琅琊榜

蝉蜕19 (『琅琊榜』 #54以降)

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ひっそり更新


 父親は、藺晨以外に考えられぬと、未名は言った。
 「もう六年も前になるが、当時、朱砂のやつはひどくふさいでいてな。そんな時だ。久し振りに藺晨が尋ねてきた」
 聞きたくはなかったが、風の音さえやんで、否が応でも未名の声は耳に入った。
 「俺は朱砂に頼まれたのだ。藺晨を酔い潰してくれと。どうしても藺晨に、操を捧げたいのだと」
 未名は、泣き笑いのような表情でそう言った。
 「朱砂はその時、もう二十歳をいくつか過ぎて、同じ年頃の娘たちはとうに嫁いでいたのでな。少しばかり焦っているのだろうと思ったよ。それで、力を貸してやった」
 それから幾月かして、朱砂はしばらく旅に出ると言い出した。問い質すと、そろそろ腹が目立ち始めるからだと、そう言う。腹に子がいるのだと。
 「正直驚いたよ。母親でも生きていりゃァ、もっと早くに気づいてやれたんだろうが、俺や慶林では、てんで駄目だな。朱砂のやつ、年頃になってからはあんまりお婆のところへもよりつかなくなっていたし」
 誰の子だとは明かさなかったが、藺晨の子に違いないと未名は言う。朱砂がほかの男に身体を許すはずもない。あの晩、酔い潰した藺晨と、上首尾に事が進んたにちがいなかったと。

 旅先で、朱砂は赤子を産んだ。だが、と未名は悲しそうな顔をする。
 「迎えに行った俺に、朱砂は赤子を押し付けた。始末してきてくれと」
 長蘇は驚いて、未名の顔を見た。
 「―――わけは?」
 「聞いたさ。己の子をなにゆえ捨てるのか。この子は藺晨の子ではないのかと」
 親と早くに死に別れた未名にとっては、他人事ではなかったのだろう。
 その子供を連れて琅琊山へ行けば、藺晨とて無碍にはすまい。もともと幼馴染で、憎からぬ仲だ。朱砂の望み通り、夫婦となっていたかもしれぬ。
 しかし、朱砂はそうはしなかったのだ。
 「朱砂は何も言わなかった。俺はしかたなく、その土地で子供を欲しがっている夫婦に、その子を預けた」
 「ところが、三年たっても四年たっても、阿傻はあの通りの子供であったと?」
 切ない思いで長蘇はそう尋ね、未名も沈鬱な表情でうなづいた。
 「ああ。それゆえ、もう養えぬと、俺に突き返されてきたのだ」
 「それで困って、お婆どののところへ?」
 独り者の未名では、ほかに術もなかったのだろう。
 「お婆ならちゃんと面倒を見てくれるゆえな。その点は、俺が一番よく知っている。だから俺の一存で、誰にも言わずにあの子をお婆の家の前に捨てた」
 「朱砂は?」
 そう尋ねると、未名は困ったように眉を寄せた。
 「朱砂には、あとになって話した。あれはお前の産んだ子だと。ほかには―――、お婆にも慶林にも、知らせていない」
 知っているのは未名と朱砂だけ、ということか。無論、藺晨は何も知るまい。


 あれは。
 お前の子なのか、藺晨。

 小さな手で、人形の頭を撫でていた。
 幼い頃の飛流に、少し似ていて。
 日ごろは無表情な顔に、時折あどけない笑みを浮かべて見上げてくる。

 あの子が、藺晨の。
 朱砂は、藺晨の子の母親なのだ。


 朱砂と、阿傻。
 二人が笑顔で藺晨を手招く姿が、頭に浮かぶ。
 自分と、飛流。
 繋いでいた手を、藺晨がするりとほどく。あ、と思う間に、藺晨はもう背を向けていた。
 藺晨の黒髪が風にあおられて、長蘇の鼻先を掠める。
 (―――藺晨)
 藺晨の背は忽ち遠ざかり、阿傻を肩に乗せ、朱砂と寄り添って歩いて行く。
 (藺晨!)
 呼び止めるすべなど、ありはせぬ。
 自分も飛流も、藺晨にとっては赤の他人だ。
 ただ見送るしか、ないではないか。

