琅琊榜

蝉蜕20 (『琅琊榜』 #54以降)

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20です。

 話がある、と未名が言った。
 「なんだ? ここでは出来ん話なのか」
 少し苛立って、藺晨は尋ねた。
 「宗主を少し休ませてやらねば」
 慶林が長蘇を抱え起こして、牀台に座らせながらそう言う。それも腹が立った。長蘇を支えるのは、自分の役目だ。友の愛する者を寝とっておいて、よくもぬけぬけと。
 長蘇も長蘇だ。自分を辱めた男の腕に、恥ずかしげもなくすがるとは。
 その長蘇が弱々しく咳をして、初めて藺晨は我に返った。
 長蘇は牀台に腰かけたまま、隣に座った飛流に身体を預けている。ひとりでは、体をまっすぐ保っているのもつらいのだろう。好き好んで慶林の腕にすがったのではないことは、一目瞭然だった。立ち上がるのに慶林の腕がそこに差し伸べられたから、すがったまでにすぎぬ。常の自分なら、慶林に後れを取ることなどなかった。真っ先に長蘇のそばに駆け寄って、そのまま抱き上げてやっただろう。
 可哀想に、さっき朱砂にぶたれたときに、口の端を切ったようだ。わずかに血が滲んでいた。
 「長蘇。手を出せ」
 脈を診てやるつもりで、半歩、足を踏み出したが。
 長蘇は俯いて飛流に凭れかかったまま、力なく首を振った。
 「―――いい。飛流がいる」
 藺晨は差し出しかけた手を、袖の内にひっこめた。 
 眉間に、力が入る。
 そのまま、くるりとからだの向きを変えた。
 足早に部屋を出る藺晨を、未名と慶林が慌てて追ってきた。
 朱砂を長蘇のそばに残してくるのが気がかりだったが、婆婆がなんとかしてくれるだろう。


 「藺晨。すまん」
 「なんだ?」
 庭へ出て、後ろから追いすがってくる未名の声に、藺晨はようやく振り向いた。
 未名も立ち止まって、うつむく。慶林がその傍らで、少し不安げな顔をしている。
 「俺が、宗主に余計なことを言ったのだ」
 未名は悄然として、そう言った。
 「―――なにをだ」
 今度は何だ、と藺晨は眉をひそめた。
 婆婆も慶林も、何の恨みがあって自分と長蘇の間に波風を立てたがるのか。さらには未名までが、一体何を長蘇に言ったというのだろう。
 どうせ、ろくなことではないのはわかっている。藺晨は苛立ちながら、先を促した。
 そして、聞かされたのだ。
 未名が長蘇に、話したことを。

 ―――さすがに。
 藺晨は言葉も返せなかった。
 慶林も驚いているところを見ると、初耳だったのだろう。

 ここの連中ときたら。

 藺晨は泣きたいような気分になった。
 まっすぐな、人々。腕が立ち、気っ風もよい。
 そうした渠らを、藺晨は愛していた。
 琅琊閣の少閣主は変わり者よと、幼いころからそう言われ、近隣には友とてなかった。父に連れられて江湖を旅し、ここで初めて、同じ年頃の子供たちと打ち解けたのだ。長蘇と出会うまでは、友と呼べるのは渠らだけだった。
 だというのに、彼らときたら揃いも揃って、余計なことばかり長蘇の耳に入れる。

 いや。
 これは、身から出た錆だ。
 
 確かに、憶えがある。
 酔った勢いで、朱砂を抱いた。
 そうか。あれからもう、六年にもなるのだな、と藺晨はどこか他人事のように思った。
 あれから、幾度も朱砂には会っている。
 子を産んだなどとは、つゆも知らなかった。婆婆や慶林すら知らぬのだから、当然といえば当然だが。

 一夜限りの、情事だと思っていた。
 酒の上での、幼馴染同士の戯れ合いだと。
 友の内のひとりが、たまたま女であった。藺晨にとっては、それだけだったのだ。朱砂もまたそのように振る舞い、実際にそう思っているものと、藺晨は信じて疑わなかったのだ。

 「そう思っていたのはお前だけだ。お前は滅多にここへ来ぬから、お前を待つ朱砂のいじらしさなんぞ、知りもしないだろう」
 いつ訪れるともわからぬ藺晨を、朱砂は春も夏も秋も冬も、それは首を長くして待っていたのだと、未名は言った。
 『女心がわかっちゃいないね』と、婆婆は確かそう言っていた。誰の眼にもそうと知れるほど、朱砂は自分を待っていたのだ。
 女心はともかく、それは藺晨にも身に覚えのあることだった。
 年に一度か二度、下手をすればもっと間遠に琅琊山を訪れる梅父子を、父と自分は来る日も来る日も待ち焦がれた。
 次はいつ会えるか、会えればどんな話をしようか、長蘇はだいぶ背丈が伸びたか、今はどんなことに一番興味があるのか、あれこれ想いを募らせたものだ。
 あの苦しい思いを、自分も朱砂にさせていたのだ。 

