琅琊榜

蝉蜕21 (『琅琊榜』 #54以降)

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だいぶラストが近づいてきました。
自分のメンタルも浮上してきたんで、こちらもますます明るい兆しが?


 「長蘇!どうした」
 藺晨は、部屋に飛び込んだ。
 飛流は早く早くと言い立てるばかりで、話がまるで要領を得なかったのである。
 朱砂が、青ざめた顔で振り返った。
 「阿傻が毒蛇に」
 「なんだと」
 長椅子に寝かされた阿傻のもとへ、藺晨は駆け寄った。
 自分の子だと、聞かされたばかりだ。ぴんとは来ないが、血を分けた子だと思えば何としても助けたい。
 が。
 「安心しろ。毒はほとんど吸いだした」
 傍らで飛流に支えられて身を丸めていた長蘇が、少し微笑してそう言った。
 「吸いだした? お前が?」
 ぎょっとして、藺晨は長蘇の顔を見る。その唇が、阿傻の血に汚れていた。
 「早く、診てやってくれ」
 長蘇がそう促す。
 「言われなくとも診るが、―――おい!」
 ふっと気を失いかける長蘇の肩を、藺晨は慌ててつかんだ。
 「宗主を先に診てやって。さっきから様子がおかしいんだ」
 朱砂がそう言って、藺晨の腕にすがってきたが。
 「お前は黙っていろ」
 藺晨は朱砂の手を払うと、飛流を見た。
 「飛流、長蘇を頼むぞ」
 「うん」
 飛流が長蘇を抱えて、牀台へ運ぶ。
 朱砂に言われるまでもない。長蘇は確かに毒にやられたようだ。先刻切った唇の端から、毒が入ったのだろう。
 藺晨はようやく、朱砂に視線を戻した。
 「朱砂。お前、紫金錠を持っているか」
 「えっ、ああ。ここに」
 朱砂は慌てて、懐から巾着袋を取り出した。
 「それを飲ませてやってくれ。阿傻の手当てが済んだら、すぐ長蘇を見る。それまでもたせろ」
 朱砂が袋から薬をとり出すのを目の端で確かめながら、藺晨は阿傻の傷を検める。
 阿傻のほうは、長蘇が毒をあらかた吸ったおかげで、藺晨が内功によってたやすく浄化できる程度だ。阿傻の傷口にしばらく手をかざしていると、腫れも赤みもおさまってきた。
 「‥‥‥大丈夫だ。心配は要らん」
 長蘇に付き添う朱砂を振り返ってそう言ってやると、朱砂はほっとした顔をし、それからまた泣き出しそうに眉を寄せた。
 「早く宗主を‥‥‥」
 「わかっている」
 牀台に横たわる長蘇のもとへ、藺晨は歩み寄った。
 


   * * *



 目覚めると、部屋の中は暗かった。
 「‥‥‥藺晨?」
 そっとそう呼んでみたが、返事はない。
 ただ、敷布の上をまさぐると、そこにはまだ温みがあった。
 つい今しがたまで、ここで添い臥してくれていたのだと知る。
 それでもまだ、避けられているのだろうと悲しくなる。以前の藺晨ならば、目覚めるまで必ずそばにいてくれたはずだ。
 胸が。
 両脇からぎゅっと押し潰されるように痛んだ。
 涙が出そうに痛むのに、声も出ない。
 この温もりが、消えてなくなってしまうことが惜しい。
 敷布をつかんで、その仄かな温もりに長蘇は顔を伏せた。

 胸の奥が、疼くのだ。
 以前折れた肋は、とうにつながったというのに。
 なにゆえ、こうも痛むのか。

 「‥‥‥蘇哥哥」
 牀台の下で丸くなっていたらしい飛流が、目を擦りながらむくりと起き上がる。可哀想に、飛流もこのところあまり眠っていなかったのだろう。
 毒のせいか、まだ少し目がかすんで、飛流の顔がよく見えなかった。
 「飛流」
 勤めて穏やかに、声をかけてやる。
 「少しだけ、手を握っていてくれないか」
 「うん」
 牀台のはじに顎を乗せて、飛流は長蘇の手を握る。かつて小さかった手も、今は長蘇のそれをすっぽり覆うほど大きくな男らしくなっている。
 長蘇は微笑んで見せた。
 微笑むくらい、簡単だ。
 一番、楽しかったことを思い出せばいい。 
 「―――鳳栖溝、楽しかったな」
 長蘇がそう言うと、飛流の顔がぱっと明るくなった。はっきりとは見えなくとも、飛流の表情なら手に取るようにわかる。
 「うん。猿がいっぱいいた」
 飛流の笑顔が嬉しくて、長蘇も目を細めた。
 「また、行きたいな。飛流と、蘇哥哥と‥‥‥」
 そこまで言いかけて言葉に詰まった長蘇のあとを、飛流が屈託なく続ける。
 「藺晨哥哥と?」
 「―――!」
 うまく、微笑えなかった。
 長蘇は飛流の手に、自分の額を押しつけた。
 胸をえぐられるような哀しみに、ただ耐えるしかない。
 
