琅琊榜

蝉蜕14 (『琅琊榜』 #54以降)

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これでやっと一段落。
終盤、ちょっと自分自身の気分の落ち込みとかがあって、
どうなることかと思いましたが、無事着地いたしました。


 「長蘇どの。あまり無理はせぬようにな」
 洞窟の外で、提盒を受け取る長蘇の手に視線を落として、老閣主は眉を曇らせた。長蘇は慌てて袖を伸ばす。
 細い手首には、また新しい痣がくっきりと浮かんでいる。
 「そなたは差し詰め、餓えた虎の檻に投げ込まれた生き餌のごときもの。それを重々心得ねば」
 「―――存じています」
 長蘇はそう言って微笑んだ。
 「せめて、夜の内だけでも庵へ戻っては」
 少しばかり長蘇に気を与えてから、老閣主がそう勧める。が、長蘇は穏やかにかぶりを振った。
 「藺晨の辛いときこそ、そばにいたいのです。こうしてひとつ部屋で寝起きできるだけで、わたしは幸せです」
 
 老閣主を見送って洞窟の中へ戻ると、藺晨の眼がぎらぎらとしてこちらを見ていた。
 「―――何を‥‥‥話していたのだ」
 呻吟するような声だ。長蘇は恐れず、そばへと近づいた。
 「特に何も。いつも通り、食事を受け取っただけだ」
 そう言って、提盒を見せる。
 鎖につながれた藺晨から、少し離れた場所に提盒を置いた。あまり近くに置けば、うっかりすると藺晨に蹴散らかされかねぬのである。
 案の定、藺晨は千切れんばかりに鎖を張って怒りを露わにした。
 「嘘をつけ! ―――あんな年寄りにまで色目を使うのか」
 目を血走らせ、いっぱいいっぱいまで身を乗り出してくる。
 「藺晨、よせ。枷が食い込む」
 枷に傷つけられて血の滲む手首へ、長蘇は手を伸ばそうとした。
 「うるさいっ!」
 藺晨がその手を強く振り払う。
 その拍子に、鎖が長蘇の頬を打った。
 長蘇は頬を押さえ、その場にうずくまる。
 藺晨の錯乱には波があった。今のような時には、何を言ったとて通じぬのだ。ただ、黙って、藺晨の怒りが収まるのを待つしかない。
 「長蘇‥‥‥」
と、藺晨の声がして、うなだれていた長蘇は顔を上げた。  
 「長蘇‥‥‥、長蘇‥‥‥。すまぬ。痛かったろう。‥‥‥傷を見せてみろ」
 藺晨はひどく狼狽えてそう言った。常はなにごとにも余裕綽々のこの男が、こんなにも感情の波に振り回される姿が痛々しい。
 「―――なんでもない」
 長蘇は頬から手を離し、微笑んで見せた。忽ち、藺晨が泣き出しそうな顔をする。
 「‥‥‥少し、腫れている」
 「大したことはない。じきに引く。―――お前の苦痛にくらべれば、これくらいの痛みが何だというのだ」
 つい、傍へ寄って、藺晨のやつれた頬に触れずにいられない。

 今日で、七日。
 来る日も来る日も、藺晨は痛みと幻覚に吼え狂い、鎖を引きちぎろうと暴れ、やがて疲れ果てて眠るのである。
 日の内、いくらかは正気に戻る。むしろ、そんなときのほうが、藺晨は苦し気だった。
 「これ以上、見るな。頼むから出て行ってくれ。‥‥‥全て終わるまで、わたしをひとりにしろ」
 藺晨はそう乞うたが、長蘇はどうしても去ることができなかった。
 気脈が引き裂かれるほどの苦痛に、血を吐いて暴れる藺晨を、とても一人にはしてゆけぬ。
 藺晨が荒れ狂う間は、ただ見ていることしかできなかった。長蘇のか弱い身体では、抱きしめて宥めてやることさえできぬ。ただ、身を固くして、藺晨の罵倒に耐える。そして、藺晨がぐったりと静かになってから、その汗を拭いてやり、乱れた髪を手櫛で整えてやる。
 目を覚ませば、老閣主の運んでくれた食事を、一口一口食べさせた。
 「お前の好きな団子汁だ。さあ、まだ温かい」
 一匙ずつ掬っては口許に運んでやるのだ。藺晨は大人しくそれを啜った。
 具合のよい時には、わずかながら穏やかに会話もできる。
 今頃、飛流はどうしているだろう、などと、話したりするのだ。きっとまた、点心をつまみ食いして吉さんに叱られている、そう言って笑いあいながら、そんなはずのないことは、二人ともわかっていた。飛流はきっと、戻らぬ二人を案じて食事も喉を通るまい。黎綱や甄平もさぞ気を揉んでいる。そうと知りながら、ふたりで寄り添って笑いあった。常と変わらぬ穏やかな琅琊閣での暮らしを、ただひたすらに思い描くのだ。
 そんなさなかにも、不意に藺晨は豹変する。油断して傍に寄り添っているとき藺晨に発作が現れれば、長蘇はひどい暴力にさらされることになった。
 おとずれては消える幻覚に、藺晨は怒り狂う。蕭景琰が、飛流が、藺晨の眼には見えるのだと言う。こんなところまで連れ込んで、情を通じてみせようというのかと、そう言って藺晨は長蘇を責めた。

