琅琊榜

母亲 (『琅琊榜』)

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言皇后目線? 
でも、時系列とか、いまいちあやふやで、ごめんなさい。


「―――兄上」
 呼んでも、返事はない。
 兄は、すっかり憔悴している。
 最愛の人と、信じていた友とを、兄は同時に失ったのだ。
 「闕哥哥」
 そう呼んでみた。嫁ぐ前のように。
 「‥‥‥ああ、なんだ?」
 夢から覚めたように、兄は虚ろな眼差しをこちらへ向けた。
 「しっかりなさいませ」
 つらいのは、兄ばかりではない。
 (―――このわたしとて)
 言氏は唇を噛んだ。

 こんな莫迦にした話があるだろうか。
 言氏は、夫を敬っていた。兄の友であった夫に嫁ぐとき、言氏は生涯この人のために尽くそうと心に決めたのだ。たとえ夫が皇族でなくとも、きっと添い遂げたろうと言氏は思う。
 兄は、夫を信頼していた。夫の、皇子としての器を高く買っていたのだ。藺相如の再来とまで呼ばれた兄と、天下に名を轟かせつつあった名将・林燮が、次の皇帝として推し立てんとする男。それが我が夫なのだと思うと、言氏は誇らしくてならなかった。
 それなのに。
 夫は、裏切ったのだ。兄を。そして、言氏を。
 兄が最も愛した女性・林楽瑤を、夫は力で奪ったのだ。

 皇帝の足が、ここへ向くことはまずない。政務の合間を縫い、時を惜しんで楽瑤のもとへ通っているのだ。
 はじめのうちこそ、楽瑤が哀れでならなかった。だが、やがては腹立たしさのほうが勝った。

 長子を産むことは、かなわなかった。
 悔しくてならなかった。
 だが、皮肉なものだ。景禹を産んで、宸妃は驚くほど病がちになった。
 皇帝がこちらへ渡ってくるようになったのは、その頃からである。
 嬉しかった。
 これで、お子が授かれる。皇后としての面目がたつ。そう思った。
 情けないことに、一人では宸妃の代わりは務まらぬと見えて、時を同じくして恵妃も身ごもったと言う。
 せめて恵妃より先に産みたい、と言氏は願い、その思いはかなった。
 授かった我が子は、言氏の宝となった。身ごもって後は再び夫の足が遠のいたが、もう寂しいとも思わない。
 玉のような皇子であった。我が子ながら美しく、見るからに利発そうな赤子に、言氏は心から満ち足りていたものだ。
 夫の寵愛は既に越妃に移っていたが、そんなことはもはやどうでもよかった。言氏には、皇后として後宮を束ねる責務と、何よりも大切な我が子がある。それだけで日々は輝いていたのだ。
 そう。
 あの日まで―――。
 