 そして。
 これは、その報い。

 「おい。藺晨」
 藺晨は俄かに身を折り、草むらに向かって嘔吐した。

 どうして。
 どうして、気づいてやらなかったのか。
 長蘇が。
 平気なはずなどなかったのだ。

 『俺があんなことを言ったから、宗主はお前に弱音を吐くことすら出来なくなったんだ』
と、未名はさっきそう言った。

 あんな身体で。
 泣くこともできず。
 どれほど、つらかっただろう。

 朱砂は女だ。
 しかも、この自分の幼馴染みで、あまつさえ自分の子を産んだかもしれぬという。
 そんな朱砂が心を乱し、しかも周囲はみな朱砂を大切に思ってきた連中だ。自分を始め、皆が朱砂を庇おうとする。
 朱砂は悪い女ではない、許してやってくれ、朱砂とてつらいのだと、そう言われてしまえば、長蘇が泣けるわけがない。

 ただ笑って、許す以外、長蘇に何ができただろう。
 心がたとえ粉々になっても、長蘇は笑って許すだろう。

 苦しくて。
 藺晨は、昼間食べたものを全て草むらに吐いた。
 胸が、揉み絞られるように苦しい。
 
 長蘇の苦しみは、もっとずっと、大きかったに違いない。
 それでも、笑っていたのだ。
 朱砂を思い、慶林を思い、未名を思い、阿傻を思い。
 そして、この自分を思い。
 長蘇は何も言わなかった。

 何も、言えなかったのだ。

 血を吐いて倒れるほど、身も心も傷ついていたというのに。  

 一番そばにいてやらねばならなかった時に、自分は大人げない嫉妬に駆られて、長蘇をひとりにしてしまった。
 どれほど、さびしかったことか。

 『口を拭って素知らぬ顔で、ほとぼりがさめたら何事もなかったように、わたしに抱かれる気だったのか』
 なぜ、あんな非道い台詞を吐けたものか。
 飛流が腹を立てたのも、無理はない。

 どれほど、悲しかったことか。

 平気な顔で笑って見せる度、心をすり減らせていたに違いないのに。

 自分は莫迦だ。
 こんなにも、愚かだ。

 何のかんばせあって、長蘇にまみえることができるだろう。




 腹の中のものを吐き切って、藺晨はようやく顔を上げた。   
 「―――俺を、殴れ」
と、慶林が言った。
 「そもそも俺が、朱砂の口車に乗ったのが悪い」
 言われるまでもなかった。
 最初に慶林から打ち明けられたときには、はらわたが煮えくり返るほどの怒りで、頭の中が真っ白になった。目の前の慶林はもちろん、そんなことがあったのをおくびにも出さなかった長蘇にも腹が立って、それで長蘇に向かって件の言葉を吐いた。
 慶林への怒りは、いまもおさまらない。
 こうしていても、身体が震えるほど腹立たしい。怒りと情けなさで、気が変になりそうだ。
 藺晨の震える拳を見下ろして、慶林がもう一度言う。
 「だから、俺を殴れ」
 しかし。
 「―――貴様を殴って何になる」
 自分の声が、無様に震えているのに気づいて、藺晨は一層情けなくなる。
 「殴られるのは、俺だ」
と未名が言った。
 「朱砂のことは許してやってくれ。ちゃんと諫めなかった俺も悪い」
 この期に及んで、未名はまだ朱砂を庇う。子供のころから、未名は朱砂を可愛がっていた。好いているのだろうと、藺晨も察していたのだ。朱砂が自分に惚れていることはわからなかったくせに、未名や慶林が朱砂に夢中なのはよく知っていた。
 藺晨は、深くため息をついた。
 「朱砂を殴るとも、言ってはおらん」
 藺晨は、苦い笑みを浮かべた。

 「―――わたしを、殴ってくれ」

 そう言った藺晨に、未名と慶林がきょとんとした。
 「は?」
 藺晨はゆるゆると首を振り、小さく笑った。
 「何も知らずにのうのうとしていたわたしを、殴れ」
 わけも知らず、長蘇を責めた己こそ、一番愚かだ。
 すべての始まりは、自分にあったというのに。 