 それでも、―――離れられぬのだ。
 藺晨のそば以外、自分の居場所は考えられない。

 その夜の藺晨の苦しみはことのほか激しく、やがて疲れて力を失った藺晨の身体へ、長蘇はとりすがって泣いた。
 ―――もう、見ていられない。
 この縛めを、解いてやりたい。だがそれは できぬのだ。
 手枷の鍵は、老閣主が持っている。
 せめて、藺晨の手の届くところにいてやりたいと思った。
 


 
   * * *




 「いい加減にしろ。貴様の顔など見たくもない」
 肩で息をしながら、藺晨は言った。
 「出ていけ」
 本当に憎らしいのか、自分のそばから遠ざけるための愛想尽かしなのか、もはや自分でもわからぬ。
 すがってきた細い身体を、渾身の力で藺晨は振り払った。
 軽い身体はたやすく飛ばされ、岩壁に強く叩きつけられた。
 激しく背をうちつけた長蘇が、血を吐いて倒れ伏す。
 藺晨はぎょっとして、鎖の許す限り身を乗り出した。
 「長蘇!」
 「‥‥‥平気だ」
 長蘇は身体を起こして、袖口で口許の血を拭った。昼間、鎖で打たれた頬は、紫色に跡が残っていたが、その頬に淡く微笑が浮かぶ。
 「何が平気だ。来い! 診てやる」
 藺晨がそう叫ぶと、長蘇は嬉しそうな顔をした。
 半ば這うようにして、長蘇はそばへ戻ってくる。こんな酷い目に遭っても、まだ長蘇は自分を怖れず、こうして寄り添おうとするのだ。
 藺晨は腕を伸ばして、長蘇の身体を抱き寄せた。
 腕の中の、長蘇の息が浅い。
 「苦しいか?」
 「なんでもない‥‥‥」
 微笑もうとして、長蘇はまた弱々しく咳をする。長蘇の薄い胸にそっと手を当てて、藺晨は顔を曇らせた。
 肋が少なくとも二本ばかりは折れている。血を吐いたところを見ると、肺の臓も痛めたに違いない。
 「藺晨‥‥‥」
 長蘇は幸せそうな表情で、胸にすがってくる。
 「喋らなくていい」
 そう言ったが、長蘇は笑ってかぶりを振った。
 「‥‥‥わたしが、話したいのだ」 
 細い手が、藺晨の手を握る。
 「藺晨‥‥‥、お前の身体がよくなったら‥‥‥、今度こそ、江湖を、遊歴しよう‥‥‥」
 長蘇の眼が、うっとりと細められる。
 「長蘇―――」
 「‥‥‥ここを出たら、‥‥‥飛流を呼び寄せて、そのまま旅に出るのだ‥‥‥」
 楽しみでならぬ、と長蘇は心底嬉しそうな顔をした。
 「無茶を言うな。こんな体で旅などできるものか。充分、養生してからだ」
 藺晨がそう言うと、長蘇は可笑しそうに笑った。
 「わたしなら、平気だ‥‥‥。なにしろ、名医がついている‥‥‥」
 名医が聞いてあきれる、と思った。元気にしてやるどころか、このありさまだ。長蘇はもう、ぼろぼろではないか。あれほど長蘇をここに近づけぬよう頼んでおいたのに、父にも腹が立ってしかたがなかった。
 それでも、長蘇は白い顔にはんなりとした微笑を浮かべる。