 それは、あまりにもあっけなかった。
 あれよあれよという間に、言氏は我が子を失ったのだ。
 

   * * * 


 ぴょこり、ぴょこり、とぎこちない動きで、その子供は回廊の向こうを歩いていく。
 見苦しい、と思った。
 目障りでならない。
 第三皇子―――。恵妃の子だ。
 先年、はやり病で九死に一生を得たが、足に麻痺が残った。
 ひ弱そうなその子供が、それでもそうやってひょこひょこ歩き、生母である恵妃に歩み寄ってその袖の内に抱き寄せられるのを、言氏は耐えがたい思いで見つめた。
 恵妃とその侍女らが何か笑いさざめいているのが、庭を挟んだこちらまで聞こえてくる。怒りが、込み上げた。
 (わたしのあの子は―――)
 もういないというのに。
 同じ時に病を得て、恵妃の子は命を取り留め、言氏の子だけが天に召された。
 どうして、と腹が立つ。
 (あんな子よりも、わたしの皇子はずっと愛らしく、聡明であったというのに。なにゆえ、天はあの子をお召しになったのか)
 夫を奪われ、子を失い、言氏に残されたのは皇后としての重責だけだった。
 あんまりではないか、と思う。これでは尼寺へでも入ったほうがましであった。男を知らず、子を持つ喜びも知らぬまま、仏の道に身を委ねたほうがどれだけ幸せだっただろう。
 何が気に入らないのか、不意に恵妃の子が泣き出した。
 (うるさい子!)
 そう思って、言氏は部屋へ戻ろうとした。
 だが。
 その声は、失った我が子のものによく似ていた。
 考えてみれば無理もない。ふたりは兄弟なのだ。いや、兄弟でなくとも、近ごろ言氏は子供の声に敏感だった。子の泣く声を聞けば、苛々して、腹が立って、―――それでいて愛しくてならぬのだ。
 駆け寄って、抱きしめてやりたくなる。だが、それはかなわぬ。
 (わたしの子ではない)
 恵妃や乳母が、第三皇子を抱いて宥めるのが見えた。
 わかっている。子が憎らしいのではない。子を持つ母が、妬ましくてならぬのだ。
 言氏は逃げるようにして、部屋へと駆け戻った。


   * 


 言氏は、ひたすら後宮を守った。
 あまりに孤独で、ほかにどうすることもできなかったのだ。
 抱きしめてくれる夫の腕もない。慈しむ子もない。皇后の身なれば、泣いて家へ帰ることも叶わなかった。
 砂を噛むような、日々であった。
 やがて越妃にも子が産まれ、皇帝は見苦しいほどその子を溺愛した。
 宸妃の産んだ第一皇子は、賢く朝臣らの受けが良い。病弱な第三皇子は生母・恵妃らが大切に守り育てている。
 言氏の子どもだけが、既に皆から忘れ去られていた。
 やがて、恵妃が再び身ごもり、夫が宸妃付きの医女にまで手をつけるに及んで、言氏はもはや身も心も冷め果てていた。
 そんなときである。
 第五皇子の生母・祥嬪が身罷ったという。 
 祥嬪は、後宮の外に住まわされていたと聞く。それゆえ、妃嬪の束ねたる言氏も、母子に会ったことがない。嬪にとどまっているからには、何の後ろ盾もない身分の低い女であることは間違いなかったが、その素性については皇帝から聞かされもせず、言氏からそれを尋ねる気もない。
 その祥嬪が、亡くなったと言うのだ。
 それに伴い、祥嬪の手元で育てられていたという第五皇子・景桓が、皇宮入りすることになった。
 「幼い故、妃嬪の誰ぞに預けて後宮で暮らさせるつもりだが、皇后よ、景桓の母代わりには誰がよかろうか」
 夫にそう尋ねられたとき、言氏はぼんやりしていた。
 子が、来る。
 母のない子が。
 「皇后?」
 はっとした。
 「誰ぞ、景桓を育てるにふさわしい妃嬪に心当たりは?」
 夫の声が、遠いようにも近いようにも思えた。
 「―――わたくしが」
 言氏は言った。喉が渇いて、上手く声が出ない。
 「うん?」
 「わたくしが‥‥‥、養育いたしましょう―――」
 言氏はかすれた声を、絞り出した。
 「――你说什么?」
 夫の、あっけにとられたような顔を、言氏はまじまじと見返した。
 「わたくしに‥‥‥、その子を賜りたく‥‥‥」
 言氏は膝を折り、深々と頭を下げた。
 「これ、起来吧」
 皇帝は慌てて言氏を立ち上がらせた。
 「好了好了好了。そなたが面倒を見てくれるなら、朕とてそれが一番安心だ」
 言氏はぱっと、顔を輝かせた。
 夫の前で、これほど心が明るく浮き立ったのは、何年ぶりであったろう。
 「これは朕が浅はかであった。そなたがこれほど喜ぶなら、初めからそう申しつけるべきであったな」
 皇帝にとっても、久し振りに見る皇后の笑顔であったろう。渠もまたにこやかに笑って、幾度もうなづいた。



