琅琊榜

蝉蜕16 (『琅琊榜』 #54以降)

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一話でさらっと終わるエピソードのつもりが、またまた長引いて17話へ雪崩れ込みます


 「何を怒っている」
 藺晨は言った。
 「なにも」
 長蘇はそう答えたが。
 (わたしの眼は、節穴ではないぞ)
と藺晨は眉を顰める。
 「怒っているではないか」
 すると長蘇は、
 「怒ってなどおらぬ。怒るわけがない」
と言って、ちゃんと微笑んで見せた。潤んだような瞳が、穏やかに細められる。
 「‥‥‥おかしなやつだな」
 確かに怒っていると思ったのだが。
 「なら、よい」
 すこしほっとして部屋を出ようとした藺晨は、しかし長蘇に呼び止められた。
 「―――藺晨」
 「なんだ?」
 振り返ると、長蘇の眼がじっと自分を見つめていた。
 「琅琊閣へ‥‥‥帰ろう」
 長蘇は、そう言ったのだ。
 一瞬、言葉の意味を計りかねた。それから、困惑する。
 「いきなり何だ? 来たばかりではないか」
 藺晨が笑うと、長蘇はうつむいて、
 「‥‥‥帰りたい」
と小さく呟いた。長蘇の中でも葛藤があるのか、その白い指先が、袖口をしきりに揉んでいる。
 藺晨は首をひねった。あれほど機嫌がよかったものを。
 「‥‥‥どれ、脈を診よう」
 長蘇の手をとろうとしたら、さっと身を躱された。
 「そうではない」
 「なら、何だ? わけがわからぬ。まるで子供ではないか」
 藺晨が呆れてそう言うと、長蘇自身も苦笑いした。
 「もう、いい」
 長蘇は微笑って、牀台に腰を下ろした。
 ふと‥‥‥、その微笑が痛々しく見えて、藺晨は長蘇の前にしゃがんだ。
 「―――わかった。よしよし、お前のしたいようにしよう」
 小さい子にするように頭を撫でてやる。が、長蘇は微笑を浮かべたまま、言った。  
 「すまぬ。本当にもうよいのだ。わたしがどうかしていた」
 ひんやりした唇が額に押し当てられて、藺晨はもうそれ以上、何も言えなくなった。



   * * *


 
 鳳栖溝を発って、藺晨は昔馴染みらの元へ長蘇と飛流を伴った。
 長蘇はかつて、火寒の毒を抜く治療のあとに、一度ここを訪れたことがある。藺晨とは親の代からのつきあいだという、未名、慶林、朱砂らとも、その折に顔馴染みになった。皆、江湖の者らしく豪快で情義に厚い連中であった。ことに、藺晨が物心ついたときには既にお婆であったという頂針婆婆の激辛落花生は、長蘇をいたく喜ばせたものだ。
 藺晨はその後も、遠出のついでに度々この地へ立ち寄っていたようだが、長蘇は十余年ぶり、飛流にとっては初めて訪れる場所である。
 頂針婆婆は昔と変わらずやっぱりお婆であったが、あとの連中はちゃんと藺晨や長蘇と同じだけ歳を重ねて見えた。
 藺晨は気の措けぬ仲間たちが相手とあって、すっかり寛いでいる。飛流も楽しそうで、そんな二人を見るのは、長蘇にとっても嬉しいことだった。