 「‥‥‥お前がいれば‥‥‥、十人の、医者にも勝る‥‥‥」
 はっとした。
 いつか、これと同じ台詞を聞かなかったか。
 ―――そうだ。
 長蘇が、廊州を出て、金陵に向かう日。
 あの時の長蘇の眼差しは、生涯忘れまい。
 
 思えば。
 いつの日も、長蘇は全霊で信頼してくれたのではなかったか。
 宿願にとらわれ、蕭景琰だけに心を向けていたあの頃でさえ、長蘇は誰よりも自分を信じ、頼ってくれた。ほかの誰にも見せぬ顔で甘え、子供のように拗ねても見せた。
 何にも勝る信頼を、自分に寄せてくれていたではないか。

 愛しさが、体の底から沸き上がってくる。

 何を疑う。
 何を惧れることがあるだろう。
 この信頼のあるかぎり、長蘇を失うことは決してないのだ。



 *



 風で揺れる菰の向こうから、薄日が差している。
 また―――、朝が来たのだ。
 「‥‥‥長蘇。朝だ」
 腕の中の長蘇に、慈しみを込めてそう声をかけたが。
 「長蘇?」

 ―――動かない。
 ―――まさか。

 死んでいるのか?
 殺してしまったのか?

 藺晨は目をみはり、腕の中の長蘇を見た。
 長蘇は動かず、その身体は冷たい。

 まさか。

 ―――獣のごとき咆哮が、己の口から迸った。

 まさか、まさか、まさか。

 長蘇のために、この苦しみに耐えたのだ。
 その長蘇を死なせたのでは、なんにもならぬ。

 長蘇の冷たい頬を撫でる。
 痛々しい痣。
 口の端に、わずかに黒くこびりついた血。
 
 「長蘇‥‥‥」
 今一度、恐る恐る名を呼んだ。

 微かに。
 長蘇の唇が動いた。  
 「長蘇!」
 まだ、―――息があるのだ。

 不意に、菰が捲りあげられた。
 父である。
 「爹!」
 藺晨は叫んだ。
 ぐったりと動かぬ長蘇を見て、父も顔色を変えた。


 「爹! 頼む! 鎖を解いてくれ! 手枷を外してくれ! このままでは治療してやることさえままならぬ」
 藺晨は叫んでいた。
 慌ててそばに膝をつき、長蘇の具合を確かめた父が、苦い表情をして藺晨を見る。
 「まだ無理だ。縛めは解けぬ」
 父はそう言ったが、それでも承知できはしなかった。
 「頼む。爹。―――頼む」
 藺晨は父に、哀願した。



   * * *



 「全く、無茶をするものよ」
 老閣主の小言が、遠く聞こえる。
 ここは、どこだったろう。
 頭がぼんやりとして、すぐには思い出せぬ。
 ただ、一番愛しいものの温もりに包まれていることだけはわかった。
 「‥‥‥藺晨‥‥‥」
 吐息のような微かな声で、長蘇はその名を呼んだ。
 「ああ、長蘇どのがお目覚めのようだな」
 老閣主の声が、俄かに明るくなる。
 長蘇はゆっくりと、目を開けた。
 息を深く吸い込もうとして、胸に酷い痛みを感じる。
 「長蘇」
 痛みに身をすくめた途端、気遣わしげな声でそう呼ばれた。
 視線を上げると、愛しい顔がそこにある。
 
 そうだ。
 あの時‥‥‥。

 洞窟の奥で、鎖に繋がれた藺晨の腕に抱かれたまま、自分は息絶えるかと思ったのだ。
 藺晨が、必死で老閣主に懇願していた。
 鎖を、外してくれと。

 老閣主の迷いを、しかし、藺晨は待たなかった。
 枷にも鎖にも、藺晨はもはや頓着せず、ただ自分の身体を抱きしめてくれたまま、全霊かけて気を注ぎ始めたのだ。

 あれほどの熱を、長蘇はかつて知らない。
 すでにどこまでが自分の身体で、どこからが藺晨の身体かもわからず、どこまでが自分の命で、どこからが藺晨の命かさえわからず、ただ長蘇はその熱を受け入れていた。