   * * * * *



 春猟に出た皇帝を、景桓はどうしようというのか。
 なにゆえ、謀反の道を選ぶ。皇子である景桓が、何も夏江と心中すろことなどないのだ。それなのに、景桓は言う。この道しかないと。景琰に勝つにはこうするよりほかはなく、負ければ景琰が我らを赦すはずがないと。
 何がそこまで、この子を追い詰めたのか。
 景桓は必死だ。
 「宸妃の自害は、母上にも関係あるのですよ」
 ぎらぎらと怒りに燃えた目で、景桓はそう言った。そして、今度は言氏を宥めすかすようにこう言ったのだ。
 「静貴妃は脳裏にすべて焼き付けています。穏和な女だとお思いですか」
 この母を、脅しているのだと、言氏は初めて悟った。

 この子は。
 ずっとどこかで、この自分に対して壁を作っていたのだろうか。
 まことの母子と思っていたのは自分だけで、この子にとっては他人でしかなかったのか。
 自分の前でだけは、寛いだ様子を見せてくれる、そう思っていたのは、勘違いにすぎなかったのか。

 ふと、気づいた。
 わたしの産んだあの子なら、とそう思う瞬間が、時としてありはしなかったか。
 自分の力及ばず、この子を東宮位につけてやれなかったことを申し訳なく思う反面、まことの嫡子であったなら、とそう思いはしなかったろうか。
 この子が素性もさだかでない嬪の子などでなく、自分の産んだあの子であったなら、誰に後ろ指差されることもなくとうに東宮の位を得て、憎い越貴妃の鼻を明かしてやれたに違いないと。
 これほど手塩にかけて育てて、賢く優雅な皇子と称えられ、それでもこの子は皇太子になれぬ。わたしの子ではないから、と。
 心のどこかで、そう思ってきたのではなかったか。
 それを。聡いこの子は感じていたに違いない。
 幼いころから、目から鼻に抜けるような子であった。言氏が一を言えば十を察し、満足のいく振る舞いをしてくれたものだ。
 自慢の息子であった。
 『皇后の養い子』と揶揄する者もあったが、大方の朝臣はこの皇子の資質を認めて、父皇に最もよく似た皇子であると噂した。
 わかっていたのだ。この子の気持ちは。
 生母を失い、養母たる自分だけが、この子の生きるよすがであった。自分に気に入られようと懸命に顔色を窺うこの子を、不憫と思う一方でどこか蔑んではいなかったろうか。血を分けたあの子であれば、こんなふうに媚びたりはすまいにと。
 まことの母子になり切れなかったのは、この子ばかりではない。自分もまたそうであったのかと、言氏は今初めて悟った。
 (わたしが‥‥‥)
と言氏は肩を落とした。
 自分が、この子を誤った道へと導いたのだ。
 越貴妃が憎かった。
 恵妃が憎かった。
 静妃が憎かった。
 あの子を失った自分に引き比べて、子のある女たちの、全てが憎かった。
 体面上、あの女たちの産んだ子は全て、皇后である自分の子である。あの子が生きていた頃には、宸妃や恵妃の産んだ子を我が子と同じように愛そうと思いもした。子を失ったあとですら、そうあろうと努めはしたのだ。子に罪はない。自分の産んだ子にあらずとも、子は可愛い。
 けれど。
 我慢がならなかったのだ。母と子が共にいる姿を見るのは。
 幼い皇子たちに珍らかな菓子を進ぜれば、渠らは一様に嬉しそうな顔をした。愛らしいと思いもしたのだ。しかし、次の刹那、渠らが生母の膝へ帰って得意げにその菓子を見せるさまは、耐えがたかった。
 それゆえに、景桓を得たときには心から嬉しかった。
 この子に母はない。自分だけが、この子を可愛がってやれる。この子の帰る膝は、自分だけだ。
 ほかのどの皇子よりも、愛しいと思った。それゆえ、何が何でも帝位につけてやりたいと望んだのだ。
 その望みが、―――この子を歪めた。
 そしてこの子は。
 越貴妃との争いに勝つための駒にされたと、そう思っているに違いない。
 そうだ。それはあながち間違ってはいない。
 この子が景宣に勝ってくれれば、自分もまた越貴妃に勝てる、そう思っていたことは確かだ。この子のため、と背中を押してやりながら、それは自分の虚栄心のためでもあったのだ。
 (この子には。全て見えていたのだ)
 おぞましい、と思った。己を。
 なんと卑しい、あさましい。
 その卑しさの前には、永年の労苦など話にもならぬ。
 哀しくてならなかった。
 どこでどう間違えたのか。当たり前の幸せが欲しかっただけだというのに。
 夫を敬い、子を慈しみ、国のため、後宮を守り支えてゆくのが務めだと心得ていた。十七の年から、そのように努めてきたのだ。
 (それなのに……)
 何もかも、失ってしまう。
 それだけは、いやだった。
 せめてこの子は、失いたくない。
 ―――最後まで、この子と共に堕ちてやろう。言氏はそう覚悟を決めた。
 今は賭けるしかない。この子が帝位をその手にするか、あるいは逆賊となり下がり、命さえも落とすか。
 この子をここまで追い詰めた者の中に、自分もまた含まれているのだ。
 欺かれ、利用され、裏切られた、可哀想な景桓。人並外れて誇り高いこの子には、とても耐えられまい。



