琅琊榜

蝉蜕23 (『琅琊榜』 #54以降)

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こういう話が果たして大丈夫なんだろうか? とちょっと心配で、
とりあえず、22+α ということでアップしましたが
なんとなく大丈夫そうなんで23に訂正しましたwww


 「戻られてから、ずっとあの調子だぞ」
 甄平が眉間にしわを刻んだ。
 長旅から帰ってきて数日がたつが、梅長蘇はいまだに臥室からろくに出ようとしない。 
 「お疲れなのだろうとは思うが……」
 黎綱も気遣わし気に閨の方を振り返る。
 「飛流。旅先で何かあったのではあるまいな」
 甄平に詰め寄られて、飛流は軽く首を傾げた。少し考えてから、口を開く。
 「ん……。噛まれた。蛇に」
 聞くなり、黎綱と甄平は真っ青になった。
 「まっ、まさか毒蛇では?」
 「うん。毒蛇だった。これくらいの。綺麗なの」
 飛流が両手で蛇の寸法を示して見せたが、更に黎綱が問い質そうとするより早く、甄平は長蘇のもとへすっ飛んでいた。


   *


 「宗主! 毒蛇に噛まれたというのはまことで?」
 駆けこんできた甄平に問われて、褥に横たわったまま梅長蘇は少しいやな顔をした。  
 「飛流め、口止めしておいたのに」
 琅琊閣に帰ったらすぐ黎綱たちが旅での出来事をさまざま尋ねてくるだろうが、蛇に噛まれたことは内緒だと、飛流にはそう言い含めていた。飛流はそれをよく守ったが、「琅琊閣へ帰ったらすぐ」ではなくなった今は、飛流にとって既に約束の範疇ではなくなったのだろう。
 「なに、大したことはない」
 火寒の毒で、大抵の毒に耐性ができた身体であることは、甄平もよく知っているはずだ。
 「第一、藺晨が一緒だったのだから、大事に至るはずもない」
 「それはそうですが……、ずっと臥せっておいでゆえ」
 おろおろと言葉を返す甄平に、長蘇はため息をついた。
 「なに、少しばかり旅の疲れが出ただけだ。わたしが臥せっているのがそれほど気に食わぬなら、どれ、そろそろ起きるとしようか」
 長蘇はちょっと不貞腐れて体を起こした。着替えを頼む、と言うと、甄平が慌てる。
 「いけません、まだお顔の色が……」
 「ならばどうせよと? 寝ても起きても心配されたのでは、わたしとて身の置き所もない」
 無論、わかっている。甄平は心底案じてくれているのだ。これまでにもどれほど心配をかけてきたか、知らぬ長蘇ではない。
 とはいえ。
 申し訳ないが、少々鬱陶しくもある。
 このところ、なんでもないことで気がふさいだり、腹が立ったりする。長蘇は自分で自分を持て余し気味なのだ。
 旅の間は大抵そばにいた藺晨も、琅琊山へ帰ってくれば当然ながら所用に追われる。気楽なお調子者に見えても、何事も急所はきちんと押さえる男であるから、見た目ほど仕事をおろそかにしているわけではない。そうであればこそ、大勢の配下を従えられるというものだ。
 それは重々承知しているが。
 (今少し、構ってくれてもよさそうなものだ)
 およそ自分らしくもない、そんな女々しい愚痴を吐きそうになって、長蘇は顔をしかめた。