 互いを失っては、もう生きてはゆけまいと、―――そう思った。
  
 ここは、老閣主の住まう庵の内だ。
 ひとつ褥に、藺晨とふたり。
 「藺晨、身体は―――」
 そう尋ねると、藺晨が微笑み、老閣主の笑い声が降ってきた。
 「こやつめ。わずか七日で、毒を抑え込みおったわ」
 老閣主の声は、満足げだ。
 「それでは‥‥‥」
 「もう心配は要らぬ」
 藺晨が頭を抱き寄せてくれる。
 
 視界が。
 ―――滲んだ。

 あれほどの思いをして救蘇丹の毒を抑えたというのに、藺晨はまたも根こそぎ、己の気を与えてくれたのだ。迸るほどの気を、一気に注いでくれた。
 「まさか、また薬を?」
 不安が頭をよぎる。
 藺晨が苦笑いした。
 「ああ。飲みはしたが―――」
 薬の中和のためにあれほど苦しまねばならぬのは、最初の一度だけだと言う。
 「まことに?」
 また、自分を安心させるために、たばかっているのではあるまいかと、長蘇は眉をひそめた。
 「安心せよ、長蘇どの」
 老閣主の快活な声が、不安を払ってくれる。
 「毒を抑える度に多少の苦痛は伴うだろうが、なに、こやつにはそれくらいで丁度良い。そうでなければ、すぐ調子に乗るゆえな」
 見上げると、今日は明るい黄色の花の束が、老閣主の腕に抱かれている。それが活けられるのを見ながら、長蘇は少し可笑しくなった。飛流が花を摘むのは、藺晨に教えられたためだ。そして、その藺晨は。
 「ありがとう存じます―――、老閣主」
 心の底から、長蘇はそう言い、老閣主がゆったりと微笑む。
 「親父にだけか?」
 藺晨が不満げな声を出す。
 長蘇は笑った。
 「言わずとも、わかるだろう?」
 そうは言ったものの。
 言葉にせねばならぬことも、ある。そう思い直して、長蘇は今一度、口をひらいた。
 「感謝、している―――」
 愛している、と加えたかったが。さすがに老閣主の前では言えぬ。こうして共寝しているだけでも、気恥ずかしいのだ。もっとも、この庵には、老閣主のものを除けば、牀台はこれひとつなのだから、しかたがないが。

 老閣主が言う。
 「わたしは夕餉の支度でもするとしよう。そなたらは、当分、絶対安静だ、よいな」
 簾の戸の向こうへ消えた老閣主を、藺晨が笑った。
 「あの狸親父め、気を利かせたつもりだな」
 そんな憎まれ口も藺晨らしくて、長蘇は嬉しくなった。

 ふと、藺晨が眉を上げる。
 「お前、今度は約束を反故にすまいな」
 「え‥‥‥」
 長蘇が首をかしげると、藺晨の頬に、にやりと笑みが刷かれた。
 「今度こそ、飛流と三人で旅をすると。お前がそう言ったのだぞ?」
 あ、と長蘇は目を瞠る。
 そうだ。確かにそう言った。
 「―――行ってくれるのか?」
 おずおずと、そう尋ねると。
 「当たり前だ。わたしはもう何年も前から、それを望んできたではないか」
 ぎゅっと鼻をつままれて、長蘇は眉を寄せた。
 「―――いつ?」
 鼻をつままれたまま、そう尋ねる。藺晨は苦笑した。
 「まずは、わたしの身体が回復してからだ。せめて、お前を抱き上げてやれるくらいにはな」
 なに、そう時はかからぬよ、と藺晨は言う。

 「じきに、騒々しくなるぞ」
 藺晨のその言葉をいぶかしむと、
 「琅琊閣へ、信鴿を飛ばしたゆえ」
と、笑みを含んだ答えが返る。
 「飛流が来るのか?」
 嬉しくなって長蘇がそう尋ねると、藺晨はうなづいた。
 「黎綱や甄平も、ついてくるやもしれんがな」
 だが、彼奴等は旅には連れて行ってやらん、と藺晨は意地悪く笑った。
 「無論だとも」
 黎綱と甄平はまた悔しがるだろうが。

 ――――楽しみで。
 楽しみでならぬ、と長蘇は思った。
 
 きっと、幸せな旅になる。
 
 
 長蘇は両腕をいっぱいに伸ばして、藺晨を抱きしめた―――。


 


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