   * * *



 言氏は再び、子を失った。
 景桓は、獄中で自ら命を断ったのだと聞く。
 可哀想な景桓。全てを失って。―――体ひとつで逝ってしまった。
 言氏もまた、全てなくした。



 ある日、冷宮を年老いた宦官が訪れた。
 夫のそば近く仕える太監・高湛である。
 「おいたわしゅう存じます」
 高湛が、しおしおと頭を垂れた。
 無理もない、と言氏は思った。冷宮に来てから、言氏は食も細り、すっかり痩せた。髪を結い上げる気力もなく、一日中牀台に腰かけたまま、ぼんやりと過ごしてきた。
 たまに覗き込む鏡の中の女は、窶れはてて化粧気もなく、髪には白いものが目立ち始めていた。これがかつてこの国で一番尊ばれた女のなれの果てか、と笑い出したい気分になる。何十年、歯を食い縛って務めてきた後宮の主と言う役目の果てに、何もかも剥ぎ取られた。自業自得ではあっても、やりきれない。
 高湛の目に宿る憐れみの色が、言氏をいたたまれなくさせた。
 「陛下は、つつがなくお過ごしか」
 そう尋ねると、高湛は少し顔を曇らせた。
 「近頃はお身体も弱られ、政務は全て皇太子殿下に委ねられておいでです」
 あの夫が、と言氏はうなだれた。
 そして、恐る恐る問う。
 「誉王の、―――景桓の死に様を、そなたも目にしたのであったな」
 「はい」
 「さぞ、無念な顔をしていたのであろうな」
 尋ねる声が、震えた。しかし。
 「いえ、‥‥‥殿下におかれましては、いっそ安らかとも言えるお顔で」
 「安らか?」
 言氏は顔を上げた。
 そう。あり得ぬ話ではない。
 あの子はもう、誰と争うこともない。誰の顔色を推し量ることもない。背伸びすることとても、必要ないのだ。ようやっと肩の荷を、おろしたのやもしれぬ。
 「陛下は‥‥‥」
と、高湛が言った。
 「誉王殿下に帝位を譲ってもよいとまで、いっときはお考えでした」
 言氏はぎょっとした。
 この者にしては、随分軽率な口を利く。口の堅さを買われて、これまで皇帝のそばに仕えてきた男であるというのに。
 そして、腑に落ちた。我が身はもう、生涯この冷宮から出ることはないのだ。それゆえ、高湛もその口を弛めるのだろう。
 「されど、殿下はご生母のことをお知りになり‥‥‥」
 「玲瓏公主であったとか」
 そう漏れ聞いた。
 「はい」
 まさか、滑族の子であったとは。
 言氏は溜息をついた。
 そうと知っていれば、帝位など望ませはしなかった。別な慈しみようもあったのだ。
 「殿下はおのが出自を知って、はじめから帝位は届かぬものであったと自暴自棄になられたとか。―――ですが、それは殿下の思い込みと言うもの、陛下は殿下のことを買っておられたのですから」
 そうとも知らず、あの子は絶望したのだ。なんとむごいことだろう。
 「蘇先生が申されました」
 え?と言氏は眉をひそめた。
 「かつて殿下は、祁王兄ぎみの最後の言葉を、陛下にお伝えしなかったと」
 「祁王の、最後の言葉?」
 言氏は問い返した。
 「父は子を知らず、子は父を知らず、と」
 高湛が厳かな口調でそう言った。
 父は子を知らず、子は父を知らず。言氏も口の中で小さく反芻した。
 「殿下が握りつぶしておしまいになったその言葉は、そのまま殿下に返ってまいったのです」
 言氏は固く目を閉じ、きつく眉を寄せた。因果なことだ。父の非情さも、父の情愛も、景桓は理解しなかった。皇帝もまた、景桓の孤独を、愛情に対する飢餓を、理解しなかった。
