琅琊榜

蝉蜕12 (『琅琊榜』 #54以降)

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連日の投稿、スミマセン(>_<)

 もう幾日、こうして放っておかれているだろう。
 いずことも知れぬ小さな家の、小さな部屋。牀台がひとつあるきりの、殺風景なその部屋で。長蘇は独り、捨て置かれているのだ。
 朝になると藺晨はやってきて、お座成りに少しばかりの気を注いでくれる。
 ―――少しばかり。長蘇がどうにか命を保っていられる程度に。
 まるでそれ以上、長蘇に触れているのが耐えられぬといった様子で、藺晨は長蘇を突き放す。
 「藺晨!」
 たまりかねて、長蘇はその朝、去ろうとする藺晨を呼び止めた。本当はもう、大きな声を張るのもつらい。
 「わたしが何をしたと言うのだ。なにゆえ、そんなに腹を立てている」
 藺晨が足を留めた。
 「―――何を、したかだと?」
 骨身に凍みるほど、冷たい声音だった。
 振り返った藺晨の顔もまた、冷めきっていた。
 ―――寒い。
 身体よりも、心が。
 こんなにも、藺晨を必要としている。
 たとえどんなに詰られてもいい。足蹴にされたとて構わない。
 放っておかれるよりは、ずっと―――。
 それ以上なにも言えず、長蘇はただ呆然と藺晨を見送った。
 なぜこうなったのか。
 長蘇には、わけがわからなかった。
 

   *


 次の朝も、藺晨はやってきた。
 「手を出せ」
 長蘇はかぶりを振った。藺晨が、苛立ったように眉間にしわを刻む。
 「出さねば気を注げん」
 「―――必要ない」
 長蘇は袖の中へ手を隠した。
 「死ぬぞ」
 「‥‥‥構わぬ」
 涙が、こぼれた。
 耐えられぬ。
 「―――謂れもなくお前に疎まれるくらいなら、このまま干からびて死んだほうがましだ」
 そう口にした途端、藺晨の顔に怒りが走った。
 「謂れもなくだと?」
 「そうではないか」
 長蘇は叫んだ。大きな声を出すと、もうそれだけで息が切れるほどに、身体は弱っていた。それなのに、藺晨は労りの眼差しすら向けてくれない。
 「どの口が、そんなことを言うのだ」
 憎々し気に、そう言われた。
 「‥‥‥藺晨」
 不安が、背筋を駆け上る。
 怖かった。
 もういい。その先は、もう聞きたくない、と長蘇は身を縮めた。
 「―――長い間」
と、藺晨は呻くように言った。
 「‥‥‥どれほどわたしを苦しめたか、胸に手を当てて考えても見よ」
 「それは‥‥‥」
 そんなことは、―――わかっている。
 藺晨の心を知りながら、ただひたすらに、大望成就のために生きた日々。あの頃、自分の心は蕭景琰を求めていた。景琰と手を携え、ひとつ望みへ向かってともに歩むことだけを願っていた。藺晨の厚い庇護と献身を受けながら、少しも顧みることもなかったのだ。
 申し訳ないと、思っていた。申し訳ないことをしたと、今も思う。
 だが。
 なぜ、今になって?
 いや、ずっとその思いを抱えていたと言うのか。
 「藺晨‥‥‥」
 許されていると、そう思っていた。まるごと受け入れてくれていると。
 藺晨とは、―――そういう男なのだと。
 「―――すまぬ」
 勝手な妄想だったのか。
 自分が見ていた藺晨は、幻影にすぎなかったのか。
 「‥‥‥何が、すまぬだ」
 藺晨は冷たくそう言い捨てると、着物の裾を翻し、逃げるように去った


 それぎり、次の朝も、その次の朝も、藺晨は訪れぬ。
 長蘇は既に力尽きかけて、ただ牀台の上に横たわり、細く息をしていた。

 ―――藺晨に、会いたい。
 いっそ藺晨の手で、引導を渡してほしかった。


   * 

 
 その夜、闇のなかに浮かんだ白い姿を見つけて、長蘇は横たわったまま涙を流した。これほど弱っても、涙だけは出るのだと可笑しくなる。
 長蘇は、手をさしのべた。
 藺晨は獣のように駆け寄ってきて、長蘇の弱り果てた身体を乱暴に抱きしめてくれた。
 忽ち、喜びが身体を貫く―――。

 どれほど、この腕を求めていたことか。
 どれほど、この温もりを待ち焦がれたことか。

 「藺晨‥‥‥藺晨‥‥‥藺晨‥‥‥」
 うわ言のように、その名を呼び続けることしかできなかった。
 嬉しくて。
 どれだけ憎まれようとも、こうして抱きしめられることが嬉しくて。
 この幸せのなかで、息絶えたいと願った。
 噛みつくような口づけに、頭の芯が痺れる。
 「藺晨‥‥‥、会いたかった‥‥‥、藺晨‥‥‥」
 「黙れ! 景琰にも、同じことを言ったのか。飛流にも、同じ声で甘えるのか」
 そう怒鳴られ、頬を打たれた。
 それでも構わない。
 何を言われても、何をされても、この温もりが欲しかった―――。


