琅琊榜

蝉蜕17 (『琅琊榜』 #54以降)

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このエピソード、長引いてますwww

 阿傻は、口がきけない。
 「ここがだいぶ足りないんだよ」
と、頂針婆婆は自分の頭をちょんちょんと指さした。
 声は出る。言葉が出ないのだ。日がな一日ぼんやりとして、人形を眺めたり、庭に出て泥遊びをしたりする。時には同じ年頃の子供たちの遊びに混ざろうと追いかけもするが、遊びの決まりごとが理解できぬので、結局置いてけぼりになる。それでべそをかいて、そのあとはまた夜になるまでぼんやりして過ごすのだ。食事をしていても上の空で、こぼしてばかりだ。それゆえに、莫迦だのろまだと言われて、いつの間にか『阿傻』と呼ばれるようになった。
 「身は軽いんだよ。気が向けばするすると木にも登っちまうのさ。降り方がわからずに天辺で泣いているのを見つけて、未名が四苦八苦で下ろしたこともあるよ。怖がって暴れるもんだから、あやうく未名のやつまで真っ逆さまに落ちるところだった」
 そう言って、婆婆は笑った。
 「ほう。なんなら軽功を教えてみるか?」
 「やめとくれ。あの子はどうも生まれついて内功が強い。軽功も簡単に覚えちまうかもしれないよ。そんなことになってご覧。あたしじゃ手に負えなくなるじゃないか」
 それも道理だ。
 「うちには似たようなのがいるからな」
と藺晨は飛流を顎でしゃくった。
 「見ろ。気があっている」
 阿傻の人形遊びに、飛流がつきあっている。ふたりともほとんど声も出さずに、黙々と人形を動かしているだけだが、時折どちらからともなく嬉しそうな顔をするところを見ると、この遊びにも何かしら面白味があると見える。
 「人形で遊んでいるときに邪魔をされるのを、いつもはひどく嫌がるのさ。飛流と宗主にだけだよ、人形を触らせるのは」
 くくく、と婆婆が笑う。
 「親は死んだのか?」
と藺晨が尋ねた。未名がそうであった。母親は未名を産むとすぐに世を去り、父親は江湖で名の知れた猛者であったが、戦のとばっちりで未名が幼いときに死んだ。それからはずっと、婆婆に育てられたのだ。
 「いや、阿傻は捨てられていたのさ。四つの齢にね」
 発育の尋常でないことを気に病んだ親が、捨てて行ったのだろうと婆婆は言う。せっかく生まれた男の子でも、これでは稼業の助けになるどころか、一生お荷物になりかねぬ。豊かな家ならばいざ知らず、貧しい親なら養いかねるだろう。

 「宗主はどうしたんだい?」
 「ああ、部屋で何やら書き物をしていたようだが」
 ふうん、と婆婆は言った。
 「宗主は、ここへ来た日の晩に、琅琊山へ帰りたいと言ったんだったねェ?」
 「ん? ああ」
 茶杯を傾けながら、藺晨は婆婆の顔を見た。いやに勿体ぶった言い方をする。
 「宗主がそんなことを言い出したのは、あたしのせいじゃないかと思ってね」
 藺晨は茶杯を口許で止めた。
 「どういうことだ? お婆、まさか落花生に毒でも盛ったんじゃなかろうな」
 「人聞きの悪いことをお言いでないよ」
と、婆婆が顔をしかめる。
 「いえね、あんたが宗主に岡惚れしてるのは、昔ッから知っちゃいたんだが」
 「な‥‥‥」
 ぶっ、と思わず茶を吹き出した。
 「なんだい、ばれていないとでも?」
 いや、ばれぬほうがおかしい。ばれたとて、疚しいこともない。天地神明に賭けて、長蘇に惚れぬいているのであってみれば。
 とはいえ、こう明け透けに言われると狼狽えもするし、ましてや『昔から』などと。今はともかく、昔は胸に秘めていたつもりだったが。
 全く、この婆婆にはかなわぬと、藺晨は溜息をついて、こぼした茶を拭いた。
 婆婆は小さく息をついて、こう続ける。
 「けどねェ、あんたはともかく、宗主の方はまるで気がないと思ってたんだが‥‥‥。どうやら違ったようだね。悪いことを言っちまった」
 藺晨はもう一度、婆婆の顔を見る。
 「―――何を言った」
 婆婆は軽く天井を仰いでから、言った。 
 「あんたたちがここへ着いた日の午后さ。庭先で宗主が書を読みながら、落花生をつまんでいたのでね」
 その日のことを、頂針婆婆は話し始めた。

