琅琊榜

蝉蜕13 (『琅琊榜』 #54以降)

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13で一段落するかと思ったらまだしなかった(^^;

 夜が明ければ。
 夜が明けさえすれば。
 そう思って、夜ごと長蘇は耐えた。
 馬を飛ばせばさほどもかからぬ梅嶺までの道のりを、長蘇の身体を休めながら、幾日もかけて辿る。
 夜になれば、藺晨は長蘇を責め苛んだ。薬のせいだと分かってはいても、藺晨の罵りは長蘇の心を深く刺し、そしてまた身体も手ひどく傷つけられた。
 むごい仕打ちにあいながらも、藺晨に寄り添えるだけで長蘇の心は満たされる。わけもわからず放っておかれた日々に比べれば、どれほどの苦痛にも耐えられた。
 そうして思うのだ。朝が来れば、優しい藺晨が戻る。傷ついたこの身をいたわってくれる。それが何より幸せだった。 ただ、その時、藺晨はひどく悲しい顔をして己を責める。それだけが、辛かった。
 藺晨はなにも悪くはないのだ。藺晨が悲しめば、長蘇もまた切なくてならない。

 「今日はあそこで休むとしよう」
 山中の杣小屋を見つけて、藺晨は馬を降りた。その腕に抱き取られる格好で、長蘇もまた馬から降りる。
 支えられて小屋へと足を踏み入れながら、長蘇は藺晨の様子を窺った。
 もう、日が暮れる。夜が来れば、藺晨の苦悶が始まる。
 既に、藺晨の口数は少ない。昼間は努めて軽口など叩くが、夕刻になると無口になった。心の乱れを抑えるのでいっぱいいっぱいなのだろう。
 ふたりとも、疲れきっていた。
 「わたしの辛抱がきく内に、少し眠っておけ」
 藺晨が苦笑混じりに言った。
 小屋の片隅に腰を下ろし、藺晨の胸に頭を預ける。
 ―――幸せだった。
 傷つき、疲れ果ててはいても、こうして藺晨の胸で眠れることが、幸せでならない。ずっと当たり前だと思っていたことが、実はこれほどにも尊いのだと、長蘇は初めて知った。
 

 いくらも眠らぬうちに、手荒く床にたたきつけられた。
 「いつまで眠っている!」
 髪を鷲掴みにされ、引きずり起こされる。
 また、身も心も苛まれるのだ。
 (夜が明けさえすれば)
と、今宵も思う。
 いや、もう夜など明けずとも構わない。こうして、藺晨が自分を見ていてくれるなら。自分が藺晨を見つめていられるなら。
 ただ。
 藺晨が一番苦しんでいる―――、そのことだけが、悲しかった。



   * * *



 「爹! 爹!」
 大声で呼ばわりながら、庵の扉を開ける。
 中は藻抜けの殻だ。
 「あの糞親父め! 肝心なときにおらぬとは!」
 藺晨がそう吐き捨てたとき、
 「誰が糞親父だ」
と、背後から声がした。
 「爹‥‥‥」
 振り返ると、白い花の束を抱いた父が立っていた。
 相変わらず、優雅で気障な男だと思う。
 その父が眉を顰めた。
 「長蘇どのを連れてきたのか。―――無茶をする」
 藺晨が肩に負うた長蘇に目をやり、父はため息をついた。
 「無茶は承知の上だ。―――部屋を借りる」
 部屋と言っても、狭い庵の内を簾の戸で立て切っただけの奥の間へと、長蘇を運ぶ。
 牀台へ寝かせた長蘇へと、花の束を卓に置いた父が歩み寄ってきた。
 「どれ、診てやろう」
 藺晨は思わずそれを遮った。
 「余計な世話だ。長蘇はわたしが診る。わたしが長蘇を助けるのだ」
 薬のせいだろうか。父にさえ、長蘇に触れてほしくはなかった。
 父はむっとするでもなく、少し呆れたように首を傾げる。
 「ならば何の用で来た」
 藺晨は瞬時言葉につまり、それからしかたなく言った。 
 「わたしを‥‥‥、診てもらいたいのだ」
 「は?」
 父は僅かに目を見はる。情けなさに、藺晨は顔を背けながら請うた。
 「わたしを、どうにかしてくれ。でなければ、わたしは長蘇を殺してしまう」
 父が眉をしかめた。
 「ややこしいことを。助けるだの殺すだの、いずれかはっきりせよ」
 藺晨はかっとして父に向き直る。
 「助けるに決まっている! それゆえ、長蘇を殺さずにすむように、わたしを助けよと言っている」
 父は、取り乱した藺晨を、困惑したように眺めた。  
 「支離滅裂だが‥‥‥」
 ふっと、父が苦笑する。
 「お前、わたしの言いつけに背いたのだな。薬を、飲みすぎたのであろう?」
 藺晨は、頬に血を上らせた。
 「そ、それゆえ、なんとかしてくれと」
 父は盛大に溜息をつく。
 「あきれたやつだ。自分で墓穴を掘っておいて都合のよいことを」
 「―――頼む」
 もう、恥も衒いもない。藺晨は膝をつき、叩頭した。
 やれやれ、と父が笑う。 
 「よかろう。いずれこうなるのは目に見えていたゆえな」
 その言葉に、藺晨は顔を上げた。
 「爹!」
 大丈夫だ。父が、なんとかしてくれるのだ。
 腹立たしいが、藺晨は父に一目置いている。父が引き受けたからには、全てうまくいく。
 「―――恩に着る」
 藺晨は再び叩頭した。