 泣くことさえ、できなかった。
 泣けば、飛流が不安がる。
 飛流に、藺晨を憎ませたくはない。

 ―――藺晨。

 ―――藺晨。


 ただ胸のうちで、呼び続けた。



 そうして、ぽっかり目が開いた。



 頂針婆婆の家の、自分にあてがわれた一室で、長蘇は目覚めたのだ。
 気を失う前のことを、長蘇はまざまざと思い出していた。
 『口を拭って素知らぬ顔で、ほとぼりがさめたら何事もなかったように、わたしに抱かれる気だったのか』
 心が、引き絞られるように痛い。

 長蘇はゆっくりと部屋を見渡す。
 気づいた婆婆が、そばへ来た。 
 「‥‥‥藺晨は?」
 少しためらってからそう尋ねると、婆婆はちょっと気の毒そうな顔をした。
 「あんたの容態が落ち着いたんでね、自分の部屋へ戻ったよ。ついさっきまで、ずっとそばにいたんだが‥‥‥」
 婆婆の気遣いが申し訳なく、長蘇は仄かに微笑した。
 「あんなに怒っていても、治療はしてくれたとみえるな。身体に‥‥‥、藺晨の気が、感じられる」
 藺晨の気の温みが、丹田のあたりに残っている。
 それだけで、いくぶん幸せな心持ちになった。
 婆婆は呆れたように溜息をつく。
 「全く、どいつもこいつも困ったものだね。あんた一人に、苦労をしょいこませちまってる」
 長蘇は苦笑して、首を振った。
 そんな恰好のよいものではない。自分はただ、途方に暮れているだけだ。
 困って視線を外した長蘇に、婆婆はもうひとつ溜息をついた。
 「まあね。あんたもよくないのさ。素直におなりと言ったのに」
 長蘇は笑った。
 「わたしも男だからな。―――強がってしまうこともある」
 そう言うと、婆婆は「厄介だねェ、男ってのは」と嘆息した。
 「まあ女も厄介だが」
 そう付け加えて、それから婆婆は声音を改めた。
 「朱砂のことは‥‥‥、許してやっとくれ」
 ひどく優しい口調で、婆婆はそう言った。婆婆にとっては、この辺りの者は皆、我が子同然なのだろう。
 「‥‥‥わかっている」
 「あんたが倒れたと聞いて、あの子もさすがに悔いているようでね」
 さもありなん、と長蘇は思った。朱砂は決して、悪い女ではないのだ。
 婆婆はすまなそうな顔をした。
 「病人のあんたにばっかり、我慢を強いることになっちまうがねえ」
と、婆婆は言う。
 そして。
 「結局、ものわかりのいいほうが割りを食うものなのさ、世の中は」
 少しばかり肩を落として、そう付け加えた。

 そういえば、未名も言っていた。
 『なにしろ、そんなわけでな。朱砂もあれでなかなか、難しいもんを背負っちまってる。だから大目に見てやってくれと言うんじゃないが、少しはわかってやってもらえればと思ってな』
 それゆえ、藺晨どころか慶林にも明かさぬことを明かしたのだと、未名は言った。
 『わかった。心に留めておこう』
と、長蘇はそう返した。

 ほかに、―――どう答えることが出来ただろう。
 藺晨にとって、朱砂は大事な女だ。そんな女を憎むことなど、長蘇にはできない。
 未名も慶林も、藺晨の大切な友だ。これからも、藺晨の支えになってやってほしい。
 阿傻は、藺晨の子だ。幸せに育ってもらいたい。
 皆、藺晨につながる大事な者たちなのだ。傷つけたくはない。彼らの、それぞれの想いを、踏みにじりたくはない。
 そして、何よりも。

