琅琊榜

蝉蜕18 (『琅琊榜』 #54以降)

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18です。

 朝の光が眩しくて、長蘇は廊下から空を見上げながら目を細めていた。
 昨夜は藺晨を閉め出し、飛流の腕に包まれて眠った。疲れ切って微睡みはするが、小刻みに目が覚めて、その度に、隣で眠っているのが藺晨だと勘違いして、頬を摺り寄せた。
 「蘇哥哥‥‥‥」
と、寝ぼけた声で飛流に呼ばれて、はっと思い出すのだ。自分が藺晨を褥に寄せ付けなかった理由を。
 しばらくは、共寝などできはしない。身体には、慶林から受けた辱しめのあとがはっきりと残っている。まだ、見せられぬ。
 足音が、近づいてきた。
 朱砂だと、振り向かずともわかった。
 飛流は、声をあげればすぐに気づく距離にいる。長蘇はゆったりと構えていた。
 「さすがのお手並みだねえ」
 「何のことだ」
 ゆっくりと、振り向く。
 「慶林まで抱き込んだようじゃないか」
 朱砂は、憎々しげに笑った。
 「慶林に言われた。いい加減にあきらめろとね」
 「わたしから頼んだわけではない」
 そう言うと、朱砂は眉を吊り上げた。
 「口で頼まなくたって、その色っぽい目つきで媚びたんだろう? 簡単だったろうさ、あんたには」
 そう言われては、言い訳のしようもない。自分では、そんなつもりは毛頭なかったが。
 「恥知らず」
 朱砂は、そう毒づいた。
 「本当に恥知らずだね。あんな目に遭っておきながら、そうやってにこにこしてられるなんてさ。なんてまあ、面の皮が厚いんだろう!」
 長蘇は少し、目を伏せた。
 「厚顔なのは、前からだ」
 幼馴染みの前で、他人のふりをして過ごした自分だ。厚顔でなければ、一日たりとも耐えきれはしなかった。
 長蘇の言葉をなんと受け止めたか、朱砂は地団駄を踏んだ。
 「―――あたしなら」
 朱砂が、うめくように声を絞り出す。
 「あたしなら、‥‥‥藺晨の子供だって産んでやれるんだ」
 長蘇は、目を上げた。
 意外な、言葉だった。
 そうだ、景琰の時はそんなことを思いもした。自分などに思いを残さず、若く健康な王妃と睦まじく過ごし、やがて大梁を負って立つ子どもをと。そう願ったものだ。
 言われてみれば。
 藺晨とて男だ。むしろ、女好きと言っても差し支えあるまい。それなのに。
 藺晨と、自分と、飛流と。まるで親子のように暮らして、それですっかり納得していた。
 長蘇はなんとなく、呆然としていた。躍起となっている朱砂の言葉を、あっけに取られながら聞いた。
 「あんたは、藺晨にとってお荷物でしかないじゃないか。あたしは‥‥‥。あたしなら‥‥‥」
 振り絞るような朱砂の言葉に、長蘇は小さくため息をつき、それから苦笑した。
 「―――そうだな」
 なるほど、と。そう思ったのだ。