   *


 気がつくと、傍らに藺晨の寝顔があった。
 あれほど攻め立てられたにも関わらず、むしろ昨夜より少し、身体が楽になっている。
 (気を入れてくれたのか‥‥‥)
 まだ生かしてくれるつもりなのだ。
 それならそれでよい。命ある間は、こうして藺晨の顔を見ることができる。
 思いを込めて、その寝顔を見つめる。
 随分、やつれた。
 ―――だが、愛しい。
 起こさぬように、そっと浅くくちづけた。
 ずっと、‥‥‥こうしていたい。
 長い間、この胸に甘えて、この腕に守られてきた。これまで通り、そばにいられたら‥‥‥。

 「‥‥‥すまぬ。わたしが我が儘だったのだ」
 消え入りそうな声で、長蘇はそう詫びた。
 藺晨が捧げてくれたものは、あまりに数知れなかった。
 藺晨は自分に、血を与え、気を与え、心を与え、命を与え。その愛の全てを、くれた。 

 もう、大事になどされずともよい。守ってくれずとも構わない。
 愛しくて。
 ただ、―――そばにいたかった。

 こんなふうに思える相手は、ほかにいない。
 景琰にすら、これほどの思いは抱かなかった。主君と仰ぎ、臣下として膝まづくことはあっても、友としては対等でありたかった。
 だが、藺晨を失わずにすむなら、全ての誇りや自尊心を捨てても構わない。
 足元にひれ伏して許しを乞いたかった。
 「藺晨‥‥‥。離れたくないのだ」
 小さくつぶやいて、長蘇は弱々しく咳き込んだ。身を折って、苦しい咳に耐える。  

 「―――長蘇」
 耳慣れた、優しい声音にどきりとした。
 背をさすってくれる手が、温かい。

 長蘇は少し震えた。
 ―――この優しさに、甘えてはならない。甘えてばかりいた自分が、愚かだったのだから。
 怖くて、顔を上げられない。
 「‥‥‥なんでもない」
 遠慮がちにそう答えて、さらに身を縮める。
 甘えさえしなければ。
 怒らせさえしなければ。
 ―――全て藺晨の言う通りにすれば。
 きっと何もかもうまくいく。
 許してはもらえずとも、そばにいたいという願いくらいは、叶うかもしれない。

 おそるおそる、藺晨の顔を見た。
 少し、眉間に皺が刻まれている。
 長蘇は怯えた。

 怒らないでくれ。
 このまま置いていかないでくれ。
 もう少しこのままで―――。

 長蘇は身を震わせて、ただ一心に藺晨の顔を見つめた。

 そして。

 不意に、藺晨の表情から厳しさが消えた。
 「‥‥‥こわがるな」
 悲しげに、藺晨が言う。
 「今は、―――正気だ」
 え? と思う。
 「―――悪かった」
 藺晨は、詫びた。
 「自分で自分を、どうにもできんのだ」
 「それはどういう‥‥‥」
 長蘇は不安におののきながら問うた。



   * * *



 「薬を、飲みすぎたのだ」
と、藺晨は言った。
 日に一粒と戒められていた薬を、あまりに多く服用しすぎた。
 これほどひどい副作用があるとは知らなかった。身体の変調なら耐える自信があったのだ。だが、心をかくも乱されるとは、思いもしなかった。
 かつて抑えていた想いが堰を切ったように溢れ、どうすることもできなかった。とうに折り合いをつけたはずの苦い思いが、薬の作用で増幅され、抑えようがなくなった。
 気がつけば、この山深い場所の庵へと、長蘇をさらってきていたのである。 
 四六時中、長蘇を抱きたくてならず、夜はことさら欲望の抑えがきかぬ。
 それゆえ、夜は決してそばに寄るまいと自分に戒めたのだ。何をするか知れぬ。これまで大切に大切に扱ってきたと言うのに。どんな非道い扱いをしてしまうか、己がこわかった。
 「‥‥‥朝にしか会いに来てくれなかったのは、そのせいなのだな」
 か細い声で、長蘇が言った。
 充分に気を淹れてやりたくとも、長く手を握っているとそれだけで気が変になりそうだった。
 「それで‥‥‥」
 悲し気に、しかし、どこかほっとしたように、長蘇が言う。
 「―――すまぬ。非道い言葉を吐いた」
 長蘇は弱々しくかぶりを振った。
 「しかたがない。まことのことゆえ」
 「違う!」
 思わず藺晨は声を荒げていた。だが、その先が続かない。藺晨は狼狽え、そして声を落とした。
 「‥‥‥そうではない」
 いや、やはり自分は、嫉妬していたのか。
 かつては蕭景琰を妬み、いまはこともあろうに我らが小飛流に妬いている。
 藺晨は溜息をこぼした。
 小さすぎて、己がいやになる。