 「なんだね、そんなにちまちまと。あたしの激辛落花生は好物だったろうに」
 頂針婆婆は腰に手を当ててそう言った。
 「少々、胃の腑を悪くしていてね」
 うっすら微笑んで長蘇がそう答えたので、婆婆は呆れて肩をすくめたのだ。
 「は。そんなことだろうとは思ったが、いい若い者が情けない。お前さんと来たら、いっつもどこかしら患っておるのだね」
 ずけずけと言うと、梅長蘇は苦笑を返してきた。
 「いっときに比べれば、これでも随分よくなったのだ」
 はにかんだような笑みがいじらしくて、頂針婆婆は我知らず甘い声音になったという。 
。 「折角久しぶりに来たんだ、帰りには土産に一甕でも二甕でも持ってお行きよ。胃の具合がよくなってからでもお上がり」
 「ありがとう。そうさせてもらおう」
 その時、頂針婆婆はふと尋ねた。
 「そういや、あんたの相方はどこへ行った?」
 果実酒を作ったので、藺晨に味見をさせようと思ったのである。
 「ああ、さっき朱砂と一緒にいるのを見かけたが」
 長蘇がそう答えたので、婆婆はついこう返したのだ。
 「はァん、朱砂め、藺閣主にはぞっこんだからな」
 その時、長蘇はわずかに目を瞠った。
 「―――そうなのか?」
 「なんだ、宗主はお気づきでなかったかえ? あやつはずっと昔から藺晨に首ったけさ」
 得意げに、婆婆はそう教えた。
 「しばらく見ぬ間に女っぷりを上げたろう?」
 「ああ‥‥‥、そうだな」
 長蘇は微笑して、落花生を一粒、口に運んだ。
 「なんだい、気のない返事だねえ。まあ、もう年増にゃ違いないが」
 けらけら笑って、頂針婆婆は長蘇を置いて去ったのだが。

 「可哀想に、あたしの言ったことを気に病んでおいでだったのさ。琅琊山に帰りたいなんて気になったのも、そのせいだろう。それに‥‥‥」
 婆婆が口ごもったので、藺晨は先を促した。
 「朱砂のやつ、隙を見ちゃァからんでいるようだからねェ」
 藺晨は少し驚いて、眉を上げる。
 「まさか。あんな気性のさっぱりした女が」
 婆婆が、やれやれとでも言うように両手を広げて見せた。
 「朱砂だって女だよ」
 女心がわかっちゃいないね、と婆婆が笑う。いつか同じ科白を長蘇に言った覚えのある藺晨は、少しきまりが悪くなって眉を顰めた。
 「『朱砂』は薬にもなるが、過ぎれば毒になるものさ。―――ああ、これは釈迦に説法だったかね」
 薬材として使われる朱砂のことを、婆婆は言っている。
 朱砂とは、天然の水銀鉱物だ。医者の正しい処方にしたがって服せば、心を鎮め、毒を払い、血を補って、穏やかな眠りを招く、よいことずくめの薬となる。
 しかし。
 過ぎれば毒となり、ことに体の弱っているものには刺激の強すぎる薬なのである。

 とはいえ。
 半信半疑だった。
 藺晨の眼には、朱砂は昔と変わらず男勝りで気風のいい女であったし、長蘇がそんなことで気落ちするようなしおらしい男だとも思えなかったのだ。



   * * *



 「悪いな、宗主。あんたに恨みはないんだが」
 慶林が覆いかぶさってくる。
 もとより、抗う力のないことは、自分でよくわかっていた。だが。
 ―――ぱん!
と、ひとつ、長蘇は渾身の力で慶林の頬を張る。
 慶林は少し驚いたように、長蘇の顔を見下ろした。
 「江左盟の宗主には武功がない、と‥‥‥。聞いてはいたが、本当にこの程度の力しか出ぬとはな。しかし―――」
 ほとんど赤くもならぬ頬を、慶林は困惑気味に手で押さえた。そして、眩しそうに目を細める。
 「なるほど、猛者どもを束ねるだけのことはある。日頃は穏やかに見えて、その実、気概は大したものだな」
 長蘇は恐れず、まっすぐに慶林の目を見返していた。
 かつて。
 ―――夏江に凌辱された。
 あのときも、藺晨は見捨てずにいてくれた。
 たとえ身は穢されても、心は藺晨と共にある。
 どのみち、己が身を守りきる力は自分にはないのだ。ならば、穢された身を恥じて自ら己を処するか、あるいは、その穢れを背負ったまま、それでも愛しい者のそばで生き続けるか。ふたつにひとつしか、ないではないか。
 長蘇は、後者を選びたかった。藺晨と共に生きるのだ。
 恐れは、なかった。
 心はひんやりと澄んでいる。
 「あんた、本当に綺麗な顔をしているな」
 困ったように笑って、慶林はその唇を重ねてきた―――。  