   * * *



 「長蘇、何を怒っているか知らんが、いい加減に同衾させろ。せめて、脈くらいは診させてくれ」
 部屋の前で、飛流を挟んで藺晨がわめく。みっともないこと、このうえもない。
 「しつこいぞ。ここにいる間は、飛流と過ごしてやると決めたのだ。気は飛流からもらっているゆえ、心配要らぬ。お前はゆっくりと旧交でも温めているがいい」
 脈をとられれば、それだけで何もかも知られてしまいそうな気がした。
 「まあまあ、藺晨。たまには、飛流に蘇哥哥を貸してやれ。俺たちは妓楼へでも繰り出そうじゃないか」
 駆け寄ってきた慶林が、慌てたように取り成そうとする。
 「妓楼なら、昨夜もその前も行ったではないか。こんな片田舎の妓女どもには、もう飽き飽きだ」
 藺晨は鼻息も荒く、慶林にそう言い返した。
 「ならば、今宵はじっくりと、一局手合わせでもどうだ」
 碁を指す仕種をして見せた慶林に、藺晨が眉を逆立てる。
 「なにゆえ今更、貴様とそんな辛気臭い遊びをせねばならん。大体、どうしてお前は、わたしが長蘇に近寄るのを止めようとするのだ」
 「い、いや、ままま、まさかそんなつもりは」
 慶林は、しどろもどろになっている。慶林恃むに足らず、と長蘇は思わずこめかみを押さえた。
 そしてしかたなく、自ら藺晨に向かい合う。
 「―――しつこい男は嫌われるぞ」
 低く、そう言い放った。
 途端に。
 藺晨が口をつぐむ。
 束の間、冷ややかな空気が流れた。
 藺晨はしばし長蘇の顔を凝視していたが、やがて憤然と鼻から息を吐くと、ふいと慶林へ向き直った。
 「酒楼へ行く。慶林、もたもたするな」
 踵を返した藺晨に、ほっと長蘇は息をつく。
 慶林が振り返って申し訳なさそうな顔をするのへ、長蘇も苦笑いを返した。

 (―――わたしとて、寂しいのだ)
 藺晨の背なかを見送りながら、胸がひどく痛んだ。
 「蘇哥哥‥‥‥」
 心配そうに、飛流がこちらを見る。
 もう、飛流は背丈も同じくらい、むしろ長蘇を越えたやもしれぬ。長蘇は飛流の腕にそっとつかまり、その肩へ軽く頭を預けた。
 「ああ。‥‥‥少し横になるから、そばにいてくれるか」 
 「―――うん」
 飛流はうなづき、長蘇の身体を抱き寄せてくれる。
 その腕が、どこか藺晨のそれに似ていて、ますます胸が痛んだ。
 「我‥‥‥」
 長蘇は、声を震わせた。
 「蘇哥哥?」
 完全に声変わりを終えた飛流の声が、低く甘い。つい、甘えてみたくなったのだ。
 「‥‥‥可以哭吗?」
 思わず、そう口にしていた。
 飛流は一瞬考えて、それから、 
 「不可以」
と、首をぶんぶん振った。
 「駄目だよ、蘇哥哥。泣かないで」
 飛流の方が泣き出しそうな声で、そう言った。
 長蘇は頭を起こして飛流の顔を見、そして苦笑いした。
 「蘇哥哥が悪かった。飛流を不安にさせた、蘇哥哥が悪い」
 飛流の心もとなげな顔に、自分がどれほど萎れていたか気づかされる。
 「なんでもないから。蘇哥哥は、泣かぬから」
 「‥‥‥うん」
 飛流を安心させるように、長蘇はにっこりと笑って見せた。