 これで。
 長蘇を助けられる。

 喜びが、胸を満たした。



   * * *



 「―――老閣主どの‥‥‥?」
 目覚めと同時に、亡き父の友の顔が目に入った。 
 「お目覚めかな」
 花を活けながら、老閣主が微笑む。
 長蘇はゆっくりと、辺りへ視線を巡らせた。あるべき姿が見当たらず、たちまち不安が胸を満たす。
 「藺晨は‥‥‥、藺晨はどうしているのです」
 起き上がろうとする長蘇を制して、老閣主は笑った。
 「面壁させておる」
 「‥‥‥面壁?」
 いぶかしげに、長蘇は問うた。
 「わたしの言いつけに背いた罰だ。半月はそなたに会わせぬ」
 どきりとする。
 「藺晨はなんと?」
 慌てて尋ねたが、老閣主は暢気なものだ。
 「怒り狂っておった。その間、そなたを治療できぬと言って」
 いや、それよりも。
 半月も会えぬのでは、自分のほうが参ってしまう、と長蘇は狼狽えた。
 「―――なに、そなたの治療はわたしがする。案ずることはない。もっともわたしの気では、どうやらあまりそなたの身体にそぐわぬようだ。しばらくは身体が思うようになるまいが、辛抱せよ」
 「それくらいは何ほどのこともありませぬが、その‥‥‥藺晨の身体は?」
 一番気にかかることを、ようやく長蘇は口にした。
 老閣主は、老いてなお美しさをとどめるその顔に、ゆったりと笑みを浮かべた。
 「心配は要らぬ。そなたの、第三層まで至った火寒の毒さえ抜いたわたしを信じよ」
 そう言われては、うなづくよりほかなかった。