   * * *
 


 「また山査子を?」
 牀台に腰かけた長蘇が、旨そうに山査子の実を口に運ぶのを眺めながら、藺晨は眉を顰めた。
 もとより食は細い。それでも近ごろは、好きなものなら胃の腑も受け付けてくれるようになったらしい。それは喜ばしいが、ここ数日、梅長蘇がせっせと食べているものといえば、いつ見ても山査子の実である。
 「吉さんが砂糖水に漬けてくれてあったのが、丁度よい甘酸っぱさになっているのだ」
 そう言って、長蘇は飛流の口の前へ山査子の実を差し出してやったが、
 「不要! 酸っぱいよ!」
と飛流は口を曲げて顔をそむけた。
 「それが美味いのではないか」
 長蘇はそう言って、飛流の拒んだものを自分の口に入れた。
 「よくそんな酸っぱいものばかり食べておれるな。一日ごろごろして、ろくに飯は食わぬくせに。お前が病ではないかといって、黎綱たちが気を揉んでいたぞ」
 あきれてそう言うと、長蘇はあからさまに不機嫌な顔をした。
 「ゆっくり身体を休めろと言ったのは、お前ではないか」
 藺晨は少し鼻白む。
 確かに言った。旅から戻って、藺晨は長蘇にそう言ったのだ。
 以来、驚くほど素直に長蘇はそれを守った。かつての長蘇では考えられぬほどの従順さである。ほんとうに長旅の疲れがたまっていたのは言うまでもなかろうが、以前ならば大人しく休んでいる男ではなかった。
 かといって、それほど具合が悪いとも見えぬ。つまりは、体調が悪いから大人しくしているのではなく、藺晨にそう言われたから長蘇は素直に従っているのだ。
 「どれ、手を出せ。脈を診る」
 少しばかり膨れながらも、長蘇は手を差し出した。相変わらず細い手だ。藺晨は、長蘇の指先についた砂糖水を綺麗に拭ってやってから、脈をとった。
 そして、俄かに眉を寄せる。
 長蘇がますます不機嫌な顔つきになった。
 「なにか問題でも?」
 「いや……」
 梅長蘇の体調は安定している。しかし―――。

 朱砂の一件以来、長蘇は少し変わったようだ。
 ただ従順になった、というのも少し違う。いっとき影を潜めていた皮肉や我が儘もすっかり以前の通りに戻ったが、それでいてどこか違っている。
 褥の中では、前よりずっとしおらしく甘えてくるようになった。朝、寝床から出ようとする藺晨を、名残惜しげに見る眼差しのいじらしさといったらないのだ。
 女の、媚を含んだそれとは違う。この男が、江湖の荒くれ者どもを掌のうえで転がすさまも、戦場で勇猛な兵たちに号令する姿も、藺晨はよくよく知っている。武功はなくとも、江左梅郎は押しも押されもせぬ江湖の主なのだ。その梅長蘇が、今や思いの全てを自分に向けてくれていることは、藺晨にもしかと伝わってくる。
 愛しい。
 これほどの男に慕われて、男冥利に尽きると思う。
 かつては、手に入らぬと思っていた相手である。それが今は。
 「長蘇」
 藺晨は長蘇を抱き寄せた。
 愛しくて、そしていじらしい。
 なるだけ、そばにいてやりたい。
 長蘇はまだ少し膨れているが、抱きしめられて明らかに機嫌を直している。こうして半日、自分の帰りを待っていたのだと思うと、藺晨もまた無性に嬉しくなる。
 「言いつけを守って大人しくしていたゆえ、明日は一日つきあってやる」
 耳元でそう囁いてやると、長蘇はぱっと顔を輝かせた。
 「まことか?」
 誉められるのを待っていた犬のようで、藺晨は思わず吹き出したくなったが、笑われればまた機嫌を損ねるのはわかっている。ぐっと堪えて、藺晨はうなづいた。
 長蘇の喜ぶ顔が、藺晨にとっても何よりうれしいのだ。
 


   * * *
 


 (謝綺?)
 そう、思った。
 一瞬、ほんとうにその女は、あの不幸な従妹そっくりに見えたのだ。
 朝早くに琅琊山を下りて、藺晨とふたり、今日は一日遊んですごした。縁日を冷やかし、飛流への土産を物色し、妓楼で寛ぎ、藺晨が一緒だと安心して、久し振りに少しばかり酒も口にした。いい気持ちで妓楼を出て、馬車へ戻る途中で、路地からよろよろと出てきたその女が眼に入ったのだ。
 よく見れば、謝綺とはまるで似ても似つかぬ、貧しい身なりのみすぼらしい女であった。患っているのか、ひどく痩せている。痩せ細った身体の、腹だけが異様に大きく突き出ていた。病みさらばえた身でも、腹の子の命だけは育んでいるのだと思うと哀れで、長蘇は目を背けた。
 その刹那、ざわ、とどよめきが起こった。
 はっとして視線を戻す。
 女が、うずくまっていた。
 考えるよりも先に、身体が動いていた。
 人波の中、足を縺れさせながら、長蘇は女に駆け寄った。膝をつき、女を抱え起こす。
 「藺晨、手伝え。馬車へ運ぶ」
 「手伝えだと? 運ぶのはどうせわたしだろうが。お前など手伝いにすらならん」
 人垣をかき分けて顔をのぞかせた藺晨が、扇をひらひらさせながら、辟易したように言う。そんな皮肉につきあっている余裕はなかった。
 「いいから運んでくれ」
 謝綺―――!
と、長蘇はまた従妹を思った。
 助けてやれなかった。
 自分が死なせた。
 生まれ来る我が子を遺して逝かねばならなかった従妹は、どれほど無念であったろう。
 「助けてやってくれ。藺晨、頼む」
 藺晨を見上げ、懇願していた。
 藺晨はようやく扇子を閉じた。


