琅琊榜

蝉蜕11 (『琅琊榜』 #54以降)

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10の続きです。
10を途中で分けたので、11はボリュームが足りないかと思ったけど、
全くそんなことはありませんでした(^^;;;;
書いてるとどんどん増えてきた。


 「どうした。わたしの喉を突くのはやめか?」
 景宣がひきつった笑いを浮かべた。
 「突くなら突いてみよ。その瞬間に、貴様はおろか、梅長蘇と子供も針鼠になるが?」
 「くっ‥‥‥」
 藺晨は怒りに任せて剣を構え直したが、眼の端で今にも矢を放たんと弦を引き絞る弓隊の姿が捉えられ、その剣を景宣に突き立てることが出来ない。
 「なんだ、まだ剣を下ろさぬか?」
 突かれる気遣いがなくなったと見て、景宣は俄かに横柄な口調になる。
 「こちらは脅しではないぞ?」
 景宣の手が、弓隊に向かって合図を送る。
 刹那、射手が一斉に矢を放った。
 はっとして、藺晨は剣を景宣から離し、矢を右へ左へ払い落す。払いきれなかった矢から、咄嗟に長蘇と幼な子を庇って藺晨は自ら盾となった。
 長蘇ひとりなら、片腕に抱えてでも剣が使える。だが、守らねばならぬ者が二人とあっては。しかも、長蘇は動けぬ。藺晨自身が盾になってやるほかはなかった。
 数本の矢が、肩に胸に、深々と刺さった。
 景宣が高笑いする。
 「よい心がけだ。己だけ逃げるかと思ったが、見上げたものよ」
 「‥‥‥っ、貴様と一緒にするな」
 弓隊は、既に次の矢をつがえている。
 ふと。
 藺晨はなじみのある気配を感じた。胸のうちで、間合いを計る。
 ―――次の瞬間。
 弓隊がどどっと前のめりに倒れた。その機を逃さず、藺晨は電光石火の早業で景宣を抱え込むと、そのまま引きずりよせた。
 「飛流! 遅いではないか」
 弓隊を背後から蹴散らした飛流に、藺晨は笑みを向けた。長蘇を探しに出たままの飛流に、この場所を知らせよと配下の者らに言いおいていたが、果たして間に合うかどうか、藺晨とて自信がなかったのだ。
 倒れた射手の中には、いち早く体勢を立て直す者もあったが、こちらは既に景宣の身体を長蘇と子供の盾にしている。ましてや、射手らは既に飛流の手の内にあるも同じ、手の届く距離にいる飛流相手では、むしろ弓矢は役に立つまい。
 形勢逆転、既に勝負はついていた。
 「ええい、誰ぞ、なんとかせよ!」
 往生際悪く、手足をじたばたさせて喚く景宣を、そのとき叱咤する者があった。 

