琅琊榜

蝉蜕30 (『琅琊榜』 #54以降)

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霓凰・藺ママ編、終了です。

 「梅宗主は、夫人のお眼鏡にかないまして?」
 霓凰の問いに、ふ、と夫人は笑った。
 「気になる?」
 夫人は顎をあげ、片頬だけで微笑んでいる。なんとも挑戦的な表情だが、霓凰とて伊達に十何年も国境を守ってきたわけではない。江湖で鍛え上げた烈女が相手であろうと、些かも気おくれするものではなかった。
 「昼間も申し上げましたが、わたしにとっては大切な人ですから」
 倒れた梅長蘇を見てつい、黎綱に代わって夫人と数手、拳を交わしたのだ。興ざめしたらしい夫人が手を引き、ようやく霓凰も拳を収めた。梅長蘇に武功がないことを確かめた夫人は、鼻白んで幾分きまり悪げな様子だったのだ。
 「夫人はご存じありますまいが、兄長は筆舌に尽くしがたい苦労の末に、ようやく平穏な日々を手に入れたのです。わたしは、それを支えてゆくのが自分であればよいと思っていましたが‥‥‥、どうやらわたしでは出来ぬこと。藺閣主を信じてお任せしているのです」
 静かに霓凰はそう言った。夫人は視線をあさってのほうへ投げる。
 「うちの晨儿に務まるのかしら?」
 霓凰は微笑んだ。
 「閣主でなければ、務まらぬことです。それゆえ‥‥‥」
 「―――晨儿に生涯あの男の世話をさせよと?」
 きっと強い眼差しに射られて、霓凰は少し怯む。
 「それは‥‥‥」
 霓凰はわずかに目を伏せた。
 この人は、母親なのだ、と改めて思った。若くは見えても、藺晨の母である。赤の他人の梅長蘇より、我が子の身が案じられるのは無理もない。
 夫人は、ふいと顔をそむけた。
 「わかっているわ。晨儿が好きでやっていることよね? あの子は梅長蘇にすっかり骨抜きなのでしょう。父親とまるで同じ」
 え?と霓凰は瞬きした。 
 「あの子の父親も、梅石楠どのに夢中だったわ」
 面白くもなさそうに、夫人はふんと鼻を鳴らす。
 「梅石楠‥‥‥。それは‥‥‥、兄長の?」
 「そういうことになるわね」
 梅長蘇の父、林燮のことであると霓凰も理解した。林燮と老閣主が友人であるということは聞いていたが、なるほど、そうであったのかと霓凰は初めて合点する。
 「だから‥‥‥」
と、夫人は少し声をやわらげた。
 「わたしにはわかるのよ。貴女の気持ちがね」
 つきん、と霓凰の胸の奥が疼いた。
 しかし。
 「夫人は、林主帥‥‥‥石楠どののことを憎んでおいでなのですか?」
 そう尋ねると、夫人はほんの少し眉をひそめ、それから小首を傾げた。その様子はどことなくあどけなくもあって、その若々しい美貌に霓凰は改めて見入った。
 「憎んで‥‥‥? 貴女は、晨儿を?」
 逆にそう問い返されて、霓凰はゆっくりとかぶりを振った。
 「むしろ感謝しています。藺閣主は、兄長の最もつらい十二年を支えてくださった。命を救い、身体も心もいたわって、今もこうして永らえさせてくださっています。わたしには出来ぬことを、閣主は兄長にしてくださっている。どうして憎んだりしましょう」
 夫人はわずかに口を歪めて笑った。
 「随分よそ行きの答えたこと」
 「本音です。もちろん、すこし‥‥‥」
と、霓凰は言葉を継ぎ、苦笑した。
 「―――妬ましくはありますが」
 「でしょうね」
 ぷっ、と夫人は笑い、それから天を仰いで大きく息を吸い込む。
 「わたしも妬ましかったわ」
 空を見上げたまま、夫人は言った。
 「あの人はわたしを可愛がって大事にしてくれたけれど、あの石楠どのといるときには、わたしが見たことも無いような顔をするの。それが悔しくて、わたしは自分を磨いたのよ。どう? 女の貴女から見ても、わたしは美しいでしょう?」
 ふわり、と夫人は舞を舞うように、衣の裾を翻して回って見せた。