   *


 「行き倒れだそうだな」
 琅琊閣では、藺晨と長蘇が拾ってきた女に、みな興味津々だった。
 「気の毒に。身ごもっているそうだが虫の息だというではないか」
 「運ばれるときにちらっと見たが、あれはまず助かるまいな」
 みな口々に言い交し、溜息をつきあっている。


 「無理だな」
と、藺晨は言った。
 「なんとかならぬのか」
 噛みつくように、長蘇がそう訴えてくる。藺晨は両手を広げて首を振った。
 「見ろ。もう死相が現れている。とても助からん」
 そう告げたが、長蘇は納得しない。
 「この女がわたしでも、そう言えるのか!」
 長蘇の言葉に、さすがの藺晨も困惑する。苦笑を漏らしながら、藺晨は答えた。
 「……お前ならば話は別だ。わたしの命に変えても助ける算段をするだろうな」
 「ならば……」
 言い募ろうとして、長蘇は口ごもった。自分が無茶を言っていることに気づいたのだろう。
 「この女のためにわたしの命を差し出せと? お前がそれを望むなら、そうしてやってもよい」
 「それは……」
 長蘇が瞳を潤ませる。  
 「わたしは神ではないのだぞ」
 静かに、教え諭すように、藺晨は言った。相手が長蘇であればこそ、無理を承知で尽きるはずの命を繋ぎ止めもした。藺晨とて、己の命を削ってようよう長蘇を守ってきたのだ。誰にでも施すことのできるわざではない。
 長蘇は目を泳がせた。その手が、藺晨の胸にすがる。 
 「ならば―――」
 弱々しい声で、長蘇は言った。その眼が、再び藺晨に向けられる。
 「ならばせめて、腹の子だけでも助からぬのか。見たところ産み月なのでは……」
 「確かに臨月のようだな。だが、腹を裂いて取り出しても、果たして生きられるかどうか」
 母体が弱りすぎている。腹の子も推して然るべしであった。
 それでも、長蘇は食い下がる。
 「一分の望みでもあるのなら……」
 この目に、弱い。
 滾るような熱を帯びたこの瞳で、上目遣いに見つめられたら、もはや否とは言えぬのだ。これまでもずっとそうだった。
 藺晨は溜息をついた。
 「わかった。それほどまでに言うならば、やってみよう」
 そう言った途端、長蘇の顔に安堵の色が広がる。
 「黎綱。長蘇を連れていけ。ここで倒れられては、わたしの身体がいくつあっても足りぬ」
 苦笑いして、長蘇を黎綱のほうへ押しやった。
 駄目で元々である。長蘇の気がすむならば、最善を尽くしてみるだけだ、と藺晨は腹をくくった。