 「いい加減にしてはどうだ、兄上」
 その声に、景宣の動きが止まる。
 「まさか‥‥‥」
 景宣は目を瞠り、ぽかんとその口を開いた。
 「そなた‥‥‥」
 飛流の背後から現れた懐かしい姿に、景宣は呆気に取られていた。
 「そなた、景桓、なにゆえ‥‥‥」
 死んだはずではなかったか、と景宣は口の中でもごもごつぶやいている。
 既に、藺晨のことは眼中にない。己の喉元に充てられた刃のことさえ忘れ果てているかのようだ。
 意気阻喪している弓隊をかき分けて、景桓は前へ進み出た。
 「そこな梅長蘇によって命を救われた」
 ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら、景宣はひたすらに弟の顔を凝視する。
 「なにゆえ‥‥‥」
と、苦し気に、景宣は言う。
 「なにゆえ、わたしの前に姿を現す? わたしが訴え出るとは思わぬのか。謀反人が生きていると‥‥‥」
 兄の言葉に、景桓は苦笑いした。
 「訴えたところで誰も信じまい。わたしの死体を検めたのは、ほかでもない父上であったのだからな。―――それに‥‥‥」
 景桓はゆっくりと兄に歩み寄る。
 景宣は怯えたように後ずさろうとしたが、いまだ藺晨の腕にとらえられた身ではそれもならぬ。ついに、息遣いの聞こえるほど間近まで、弟に詰め寄られる。
 「兄上は、訴えはすまい?」
 「景桓‥‥‥」
 途端に、ぼろぼろと景宣は涙をこぼした。
 景桓は微笑する。
 「あの頃、わたしは楽しかった。兄上としのぎを削り合うことが」
 そう言われて、景宣もまたがくがくとうなづいた。
 「ああ、わたしもだ、景桓。わたしも‥‥‥」
 景桓の眼が、ちらりと藺晨を見、藺晨は苦笑して剣を下ろした。腕を解いてやると、景宣はがくりとその場に膝をつく。
 その兄の上に、景桓は屈みこんだ。 
 「わたしは、兄上が憎らしゅうてならなかったのだ。実の母上の懐に守られ、父上に甘え、我儘放題の兄上がな」
 景宣ははっとしたように弟の顔を見上げる。
 「わたしは兄上から父上の寵愛を奪うことばかり考えていたのだ」
 景桓がそう言うと、景宣は激しくかぶりを振った。
 「わたしとて。お前が憎らしかった。―――何をやらせてもお前は器用にこなし、父上にほめられた。父上にもっとも似た皇子とお前が誉めそやされる度に、わたしがどれほど惨めな気分になったことか‥‥‥」
 「兄上‥‥‥」
 景桓は兄の手をとった。景宣はうつむく。
 「それでも‥‥‥。それでも、生きていてくれて、わたしは‥‥‥」
 景宣の眼が、弟の手を見た。
 「苦労を、したのだな」
 ごつごつしたその手を、景宣は愛し気に撫でる。景桓は首を振った。
 「いまは、幸せだ。生まれて初めて、心が凪いでいる」
 その言葉に、景宣は嗚咽を漏らした。
 「そうか‥‥‥。そうか‥‥‥」
 弟の手を握りしめて、景宣は泣いた。
 子供のように、声を上げて泣いた。


 「兄上」
と、景桓が言う。
 「梅長蘇は‥‥‥。林殊は、もらいうけていってかまうまいな」
 景宣は顔を上げた。
 いつの間にか景桓の膝に、子供が甘えてとりすがっていた。
 「でぃえ―――」
 景宣は改めて子供の顔を見、それから景桓の顔を見た。
 「その子は、林殊の子ではなかったのか‥‥‥」
 驚いたように言う景宣に、景桓は微笑んだ。
 「誰に似ている?」
 景宣はさすがに理解したらしいが、
 「しかし、林殊はその子を腹の下に庇って‥‥‥」
と、口ごもった。
 「小殊は、そういう男なのだ、兄上」
 藺晨と飛流が抱き起した梅長蘇を、景桓が見る。
 そして、その景桓を。
 献王・景宣が抱きしめた。
 「―――よく、生きていてくれた‥‥‥」
 間違いなく、血を分けた兄弟の抱擁であった。
 ―――そして、弟の身体を離して景宣は言う。
 「早くいけ。わたしの気が変わらぬ内に」
 景宣は背を向け、壁の方を向いた。
 「閣主どの」
 景桓の声に藺晨はうなづき、飛流を見る。
 「蘇哥哥を」
 「うん」
 飛流が、梅長蘇を抱き上げる。その役どころは藺晨自身が担いたかったが、思いのほか矢傷が深く、己のみを動かすので精いっぱいだった。
 「兄上。生きていればまた逢う日もあろう」
 子供を抱いた景桓が言い、景宣は少しだけ振り返った。
 景桓の腕の中から、幼な子が手を差し伸べるのへ、景宣は力なく微笑んだ。
 「―――よい子に育て」
 子供にそう声をかけて、景宣はまた壁のほうを向いた。



   * * *
 


 「‥‥‥景桓」
 先に馬車へ乗り込んだ藺晨に、飛流の腕から抱きとられながら、長蘇は景桓のほうを見た。
 子供に怪我がないかと案じているのだと気づいたらしい景桓が、穏やかにほほ笑む。
 「阿殊を、守ってくれたのだな」
 抱いていた子の顔を、景桓は長蘇のほうへ向ける。長蘇はほっとしたように笑みを浮かべた。
 「‥‥‥わたしにとっても、いくらかは血のつながった子だ。それに、‥‥‥同じ名を持つ‥‥‥」
 「よい。喋るな」
 景桓が言い、藺晨のほうを見る。
 「琅琊山まではもたん。おぬしの家で治療させてもらって構わぬか」
 「狭くて汚いが、今はそんなことも言ってはおれまいな」
 景桓は素早く御者台に回った。