 藺晨の、想い。

 ―――全部。

 すべての想いを、飲み込んでしまえたらいい。
 誰かが飲み込まねばならぬなら。
 それくらいは、自分が担いたい。
 ほかに何も。
 藺晨にしてやれることがないなら。

 つい最近まで。
 守られることが当たり前だったのだ。
 以前の自分は、亡き人々と蕭景琰のために、欺瞞を晴らし、新たなる礎を築く、そのことにばかり躍起となって、支えてくれる手を当たり前のものとしていた。
 だが、今は違う。
 藺晨とて、生身の男なのだ。痛みも苦しみもある。
 その生身の人間が、これまで全霊を傾けて守ってくれたのだと、長蘇はもう知っている。

 自分も、―――支えたかった。



   * * *



 「本気かい、宗主。この子を引き取るだなんて」
 頂針婆婆が、目を丸くした。
 牀台のへりに腰かけた長蘇は、にっこりと微笑んで阿傻を抱き寄せる。さっき、飛流に連れてこさせたのだ。
 「飛流とはうまもあう。婆どのではいずれ手に余るようになるだろうが、江左盟の連中ならば、この子の相手をしてやれる」
 「それはまあ、そうかもしれないが‥‥‥」
 婆婆にまじまじと顔を見られて、少々居心地悪くなる。
 婆婆は、知らぬはずだった。阿傻を産んだのが朱砂であることも、父親が藺晨であろうことも。
 知らぬはずではあったが、婆婆の眼は、全てを見通しているかのように思える。
 未名は言っていた。朱砂は、阿傻が我が子であると告げられても、認めようとはしなかったのだと。あんな子は知らぬ、子など産んだ覚えはないと、そういいきったのだその一点張りであった。
 朱砂が身ごもっていた時からいきさつを知る未名にしてみれば、朱砂の居直りには困惑を禁じ得なかったが、自分の子ではないと言い張り、顔さえ見まいとする朱砂を、どうすることも出来ぬまま今日まで来たというのだ。
 阿傻は恐らく、この先も母親に顧みられることはあるまい。
 ならば、たとえ父子の名乗りは上げずとも、実の父のそばでのびやかに育つのが、阿傻の為ではなかろうかと、長蘇はそう思ったのである。
 いずれもし、阿傻が物事を今少し理解できるようになったなら、その時は教えてやってもいい。
 ―――それまでは、自分の手で慈しんでやろうと、長蘇は考えていた。
 もしも。
 年ごとに阿傻が藺晨に似てくるならば、それもまた楽しみのひとつかもしれぬ。そう思いもした。

 「藺晨は、なんとお言いだい?」
 婆婆の問いに、長蘇は少し困ってかぶりを振った。
 まだ何も、話してはいない。話そうにも、避けられているのだ。
 「私の一存で、阿傻を連れ帰る」
 長蘇がそう答えた時。
 ばん!―――と、扉をあけ放つ音が聞こえた。   

 「どういうことだい、阿傻を連れていこうとは」
 顔を赤くして、朱砂がそう言った。
 「朱砂、なんだい、いきなり」
 婆婆が驚いて朱砂の非礼を咎めたが、朱砂の方は聞く耳など持たぬ。
 「詫びるつもりで来てみれば」
 は!と朱砂は短く笑って見せた。
 「お笑い草だね。とんだ意趣返しをしてくれるじゃないか。あたしから阿傻を取り上げようとはさ」
 長蘇は驚いて朱砂を見た。
 ―――半ば感動すら覚えながら。

 朱砂のあとを追ってきたのだろう。息せき切って、未名が駆けつけてきた。
 「朱砂! いいかげんにしろ。宗主はきっと、お前と阿傻のためを思って‥‥‥」
 「うるさいね! どいつもこいつも、骨抜きにされちまいやがって!」
 眉を怒らせ、朱砂は阿傻の手をつかんだ。
 阿傻は怯えて、朱砂を見上げる。
 その怯えを、朱砂は怒りとも悲しみともつかぬ色を浮かべて睨みつけた。
 「お前まで、あたしよりこの男と行くのを選ぶと?」
 朱砂は憎らし気にそう呻いた。その手が、阿傻に向かって上げられる。
 「おい、朱砂」
と未名が腕を掴んだが、朱砂はそれを振りほどいた。
 そして。

 ぱん!