   *



 どうにか起きられるようになると、長蘇はまず、父の骸に会いたいと老閣主にねだった。
 ここまで藺晨についてきたのは、無論、藺晨のそばにいたかったせいにほかならぬが、ひとつには父に会いたいという思いも強かった。
 身体の弱った長蘇を慮って、老閣主は渋い顔をしたが、結局は折れてくれたのだ。
 雪を踏み、凍てつく空気の中を、老閣主に連れられて長蘇は歩いた。
 「寒かろう。大事ないか」
 「‥‥‥この辺りの気候には、慣れております。第一、これ以上着込んでは、身動きなりますまい」
 息を切らせながら、長蘇は苦笑いした。
 分厚く重ね着をして達磨のように着膨れした上に、毛皮の外套を纏っている。そうでなくとも体力のない身体だ。雪深い中、歩くのもやっとである。
 途中までは老閣主が橇を曳いてくれたが、目指す窟屋までは少し歩かねばならなかった。
 老閣主に背を支えられ、白く息を吐きながら、どうにか辿り着く。
 「―――ここに、父が?」
 老閣主は頷き、中へと促してくれた。
 おずおずと、長蘇は窟屋へ足を踏み入れた。冷気が、重く滞っている。
 「石楠どのは、あれに」
 眼で指し示されて、長蘇は立ち尽くした。
 「父上‥‥‥」
 氷の、棺であった。
 長蘇はゆっくりと、棺に近づく。
 ―――父が、いた。
 全身に火傷と凍傷を負い、とりわけ頬と手の甲はひどく焼けただれてはいたものの、二目と見られぬほどではない。懐かしい、生前の面影を、とどめていた。
 「―――父上」
 氷の棺の足元に、長蘇は膝を折り、嗚咽した。
 父に、話したいことが、山ほどある。
 あの日の梅嶺から十数年。
 己の身の上に起こったこと。
 耐えがたき思いに耐えて歩んだ日々。
 そしてようやく果たした大望。
 よくやったと誉めてくれるべき声はなく、抱きしめてくれるはずの手も、氷の中に閉ざされて触れることさえ叶わぬ。
 「父上―――」
 泣き崩れる長蘇の肩を、老閣主が抱いてくれる。
 「長蘇どの。石楠は、全て見ていたであろうよ」
 厳かな声で、老閣主はそう言った。
 「そなたの苦しみ、そなたの誠を、全て見届けたにちがいない」
 「老閣主‥‥‥」
 長蘇は、父の友であり、藺晨の父であるその人の胸にすがりついた。
 父のかわりに、老閣主の温かな手が、幾度も幾度も頭を撫でてくれた。

 「藺晨が―――」
 「ん?」
と老閣主が首をかしげる。長蘇は泣きぬれた顔を上げた。
 「藺晨の支えがあればこそ、わたしは胸を張って父にまみえることが出来たのです」
 老閣主の眼が、優しく細められる。
 長蘇は、その眼をまっすぐに見た。
 「お願いです。藺晨に会わせてください。―――藺晨はどうしているのです? 面壁だなどと誤魔化さないでいただきたい」
 老閣主の嘘など、はじめからわかっている。あれは自分を藺晨に会わせぬ口実だ。
 藺晨は自分に会えぬのだ。
 なにゆえ、と胸が騒ぐ。 
 「藺晨の治療にはひどく苦痛を伴うのでは? それゆえ、わたしの眼に触れさせぬのではありませんか? どうか‥‥‥、どうか一目でも、会わせてください」
 思いのたけを込めて、長蘇は哀願した。藺晨が苦しい思いをしているというのに、どうして自分だけが安穏としておれよう。
 老閣主は少し目をそらせた。
 「弱ったな。長蘇どのがそれほどあれを好いていてくれるとは知らなんだ」
 ため息をついて暫し思い悩むふうの老閣主を、長蘇は食い入るように見つめた。
 老閣主は苦笑して、長蘇に視線を戻す。  
 「そなたに泣かれては、わたしもつらい。それに、わたしとて人の親ゆえな。あれのことをさほどに思うてもらえるのは、やはり嬉しくもある」
 優しい眼差しで、老閣主はうなづいた。
 「―――よかろう。会ってやってくれ」
 目の前に陽がさしたような気がして、長蘇は目を瞠る。