 景桓が御す馬車のなかで、長蘇は喘いでいた。飛流が心配そうに身をすぼめている。
 「しっかりせよ、あとでたっぷり気を注いでやる」
 藺晨が励ますと、長蘇の鼻がすこしばかりひくひくした。長蘇はうっすら目を開け、その手が、藺晨の矢傷へ伸びる。
 ちろり、と長蘇の舌先が見えた気がした。
 藺晨は気づいて、思わず笑った。
 「そうだったな。お前はわたしの血が好物だった」
 かつて。
 火寒の毒を抜く治療を施すまでは、長蘇は生き血を欲してやまなかった。鶏や獣の血では満足せぬ長蘇に、藺晨は度々自分の血を与えたものだ。
 藺晨は、矢羽を落としただけで刺さったままにしてあった矢を、全て引き抜いた。鏃が肉をこそぎ、皮膚を割いて、血が溢れ出した。激しい苦痛に呻きながら、藺晨は長蘇を抱き寄せる。肩肌を脱いで、傷口へ長蘇の顔を寄せてやると、長蘇は血の気のない唇をそこへつけた。
 ちろちろと、舌先が傷を舐める。溢れる熱い血が美味いのか、長蘇は朦朧としたまま、血を舐め続けた。
 


   * * *



 馬車から降りてきた長蘇と藺晨を見て、さすがに景桓は顔をしかめた。
 藺晨は白い衣の半ばを朱に染め、長蘇は口の周りをべったり血で汚している。
 家から飛び出してきた藍瑾も、驚いて言葉を失い、ただただ我が子を抱きしめるばかりだ。
 「閣主どの、先にそなたの手当てを」
と景桓は言ったが、藺晨は聞き入れなかった。 
 「そんな暇はない。部屋を借りられるか」
 「ああ。狭い家だが、一応、客人の為に一間空けてある」
 出血がひどく、景桓の肩を借りねば既に歩くことも覚束ぬ藺晨は、それでもまずは長蘇の治療が先決だという。
 気が散じると命に係わると言われて、景桓は藍瑾と阿殊を連れて居間で待った。