と、大きな音がした。

 ―――が。
 倒れたのは阿傻でなく、長蘇である。
 長蘇が、阿傻を庇ったのだった。
 
 「你っ‥‥‥」
 朱砂のほうが、驚いて立ち尽くす。
 「宗主!」
 続いて駆け込んできた慶林が、驚いて長蘇に走り寄った。
 「‥‥‥大丈夫だ。少々音が派手だっただけだ」
 慶林に抱き起こされた長蘇の頬には、しかし赤く手形がついている。
 未名がさすがに顔を歪めた。
 「朱砂。いいかげんにしろ」
 「なっ、なんだい、未名」
 いつも甘やかせてくれた未名に強い口調でたしなめられて、朱砂はますます真っ赤になった。
 「宗主に謝れ」
 「なんだい、宗主が勝手にその子を庇ったんじゃないか」
 朱砂が顔をそむけて不貞腐れて見せる。しかし、いつもなら「やれやれ」と溜息をついて折れてくれるはずの未名が、今度ばかりは引かない。
 「―――恥ずかしくないのか」
 「ッ‥‥‥」
 朱砂が言い返そうとするより早く。
 今度は朱砂の頬が、高く鳴った。
 「飛流!」
 慶林の腕に支えられた長蘇が、息を飲む。
 飛流が。
 朱砂の胸ぐらをつかんで、頬を張ったのである。

 飛流は、怒りを露わにしていた。もう一つ二つ、今にも飛流の掌が往復しそうに見えた。
 が、そのときである。

 「飛流! 女に手を上げるとは最低だろう」
 鋭く、そうたしなめた声があった。
 思わず、皆がそちらを向く。
 ―――藺晨であった。
 たった今、来あわせたと見える。藺晨もまた、怒気を滲ませていた。
 飛流は藺晨を睨み付けたが、結局、朱砂に視線を戻すと、いよいよ手を振り下ろそうとする。
 「飛流、やめろ」
 長蘇は思わず叫んだ。
 藺晨の妻になるかもしれぬ女に、飛流が暴力を振るうところなど見たくはない。しかも、藺晨の目の前で。
 「蘇哥哥」
 飛流が振り返る。今にも涙が溢れそうな顔で。
 可哀想でならなかった。
 飛流は、自分のために、怒ってくれているのだ。
 飛流は阿傻を可愛がっている。朱砂は、その阿傻を殴ろうとし、しかも結果的には、飛流が一番大事に思ってくれているこの『蘇哥哥』を殴った。飛流が腹をたてるのは道理だ。いや、腹をたてると言うよりは、飛流はむしろ傷ついていた。飛流にとっては、わけがわからないだろう。なぜ、朱砂が、飛流の大切に思う者たちに手をあげようとするのか。わからぬから、悲しい。悲しくて、悔しくて、じっとしてなどおれなかっただけだ。
 それなのに、『藺晨哥哥』に叱られた。
 納得がいかぬのだ、飛流は。ますます、悲しくて、悔しいはずだ。
 可哀想に、と長蘇は思った。すまぬと。
 「もうよせ。蘇哥哥のためを思うなら、お願いだからやめてくれ」
 飛流の心が、愛しかった。
 そして、切ない。
 「蘇哥哥‥‥‥」
 そんな自分の気持ちを察してくれて、飛流は上げた手を力なく下ろす。そのさまが更に不憫で、長蘇もまた、泣きたくなる。
 見かねた未名が言った。
 「宗主、飛流が手を出さなけりゃ、俺が殴っていた。あんたが気にすることじゃない」
 藺晨が苦々しい顔つきで立ち尽くしている。それへちらりと視線を向けて、未名は言った。
 「藺晨。話がある」
と。


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