 「蘇哥哥」
と、飛流が低く言った。
 「蘇哥哥。―――可以」
 「・・・・・・え?」
 長蘇は目を上げる。
 飛流は少し視線を泳がせながら何か懸命に考え、それからまっすぐ長蘇の顔を見た。
 「可以。‥‥‥蘇哥哥。泣いていいから」
 「飛流」
 飛流は、真剣な顔で見つめてくれている。

 飛流の前で、―――泣かぬと決めたのに。

 駄目だ。
 もう、我慢がきかぬ。
 
 睫毛でかろうじて塞き止めていた涙が、ついにぽろりと転がり落ちた。
 あとは、もう。
 泣けて、泣けて、どうしようもなかった。
 涙が枯れ果てるほど、泣いた。
 飛流もつられて、ぼろぼろ泣いた。

 『素直におなり』
 婆婆はそう言っていたではないか。

 けれど。
 自分が素直になれば、誰かが無理をする。
 自分が素直であることで、居心地の悪い思いをする者があるのなら、いっそ自分が堪えるほうがましだと、そう思っていた。
 だが、やはり違う。
 自分を偽り、封じ込めるのは、こんなにも辛く苦しい。
 藺晨への思いを閉じ込め、ただにこにこ笑って嘘の自分を演じ続けることなど、もうできはしない。

 「蘇哥哥」
 体を起こそうとする長蘇を、飛流が困って抑えようとする。
 「起こしてくれ、頼むから」
 そう言うと、飛流は首をかしげて考え、しかたなく手を貸してくれる。
 「どこへ行くの」
 怪訝そうに尋ねる飛流に、長蘇は淡く微笑んだ。  
 「―――蘇哥哥はやっぱり、藺晨哥哥の近くにいたいから‥‥‥」
 長蘇がそう言うと、飛流も微笑んだ。
 「うん。飛流が連れて行く」
 「―――優しい子だな、飛流」
 飛流の涙をぬぐってやる。
 飛流も、長蘇の涙をぬぐってくれた。



   * * *


 夜明け前。
 自分の部屋を一歩出ようとして、藺晨は目を丸くした。
 「―――長蘇」
 扉の前で、長蘇と飛流がうずくまって眠っている。
 「おい。こんなところで何をしている」
 両手がふさがっていたので、足先で飛流の肩のあたりを小突いた。
 う、ん‥‥‥と寝ぼけ眼で飛流が頭をもたげた。こんなふうに眠っていても、敵意のある気配を感じれば忽ち長蘇を守る忠実な番犬である。
 「莫迦者。病人をこんなところに連れてきてどうするのだ」
 「ん‥‥‥。だって」
 まだ眠そうに目をこすりながら、飛流は藺晨を見上げる。
 「―――蘇哥哥が、泣くから‥‥‥」
 半分寝ぼけたような飛流の言葉に、藺晨ははっとした。
 「藺晨哥哥に会いたくて、蘇哥哥が泣くから‥‥‥」
 「飛流‥‥‥」
 飛流はようやくすっきり目が覚めた様子で、藺晨を見た。
 「可哀想だよ」
 藺晨は苦笑して、その場にしゃがみこんだ。
 「‥‥‥そうか。そんなに可哀想だったか」
 泣く子も黙る、江左盟宗主を。
 こんなにも素直に、「可哀想」と言える人間は、そうはいないだろう。
 「これを持っていろ」
 手にしたものを、飛流に渡すと、藺晨は長蘇を抱き上げた。
 大事な『蘇哥哥』を、毛毯で幾重にもくるんであるのが、妙に微笑ましい。
 長蘇を牀台に寝かせて振り返ると、飛流はまだ戸口に立っていた。
 飛流に預けていたものを受け取って、卓に置く。
 「入らないのか」
 飛流はちょっとうつむいて首を横に傾けた。
 「―――部屋に、戻る」
 藺晨はすこし目を瞠った。
 「なんだ。気をきかせてくれるのか」
 そんな芸当が出来るようになったとは、と飛流の成長に驚いた。
 飛流はちっょとうなづいてから、それでも少し不安そうに牀台のほうを見る。
 藺晨は笑った。
 「大丈夫だ。任せておけ」
 俄かに、飛流の顔が明るく綻ぶ。
 信用してくれているのだと、心が暖かくなった。
 「飛流はよい子だな」
 「うん」
 ぐりぐりと頭を撫でてやると、飛流は嬉しそうに目を細めた。