 半日たって、藺晨はようやく部屋から出てきた。
 「閣主!」
 戸を出るなりがっくりと膝を折った藺晨を、景桓は駆け寄って支えた。
 「しっかりされよ。藍瑾、閣主の手当てを」
 既に自分で血止めは施したらしかったが、たっぷりと血を吸った衣は、既に乾いてどす黒くなっている。
 藍瑾に包帯を巻かせながら、景桓は問うた。
 「小殊の具合は?」
 藺晨が血の気の失せた貌に笑みを浮かべる。
 「峠は越した。あとは、気さえ注ぎ続ければ、なんとかなる。―――あれはもともと、空っぽの器のようなものゆえ」
 どういうことだ? と景桓は首を傾げた。
 藺晨は苦笑する。
 「あれは‥‥‥、わたしの気を淹れつづけることでのみ、命を保っているのだ」
 景桓は目を瞠った。藍瑾も思わず手を留めて、景桓と顔を見合わせる。
 藺晨は笑みを浮かべたまま、少し目を伏せた。
 「大望を果たしたとき、長蘇の身体は既にぼろぼろだった」
と、藺晨はいう。
 「それでも養生してくれるなら、わたしがなんとしても一年、いや二年は生かしてやるつもりでいたのだ。‥‥‥だが、大渝との戦が、長蘇の命を否応なく削った。もはや打つ手などなかったのだ」
 藺晨は苦渋に満ちた声音で続ける。
 「五臓六腑はすでに弱り果てて用をなさず、食事はおろか薬さえ受け付けぬのだ。ただ、内功による治療だけが、いくらか長蘇を回復させる。焼け石に水のようなものではあったが、それでもわたしは、空っぽになったあれの身体に気を注ぎ続けたのだ」
 藺晨は懐から、掌で包み込めるほどの小さな鬢を取り出した。
 小瓶の中から丸薬を掌に十粒ばかり転がす。
 「その薬は?」
 景桓が尋ねると、藺晨は小さく笑った。
 「わたしの命をつなぐためのものだ。わたしが力尽きれば、そのときは長蘇の命も終わるゆえ」 
 「そなたたちは‥‥‥」
 景桓は低く唸った。
 なんという絆だろう。
 人と人とが、そのようにつながれるものだろうか、と景桓は身震いする。それを察したかのように、藺晨が顔を上げた。
 「おぬしにとって妻子がかけがえないように、わたしには長蘇と飛流が何よりも大事だ。―――血を分けた肉親などというが‥‥‥、わたしと長蘇もまた、共に血を分け合った仲だ」
 くすり、と声を立てて藺晨が笑った。
 そうだ。馬車から降りたとき、林殊の口許は藺晨の血で真っ赤に染まっていた。まさかとは思っていたが、藺晨は林殊に己の血を与えたのだ。
 藺晨は、手の上の丸薬を口に放り込んだ。
 「この薬は、わたしの内力を奮い起こすためのもの。これがなければ、わたしの気とて無尽蔵ではない。―――幸い、飛流の気も長蘇とは相性がいい。我ら二人がいれば、長蘇はこの先も永らえることができる」
 全て、合点がいった。馬車から下ろす時に、飛流からいっとき抱き取った林殊の身体があまりにも軽く、景桓は驚いたのだ。以前よりいくらか痩せたとは思っていたが、元気そうに見えていたものを。
 景桓がそういうと、藺晨はうなづいた。
 「ああ。わたしの気さえ与えていれば、それなりにはな。もっとも、つい最近も風邪をこじらせて寝込みはしたが」
 「そんな身体で‥‥‥、小殊はずっと、我ら親子を気にかけ続けてくれていたのだな」
 景桓が嘆息すると、藺晨は笑みを納めて言った。
 「―――謝玉の娘の件を、覚えているだろう」
 「ああ、謝綺か。子を産んで亡くなった」
 景桓にとっても、謝綺は従妹に違いない。いかに交わりが乏しかったとはいえ、忘れるはずはなかった。
 「あれはそのことをひどく気に病んでいてな。赤子から母を奪ってしまったと言って」
 物憂げな調子で、藺晨がそう言った。
 「それは小殊のせいでは‥‥‥」
 「長蘇は己のせいだと思っている。謝玉の旧悪を暴くために、景睿を傷つけ、謝綺を死なせたと。それゆえ、おぬしの子には、二親からたっぷり愛情を受けて育ってほしいと願っておるのだ」
 胸が痛んだ。そんな思いを抱えて、林殊は自分たち親子を気にかけてくれていたのかと。
 景桓は肩を落とし、しかし微かに笑みを浮かべて見せた。
 「阿殊には、伸び伸びと育ってもらいたいと思っている。宮廷のいざこざなどに巻きこまれず、自由に生きてもらいたい。―――わたしのような小蛇になってはならぬゆえな、いまは姓を、龍と名乗っている」
 ほう、と藺晨が眉をあげた。
 「たいそう大きく出たな。―――龍殊、か。よい名だ。賢いし、肝も据わっている。大物になるぞ」
 そう言った藺晨に、景桓は笑った。
 「それは琅琊閣のご託宣か? 眉唾だな」
 「何が眉唾なものか。琅琊閣は真実しか語らぬ。―――麒麟の才子をまことに手に入れたのは誰だ? その者が、天下を手にしなかったとでも?」
 自信たっぷりなその物言いに、景桓は肩をすくめた。
 「では、信じておこう。我が子はさだめし大物になろうとな」
 「親莫迦だな」
 藺晨は笑い、そして立ち上がった。
 「どれ、いますこし長蘇に気を与えておくとしよう。飛流も少し休ませねば‥‥‥」
 立ち上がりざま、少し足元をふらつかせた藺晨を、藍瑾が支える。
 「閣主どの、ご無理をなさっては‥‥‥」
 「藍瑾」
と、景桓は妻を止めた。
 「好きにさせてやれ」
 「―――さすがは誉王殿下。ものわかりがよくておいでだ」
 藺晨は笑って恭しく頭を下げた。



