや生きる希望を失っていた。
 「最も愛する者を守れずに、何が愛国だ」
 男は、酒に酔ってはそう言って泣いた。
 もはや男にとって、国も、組織も、わが身さえも、守るべき対象ではなかったのだ。
 ただ、腹が減るから飯を食らい、酔いがさめるのが怖くて酒を飲む。それだけの毎日の為に生きていた。そのために、かつての仲間である黎叔を頼ってきたのだ。
 アジトからアジトへ、昔の仲間から仲間へ、辿り辿って、ついに聞きつけたのだ。黎叔に会いたければ、今夜、あの港へ行けばよいと。
 そして、男を見張っていた特高科もまた、その情報を得ることとなったのである。

 「―――いや」
と、明楼は力なく首を振った。
 「わたしも、あの男については、既に報告を受けていました。もっと注意するべきだった‥‥‥」
 明楼はそう答えた。
 もう、何がどうでもいいくらい、疲れ果てていた。ただ、阿誠のベッドに寄り添い、片時も阿誠から目を離すことができない。
 「大哥。少し休んだら‥‥‥」
 明台が、心配そうに言う。
 その口調は、幼い頃のままだ。先刻、港で自分を叱咤した男とは、まるで別人のようだった。
 「随分輸血もしたんだ。大哥だって休まないと身体がもたいなだろ」
 そう言われても、阿誠から離れることなど到底出来そうにない。
 阿誠の傷は、重かった。
 以前、自分が阿誠を撃ったときには、急所を外し、弾丸は貫通させる自信があった。だが、今度は違う。傷は急所に近く、しかも弾はひどく取り除きづらい場所にあった。
 やはり正規の病院に連れて行くべきではないのかと、喉元まで出かかったその言葉を、明楼は飲み込むしかなかった。
 今夜、明楼があの場所にいたのはたまたまのことだ。正体が知れたわけではない。敵はあの場でほぼ仕留めたはずだ。たとえ生き残りの中に明楼を知る者があっても、あの夜闇ではしかとはわかるまい。
 それをのこのこ、病院などにでかけていったのでは、そこから足がついたとて何の不思議もない。
 自分ひとりの身の破滅ではすまないのだ。組織にも打撃を与え、肝心の阿誠の身さえ危うくする。
 黎叔と錦雲に阿誠の命を預けるほかなかった。
 自分にできることといったら、天に祈るばかりだった。明台も同じ思いだったのだろう。自分のそばで、言葉もなくうなだれていた。

 錦雲のメスさばきは鮮やかだった。充分な麻酔を施せないとあって、阿誠には幾重にも重ねた晒を噛ませ、兄弟二人で身体を押さえつけた。
 弱り切っていたはずの阿誠が、傷を抉られるときには恐ろしい力でもがいた。薄い身体のどこにこれほどの力があるのかたと思うほど、男二人がかりでも跳ね飛ばされそうな勢いだった。
 どうやら無事に弾丸の摘出を終えたが、阿誠が目覚めるまでは不安でならない。渾身の力でもがいた阿誠は、既に力尽き果てていたのだ。
 出血の多かった阿誠のために、血を分けてやれたのは幸いだった。実の兄弟でこそなかったが、輸血には問題がなかった。
 明鏡に続いて阿誠まで亡くせば、自分はあの男と同じになりかねぬと思った。
 『最も愛する者を守れずに、何が愛国だ』
 男が語ったと言うその言葉を、明楼もまた胸の内で反芻していた。






 
 
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