琅琊榜

蝉蜕26 (『琅琊榜』 #54以降)

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25の後編になります♡

 「なぜ今まで教えてくれなかったのだ」
 藺晨が問うと、吉嬸はにやりと笑った。
 「実はね、これは全部、老閣主の仰せなんですよ」
 そう言って、吉嬸は老閣主の言葉を伝えた。
 『長蘇どのは琅琊閣にとって申し分のない嫁御だが、いかんせんあの通りの病身。なにごとも完璧にこなそうとすればするほど、無理が生じるもの。赤子のこととてそうであろう。しかるに、あの莫迦息子めが、どこまでその手綱を引けるものか。いや、これは見ものよな』
 「あの糞爺イめが……」
 藺晨はぎりっと奥歯を鳴らした。慌てて黎綱がとりなす。
 「閣主、なにはともあれ、ここは老閣主の策に乗ろうではありませんか」
 「むむ……」
 業腹ではあったが、背に腹は代えられぬ、と藺晨は息を吐いた。


   * * *


 「乳母だと?」
 扉ごしに、長蘇は言った。
 「そんなもの……」
 必要ないと、言いたかったのだが。
 「お前とて、乳母はいたであろうが」
 そう言われて、確かにそうだと思い直した。
 かつて、林家には多くの使用人がいたものだ。自分にも、従僕やら乳母やら侍女やらがかしづいていた。頭からはねつけるべき話でもない。
 正直なところ、先日の一件では、反省もしていたのだ。
 藺晨が自分を心配してくれているのは、ほかならぬ長蘇自身が誰よりも知っている。
 長蘇は、ゆっくりと閂を引き抜いた。
 少しうなだれて藺晨の顔を見上げる。
 「ようやくご開帳か」
 ほっとしたような藺晨の笑みが、胸に痛い。
 謝りたいが、言葉が見つからなかった。
 すると。
 「麟麟が待っている。いい加減に機嫌をなおせ」
 ふわりと抱き寄せられ、そうして腰へ手をまわされた。
 「藺晨?」
 「腹が減ってふらふらだろうが」
 軽々と抱き上げられて、長蘇は少し赤くなった。
 「皆に見られる」
 「あれだけ派手な夫婦喧嘩を披露しておいて、今更何が恥ずかしいものか」
 そう言われては、返す言葉もない。長蘇は素直に、藺晨の首に腕を回した。 
 藺晨がゆっくりと歩き出す。その歩みにゆるく揺られながら、長蘇は低く呟いた。
 「―――すまぬ」
 何から詫びてよいのやらわからなかった。
 「蕭家の血を引く者は、つい物に当たる癖があって。……母もよく、父と口論になるとそこらじゅうの物を投げていた。言い訳にはならぬが……」
 長蘇が言葉に詰まると、藺晨が頬をすり寄せてきた。
 「わかっている。わたしも口が過ぎた」
 藺晨の頬も少しばかり赤く火照っていると気づいて、長蘇は思わず笑った。
 「お前の口が過ぎなかったことが?」
 「こやつ。お前とて、強情は昔からではないか」
 思わず、互いにぷっと笑い合った。
 「その二人の娘となれば、先が思いやられるな」
 ふたりは想像して少し黙る。藺晨の口の悪さと調子に乗りすぎるところ、長蘇の頑固さと思いきりのよさ。それを兼ね備え、しかも女の身と来ている。
 「―――そう考えると、飛流は育てやすかった」
と、長蘇が嘆息する。
 「確かにな。乱暴で知恵も足りぬとはいえ、少なくとも乳離れはしていたし」
 藺晨はそう言い、
 「我らとて今より若かった」
と付け加えた。
 「爺くさいことを言うな」
 長蘇が思わず笑った時、目の前の部屋の扉が開いて、藺麟を抱いた吉嬸が姿を見せる。
 「そら、お前の可愛いお姫様のお出ましだ」
 そう言って、藺晨が長蘇を腕からおろした。
 「―――麒儿」
 会いたかった。
 小さな宝。
 少し足元がふらついたが、長蘇は吉嬸のもとへ駆け寄ると、ようやっと藺麟の小さな体を抱き取った。