 互いに情を持ち、相手の情を求めながら、親と子はついに互いを知らずに終わったのだ。
 「‥‥‥なにゆえ、蘇先生がそんなことをご存じであったのか」
 そう尋ねると、高湛はゆるゆると首を振った。
 「さあ、わたしは存じませぬ」
 重ねて聞くことはしない。この男が知らぬと首を横に振ったことは、舌を抜かれたとて喋りはすまい。
 言氏はわずかに顔を強ばらせた。
 蘇哲。―――梅長蘇。
 あの男が、全ての歯車を狂わせた。
 あの男が来るまでは、平穏無事であったはずだ。日々繰り返された越貴妃との嫌みの応酬とて、今となっては可愛いものであった。
 わかっている。梅長蘇が悪いわけではない。あの日々には、いずれは破綻が生じたとて不思議はなかった。だが、―――誰かを恨みたかったのだ。
 「戦のことは、お聞きおよびですか」
と、不意に高湛が言う。
 「隣接する国々が、こぞって狼煙をあげたとやら聞く」
 こうして冷宮の奥深く幽閉されてはいても、そうした噂は耳にはいるものである。
 赤焔事案の再審のことも、既に聞き知っていた。恐らく諸国は、その混乱に付け入ってきたのだ。
 「この国は‥‥‥、持ちこたえようか」
 言氏はそう問うた。 
 かつて、皇后として支えた国である。
 我が子も同然ではないか。
 そう思い至って、胸が熱くなった。
 なぜ、もっと早く、そのような心持ちになれなかったか。
 この国こそが我が子であると。
 臣も民も。後宮に暮らす女たちも。全てを己の子として慈しむ気持ちに、なにゆえなれなかったのか。
 「ご心配には及びません」
と高湛は言った。
 「東海へは衛将軍が遣わされました。夜秦には地方の軍が当たり、南楚は霓凰郡主が抑え、北燕へは聶将軍を‥‥‥。そして―――」
 高湛が、いったん言葉を切る。
 言氏は首をかしげた。
 「残るは大渝か。すると、いま名の上がらなかった蒙大統領が、北の国境へ?」
 「‥‥‥はい」
 言氏はわずかに眉をひそめた。
 「蒙大統領は我が大梁の誇る名将なれば、武勇において案じはせぬが、―――確か、かの地は初めてであったはず」
 「さようでございます。それゆえ、知略に優れた副将を、殿下はおつけあそばしました」
 なるほど、戦に慣れた景琰だけのことはある、と言氏は思った。だが。はて、そのような者がいたであろうかと、眉を寄せる。
 「まさか兄上‥‥‥?」
 いささか年齢がいきすぎてはいるが、まだ矍鑠としている兄を思い浮かべる。
 「いえ、侯爺には都にあって殿下を支えていただかねばなりませぬゆえ」
 「ならば‥‥‥」
 豫津では、あまりに心もとなかろう。それ以外には‥‥‥、そう思いめぐらせたとき、高湛が静かにその答えを明かした。
 「―――蘇先生が」
 「蘇先生?」
 再びその名があがったことに、言氏は少し驚いた。
 「蘇先生は、戦に出られるほどお元気に?」
 「‥‥‥そう伺っております」
 高湛は、そう答えた。
 「さようか‥‥‥」
 言氏はすこし考え、更に問うた。
 「あの者は、大渝の戦法に明るいのか?」
 「さあ‥‥‥」
 高湛は伏し目がちのまま、僅かに首を傾けた。
 「わたしは何も、存じませぬ」
 またしても、高湛はそう言ったが。今度は、「ただ‥‥‥」とつけ加えた。
 「わたしが思いますに‥‥‥」
 「申してみよ」
 口ごもった老太監に言葉の先を促すと、
 「あの者は、命がけで赤焔事案を覆し、いままた命がけで大渝との戦に臨まんとしていることだけは、間違いございますまいと‥‥‥」