 「ええ、わたしよりお若いくらい」
 霓凰がそう答えると、夫人は得意げに眉を上げ、満足そうにうなづいた。
 「でもね、どんなに肌を磨き立てて美しく装っても、わたしでは満たしきれないところが、あの人にはあった。あの人はもともと、頭がよすぎて、物事が見えすぎて、そのせいでとても孤独だったのよ」
 ああ、と思う。
 林殊にも。そんなところがあった。
 誰からも愛された、快活な林殊。
 けれども、ふとした折りに見せる寂しげな顔を、霓凰は知っている。
 林殊は人の何倍も先を見通しているところがあり、それが周囲に通じぬことをひどくもどかしがった。あからさまに苛々して見せることはなかったが、霓凰にはなんとなくわかったのだ。
 金陵にあって、林殊の話に打てば響くように相槌を打ってくれたのは、祁王と景琰だけだったかもしれない。林殊の、祁王と景琰に対する執着は、そこにもあるのだと、霓凰は思う。
 (藺閣主ならば、申し分もない)
 むしろ梅長蘇の一歩先を歩いてくれさえする男だと思う。
 「石楠どのは、とても頭が切れたゆえ、あの人が一を言えばもう十も察して、その先の冗談を言い合ったりしていたわ。わたしではとてもついていけなかった」
 夫人は微笑んだが、そこにはもうさっきまでの意地の悪さは影を潜め、どことなく寂しげなさまを見せていた。
 「わたしの妬みや寂しさにも、あの人はじきに気づいた。それで猶更優しく接してくれたわ。それが、―――わたしには我慢ならなかったの」
 ぎりっ、と夫人は奥歯を噛みしめたようだ。それでも息を調えると、夫人はまた微笑した。
 「わたしはもともと気性が荒くてね。だから、よく癇癪を起したわ。わたしも武芸の心得があるから‥‥‥。きっと手の付けようがなかったでしょうね。なにしろ、あの人はわたしに傷一つつけまいとしてくれるのだから、勝負にもなりはしない」
 「惚気ですか?」
 思わず霓凰が笑うと、夫人も眉を上げて笑った。
 「長蘇どのとて、貴女に優しいでしょう?」
 反対にそう言われて、霓凰も照れ笑いする。
 「ええ。とても」
 「ほら、御覧なさい」
 二人で笑いあった。
 「‥‥‥それでもね。まだうんと幼かった晨儿に泣かれて自重したわ。夫の親友に悋気するなんて、あまりにも料簡が狭すぎるとね」
 この人にも葛藤があったのだ、と霓凰はひどく親しみを感じた。夫人はゆるゆると首を振る。
 「けれど、気づかずにいられなかった。あの人の石楠どのへの思いが、ただの親友に対するそれとは違うことに」
 またしても、胸が痛む。
 「ほかの女になら負けはしない。でも、男同士の強い絆にはかなわないわ」
 わかる。
 林殊と景琰の間には、どうしても割って入れぬ何かがあった。そして、今、梅長蘇と藺晨にもまた。
 溜息をついた霓凰に、夫人が笑う。
 「思い当ることがありそうね」
 「ええ。―――でも」
 ふふ、と霓凰は俯いて笑った。
 「来世こそ、わたしと添い遂げてくれるそうですから」
 「あら」
 夫人が軽く目を瞠り、霓凰は足元の土を靴先で少し蹴りながら言った。
 「そう約束してくれました」
 「―――そう」
 不思議なほど温かい表情で、夫人が微笑んだ。
 「約束を、信じているのね」
 もう、微塵の皮肉も感じられなかった。
 「ええ。これまで随分、約束は反故にされましたが、この約束は果たすと言ってくれましたから」
 「いじらしいこと」
 夫人はそう言って霓凰を眺めた。
 「夫人も、今でも老閣主を見限れずにおいでなのでしょう?」
 霓凰がそう言うと。
 「わたしもいじらしいわね」
と、夫人は苦笑した。
 「ええ」
 霓凰はうなづき、また互いに笑った。
 「男と言うのは、本当に身勝手だわね」
 「そうですね」
 それでも、愛しく思わずにはいられないのだ。
 愛した男の幸せを願わずにはいられない。
 因果なものだと思う。
 けれど、そのように生きてゆくしかないのだ。