 昨夜はついに、抑えがきかなくなったのだ。せめて一目、会いたいと思った。一目くらいなら―――。そう思うと、居ても立ってもおれず、気づけば長蘇を訪ねていた。
 あとはもう、歯止めがきかなかった。一目などですむはずがない。顔を見てしまえば、否応なく血が昂ぶった。
 その美しさに腹が立ち、その儚さに苛立った。頬を張り、首を絞め、幾度も幾度も手荒く媾った。
 可哀想に、長蘇の顔には青あざが浮いている。顔だけではない、全身に赤や青の花を咲かせてしまった。
 
 「藺晨‥‥‥」
 長蘇が心細げな声を出した。
 ためらいがちに、胸にすがってくる。あれほどひどい仕打ちをしたというのに、そっと寄り添ってくる。
 「‥‥‥特別なのだ、お前は」
 長蘇はそう言った。
 「‥‥‥確かに、景琰も飛流も大切だ。愛しさは、お前への想いに劣るものではない。だが‥‥‥、なんと説明してよいかわからない‥‥‥」
 「もういい。気にするな。あれは、薬が言わせた戯言だ」
 そう言ってやったが、長蘇は納得せず、懸命に言葉を探している。
 「‥‥‥景琰や飛流のそばにいてやりたい気持ちは、確かにあるのだ‥‥‥。だが―――」
と、長蘇は嘆息した。
 「わたしがそばにいてほしいのは、―――藺晨、お前なのだ」
 「長蘇‥‥‥」
 長蘇がひしとしがみついてくる。
 こんなことは珍しい。それほどまでに寂しい思いをさせたのだと、胸が痛んだ。
 「もう‥‥‥、薬は飲まないでくれ」
 胸に顔を伏せたまま、長蘇は言った。
 「気など注いでくれずともよいのだ。わたしが命尽きるのを、そばで見ていてくれるだけで幸せだ」
 長蘇はそう哀願したが。
 しかし。
 「―――そうはゆかぬ。わたしはまだ、お前を失いたくはない」
 藺晨は長蘇の身体をそっと抱き寄せた。
 「お前がわたしに、そばにいてほしいと願ってくれるより遥かに強く―――、わたしはお前に、そばにいてほしいのだからな‥‥‥」
 「藺晨‥‥‥」
 長蘇の声は、今にも泣きだしそうに震えている。こんな風に、不安にさせたくはない。昔からずっと、長蘇の前では誰よりも大きな男でありたかったというのに。

 藺晨は息を一つつき、それから少し笑って見せた。
 「なに、心配は要らん。―――こんなときのために、あの親父がいるのだ」 
 「―――老閣主?」
 長蘇が顔を上げる。
 困ったときだけ親を頼るとは、自分もまだまだだと情けなくはなるが。
 「忌々しいが―――、年の功ということもある。親父に頼るしかあるまい」
 「‥‥‥梅嶺へ?」
 長蘇が問うた。
 父は今、梅嶺の麓に仮の宿りを構えているのだ。めったに琅琊閣へも姿を見せない。
 「わたしも、連れていってくれるだろう?」
と、長蘇が目を潤ませて言う。
 「無茶を言うな。お前の身体では」
 「父の亡骸もある」
 梅嶺のその更に先に、長蘇の父親・林燮は眠る。藺晨の父が、万年氷の中へ、その亡骸を葬ったのだ。
 長蘇は、いまだ父の亡骸にまみえてはいなかった。会わせてやりたいとは思うが。 
 「―――道中、お前を大事に扱ってやれる自信がない」
 いつまた、正気を失うとも知れぬ。昨夜、さんざんに欲望を満たしたせいで、今はかろうじて平静を保っていられるが、必ずまた、心が乱れるに違いなかった。
 薬を、飲まずにはおれぬのだ。
 あの日、十粒あまりを飲んで以来、日に一粒では辛抱できぬ。強い依存性が現れたのだ。
 飲まねば嫉妬と疑念で気が狂いそうになり、飲めばますます気が昂って、欲望と妄想に心惑わされる。
 己ではもう、どうしようない。
 「‥‥‥構わぬ」
と、長蘇は答えた。
 構わぬはずがない。昨夜のように乱暴に扱い続ければ、長蘇の身体がもたぬ。藺晨がそう言うと、
 「大丈夫だ、辛抱できる」
と言って、長蘇は微笑んだ。
 その健気さに、藺晨は胸がいっぱいになる。
 せめて飛流を伴おうと、藺晨はそう言ったが、長蘇はゆるくかぶりを振った。
 「これは、お前とわたしの越えねばならぬ問題ゆえ」
 「長蘇‥‥‥」
 「この先もお前と生きるために、こんなときこそお前に寄り添っていたい」
 長蘇の微笑が、痛々しい。
 いじらしさに、藺晨はただただ長蘇の身体を抱きしめた―――。
 


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