   * * *



 「ずいぶん小さいな。産声もひどく弱かったが」
 不安そうに、長蘇が籠の中の赤子を覗き込む。
 「ああ。母親が患っていたゆえな。充分に育っておらん。取り上げはしたものの、朝までもつまい」
 藺晨はちら、とそばの牀台を振り返った。白布に覆われた、母親の遺骸がそこにある。長蘇が女を、自分の従妹と重ねていたことはわかっていた。それゆえ、無理と知りながら、長蘇の願いにつきあってやったのだ。
 長蘇は悄然と赤子のそばに膝まづいて寄り添っていたが、不意に小さく声を上げた。
 「見よ、わたしの指を握り返したぞ」
 嬉しそうに、藺晨を振り仰ぐ。
 「懸命に、生きようとしているのだ」
 長蘇はそう言ったが。
 「あきらめろ。あまり思いをかけすぎると、あとが辛いぞ」
 小腰を屈めて、藺晨は長蘇の肩を抱き、立ち上がらせようとした。しかし、長蘇はかぶりを振る。
 「今宵はそばにいてやりたい」
 藺晨は眉を寄せた。
 「お前まで倒れる」
 恐らく、今夜のうちに赤子は息絶えよう。死にゆく小さな命を、長蘇に見せたくはなかった。
 だが。
 「―――頼む。今宵は、赤子とふたりで過ごしたい」
 また、あの眼でそう懇願された。赤子を看取ってやりたいと、長蘇はそう覚悟を決めたのだろう。
 「……好きにしろ」
 そう言うしか、なかったのだ。


   *


 夜半過ぎのことである。
 赤子の泣き声が、夜空を裂いて琅琊山に響き渡った。
 黎綱と甄平も、飛び起きて廊下へ走り出た。
 「赤子が?」
 「まさか。あの弱りきった赤子に、あんな声が出せるはずが……」
 産声すら、蚊の鳴くような弱々しさであったのだ。
 ふたりは、赤子と梅長蘇のいる部屋へ飛び込んだ。
 「―――宗主!」
 赤子を入れた籐籠のそばに、梅長蘇は倒れ伏していた。
 「宗主、いかがなさいました? しっかりしてください」
 甄平が抱き起すと、長蘇はうっすら目を開けた。
 「赤子は……?」
 長蘇の声に、黎綱が慌てて籠の中を覗き込む。そして、
 「えっ」
と声を上げた。
 黎綱は、目を疑った。
 何刻か前に見たときは、もう間違いなく命の火が消えると思われた赤子である。それが、どうだ。今は、ふっくりした頬を薔薇色に輝かせて、にこにこ笑っているのだ。
 黎綱は赤子を抱き上げた。
 「宗主。赤子はこの通り元気です」
 甄平に抱き起された長蘇に、赤子を見せる。
 「この分ならば、無事に育つやもしれません」
 黎綱がそう言うと、長蘇は仄かにほほ笑み、再び気を失った。
 「宗主!」
 ふたりがそう叫んだとき、足音がふたつ、駆けてきた。
 「長蘇!」
 「蘇哥哥!」
 藺晨と飛流が、駆け込んでくる。赤子を取り上げたこの部屋は、藺晨らの臥室からは離れていたが、さすがにふたりとも、長蘇の身を案じて眠らずにいたのだろう。
 「閣主」
 袖を翻して、藺晨は黎綱らのもとへ歩み寄った。
 「どうしたのだ。何があった?」
 「それが……」
 黎綱が赤子を藺晨に見せた。
 「―――!」
 赤子の顔を一目見て、藺晨は目を瞠った―――。