   *

 「比武招親?」
 どういうことか、と長蘇は不安げに藺晨を見た。
 「何も赤子に腕比べをさせようというのではないが、要するに―――、麟麟自身に品定めさせるという寸法だ」
 「そんなことができようか?」
 こんな小さな赤子に。
 だが、吉嬸はあっけらかんとして笑った。
 「なにしろ、乳母になりたがっている者は五万とおりますからね。中には一人くらい、麟麟さまのお眼鏡にかなう者がおりましょうよ」
 その言葉通り、琅琊閣が乳母を探しているという噂は、忽ちの内に琅琊山、江左盟は愚か江湖全体を駆け巡ったのである。



   * * *



 乳母選びの当日。
 藺麟は常より一層愛らしくめかし込まされ、長蘇も清雅な装いで、藺晨は鼻高々である。
 琅琊閣、江左盟にゆかりの者は言うに及ばず、更には江湖の様々な女たちが押し寄せていた。

 そんな中、まだ乳母選びが始まりもせぬというのに、何やら庭のほうで押し問答する声が聞こえる。
 「どうした?」
 藺晨が回廊へ出て、庭の隅にいる甄平に声をかけた。長蘇も、藺晨のあとに続いて庭を見やる。
 「いや、宮羽姑娘が」
と、甄平が苦り切った様子で振り返った。
 見れば、甄平と言い争っているのは、確かに宮羽である。長蘇は眉をひそめた。
 「何をしに来たのだ」
 さっと、宮羽が甄平の身体を押し退けて前に進み出た。
 「乳母をお求めと聞いて参じたのです」
 「これはこれは、宮羽姑娘」
と、藺晨が大袈裟な身ぶりで歓迎の意を表す。
 「これはよい。琅琊閣が華やかになるではないか」
 「藺晨、無責任なことを言うな」
 扇子をはためかせた藺晨を、長蘇は軽く睨んで見せたが、藺晨のほうはいかにも愉しげである。
 「宮羽姑娘ならば、いずれ麟麟に歌舞音曲も仕込んでくれよう?」
 「それはまだ先の話だ。今は乳母を探しているのだぞ」
 長蘇がそう言うと、藺晨はいかにも失念していたとでもいうように、閉じた扇子で自分の額を軽くはたいた。
 「そうであった。―――宮羽、そなた乳は出るか?」
 ずばりと問われて、宮羽は真っ赤になった。
 「そ、それは……」
 でも、と宮羽が食い下がろうとするより早く、藺晨は扇子をばさりと広げた。
 「ふむ、それは残念だ」
 扇子がひらひらと宮羽の目の前で翻る。
 「此度は乳の出るおなごを探しておるのだ。縁がなかったな」
 「そんな。乳は出ずとも、貰い乳すればすむこと。真心込めてお世話致します」
 宮羽は尚も言い募ろうとしたが。藺晨の扇子がその口許につきつけられて、しかたなく黙った。
 藺晨がゆったりと微笑む。
 「まことに返す返すも無念ではあるが、宮羽姑娘。―――乳が出るようになってから、また参るがいい」
 そう言い捨てると、優雅に扇を揺らせながら、藺晨はくるりときびすを返してしまった。
 口惜しげな宮羽を不憫とは思いつつ、長蘇も庭に背中を向けた。