   * * *



 なにゆえ、と老太監が去ったあとで、言氏は考えた。
 なにゆえ梅長蘇が、命を懸けねばならぬのか。
 赤焔事案と大渝は、あの男にとってさほどにこだわりの深いものか。
 首を捻らずにはおれぬ。
 たとえば‥‥‥、と思った。
 (あの林殊ならば、いざ知らず)
と、言氏は苦笑した。
 そして、次の瞬間、その苦笑を凍りつかせずにはいられなかった。 
 ―――林殊ならば?
 まさか。
 『小殊―――』
 不意に、亡き太皇太后の声が耳によみがえった。
 あのとき、お婆様は確かに小殊とお呼びになたのだと、今はっきりとそう思える。
 「‥‥‥小殊」
 ありえぬ、と思った。
 しかし、夏江がそんな供述をしていたこともありはしなかったか。埒もないと思っていたが。
 高湛はいったい、何を言いたかったのか。
 いま、言氏には有り余るほど時がある。
 牀台に腰かけたまま、言氏は考え続けた。
 梅長蘇と実際に顔を合わせたのは、数えるほどだ。その折のことを思い出す。林殊には、似ても似つかぬ男であった。
 だが、しかし。
 梅長蘇が都に入ってからのちのことを、林殊を渠に当てはめてひとつずつ思い起こす。
 (小殊‥‥‥)
 幾度も幾度も、考えた。
 が、考えれば考えるほどに、たどり着く答えはただひとつ。
 そうであったか、と思う。
 赤焔事案の真相については、そのあらましを聞き及んでいる。
 さぞや無念であったろう。
 あの夏江と謝玉が、そこまで悪辣なことをしてのけたとは、さすがに思いもよらなかった。
 幼かった頃の林殊を思い出す。林殊と景桓は折り合いがよくなかったが、言氏は決して林殊を嫌いではなかった。少々真っ直ぐで潔癖すぎるきらいはあったが、飾らず率直で元気がよく、なにより聡明なところが気に入っていた。
 (そなたであったか)
 言氏は、我知らず顔をほころばせた。
 『小殊にかかっては、怒るに怒れぬ』
 かつて、よくそう言って苦笑したものだ。
 少々の悪戯や失敗も、林殊のこととなると、つい許してしまう。林殊は、不思議にそんなところのある子供だった。それだけに、大人の顔色を見ることに必死な景桓を不憫に思い、ますます慈しんだものでもあったが。
 「‥‥‥小殊が相手では、怒るに怒れぬ」
 言氏はため息をついた。
 そして思う。
 凍てつく北の戦場へと、再び赴いた林殊の胸のうちを。
 更には、梅長蘇の青白い顔を。
 あの林殊が何をどうして梅長蘇という男になったか、言氏には想像もつかなかったが、梅長蘇のひ弱さは隠すべくもない。あの身体で、果たして大渝との戦に耐えられようか。
 高湛は言った。梅長蘇は命がけで、大渝との戦に臨んでいるのだと。
 さもありなん、と思う。捨て身でかかっているのだろう。
 火のような少年であった。慎ましく見える梅長蘇のなかにも、林殊の焔は消えずに燃え盛っているにちがいない。
 捨て身なればこそ、我が子・景桓をも追い詰めた。そして林殊自身も、もう生きて戻る気はないのやも知れぬ。そんな気がした。
 不意に、悲しみが突き上げてきた。
 景禹も、景桓も、林殊も。
 この手でもっと、抱きしめてやればよかった。
 皆、こんなにも早く逝ってしまうならば、もっと愛してやればよかった。
 冷宮で凍てついていた涙が、久し振りにほろほろと頬を伝った。
 父は子を知らず、子は父を知らず。
 父と子の間にそうした隔たりがあるならば、子らの母たる己が取り持ってはやれなかったか。子らがどの腹から生まれたかなど、気に病むのではなかった。
 皇后の座を追われた今になって、言氏はこの国の母たるべき心に思い至ったのだ。
 