   * * * 



 「そもそもだ。この世は、陰と陽によって成っている」
 いつになく勿体ぶった調子で、藺晨がそう言った。
 黎綱と甄平は、神妙にそれを聞いている。
 「地あれば天あり。月あれば日あり。女あれば男あり、土あれば水、柔あれば剛、冷あれば熱というようにだ。―――わかるな?」
 藺晨が言葉を切り、ふたりの顔を覗き込んだ。
 「―――はあ」
 そこまではわかる。わかるが、その先、藺晨は何を言いたいのか。黎綱は慎重に藺晨の表情を窺った。
 藺晨がため息をつく。軽く首を振って、藺晨は先を続けた。
 「知っての通り、長蘇の身体はかつて、その身を焼き尽くさんとする焔の熱から、雪蚧虫の吐く寒の気によって守られた。だがその結果、火寒の毒に侵され、それを取り去ったのちも、重い寒症に悩まされている。―――かつての林殊を熱とし、陽とするならば、今の長蘇は冷であり、陰だ」
 藺晨は軽くこめかみの辺りを掻いた。
 「つまり……だ」
 そう言ったものの、あとが続かない。
 「閣主?」
 黎綱と甄平は困惑した。
 藺晨が、こんなもって回った言い方をするとは。
 「その……、宗主の今度の病は、それほど厄介なものなので?」
 赤子は命を取り留めたものの、長蘇はあれきり眠ったままだ。もともと、旅から帰って以来、様子がおかしかった。やはり新たな病にとりつかれたのではないかと、黎綱らは気が気でないのだ。
 ふたりが膝を進めてそう尋ねると、藺晨は少し目を逸らせた。
 「いや……。要するに……」 
 『つまり』だの『要するに』だのと言いながら、少しも話の要点がはっきりしない。そして藺晨は、逆にこう問いかけてきた。
 「……内力が失われ、しかも陰の気に属する長蘇の身体に、わたしが陽の気を注ぎ続ければどうなるか」
 黎綱と甄平は顔を見合わせる。
 「―――どうなるので?」
 ふたりがそう訊き返すと、藺晨は乱暴な仕草で前髪に指を突っ込んで掻きむしった。
 「ええい、いい加減に察せぬか。女と男、妻と夫もすなわち陰と陽、その交わりによって出づるものは?」
 「……なんです?」
 黎綱と甄平の脳裏には、既に朧げながらひとつの答えが浮かび始めていたが、それを口に出すのはなんとなく憚られた。
 藺晨は片手で顔を覆って、天井を仰いだ。
 「―――わたしの口から言わせるな」
 藺晨の深く長い嘆息に、ふたりはおそるおそる口を開いた。
 「……まさか」
 「その、まさかだ」
 やれやれというように、藺晨は今一度深々とため息を吐いた。
 答えに辿り着きはしたものの、黎綱は改めてぶるぶるとかぶりを振った。
 「ありえません。宗主は男です」
 「わかっているとも。わたしとて信じがたい。信じがたいが……」
 藺晨はいったん言葉を切ったが、ついにその先を続けた。
 「長蘇の身体の中に命の種が宿っていたのは、間違いがない事実なのだ」
 顎が外れるほど、ぽかんと口を開けていた甄平が、ようやく我に返ったように瞬きし、これもまた首を振った。
 「いくら宗主でも、身籠れるわけがありません」
 藺晨は苦笑した。
 「そうだな。身ごもれるわけがない。種は種のまま、放っておけばやがて霧散するはずのものだったろう。そうとわかっていたゆえ、お前たちにも言わずにいた。長蘇自身にもだ」
 藺晨はすこし肩を落とした。

 蕭景琰にも、景桓にも、そして朱砂にも、皆、愛しい我が子がいる。長蘇は心の隅で、それをうらやましく思っていたのではないか。
 妻となるはずだった霓凰にも、子を残して来てはやれなかった。そして今、長蘇が愛してくれているのは、男であるこの自分だ。
 長蘇が特に子供好きだとは聞かぬが、景桓や朱砂の子に向けた態度を見るに、存外子煩悩な親になるはずの男だったに違いない。飛流のこととて、随分可愛がって育て上げた。
 この幾月かで、長蘇と自分の仲はさらに深まった。長蘇が自分に向けてくれる想いが日々増してゆくのを、藺晨とて知っている。当たり前の男と女であれば、とうに子が出来ても不思議ではなかったが、生憎の男同士である。本来、陽と陽からでは何も生まれるはずがない。
 ところが、である。幸か不幸か、長蘇は正真正銘の男でありながら、陰の気を持つに至った身だ。そこへ自分が陽の気を注ぎ続けた。そうして、長蘇の深い情が、命の種を育ててしまったのだ。
 とはいえ、女ならぬ身の長蘇には、その種に器を与えてやることはできぬ。肉を備えた人の子として産み出してやるすべはないのだ。命の種は、やがて長蘇自身も知らぬままに、果敢なく散って天河へと昇るさだめであった。そうと知るがゆえに、藺晨はなおさら長蘇をいじらしく思った。
 「だが、長蘇はあの赤子と出会ってしまったのだ。あの赤子は、息絶えるのを待つばかりだった。いっときの長蘇自身と同じようにな」
 既に命は尽きかけて、生まれたばかりの小さな身体は、もはや脱け殻同然であったのだ。
 そこへ、長蘇の中に宿った命の種が、注ぎ込まれたとしたら―――。