 部屋に戻って、長蘇は尋ねる。
 「宮羽を気に入っていたのでは?」
 幾分、声が尖ってしまうのを自分でも感じる。
 藺晨が苦笑いした。
 「妬いていたのか? 宮羽はほかならぬお前に懸想しているというのに?」
 「わたしはなんとも思っておらぬ」
 長蘇は少し気分を害してそう答えた。宮羽のこととなると、どうも複雑な心持ちになる。
 決して、宮羽を嫌っているわけではなかった。慕ってくれる気持ちをいじらしいと思ってもいる。
 だが、あの頃。
 言い交した霓凰をさえ幸せにしてやれぬ身で、どうして宮羽に思わせぶりな態度をとることなど出来ただろう。宮羽に無駄な望みを抱かせぬことが、自分の与えてやれる唯一の思いやりであったのだ。
 それを分からぬ男でもあるまいと思うのに、昔から藺晨は宮羽のことで茶化してくる。長蘇が困れば困るほど、面白がってからかうのだ。
 ともすれば沈みがちな気分を、引き立ててくれようというのはわかるが、甚だ迷惑であった。
 それとも、言葉通り藺晨自身が宮羽を憎からず思っているのだろうかと、そう疑ってみたりもしたが。
 「それゆえ、追い返してやったではないか」
 藺晨は笑った。 
 「お前に操立てしている限り、宮羽姑娘から乳が出ることは未来永劫ないのだからな」
 「それはそうだが・・・・・・」
 嫁いだこともない女に、人前であの言いようは少々不躾過ぎはすまいか。
 「いま、可哀想だなどと思っただろう? 中途半端な仏心など起こしてはならんぞ」
 「―――わかっている」
 我ながらいやになる。
 宮羽を遠ざけたいと思いながら、つい情けをかけそうになってばかりだ。これでは却って宮羽を傷つけると、長蘇とてわかっている。
 自分はつくづく女の扱いが上手くはないのだと思う。それゆえ、霓凰とも宮羽とも縁がないのか。
 もっとも、いまは藺晨という伴侶を得て、子宝にまで恵まれた。幸せで―――、それゆえ、霓凰にも宮羽にも、どこか後ろめたい気分になるのやもしれぬ。


 少々気持ちが沈みかけたところへ、黎綱の案内でやってきた者がある。
 いまは龍桓と名乗る従兄・蕭景桓であった。
 「桓どの、おいでであったか」
 景桓は笑顔で歩み寄ってきた。
 「かように面白い催しがあると聞いては、これを見物せぬわけにはゆくまい」
 「相変わらず物見高いかただ。そういう所は昔と変わらぬ」
 長蘇は苦笑し、景桓に座を勧めた。
 「あまり人目のある所へはお出でにならぬようにしているのではなかったか?」
 そう尋ねると、座した景桓は笑った。
 「然様、それゆえ、何も賓客として席を用意せよとは言っておらぬ。陰から楽しませてもらうゆえ、気遣いは無用だ」
 磊落な調子でそう言って、黎綱が出した茶を飲む。高貴な身であったときから、見かけの優雅さとは裏腹に、ひどく好奇心の強い、野次馬根性のある男であった。気取っているくせにそういう下世話なところが、昔は嫌いでならなかったが、今はそれも愛嬌があると思えるから不思議だ。
 「なにせ藍瑾めまでが、乳母に上がると言って聞かず、往生したのだ」
と、景桓は苦笑した。
 「ほう。藍瑾どのはまだ乳が?」
 興味津々で藺晨が尋ねる。
 「阿殊がまだ吸いたがるのでな」
 そう言って、景桓はまた笑った。
 「―――藍瑾どのなら申し分ないが」
と、長蘇が言うと、景桓が肩をすくめる。
 「それこそ、我ら夫婦が琅琊閣だの江左盟だのに足しげく出入りすれば、目立ってしょうがないではないか」
 「確かに……」
 仮にも、世を忍ぶ身の景桓である。
 「藍瑾は大層残念がっていたが、やむをえまい。せめて小麟の名付け親として、乳母選びを見届けさせてもらうとしよう」
 なるほど、この従兄が藺麟の名付け親であったと長蘇も思い出す。 
 「隣室へお連れして、酒肴の用意をな」
 苦笑いして、長蘇は黎綱に命じた。 
 