 武運を、祈らずにはいられなかった。
 皆、無事で戻ってくるように。
 この国が、平穏であるように。
 そうでなくては、先に逝った子らも浮かばれまい。

 やがて帝位は景琰へと移るだろう。
 景琰は義を重んじ、民を慈しみ、仁政を敷くに違いない。
 まっすぐで、理想に燃えた若い皇帝が誕生するのだ。
 (陛下とて、かつてはそうであったのだ)
 兄・言闕が、名将・林燮が、見込んだ男であった。
 皇帝の椅子は、人を変える。重圧が、皇帝を押しつぶそうとする。皇帝は、国と民とを保ちつつ、自分の身と心をも守る、そのぎりぎりのところで折り合いをつけながら、日々をやり過ごすしかない。
 長く不遇な時を送った景琰なら、耐えうるだろうか。帝位の重みに屈せず、若き日の理想のままに生きられるだろうか。景宣も、景桓も、あの景禹でさえも上れなかった高みで、倦まず穢れず、その重責を担って行けるだろうか。
 ならば、見てみたいと思う。
 このような身になり果てても、命永らえて、この冷宮の奥から見ていたい。
 この国の行く先を。
 (わたしの―――)
 言氏は目を閉じ、この国の美しき山河を思った。活気にあふれた金陵を、そして絢爛な皇宮を。
 今はもう、手の届かぬものとなってしまったそれらを、しかし言氏は愛しく思う。
 
 涙をぬぐって、言氏はわずかにほほえんだ。
 つと立ち上がると、言氏は鏡の前に座る。
 まだ、死ねぬ。
 子供たちの分まで、見届けねばならぬのだ。
 
 言氏はゆっくりと、髪を結い上げ始めた。 
 



 
 
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~ Comment ~

>>ユリさま

いらっしゃいませ!!!
読んでいただいてありがとうございます。
自分の愉しみに『腐』風味のものを多く取り扱ってますがw、
言皇后のみたいなお話を書くのも、本当は大好きです。
琅琊榜は噛めば噛むほど味の出る作品なので、
まだまだいろんな角度から切り取れればいいなあと思っています。
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