   * * *


 「何か臭うな」
 長蘇は鼻をひくつかせた。
 「はあ、それが‥‥‥。藺夫人が厨房に」
 立てこもっているのだと黎綱が言う。
 「立てこもって?」
 藺晨が顔をしかめた。
 「あ、いえ。何やら怪しげな薬を煎じておいででして。我らの昼餉を作ることもできません」 
 肩を落とした黎綱は、はっと思い出して脇に置いた膳を長蘇の前へ差し出した。
 「宗主の昼餉は預かってまいりました」
 胡乱そうに覗き込んで、藺晨がいやな顔をする。
 「この粥も、なにやら臭うが」
 「はあ、宗主のために作った薬膳だとおっしゃって」
 どす黒いどろりとした、得体のしれぬ粥である。
 「やめておけ。どんな毒が仕込まれているかわかったものではないぞ」
 「まさか」
 そのまさかをやりかねぬのだ、と藺晨は鼻息を荒げた。
 「わたしが付き返して来てやる」
 「待て。誰が食わぬと言った」
 長蘇が笑って箸をとったので、藺晨は粥の匂いをかぎ、指先で少し舐めてみた。そして、ますます不快気な顔になる。
 「‥‥‥身体に害はなさそうだが‥‥‥。とてつもなく不味いぞ」
 低く呻くような声でそう言った藺晨に、長蘇は苦笑する。
 「構わぬ。母上が折角作ってくださったのだ」
 一匙、食べてみる。
 なるほど、不味い。とんでもないほど不味い。
 それでも食べると言ったからには、意地でも食べるしかない。
 藺晨と黎綱が、気の毒そうに見ていた。

 夕刻になって、夫人はようやく厨房から姿を現した。
 「長蘇どの。わたしの心づくしです。さあ、どれから召し上がる?」
 ずらりと並べられた薬湯は、いずれも怪しげな色をしている。
 「[[rb:娘 > にゃん]]。これでは薬湯だけで長蘇が満腹になる」
 藺晨が憤然として助け舟を出してくれた。藺晨の薬も嫌味としか思えぬほど苦いが、夫人の薬は見るからに鼻も口も曲がりそうな代物だ。
 藺晨の言葉に、夫人は少し眉をひそめて考える様子だ。
 「それは拙いわね。夕餉も腕によりをかけて拵えたのだから。いいわ、薬は一口ずつになさい。それから、食事にしましょう」
 指し示された膳には、昼餉に輪をかけて不味そうな料理が載っている。
 藺晨が溜息をつき、耳打ちしてきた。
 「すまん。母は昔から味覚がすこし‥‥‥」
 さもありなん、昼餉で充分理解している。
 「晨儿、何か言った?」
 聞きとがめた夫人は挑むように顎を上げたが、長蘇が素直に薬を飲むのを見て、幾分機嫌を直したようだ。
 そして料理に手をつけた長蘇に、得意げに尋ねた。
 「いかが?」
 本人は上出来なつもりなのか、と長蘇は苦笑いした。
 「初めての味で‥‥‥、もの珍しゅうございます」
 頬がひきつり、眉がひくひく動きそうになるのを、長蘇は懸命にこらえた。
 「そう。沢山おあがりなさい」
 夫人は満足そうだ。
 あの老閣主も、辛抱してこれを「美味い」と食べていたのかと思うと、妙に笑えた。
 見てはおれぬというふうに、藺晨は溜息をついて腕を組み、夫人に向き直った。   
 「それで、[[rb:娘 > にゃん]]。なにゆえ急に、こんなことを?」
 夫人は心外そうに眉を吊り上げる。
 「なにゆえですって? 長蘇どのの健康のために決まっているでしょう」
 は?と藺晨は問い返した。夫人のほうはさも当たり前といった態度である。  
 「そなたのつれあいなら、長生きして連れ添ってもらわねば」
 夫人の言葉に、藺晨がむっとしたような顔をする。
 「長蘇にはわたしがついているのです。心配は無用」
 「それでも、ろくに動いてもいないのに倒れたわ」
 長蘇は痛いところを衝かれて、そうでなくても不味い料理が、ますます喉をとおりづらくなる。
 「こう身体が弱くては、先が案じられてならないわ。滋養をつけてもらわねば」
 「―――かたじけのう存じます」
 箸を止めて長蘇がそう言うと、夫人は笑みを浮かべた。
 「それに、長蘇どの」
 夫人がまじまじと見つめてくる。
 「そなた、折角よい顔立ちをしているのだから、美しい肌や髪を保たねば勿体ない」
 「え、はあ‥‥‥」
 長蘇があっけにとられる傍らで、藺晨が大きくうなづいた。
 「それについては、わたしも異論ない」
 妙なところで、母子が意気投合している。
 「長蘇、母はこのとおり、見た目だけは並外れて美しい。わたしが幼い頃と全く変わらず、むしろ昔より若く見えるほどだ。美貌を保つ薬に関しては、わたしが太鼓判を押すぞ」
 「わたしは別に‥‥‥」
 必要ないと言おうとしたが、夫人も藺晨も聞いていない。
 「晨儿、そなたには若さを保つ心法をいくつか授けよう。そなたが練った気を長蘇どのに与えれば、長蘇どのにも必ずや効果がある」
 「好! これはよい」
 なにが―――、と長蘇は眉を寄せた。なにが、守ってやる、だ。結局母子一枚岩になってしまったではないかと。
 自棄糞で、長蘇はこの上なくまずい料理を頬張った。