 宮羽といい藍瑾といい、物好きなことよと長蘇は嘆息した。それを見とがめた藺晨が笑う。
 「そういえば、未名からの文では、朱砂も悔しがっていたそうな。数年前ならば、乳が張ってしかたがなかったものを、とな」
 長蘇は呆れて首を振った。
 「なにゆえ皆、そう乳母になりたがるのだ」
 すると、赤子を抱えてやってきた吉嬸が、言った。
 「そりゃァ、琅琊公子榜首位だった宗主のお子に乳をやれるとなれば、世の女どもが色めき立つのも無理はございませんよ」
 吉嬸の言葉に藺晨がにやつく。
 「―――だそうだ。もっとも、人妻となったからには、もう公子榜には載せられぬがな」
 「誰が人妻だ」
 長蘇は眉を顰めたが、藺晨は取り合わない。
 「その通りではないか」
 「……」
 どうも気に食わぬ。皆、この梅長蘇が琅琊閣の嫁であるかのように心得ているらしいと、近ごろになって思うのだ。生涯の伴侶と心に定めはしたものの、男同士であるからには、どちらが夫でどちらが妻とも言えぬはずであるのに、どういうわけか勝手にこちらが妻のように扱われている。甚だ不本意であった。
 それにしても、確かに今日集まった女の数の多いこと。既に、身元の不確かな者は除外されて、残った者が今日集まっている。これから黎綱と甄平、吉嬸による面試があり、それに受かった者が実際に藺麟を抱くことになるのだが。
 吉嬸が、大きなため息をついた。
 「全く、わたしに乳が出れば何の問題もないのですけれどねェ」
 「吉さん、齢を考えよ」
と、藺晨が困惑の表情を浮かべる。確かに子を産む年齢とも思えぬ。
 「おや、わたしだってその気になりゃ……」
 心外だというように、吉嬸が顎を聳やかせた。
 隣室から戻ってきた黎綱が、場を取り繕うように慌てて口を挟む。  
 「大体、吉さんが乳母になったのでは、賄いのほうはどうするのだ」
 それを聞いて、吉嬸が鹿爪らしい顔で大きくうなづいた。
 「それですよ。麟麟さまもお可愛いが、宗主の繊細な胃袋をお預かりする大事なお役目ですからね。吉嬸は厨房から離れられません」
 


   * * *



 乳母選びは粛々と……と言いたいが、藺麟の火のついたような泣き声の中で進められた。
 我こそはと名乗り出てきたのは、子育て経験豊富な百戦錬磨の母親や、まだ若く容貌や健康に自信のある者など様々である。もっとも、琅琊閣まで登ってくるからには、それなりの健脚揃いではある。みな、満を持して藺麟を抱き上げた。
 が、結果はいずれも同じである。惨憺たるものであった。
 藺麟の眼鏡に叶う者は、ひとりとしていない。
 次こそは、と皆が注視する中、やはり藺麟はいやがって泣き叫ぶ。その度に、長蘇は落ち着かなさげに腰を浮かせ掛けた。
 そして、ついに―――。
 「―――もうよい。これでは小麟が可哀想だ」
 席を蹴って立ち上がった長蘇は、乳母候補の一人の手から、泣き叫ぶ我が子を奪い取った。
 「長蘇」
 立ち上がった藺晨を、長蘇はふり返る。
 「こんな小さな身体で一日中泣き通しでは、さぞかし疲れ果ててもいよう。これ以上は酷だ」
 実際、さしもの藺麟も、泣く声がいくらか弱々しくなってきたように思えて、藺晨も胸が痛む。
 「しかし、宗主。なんとかして乳母どのを選ばねば……」
と、黎綱が困った顔をする。
 しかし、長蘇はもはや頑として譲らなかった。
 「親のわたしがいるのだ。多少の無理をしても育て上げる。なにも一生、夜泣きがやまぬわけでもあるまい」
 「それはそうですが……」
 黎綱はおろおろと藺晨を見た。長蘇もまた、藺晨の顔を見る。
 「藺晨。頼む」
 藺晨は苦り切って、長蘇と藺麟を眺めた。いずれも自分にとってはかけがえがない。
 深くため息をついて、藺晨は答えた。
 「しかたがあるまい。別の手だてを考えるとしよう。―――黎綱、乳母選びはここまでだ。残りの者は丁重にお引き取り願え」
 長蘇の身は心配だが、このまま続けることもなるまい。策を講じ直すしかない。