 「ちょいとお前さんがた、手伝っておくれな」
 頂針婆婆がそう言って、皺だらけの手をひらひらさせて招く。
 「餓鬼どもに落花生を配るのさ」
 「子供にあんな辛いものを?」
 長蘇はそう尋ねたが、
 「うちの連中は、歯さえ生えりゃアあれを貪り食って育つのさ。一本筋の通ったしゃきっとした大人に育つって寸法だよ」
あたしも、奥歯はまだあるからね、と前歯の何本か抜け落ちた口を大きく開いて婆婆は笑う。
 婆婆は、身寄りのない子供を大勢養っていた。無論、婆婆ひとりの甲斐性で養えるものではない。この辺りの侠どもが、肩入れしてくれているのだ。渠らの中には、やはり婆婆の手によって育てられたものもいる。未名も、その一人だ。いつもならその未名に手伝わせるのだが、と婆婆は言った。今日は出かけていておらぬのだと。
 「餓鬼の相手ならば、飛流だけでうんざりだ」
と、藺晨が懐手で顔をそむけた。
 「そう言わず、樽だけでも運んでやっては? あとはわたしが婆どのの手伝いをしよう」
 長蘇がそう言うと、
 「お前が?」
と藺晨はあきれ顔をした。
 「さすがは宗主。人間ができておいでだ。少閣主もちっとは見習うんだね」
 婆婆にそう言われて藺晨は溜息をついた。
 「やれやれ。こんなことなら長蘇の言う通り、さっさと琅琊山へ引き揚げるのであった」
 深く嘆息した藺晨の言葉を、婆婆が聞きとがめる。
 「おや‥‥‥、宗主は帰りたいと?」
 ちら、と婆婆に見上げられて、長蘇は慌てて微笑んだ。
 「なんでもないのだ、婆どの。ふと里心がついて言ってみただけのこと。―――ああ、樽は向こうに?」
 婆婆の気を逸らせようと、先に立って歩き出す。
 「おお、そうそう。あれを運んでもらわねば」
 背を丸くして、婆婆がちょこちょことついてくる。長蘇は藺晨を振り返った。
 「頼むぞ。力仕事は、さすがにわたしではできかねる」
 「当たり前だ。その細腕では、一樽どころか一籠すら運べるものか」
 返す言葉もなく、長蘇は苦笑いした。



   *


 「おいこら。汚い手で触るな」
 藺晨が喚く。さっきから、うるさいことこの上もない。たまりかねて、長蘇は言った。  
 「藺晨。いちいち目くじらを立てるな。あとで着替えればすむ話だろう」
 「そういう問題ではない。気持ちが悪くはないのか。あの青洟だらけの顔を、隙あらばこすり付けてこようとするのだぞ?」
 藺晨はさも嫌そうに、虫でも払うかの如く、扇子で子供たちを追い払っている。
 「こすり付けられる前に、鼻をかんでやればよかろう」
 そう言って、長蘇は袂から懐紙を出して、藺晨が指さした子供の洟を拭いてやった。
 藺晨が忽ち不機嫌な顔をこちらへ向けてきた。
 「お前、普段は何でもわたし任せでふんぞり返っている癖に、なにゆえこんな時だけそう甲斐甲斐しいのだ。婆アめの機嫌をとって、落花生を余分に貰って帰る算段か」
 「いじましいことを言うな。恥ずかしい」
 確かに、日頃は何でも藺晨に頼って、あまり自分で動くこともないが。それは、自分が動く前に、藺晨が何から何まで手を出してくれるからだ、と思う。長蘇の為には、驚くほどまめな男なのだ。
 「少閣主、宗主はお前と違って子供に優しいのさ」
と、頂針婆婆が笑った。
 「ご覧。この子らも宗主になついている」
 落花生をたらふく食べて、腹がくちくなった子供たちは、見慣れぬ客人に興味津々で、長蘇にまとわりついてくるのだ。初めの内こそ遠慮がちであったのが、あっという間に馴れて、我先に長蘇の膝に上がってこようとする。
 「お前たち、この男はお前たちの考えているよりずっと軟弱なのだ。手荒に扱ってはならん。よいか、壊れ物を扱うようにそっと‥‥‥」
 藺晨の講釈なぞ、誰も聞いてはいない。皆が口々に、長蘇の名を訊き、齢を尋ね、住まいを問い、長蘇の方は耳がふたつでは間に合わぬほどである。
 「蘇哥哥、いた!」
 不意に窓から、ぶらんとさかさまに飛流の顔がぶら下がった。
 「うわ!」
と子供たちが驚いて一瞬身をすくめる。
 「入っておいで、飛流」
 長蘇が穏やかに声をかけるのを見て、子供らは安心したのだろう、忽ち長蘇の膝から窓辺へと一斉に駆け寄った。
 困惑気味に、飛流は子供たちをかき分けながら、窓から入ってきた。
 「哥哥。哥哥はどうして窓から来たの? どうして入り口から入らないの?」
 「哥哥はなんて名前なの? 宗主さまとは友達なの?」
 今度は飛流が、質問攻めにあっている。
 長蘇は笑って、ようやく部屋全体をゆったりと見渡した。
 