   * 


 こんなふうに、自分の腕の中で目を覚ます長蘇を見るのは、何日ぶりだろう。
 長蘇は少しばかり虚ろな目を眇めて、藺晨の頬を細い指先で撫でる。
 視界が霞んで、あまりよく見えていないのだろうと思うと、痛ましかった。
 「藺晨‥‥‥」 
 弱々しい声が、血の気のない唇から漏れた。
 「ほんとうに、‥‥‥藺晨なのか」
 甘くかすれた声で、長蘇はそう言った。
 「私以外の、誰に抱かれているつもりだ?」
 ほんの軽口のつもりでそう言ったが。

 長蘇の顔色が、変わった。
 突然の、激しい咳。

 「おい。長蘇」

 不自然なまでに荒い呼吸に、長蘇の薄い背が激しく波打つ。喉はひゅうひゅうと鳴り続け、骨ばった指が白く鍵のように曲がって藺晨の胸にすがる。
 「長蘇。しっかりしろ」
 藺晨は、自分の軽率な言葉に臍を噛む思いだった。
 任せておけと飛流に請け合っておきながら、この始末だ。自分が情けなくなる。

 かつて、夏江に身を穢された長蘇は、声を失うほど深く傷ついた。
 慶林とのことも、本当はひどい痛手であったに違いない。自分で身を守ることのできぬ己を、長蘇はどれほど責めただろう。
 それなのに。

 藺晨は、喘ぐ長蘇に口づけた。
 呼吸をしたがって踠く長蘇の口を、しばし塞ぐ。そうしてわずかに顔を離すと、長蘇はまた咳き込み、打ち上げられた魚のように喘いだ。
 「少しずつだ。少しずつ、息をするのだ」
 また唇をふさぎ、そして離す。ゆっくりと繰り返すうちに、ようやく長蘇の呼吸が落ち着いてきた。
 「ああ、上手い上手い。もう大丈夫だ。楽にしていればいい」
 背中を擦って、身体の強張りを解いてやる。

 長蘇はぐったりと、疲れ果てて四肢を投げ出している。
 痩せて尖った肩は、まだ少しばかり上下していた。
 「どこか苦しいか?」
 藺晨がそう問うと、長蘇は重そうに瞼を上げてこちらを見、ためらいがちにうなづいた。
 「どこだ? どこが苦しい?」
 汗で額に張り付いた髪を指でかき分けてやると、幼な子のように心許なげな眼で、長蘇は見上げてきた。
 「―――胸、が」
 か弱い声で、そう言う。
 「胸? 心の臓か?」
 慌てて肋の浮いた薄い胸へ手をあてがう。
 長蘇はのろのろのと、かぶりを振った。
 「‥‥‥もっと、奥」
 「長蘇」

 心臓よりも、もっと奥。
 心が。
 心が痛いのだと、長蘇はそう訴えているのだ。
 
 日頃の長蘇ならば、そんな弱音は吐くまいとする。
 今はまだ、ぼんやりしているのだろう。
 長蘇は頬を摺り寄せ、甘えるような仕種をした。
 
 いじらしく。
 痛ましく。
 そして、愛しい。
 
 「―――毎日」
と、長蘇が言った。
 「ん?」
 すぐには、次の言葉が出てきそうにない。
 まだ、行きがつらいのだろう、と藺晨は促さずに待っていた。
 随分して、窓の外が薄明るくなる頃に、ようやく長蘇は再び口を開いた。
 「‥‥‥毎日、目覚める度に、探してしまう‥‥‥」
 長蘇はそこまで行って、少し息をつぐ。そして、続けた。
 「朝、目が覚めて、―――真っ先に隣を確かめるのだ」
と。
 「朝だけではない。夜中に幾度も目が覚めて、その度にまさぐってしまう。おらぬと、わかっていながら―――」
 「‥‥‥長蘇」
 長蘇の手が、また藺晨の頬を撫でた。
 見えているのかいないのか、揺らぎながら見つめてくる美しい双眸に、忽ち涙が盛り上がった。
 「―――いやだ」
と、長蘇は子供が駄々をこねるように言う。
 「置いていかないでくれ。‥‥‥朱砂と夫婦になってくれてもいい。阿傻と暮らしても構わぬ。ただ、わたしと飛流のことも、少しだけ思い出してくれ、一日の内の、ほんのしばらくでいいから。心の隅に、いさせてくれ―――」
 そう掻き口説く長蘇の白い顔を、藺晨は驚いて見守っていた。

 長蘇は、強い。
 男として、人として、強い。
 それを、藺晨は知っている。
 その長蘇が、身も世もなく泣いてすがる。
 誇りをかなぐり捨てて、哀願する。

 愛しい者に、ここまで言わせて。

 男冥利に尽きるではないか―――。

 藺晨はそう思い、長蘇の細い身体を抱きしめた。



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