 黎綱が別室に控えさせた女たちを引き取らせるべく、部屋を出て行ったあと、長蘇は泣きやまぬ赤子に手を焼いていた。
 何が気に入らぬのか、藺麟は泣き続けている。いつもなら、長蘇の腕に抱かれればすぐに泣きやむはずであった。
 長蘇が困り切っていると。
 「こらこら、乳母選びは取り止めと申したろう。勝手に入っては……」
 黎綱の声とともに、女が一人、部屋に駆け入ってきた。
 「ならんと言っているのに」
 黎綱の制止など聞く耳も持たぬ様子で、女は無遠慮に駆け寄ってくると、長蘇からさっと藺麟を抱きとった。
 「你っ……」
 女には何の敵意もなかったうえに、あまりに無造作な動きだったせいで、却って長蘇も藺晨も、抗う術を持たなかったのだ。
 馴れた仕種で、女は赤子をあやし始める。
 「こんなに泣いているのに、放っておけるもんですかね」
 可愛くてたまらぬというように、女は藺麟を宥めにかかる。衣の裾から手を入れて見て、首をかしげる。
 「おむつじゃないようだねえ。それにしてもなんてまあ、泣き虫なお子だこと」
 我が子を泣き虫と言われて、藺晨は少々むっとしたが、傍らを見ると長蘇は呆気にとられ、吉嬸は何やら満足げな様子である。
 「あれだけ泣いたんじゃ、お腹もすいたろう。向こうの部屋まで声が聞こえていたよ。よしよし、小母ちゃんのお乳をあげようね」
 女が胸元を寛げようとしたので、長蘇が慌てた。
 「待て、気に入らねば噛みつくやも……」
 しかし、女は動じもせずに笑った。
 「噛みついたら噛みつき返してさしあげますよ」
 言うが早いか、もう大きな乳房を惜しげもなく出している。吉嬸以外の一同は、なんとなく目のやり場に困ってあらぬ方へ顔を向けた。
 「ほぉら、いい子だ、たんとお飲み」
 女が嬉しそうに乳を与え始めたところへ、今度は男がひとり飛び込んできた。
 「ああっ、お前。皆さんの前でそんなあられもない」
 男の方は、しかし一同のそばまで寄るだけの度胸がないのか、部屋に入ってすぐ這いつくばった。
 「お前の女房か」
と、藺晨は尋ねた。
 「えっ、あ……、はい!」
 男が平伏する。
 「童路と仲の良かった男でして」
と黎綱が口を添えた。
 童路と聞いて、長蘇が表情を動かす。
 「お前の女房も、此度の乳母候補か?」
 「もちろん……」
と女は言いかけたが、亭主は慌てて遮った。
 「とんでもございません。こんながさつな女じゃ、とても麟麟さまのお乳母なんぞ務まりゃしません。どうかお見逃しを」
 男は汗だくになっている。江左梅郎をよほど畏怖しているのだろう。震え上がらんばかりに、身を縮めていた。
 「―――それは弱ったな」
と、長蘇が言った。
 「……は?」
 ひれ伏していた男が、顔を上げる。
 長蘇が困ったように微笑んだ。
 「小麟はこのとおり、お前の女房を気に入ったらしい」
 「……はあ?」
 男はようやく自分の女房のほうを見た。
 女房の腕の中で、赤子は懸命に乳を吸っている。さっきまで泣きわめいていたのが嘘のように、なんとも美味そうに乳を飲んでいるのだ。
 赤子に乳を吸われながら、女房もまたうっとりと幸せそうな顔をしている。
 「本当にお可愛らしいねえ。こんなお綺麗なややには、初めてお目にかかったよ。眼福眼福」
 「―――お前、我が子をさしおいて」
 困惑したように亭主が言う。
 「いやだね、この人は。自分がお腹を痛めて産んだ子は誰より可愛いに決まってるさ。けど、麟麟さまを御覧。このお子は特別だよ」
 男もそれには異存がない様子で、相好を崩して藺麟を眺める。
 「けど、お前。お勤めに上がったら、うちの子はどうするんだ」
 男の心配ももっともなことと、藺晨と長蘇は顔を見合わせた。
 「心配要らぬ。お前も、お前の子も、共に邸に住まえばよい」
 藺晨がそう言ってやると、男は心底驚いた様子だった。
 「そっ、それは畏れ多い」
 その朴訥な様子に、長蘇も目を細める。
 「構わぬ。童路の友であれば、わたしも安心だ。夫婦でそば近く仕えよ」
 これまであまり近くで見たこともなかったに違いない江左盟宗主から優しく声をかけられ、男はすっかり舞い上がっている様子だ。微笑した長蘇にしばし見惚れ―――、それから、ようやく我に返った。
 今一度、その場に叩頭する。
 ―――そして、言った。
 「―――ありがたく、拝命いたします……」