 ふと。
 部屋の片隅で、人形遊びをしている子供が目に入った。
 齢の頃は五つか六つ。男の子のようだが、綺麗な顔立ちをしている。
 さっき皆が落花生に群がったときに、この子は混じっていただろうか。
 飛流にまとわりついている一群の、いちばん後ろにいた女の子に、尋ねてみた。
 「あの子は?」
 女の子は、人形遊びをしている子供をちらっと見て、
 「阿傻だよ」
と答えた。
 「―――阿傻」
 「莫迦で間抜けな『傻子』だから、阿傻」
 女の子は屈託なくそう言って、また飛流の腕にぶら下がりに行った。
 傻子だから阿傻とはまた、随分な名前だと思うが、どうやらそれで通っているのだろう。
 長蘇は立ち上がって、阿傻のほうへ歩み寄った。
 「おいで、阿傻。落花生がまだあるからおあがり」
 そう言ったが、阿傻は素知らぬ顔で人形を並べている。
 「ああ、宗主」
と、頂針婆婆が気づいてそばへ来た。
 「その子はね、落花生を食べると体が痒くなったり、息が苦しくなったりして、そりゃもう一騒動になるのさ」
 そばで聞いていた藺晨が、ぷっ、と笑う。
 長蘇は眉をひそめた。
 「藺晨‥‥‥」
 頂針婆婆が訝し気に首をかしげる。
 「なんだい、どうかしたかい?」
 藺晨が笑って答える。
 「ここに、榛子で同じようになる男がいるものでな」
 そう聞いて、頂針婆婆が目を丸くした。
 「あれまあ、そうなのかい。聞いておいてよかったよ。うっかり食事に入れでもしたら、大ごとになるところだったじゃないか」
 頂針婆婆がそう言い、藺晨は肩をすくめた。
 「あんたの料理に榛子なんぞは入っていたことがあったか?」
 「失礼だね。あたしだって、落花生ばっかり食べて暮らしているわけじゃないのさ。あんたの爺様は榛子が大好きだったからね、爺様が阿傻くらいの時分には、よく作って食べさせてやったのものさ」
 「‥‥‥あんた、一体いくつなんだ?」
 呆れた藺晨に、頂針婆婆はにやりと笑った。
 「いやだね、まだまだほんのひよっこだよ」
 音に聞こえた琅琊閣閣主も、頂針婆婆の前には形無しである。
 


   * * *



 すこし早めの食事のあと、藺晨が今夜は未名らと飲み明かすというので、長蘇は飛流をつれて一足先に引き上げることにした。
 部屋へ戻ろうと庭を横切るとき、夕月の白く美しいさまに目を奪われた。ついついそこに佇んで、黄昏色の空に薄墨が流され、やがてその色を濃くして行くのを、ぼんやり眺めていたのだ。
 すると。