   * * *



 「あんまり具合がよく無さそうだねェ」
と、頂針婆婆が言った。
 「そんなことはない」
 そう言って長蘇は微笑ったが、洗濯物を畳む長蘇の手に、婆婆の皺深い手が置かれた。
 子供たちの洗濯ものは毎日山のようにあって、近ごろはなんとなしに長蘇が手伝うようになっていた。
 「ここはいいから、少し休んでおいで」
 ぽんぽんと軽く手を叩かれて、長蘇は苦笑する。
 「お婆どのにかかっては、江左盟宗主もただの子供だな」
 婆婆が、茶目ッ気たっぷりに肩をすくめて見せる。
 「そりゃ年季が違うからねえ。宗主のお父上だって、あたしには頭が上がらなかったさ」
 「父が?」
 初めて聞く話である。
 「藺晨の父親が、何度か連れてきたのさ、石楠どのを。ちょうど今の藺晨が、あんたを見せびらかしたくてしかたがないのと同じでね」
 「そうか。老閣主が」
 あり得る話である。
 「老閣主だなんて納まっちゃいるが、あれも若い頃はなかなかやんちゃでね。腕がたつ上に頭もきれる、朱砂や未名の親父たちも相当な猛者だったが、それでも藺晨の父親にしてみりゃ食い足りなかったんだろう。それが、ある日お前さんの父上を連れてきたときにゃ、あたしゃもう笑いをこらえるのに必死だったよ」
 婆婆が可笑しそうにくくくと笑った。
 「藺晨の親父と来たら、それまで見たこともないくらい脂下がっちまってね。石楠どののことが自慢で自慢でたまらぬのさ。それでいて、石楠どの本人には憎まれ口ばかり」
 婆婆からすれば、昨日のことのように思い出せるのだろう。
 「石楠どのはといえば、わかっているんだかいないんだか、飄々としたもんだったが」
 長蘇も笑った。あの静姨の気持ちも、気づかぬ父ではなかったはずだ。それでも、何食わぬ顔で過ごしていたのを、長蘇は知っている。
 「親父どもに比べたら、あんたたちはずっと正直だよ」
 くっくっと婆婆が笑う。
 「正直でいいのさ。素直におなり」
 婆婆の言葉に、長蘇がふっと肩の力を抜いたその時である。
 「宗主、ちょっといいか?」
 未名であった。
 婆婆が少し、いやな顔をした。
 「なんだい、お前。近ごろ、少しも手伝いやしない。朱砂とこそこそ、何の悪だくみをしているんだか」
 痛いところを衝かれて、未名はちょっと困った顔をしたが、
 「埋め合わせはまたするから、ちょっと宗主を借りていくぞ」
そう言って長蘇を促してくる。
 「宗主。どうせろくな用じゃァない。つきあうこたァないさ」
 婆婆はそう言ったが、長蘇は微笑んで立ち上がった。 
 「洗濯物が途中だが、あとは婆どのに任せる。すまぬな」
 未名について歩き出したとき、後ろで婆婆の溜息が聞こえた。


   *
 
 
 風が、強い。
 鬢の毛を押さえながら、長蘇は未名のあとを歩いていた。
 未名は、ひどく迷っているふうだった。
 「朱砂はその‥‥‥」
 言いかけて口ごもり、それでも今更黙ることもできずに、あとを続ける。
 「あいつは、普段は気のいい女なんだが、どうもあんたには‥‥‥」
 「―――わかっている」
 かつて、初めて会った頃の朱砂を、長蘇もよく覚えている。溌剌として、よく笑う、どことなく霓凰に似た娘だった。病がちになった身の長蘇には、ひどく眩しかったものだ。
 未名は言った。
 「‥‥‥慶林から、聞いた」
 長蘇は睫毛を伏せ、嘆息して見せる。
 「困ったものだな。あまり名誉な話ではないゆえ」
 未名も知っていようことは、想像に難くなかったが。
 「すまん。これ以上、話を広めるつもりはない」
 「そう願いたいな」
 長蘇がそう答えると、未名はひどく恐縮した様子だった。
 慶林も未名も、よい漢なのだ、と思う。腕が立ち、気風もよい。情に厚く、義理堅い。こうした女々しいことにつきあうのは、さぞ気骨が折れように。それでも、幼馴染の朱砂のことが、可愛くてしかたがないのだろう。
 未名は困ったように、俯いたまま言った。 
 「朱砂は、あれだ‥‥‥。物心ついた時分から、藺晨のことが好きでな」
 皆が、知っていたのだろう。藺晨だけが、気づいていなかった。
 「大きくなったら琅琊閣へ嫁に行くのだと、いつもそう言っていた」
 ふと、幼い頃の霓凰を思い出して、長蘇は頬を緩めた。
 『わたし、林殊哥哥のお嫁さんになるのよね』
 そう言って、自分で摘んだ花を髪に飾り、茶杯で祝言の真似事をして見せたりした。雲南に滞在してしばらくぶりに金陵へ戻った折りなどは、それはもう嬉しそうな顔で抱き着いてきたものだ。
 『林殊哥哥! やっと会えた!』
 幸せな夢を胸の内に育てていた少女の心を、今も長蘇は愛しく思う。朱砂もまた、同じ夢を見ていたのだ。
 「ああして男のなりをするのも、藺晨に操立てしているためだと思う」
 未名はそう言って、力なく笑った。慶林も未名も、朱砂を好いているのだろう。たとえ朱砂が自分のものにならずとも、支えてやりたいと願っているのだ。長蘇はすこし、心の温まる思いがした。