 「一目見てわかった。あれは、わたしと長蘇の子だとな。母親の腹から取り上げた時とは、まるで違う」
 藺晨はそう言って微笑んだ。
 黎綱が、ほうっと息を吐いた。
 「わたしも、宗主のもとへ駆けつけて赤子の顔を見たとき驚きました。宗主にあまりにも似ておいでで」
 赤子は林殊ではなく、梅長蘇によく似ていた。
 「口許はわたしだぞ?」
 藺晨はにやりと笑う。
 「言われてみれば……」
と、黎綱も苦笑いした。
 はあっ、と甄平も深く息を吐きだす。
 「あんな美しい赤子を見たのは初めてです」
 そうして、力なく笑った。



   * * *



 「―――藺晨」
 長蘇が重そうに瞼を開いた。
 その手をとり、藺晨は微笑みかける。
 「気分はどうだ」
 甘い気分でそう尋ねたのに、長蘇は子供じみた表情で顔をしかめた。
 「……最悪だ。目を開けると天井がぐるぐる回る」
 色気のない口調で、そんなことを言う。
 「しょうのないやつだ。―――これを飲め。少し落ち着く」
 藺晨は苦笑して、長蘇の身体を起こしてやり、薬を飲ませた。少し気を注いでやると、ようやく長蘇はほっと息をついた。
 「……赤子は?」
 幾分不安そうに、長蘇がそう尋ねる。
 「ああ。もう心配はない。さっき吉さんが貰い乳をしに行ってくれた。近くに乳の出のよい母親がいるらしい」
 なんとかなる、と請け合うと、長蘇は安心したように目を伏せた。
 「閣主」
 黎綱が、赤子を抱いて入ってくる。
 「ああ、ご苦労だったな」
 赤子を藺晨に渡して、黎綱は部屋を出て行った。
 藺晨は、長蘇の腕に赤子を抱かせてやる。
 「……」
 長蘇はしげしげと、赤子の顔を見ていた。
 「藺晨。この赤子は……」
 困惑したように、長蘇は藺晨を見上げる。
 「この子からは、お前の気を感じる」
 長蘇はそう言って、赤子と藺晨の顔をかわるがわるに見た。
 「わたしは赤子に気を注いだりはしておらんぞ」
 少し可笑しくなって、藺晨は笑いながら牀台の端に腰かける。
 長蘇はしばらく黙って赤子を眺めていたが、おずおずと口を開いた。  
 「―――あのとき。……赤子がいよいよ息絶えようという時に、私の身体から迸り出た光は……」
 長蘇は、不安げな顔つきになった。自分でも、まだ信じられぬといった様子だ。
 だが、賢い長蘇のことだ。すでに全てを合点していることだろう。
 藺晨は、赤子ごと長蘇を袖の内に抱き寄せた。
 「……今日から、この赤子は琅琊閣の娘だ。よいな?」
 腕の中で、長蘇が身じろいだ。
 「……まことに?」
 「まことだとも」
 長蘇はまだ、腑に落ちかねる面持ちだったが。
 「―――琅琊閣の、娘」
 そう口に出してみて、長蘇はようやく少し微笑んだ。

 「きっと賢い娘に育つ」
 藺晨がそう言うと、長蘇は笑った。
 「……丈夫に育てば、それで充分だ」
 「飛流めが、さぞかし大事にするだろう」
 腹いっぱいに乳を飲んですやすやと眠る赤子に、ふたり目を細めずにはいられない。

 「長蘇……」
 長蘇の顎を指でとらえ、軽く上を向かせる。見上げてくる目は、相変わらず美しい。
 その瞼へ、口づけを落とす。目を閉じた長蘇の唇を、素早く奪った。

 もうなにも、恐れるものはない。
 ふたりの想いは交わり、結び合って、ここにひとつの命を得たのだ。
 もはや何ものも、ふたりを分かつことは出来ぬ。

 赤子の小さな寝息に、ふたりは息をひそめて耳を傾けていた―――。
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