 「おや、宗主どの。こんなところでひとりぼっちかい?」
 背中から、そう声をかけられた。
 ああ、と長蘇は振り返って微笑んだ。
 「飛流が雉鳩を追って行ってしまったので」
 「それはそれは、お気の毒に」
 男物の衣を身に纏った女が、そう言って笑った。
 ―――朱砂、である。
 三十にはなるまい。
 取り立てて美人というわけではないけれども、くっきりとした目鼻立ちに、細身だがめりはりのある体つきをした女で、地味な男装が却って華やかな女っぽさを際立たせている。
 「ひとりでお部屋までお戻りになれて? なんなら、その綺麗なお手をとってさしあげましょうか?」
 どことなく、意地の悪い口調だった。女にしては低めの落ち着いた声だ。
 前にここを訪れたときには、朱砂はまだ十代の小娘で、少年のようにのびやかでさばさばして、長蘇も好感を持っていた。あれから十年以上たったが、朱砂は嫁ぎもせず、やはりこうして男のなりをして、江湖の女猛者を気取っている。
 自分の周りには、強い女が多いことだ、と思う。霓凰を筆頭に、夏冬しかり、宮羽しかり。
 「いや、それには及ばない」
 朱砂の悪意には取り合わず、長蘇は仄かに微笑んで見せる。
 朱砂は幾分鼻白み、小さくふんと笑った。
 「江左盟の宗主だなんて納まってたって、武功のひとつもないんじゃさぞかし肩身も狭かろうねェ。琅琊閣の後ろ楯があって幸いだこと」
 痛いところを衝かれた―――、というより、ああ、やはりという思いの方が強い。
 武功もなく、病がちの身で江左盟を束ねていく葛藤については、もう十年も前に折り合いをつけた。江左盟の者たちは、ちゃんとこの梅長蘇を宗主と仰いでくれている。そのことで今更なにを言われようが、どうということはなかったが。
 『琅琊閣』を引き合いに出してくる朱砂の気持ちを、思う。思いはするが、長蘇とて。 
 「そうだな。―――藺晨あってのわたしには違いあるまい」
 真摯にそう頷いて見せた途端、朱砂が怒りを露わにした。
 「気色の悪いことをお言いでないよ!」
 そう言われて、長蘇は初めてわずかに狼狽の色を浮かべた。
 「あんた、自分がどんな目で藺晨を見てるかわかってるのかい? はたにいるこっちが恥ずかしくなるような、いかがわしい目つきだよ」
 朱砂が憎々し気にそう叫び、長蘇はほんの一瞬目を瞠った。が、すぐにその目を伏せて、うっすらと苦笑を浮かべる。
 「―――困ったな。鏡を見ながら歩くでなし」
 そんなふうに言われたのは、初めてだった。
 考えてみれば―――、自分は、自分を大事に思ってくれる者たちの中でぬくぬくと過ごしてきたのだ。仇敵を除いては、誰もが自分の味方であり、自分にひどく甘い。こんな辛辣な言葉を浴びせられることは、日頃まずなかった。
 相手は自分より年下の、しかも女だ。何を言われたとて、いちいち腹を立てる気にはならない。霓凰辺りがそばで聞いていたら、忽ち食ってかかって自分を守ろうとしてくれるだろうが、男の自分が女の朱砂に何を言い返すというのか。
 第一 ―――、朱砂の眼からそう見えると言うのなら、それはきっと、そうなのだろうと思えた。 

 不意に、朱砂が眉を寄せて空を見上げた。 
 「おや。忠実な番犬が戻ってきたようだ。―――あたしは退散するとしよう」
 さっと身をひるがえし、もうあとも見ずに朱砂は庭を去っていった。

 「おかえり、飛流。鳩は逃がしてやったか?」
 すとんとそばに降り立った飛流に、長蘇はそう笑いかけた。
 「―――うん」
 飛流はうなずいたが、少し怪訝そうな顔をしている。
 「‥‥‥部屋へ、戻ろうか」
 うん、と再び頷きはしたものの、飛流は動こうとしない。
 どうしたのだ、と振り返った長蘇に、飛流は言った。
 「蘇哥哥」
 「ん?」
 飛龍の眼が、じっと見つめてくる。
 そして。

 「―――別哭了‥‥‥」

 長蘇は驚いて、何と答えたらよいのかわからなかった。
 ただ、飛流を見つめ返し、それからしばらくして漸く瞬きをした。
 「おかしなことを。蘇哥哥は泣いてなどいないだろ?」
 「ん‥‥‥」
 飛流は自分でも不思議に思うのか、返事に困って、ただしげしげと長蘇の顔を見ている。
 長蘇は、にっこりと微笑んでやった。
 だが。
 飛流は納得のいかない様子で、首をかしげる。

 「―――でも。やっぱり、別哭了」

 長蘇は閉口して、くすくすと笑った。
 「おかしな子だ、飛流―――」

 月は白々と庭を照らし、長蘇と飛流の影を薄く長く浮き上がらせていた。




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