 未名と慶林は、顔を見合わせた。
 「藺晨‥‥‥」

 「長蘇の痛みの何倍も、わたしを殴れ。―――頼む」

 そうでなければ。
 あまりに長蘇が、哀れだった。



   * * *



 阿傻は窓から外を眺めている。
 窓の外には丈高い草が生い繁っていて、小さな花や、それに寄ってくる虫たちが、阿傻の目を楽しませてくれているようだ。
 「―――わたしが、悪かったのだ」
 小さな背中に目をやってから、長蘇は目の前の朱砂にそう詫びた。
 「そなたの気持ちを、充分理解してやれなかった」
 そう言って、長蘇は少しうなだれた。
 詫びるために頭を下げたつもりなのか、ただ真っ直ぐ座っているだけでも身体がつらくて、それでなんとなく首を前に倒しただけであったのか、自分でも既によくわからない。
 疲れていた。
 それでも、長蘇は微笑を浮かべた。  
 「さっき、わたしは胸が熱くなった」
 長蘇は、朱砂にそう言った。疲れてはいたが、ひどく優しい気持ちにもなっていた。
 「自分の子ではないと、長い間、母子の絆を認めなかったそなたが、あの時、あんなに顔を真っ赤にして怒っているのを見て、わたしは自分のしようとしたことが恥ずかしくなったのだ。―――母から子を取り上げようなどと」
 今度こそ、ほんとうに頭を下げた。心底、すまぬと思ったのだ。
 母が子を顧みぬからといって、自分がかわりに育ててやれるなどと、烏滸がましいにもほどがある。
 自分の気持ちの中に、藺晨の子を手に入れたいという想いが、潜んではいなかっただろうか。そう考えると、己が恥ずかしくてならなかった。
 「―――蒸し返さないでおくれよ」
 朱砂が、低くそう言った。
 「穴があったら入りたい。何もかも、あたしが悪いのに。宗主は、あの子を守ってくれようとしただけなのに―――」
 ほんとうに身を縮めながら、朱砂がそう言った。
 阿傻が我が子であると認めた途端に、何か憑き物が落ちたような塩梅であった。

 朱砂が落ち着いていることに安心したのか、婆婆は茶の用意をしに行っている。
 長蘇は背を丸めて、少し咳をした。飛流が背中をさすってくれる。
 息を整えてから、心配げな朱砂に向かって、長蘇はまた微笑んだ。
 「‥‥‥わたしから、藺晨に話してみよう。そなたと阿傻が、琅琊山で暮らせるように‥‥‥」
 「宗主?」
 朱砂が目を瞠った。
 「わたしは、廊州に引っ込むつもりだ。あそこならば、飛流も馴れているゆえ‥‥‥」
 「宗主!」
 言葉を挟もうとした朱砂を、長蘇は薄い掌をかざして制する。
 「阿傻とは仲がよいゆえ、飛流は琅琊山に残してやりたいが、‥‥‥わたしの身体にはこの子の気が必要なゆえ‥‥‥」
 「宗主、お待ちったら!」
 長蘇が息を切らせた隙をついて、朱砂がようやく口を挟んだ。
 「見かけによらずせっかちだね! あたしが琅琊閣へ行くだって? 誰がそんなことを」
 「‥‥‥しかし」
 親子は共に暮らすのが一番よい。そう言おうとしたとき。
 長蘇の身体を支えていた飛流が、不意に窓の方へ顔を向けた。
 と同時に。
 小さな悲鳴が上がったのだ。

 朱砂が、慌てて窓辺へ駆け寄った。
 「どうした?」
 すぐには立ち上がれずに、長蘇は前のめりになって尋ねた。
 朱砂が窓から阿傻を引き剥がしながら、こちらを振り向く。その顔は真っ青だった。
 「阿傻が、腕を」
 飛流に支えられながら、長蘇はどうにか窓辺まで歩み寄った。
 けばけばしい色の小蛇が、壁を下りて灌木の枝へとするする伝ってゆくのが見えた。
 「噛まれたのか?」
 長蘇は眉を寄せた。
 小さくとも、あれは毒蛇に間違いない。
 「こちらへ!」
 そばの長椅子へ子供を寝かせるよう、朱砂を促す。
 長蘇は素早く内着の袂を裂いて、阿傻の傷口の上を縛った。きつく縛ったために、阿傻はたちまち泣き出したが、それに構ってはいられない。
 「あたし、藺晨のところまで抱いていく」
 もう一度子供を抱き上げようとした朱砂を、長蘇は止めた。
 「待て。動かすな。飛流、藺晨を呼んで来い。すぐにだ」
 飛流が部屋を飛び出すと、長蘇は阿傻の傷口に顔を近づけた。
 あっ、と朱砂が声を上げるより早く、長蘇は阿傻の傷に口をつけていた―――。


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~ Comment ~

>>ymkさま


うわああん(ノД`)・゜・。、ありがとうございます!!
気持ちが落ち込んでいる間じゅう、怒涛の更新でお目汚しでしたが、
それでもこうして読んでくださるかたがおられるのは嬉しいです!!!

そっかそっか、あまり深く考えずに書いてしましたが、
そうですよね、宗主は非情に振る舞いつつも情が深い。
それは育ちの良さから来るものかもしれないけれど、
持って生まれたものでもあるんでしょうね。
そういう清さを、胡歌さんがとてもよく演じてるなと思います。
賢くて非情で得体のしれない謀士を、
もっと上手に演じる人はいるかもしれない。
でも、梅長蘇=林殊という人の無垢さ、可愛らしさは
やっぱり胡歌さんじゃなきゃダメだった。
ほかの人がやっいたら、別の梅長蘇になっていただろうし、
もちろんそれはそれでいいのだけど、
わたしが好きなのは胡歌さんの梅長蘇なのかもなあって。

『人質』、宗主ならとても手厚く扱っているでしょうね。
もはや『人質』という名の家族かもw

このところ落ち込みまくってましたが、昨日の夕方に急に気持ちが上がりまして。
とりあえず、元気です♡
今後ともよろしくお願いします♪
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