 「あんたに言うべきかどうか、迷ったんだが」
と、未名はまた口ごもった。
 風の音が、不自然な沈黙の間を埋める。
 「なんだ?」
 長蘇が促すと、未名は俯いていた顔を上げた。
 「―――阿傻は」
 え? と長蘇は戸惑った。
 なぜ今、ここで、阿傻の名が出るのかと。
 訝しく思って未名の顔を見ていると、未名は少しためらってから、ようやく話の眼目を口にしたのだ。

 「阿傻は、朱砂の産んだ子供だ」

 長蘇は驚いて、目を瞠った。
 それに続く言葉を、―――察してしまったからだ。
 
 「俺はが思うに」
と未名は言った。

 「―――父親は、藺晨以外、あり得ん」

 刹那。
 風の音が、やんだ。



   * * *



 「長蘇! 長蘇!」
 腹が煮えて、ならなかった。
 なぜ、黙っていたのか。
 こんな重大なことを。
 荒々しく、藺晨は部屋へ駆け込んだ。
 「なんだ、藺晨」
 文机に向かっていた長蘇が、顔を上げてこちらを見た。その白々とした顔に、腹が立つ。
 「なにが『なんだ』だ!」
 藺晨は長蘇の傍へ歩み寄ると、ぐいとその襟元をつかんで立ち上がらせた。長蘇の軽い身体を引き起こすのは、いともたやすい。
 それから、驚きに声も出ぬまま目を見開いた長蘇の胸元を。
 ――― 一気に、左右に引き広げた。
 「っ!」
 互いに、凍り付いた。

 「‥‥‥お前。ほんとうなのか」
 長蘇は慌てて衣を糺したが、一目で充分だった。
 長蘇の身体にはうっすらと、凌辱の痕が残っていた。
 飛流のものではないと、すぐにわかった。飛流は、―――こんなふうな印の付け方はしない。
 
 「おい、待て! 藺晨! 宗主は悪くないと言っているだろう!」
 息せき切って、慶林が駆けてきた。
 「この人の細腕で、俺に抗えるわけがない。お前が一番よくわかっているはずだろう」
 しかし、藺晨の耳には慶林の言葉など既に入ってこない。

 「―――黙っているつもりだったのか」
 藺晨は、低い声でそう言った。
 「口を拭って素知らぬ顔で、ほとぼりがさめたら何事もなかったように、わたしに抱かれる気だったのか」
 悲しかった。
 長蘇が不本意であったろうことは、間違いない。ならば、なぜ言わぬのか。自分に心配をかけぬためか? それは長蘇にとって、黙ってやり過ごせる程度のことなのか。
 
 飛流が、二人の間に割って入ってくる。
 飛流もまた、怒っているのだ。藺晨に対して、である。自分の身体を盾に、長蘇を庇おうとする。それさえ、情けなく思われた。
 飛流は、知っていたのだろうか。
 
 かつて。
 蕭景琰ひとりが、蚊帳の外に置かれていた。
 皆が梅長蘇の、林殊の背負った苦しみを知っていた時に、蕭景琰ひとりが、何も知らされなかった。おめでたい男だと、藺晨は思っていたのだ。だが。
 自分だけ知らされぬことの苦しみがいかばかりか。藺晨はいま初めて理解した。
 
 藺晨は、長蘇に背中を向けた。
 長蘇が、咳き込む。
 「蘇哥哥」
 心配そうな、飛流の声。

 怒りに任せて振り捨てていこうとしたが、―――できるはずもなかった。
 「‥‥‥長蘇」
 振り返ると、うずくまった長蘇が、飛流に抱き支えられるようにしてこちらを見ていた。
 「藺晨‥‥‥」
 長蘇は何か言おうとし、さらに激しく咳き込んだ。

 口元を覆った指の間から、鮮やかな色の血が溢れ出すのを、藺晨はただ見ていた―――。





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