   * * *


 先に馬車を下りた藺晨が、乳母から藺麟を抱きとっている。
 藺麟の顔を見るのも数日ぶりだ。長蘇は腰を浮かせかけたが、それよりも早く、藺夫人と霓凰が身軽く馬車を下りた。
 「おお、なんてまあ、可愛いこと」
 藺夫人が相好を崩して藺晨から赤子をひったくる。
 「夫人。わたしにも抱かせてください」
 霓凰が両手を差し出し、おっかなびっくりで小さな体を受け取った。
 女ふたり、すっかりはしゃいで藺麟に夢中である。夫人と霓凰はいつの間に仲良くなったものやら。
 長蘇は飛流の手を借りるのももどかしく、慌てて馬車から降りた。
 「小り‥‥‥」
 駆け寄ろうとしたが、夫人と霓凰は藺麟以外目に入らぬ様子で、ふたりで抱え込んでしまっている。
 長蘇とて、一刻も早く抱きたいのだ。あの柔らかい身体を抱きしめたかった。
 「長蘇」
 ふわり、と肩を抱き寄せられた。
 「藺晨」
 肩を抱かれたまま、霓凰らのそばへ連れてゆかれる。
 「娘。郡主。まずは長蘇に抱かせてやってはもらえまいか」
 常にも似ぬ、低く落ち着いた声音で、藺晨はふたりにそう声をかけた。
 女たちは初めて我に返ったように振り返り、そして微笑んだ。
 「それはもちろんですとも」
 異口同音にそう言って、ふたりは藺麟を長蘇の方へと差し出す。
 懐かしい、乳の匂いが鼻をくすぐる。
 「小麟―――」
 長蘇は両手を差し出した。
 「あー?」
 藺麟の顔が、ぱっと輝く。小さな手が差し伸べられて、早く早くとせがんでいるように見える。
 「あら、やっぱり林殊哥哥がいいみたい」
 霓凰がくすっと笑った。
 温かい気持ちになって、長蘇は藺麟の身体を抱き受けた。
 たった数日で、すこし重くなったように感じる。藺夫人に打たれた右腕がほんの少し痛んだが、それも気にならぬほど長蘇は満ち足りていた。
 赤子の柔らかい肌に頬ずりして顔を上げると、夫人と霓凰の笑顔があった。背中を抱いてくれる藺晨がいて、日々健やかに育つ我が子がいる。ほかに何を望むだろう。
 夫人も霓凰も、もはや心配の種ではない。

 不意に、がんがんと大きな音が聞こえた。
 見れば、吉嬸が玉杓子で鍋を打っている。
 「ほら、皆さん。いつまでそんなところに突っ立ってるんです? 美味しい餃子がたんとありますよ。閣主のお好きな団子汁もね」  
 大声でそう呼ばわれて、飛流はすぐさますっ飛んで行った。長蘇は藺晨と顔を見合わせる。
 「おまえの団子汁が冷めてしまっては一大事だな」
 「無論だ」
 思わず、ふたりで笑みを交わし合った。
 こんな何でもない日々が、愛おしい。
 長蘇は藺晨に背を抱かれ、客らを促して、ゆっくりと邸へ向かったのだった。


 
 
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