 ひとつ牀台で、慶林は放心したように仰臥し、長蘇は背中を向けて、ぼんやりと部屋の内を見ていた。
 「―――朱砂に?」
 長蘇がそう問うと、背中の後ろで慶林がもそもそと身体を起こしたようだ。
 「さすがに察しがいいな」
 やはり、と長蘇は短く息をつく。
 慶林がこんなことをしたのは、朱砂の差し金と初めから気づいていた。
 嫉妬と言うのは厄介だ。される側とて、どうしようもない。それでも、朱砂は、何もしないではいられなかったのだろう。藺晨の不在を見計らって、朱砂に言い含められた慶林が事に及ぶ。あまりに見え透いていた。
 恐らく、藺晨は朱砂や未名が言葉巧みに足止めしていることだろう。飛流は、この時分なら、阿傻の遊び相手になってやっているに違いない。庭で花を愛でていた長蘇を、慶林は日頃使われておらぬ客間へと引き込んだのだ。
 「こんなことをして、江左盟を敵に回すとは思わなかったのか?」
 慶林らは決まった幇に属してはいない。ただ、藺晨の昔なじみであるがゆえに、江左盟のほうでは渠らの暮らし向きにそれとなく気を配ってもきた。無論、それは渠ら自身のあずかり知らぬことではあったが。
 慶林が頭を掻いているようだ。
 「思いはしたが、あんたは自分が俺にされたことを吹聴して回るほど恥知らずでもなかろう?」
 呆れて長蘇は小さく笑った。
 「なるほど。人に話せば恥になり、わたし自身の細腕では意趣返しもならず、泣き寝入りというわけか」
 「無論、あんたの子飼いにいつ闇討ちされるかと、びくびくして暮らすことになるが、昔から朱砂には弱くてな」
 慶林が苦笑し、長蘇の頬にもまた苦い笑いがのぼる。
 「―――藺晨の幼馴染を、そんな目に遭わせはせぬ」
 どのみち、泣き寝入りするしかないではないか、と可笑しくなった。 
 少し間をおいて、
 「まあ、そうだろうなあ。―――すまん」
と慶林が詫びる。 
 「あんたがそういう人だと承知していながら、‥‥‥少々卑怯だった」
 長蘇はゆっくりと身体を起こす。乱れた衣を直しながら、さてどうしたものかと長蘇は思案していた。藺晨は何も知らぬ。あれほど用心深く周到な男でも、幼馴染たちのことはつゆほども疑ってはいない。長蘇もまた、何も知らせるつもりはなかった。
 だとすれば。
 (いつまでここに滞在するつもりだろう)
 そう考えると、少し気が滅入る。
 自分が知らぬ顔をしていれば、朱砂はますます苛立つに違いない。悋気が過ぎれば、さすがに藺晨の知るところとなるのではないか。それが不安だった。
 慶林も長蘇の思いに気づいたのか、
 「朱砂にはよく言っておく。このへんで矛を納めておけとな」
そう言って溜息をついた。
 「‥‥‥そうしてもらえると、助かる」
 長蘇はそう答え、少し咳き込んだ。
 「おい。大丈夫か」
 慶林が気遣って、丸めた背をさすってくれる。
 「‥‥‥大したことはない」
 情交に及びはしたが、慶林はずいぶん身体を気遣ってくれていたと長蘇にはわかっている。そうでなければ、今頃こうして起き上がれはせぬはずだ。
 長蘇は牀台からそっと足を下ろした。
 「おい?」
 「部屋に戻る。先に帰っておらねば、藺晨が心配する」
 長蘇がそう言うと、慶林は慌てて身仕舞いする。
 「一人じゃ歩くのもつらそうだ。部屋まで送ろう」
 「―――すまぬ」
 そう言って微笑むと、慶林はほとほと呆れたような顔をした。
 「謝るのはこっちだろうが。本当に悪かった。まあ、俺はいい思いをさせてもらったが」
 ばつの悪そうな照れ笑いをして見せる慶林に、長蘇は苦笑を返した。
 「これぎりで、勘弁してほしいものだな」
 「当たり前だ。藺晨に顔向けできん」
 それを聞いてほっと膝から力が抜けかけるのを、慶林の腕が支えてくれた。

 あと幾日か。
 やり過ごせれば、それでいい。
 慶林はもう、朱砂に与することもなかろう。
 (なるだけ、飛流と一緒にいれば)
 どうにか無事に過ごせるはずだ。

 藺晨から、友を奪いたくはなかった。




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~ Comment ~

>>ymkさま

いえいえ、コメント等、どこにつけていただいても結構なのですよ♡
色々と、時間的にもメンタル的にも追い込まれていて、
そのせいで却って量産しちゃってます・・・・・(^^;;;;

ほんとに、コメントいただけて嬉しいです。
わたしは、「これが琅琊榜だ! わたしの琅琊榜はこうだ!」
と主張したいわけでは決してないんです。
琅琊榜が大好きで大好きで、毎日琅琊榜のこと考えてたら、
こんな場面も浮かんできちゃった、あんなのも、そんなのも・・・・・
って、そういうのをつないでお話にしてるだけで。
で、それに共感して下さるかたがいるのであれば
こんな嬉しいことはないです♡
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