   * * *



 五体が、熱い。
 (さすがに身体が悲鳴をあげているな。なにしろあの薬を十粒余りも飲んだのであれば)
 日に一粒以上飲んではならぬと、父から言われていた薬である。だが、今はそんなことを言ってはいられなかった。内力を振り絞って、長蘇に気を与えてやらねばならぬ。まだ飛流には任せきれぬのだ。
 (長蘇。生きよ。―――活下去‥‥‥)

 飛流は疲れきって足元で丸くなっていた。
 藺晨は長蘇に添い臥し、肌を合わせて気を注ぎ続けている。
 (藺晨‥‥‥)
 長蘇が小さく呟いた。
 「喋るな。―――気が乱れる」
 長蘇を黙らせ、藺晨もまた、目を閉じた―――。

 
   *


 「藺晨‥‥‥」
 目覚めるとそこに、藺晨の寝顔があった。
 藺晨の身体が、常より温かい。
 (まだ熱があるのか‥‥‥)
 ひどい高熱であったことを、長蘇は朧げにわかっている。ずっと、藺晨の熱い気が、五体に流れ込んでくるのを感じていた。長蘇の凍えた身体には、この上なく心地よかったのだ。だが。
 「―――お前の方が、からっぽになって干からびかねぬ」
 藺晨の額に、そっと口づけてやる。
 「長蘇‥‥‥」
 藺晨が、目を開けた。
 「―――献王に打たれた傷は、痛むか」
 そんなことを、訊く。
 藺晨の矢傷の方が、ずっと重く見えるというのに。
 「いや‥‥‥」
と長蘇が微笑むと、藺晨はほっとしたように瞼を閉じる。
 熱のせいか、藺晨はまだ半ば眠りの中のようだ。
 「蘇哥哥‥‥‥」
と、牀台の裾で眠っていた飛流が頭をもたげる。むくりと体を起こして、牀台の脇に顔を寄せてきた。
 「―――飛流。心配をかけてすまなかったな」
 手を伸ばして頭を撫でてやると、飛流は安心したように微笑んだ。
 しばらくうっとりと撫でられてから、
 「―――美味しかった?」
と飛流が尋ねる。
 なんのことかわからず、長蘇が首をかしげると。
 「藺晨哥哥の血。美味しかった?」
 青年らしく引き締まった顔に、あどけない表情を浮かべてそう尋ねる。
 長蘇は慌てた。
 そうだ。馬車のなかで、藺晨の血を飲んだ。
 なんとなく。
 情事を見られる以上に恥ずかしく、長蘇は困って目をそらせたが。
 「飛流の血も、あげるよ」
 飛流は真面目な顔で、そう言った。
 「―――全部あげたら、蘇哥哥、もっと元気になる?」
 「飛流―――」
 胸に、熱いものが込み上げる。
 「‥‥‥ごめんなさい」
と、飛流は言った。
 「ごめんなさい。飛流が一緒にいたのに、守れなくて」
 目頭が、熱くなる。
 「飛流。蘇哥哥が悪かった。蘇哥哥が飛流の言うことをきかなかったから」
 そう言ったが、飛流は頑なにかぶりを振った。
 「蘇哥哥は悪くない。蘇哥哥は優しい」
 真っ直ぐな目で飛流にそう言われ、長蘇は己を愧じた。
 老人を送ってやれと言ったのは、ただ優しさからばかりではない。たまには、皆の目から離れてみたいと、そう思ったのだ。
 それなのに。

 「―――よい子だな。飛流」
 長蘇は、万感の思いを込めてそう言った。
 そして。

 (―――よい漢だ。藺晨―――)
 ぐっすり寝入っている藺晨の肩口へ、顔を埋める。

 「‥‥‥っつ」
 傷に障ったか、藺晨が一声呻いて顔をしかめた。思わず少しだけ身を引き、それから長蘇は改めてそっと藺晨の胸へ顔を寄せた。

 案じてくれる者たちがいる。
 それを窮屈に思うなど、ばちが当たろうと言うものだ。


 藺晨の胸の鼓動に耳を傾けながら、長蘇は言い知れぬ幸福に、身を委ねていた―――。





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