 ―――藺晨に、会える。
 会えるのだ。

 老閣主の指が、長蘇の頬に触れた。
 「涙は拭かれよ。こう寒くては、凍てついてしまう」
 濡れた頬をぬぐってくれるその指は、藺晨のそれに、ひどくよく似ていた。



   * * *



 庵の裏藪を渓川へ向かって少し降りたところに、ぽっかり空いた洞がある。
 林燮の亡骸を安置した窟屋からは、随分南に下ってもおり、標高も低い。雪深くはあっても、さすがにこの辺りは夏には残雪もまばらになるらしい。もっとも、今の季節はやはり寒さは厳しかった。
 「―――ここに?」
 洞の奥に、戸板代わりに菰が下がっているのが見える。
 こんなところで一人きり―――。そう思うと、それだけで胸が張り裂けそうになる。
 「あの薬は、それほど危うい代物なのですか」
 長蘇は低くそう尋ねた。
 「あれはもともと、そなたの為にと処方したものでな」
 「わたしの?」
 老閣主がうなづく。
 「冰続丹が、体力と気力をかき集めて根こそぎ燃やし尽くすとするならば、あの薬は、かき集めたものを倍に三倍に増幅するものなのだ」
と、老閣主は言う。
 「だが、出来上がるのが遅すぎた。そなたの命は、既に尽きかけていたゆえ」
 「―――それで、藺晨に」
 長蘇はうなだれた。自分があれほど無茶をしなければ、薬は間に合ったのだ。藺晨に苦労をかけることもなかった。
 「あれは用量を誤れば、欲望や不安までも増幅する両刃の剣でな。それゆえ、日に一粒ときつく言いおいたのだが―――」
 沈鬱な面持ちで、老閣主は溜息をついた。
 「―――わたしのせいです。わたしを助けるために、藺晨は‥‥‥」
 自分が軽はずみな行動をしなければ、献王の手に落ちることもなかった。藺晨に無理などさせずにすんだのだ。
 苦い後悔が胸に押し寄せ、長蘇は唇を噛んだ。
 老閣主の表情が少し和む。
 「あの薬―――。小晨はなんと名付けたか、ご存じか」
 「‥‥‥いえ」
 そういえば、聞いたことがない。
 老閣主は微笑んだ。
 「―――救蘇丹と」
 「救蘇丹‥‥‥?」
 ゆっくりと、その言葉を舌の上に乗せた。じわりと心が熱くなる。
 「そなたを救うための、薬ゆえな」
 老閣主の言葉に、また涙が溢れた。
 「―――毒には毒を以て制すと言う。救蘇丹の副作用を抑えるための薬を処方したが―――、これもまた毒性が強い。体内に蓄積された救蘇丹の毒と完全に中和されるまでに、半月、いや、小晨ならば十日で抑え込むことが出来ようが‥‥‥」
と、老閣主が言い淀む。長蘇は息をつめて、言葉の続きを待った。
 「‥‥‥そこに至るまでの苦痛は、並大抵ではあるまい」
 「苦痛とは、どのような?」
 不安でならない。いま、この洞の奥で、藺晨はどうしているのか。どのような苦しみに耐えているのか。
 こうしていても、心はすでに、菰の向こうへ飛んでいる。
 老閣主がすこし目を伏せた。
 「全身の気脈を―――、ふたつの毒が暴れまわるのだ。五体を切り裂かれるような痛みに、耐えねばなるまいな」
 そう言ってから、老閣主は顔を上げた。
 「なに、あれは丈夫なたちゆえ、それくらいで参りはすまいが―――」
 まだあるのか、と長蘇は両手をきつく握り合わせた。老閣主は痛まし気な表情で長蘇を見、一瞬ためらうふうであったが、結局、言葉を続けた。
 「‥‥‥ひどい幻覚に、襲われるのだ。その幻覚から逃れるために、手負いの獣さながらに荒れ狂うことになる」
 長蘇は戦慄した。
 「それゆえ、わたしを遠ざけたと‥‥‥」
 自分を傷つけぬために、藺晨はひとりでその苦痛と戦うことを選んだのだ。
 (藺晨―――)
 顔を覆って泣きたい気持ちに襲われた、そのとき。

 ―――狂おしい咆哮が、聞こえた。

 「藺晨!」
 思わず洞へ跳び込もうとする長蘇の腕を、老閣主が掴む。
 「待て! 決して近寄りすぎてはならぬ」
 老閣主の戒めは、しかし長蘇の耳を上滑りする。
 「わかっています」
 そうは答えたが。
 長蘇は老閣主の手をほどき、おそるおそる菰を捲りあげた。

 その向こう。
 暗がりの奥に。
 まるで獣のように、鎖に繋がれた姿があった―――。

 「―――藺晨」
 愛しい男の痛ましい姿に、長蘇は胸を抉られた。
 足が、ひとりでに前へ出ようとする。
  
 「これ、長蘇どの」
 老閣主の腕に抱き止められ、駆け寄ることも叶わずに、長蘇は膝から頽れた。
 
 ―――ひとりに、できるはずがない。
 こんなところに、ひとりで置いて行けるはずなどなかった。

 長蘇は、泣いた。
 泣いて、懇願した。
 
 「どうか‥‥‥。どうかここで、藺晨と寝起きを共にさせてください‥‥‥」

 あとはもう、声にさえならなかった。

 


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