   * * *



 「これで一安心だな」
 閨の内で、藺晨は言った。
 久し振りに、ふたりきりの夜である。
 「……」
 口をつぐんでいる長蘇の顔を、藺晨は覗き込む。
 「どうした?」
 長蘇が、胸元に顔を寄せてきた。
 「―――まことは、……わたしの手で、小麟の世話をしたかった」
 小さな声で、長蘇がそう言う。
 藺晨は長蘇の身体を抱きしめた。
 藺晨とて、思いは同じだ。できることなら、自分と長蘇と飛流と藺麟と。四人だけで睦まじく過ごしたい。
 「すればよい。無理さえせねば」
 「……構わぬのか?」
 腕の中で、長蘇が見上げてくる。藺晨は頷いた。
 「当然だ。お前はあの子の親なのだからな。乳母に遠慮することはない」
 はっきりとそう言ってやると、長蘇はひどく嬉しそうな顔をした。
 「―――小麟は幸せだ。お前のような父を持って」
 「麟麟だけか? 幸せなのは」
 意地悪くそう尋ねると、長蘇が顔を赤らめたのが、薄暗い閨の内でも見て取れた。
 「―――言わずとも、わかっているだろう?」
 「はて、わからぬな」
 藺晨がとぼけて見せると、長蘇は少し拗ねたような表情になった。
 細い指が伸びてきて、藺晨の頬をきゅっとつねる。
 「莫迦、痛いだろうが」
 そう抗議したが、まことはさほどに痛くもない。大して力も入っておらぬし、藺晨自身、長蘇のそんな仕種を可愛く思えてしかたないせいだ。
 「わたしも……」
と、長蘇は藺晨の首に両腕を回した。
 「―――わたしも、幸せだ」

 藺晨は、目を閉じた。

 この天と地で。
 誰よりも愛しい者たちが、この自分と共にあることを、幸せだと言ってくれる。
 これほどの賛辞が、ほかにあるだろうか。
 そして、誰よりも、この己こそが、幸せなのだと、藺晨は思う。

 生涯かけて。
 この者たちを愛し、守ろう。

 思いを込めて、藺晨は愛しい者の甘い唇を貪った。





 
 
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