琅琊榜

蝉蜕9 (『琅琊榜』 #54以降)

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あの人が、出てきます。 実は続きます。

 月に一度。甄平がもたらすその知らせを、この月も梅長蘇は嬉しそうに聞いた。
 「ご苦労だった。また、来月も頼む」
 しかし、甄平は少々口ごもる。
 「はあ‥‥‥。それは一向にかまわぬのですが」
 「なんだ?」
 長蘇は小首を傾げる。
 「いえ、それが‥‥‥」
 梅長蘇は怪訝そうに眉をひそめた。―――と。
 「おい。誰があんな小汚ない男を庭に入れたのだ」
 扇子をばたつかせながら、藺晨が大股にやってきた。
 「あ」
と甄平が困った顔をした。
 はっとして、梅長蘇は甄平の顔を覗き混む。
 「まさか」
 そう問われて、甄平は身を縮めた。
 「つい‥‥‥油断いたしました」
 長蘇は大きく目を瞠り、顎をあげて甄平を見下ろすと、ことさら大きく嘆息して見せた。
 「ついだと? あれほど悟られるなと言いおいたはずであろう」
 「はあ‥‥‥」
 申し訳なさそうに、甄平がうなだれる。
 「なんだ? 話が見えぬ」
 苛々と藺晨が口を挟んでくる。
 「しかたあるまい」
と、長蘇は甄平に言った。
 そして。
 「とにかく」と、藺晨と長蘇が同時に言った。
 「あの男をつまみ出せ」「丁重にお連れせよ」
 全く逆のことを一度に命じられて、甄平は頭を抱えた。
 とその時。
 「こら、待ちなさい」
 黎綱の声がしたかと思うと、幼い子供が部屋に飛び込んできた。まだようやっとよちよち歩きであろう幼さで、ころころと転がるように駆けてきたその子を、飛流が追ってくる。そのあとを、息を切らせて黎綱がかけてくるのだった。
 「宗主、申し訳ありません。どこからか迷い混みまして―――、すぐに捕まえて」
 「ああ‥‥‥」
と、ますます甄平が頭を抱え込んだ。
 長蘇も藺晨も、眉を上げて甄平を見た。
 「もしや?」
 「はあ‥‥‥」
 甄平はしかたなく頷いた。
 藺晨があからさまに嫌な顔をする。
 「あの男、子連れか」
 そうこうする内に、飛流が子供の襟首を捕まえた。
 「やー。でぃえーーー」
 首っ玉をつかんでぶら下げられた子供が、足をばたつかせる。
 長蘇は溜息をついて、飛流を手招きした。
 「飛流。こちらへ連れておいで。―――優しくな」
 「―――んっ」
 飛流はぶら下げたまま子供を連れてきて、長蘇の鼻先へぬっと差し出した。
 長蘇がにっこりと笑いかけると、子供は途端に大人しくなった。
 「飛流。おろしておやり」
 ぱっ、と飛流が手を離したので、子供はすとんとその場に落ちた。
 きょとんとしたように見上げる子供に、長蘇は屈みこんで問いかける。
 「そなた、名は?」
 まだ、ひどく幼い。会話ができるだろうか?
 子供は首をかしげ、それから言った。
 「しゅーしゅー」
 「しゅーしゅー?」
 長蘇は子供を抱き上げた。
 「宗主」
と慌てて黎綱がそばへ寄る。
 「御召し物が汚れます。第一、お身体に障ります」
 長蘇が箸や筆より重いものを持つのを、黎綱や甄平はいつも酷く心配するのだ。
 長蘇は苦笑いして子供を下ろすと、その小さい手をとった。
 「なるほど。父上によく似ておいでだ」
 そう言って、長蘇は笑った。



   * * *



 どさくさ紛れに座をはずしていた甄平が、一人の男を伴ってやってきた。
 粗末な衣に身を包んだ男は、貧しい農夫のように見えた。―――が。
 「ご無沙汰しております」
と長蘇が一礼するのを見、藺晨はさらに眉を寄せた。
 「わたしは既に、そのような礼を受ける身分ではない」
 男が低くそう言った。
 「―――殿下」
と、長蘇が顔をあげ、藺晨は全てを合点した。
 「長蘇。お前、このような大事をわたしにすら黙っていたのか」
 藺晨がそう詰め寄ると、長蘇は男に対峙したまま、視線だけを藺晨によこして微笑んだ。
 「大事なればこそ、知る者はひとりでも少ないに越したことはない」

 誉王・景桓―――。
 かつてそう呼ばれた男の、これは成れの果てであったのだ。

 長蘇は、誉王であった男に座を勧めた。
 「でぃえ」
 幼な児が、長蘇の手を離して、座した景桓の膝にとりつく。
 「大きゅうおなりだ」
 長蘇が目を細めた。
 「まずはこれのことについて、礼を言わねばなるまい」
 景桓が言った。
 「身重の藍瑾を無事落ち延びさせてくれたこと、どれほど感謝しても足りぬ」
 我が子を見下ろす景桓の眼は、慈愛に満ちているが、その景桓を見る長蘇の眼差しもまたひどく温かい。少し離れたところに座って、自分で茶を注いでは飲みながら、藺晨は見るともなしにそのやりとりを眺めていた。
 「すぐに会わせてさしあげなかったことを、お恨みでは?」
 長蘇が少し目を伏せて言う。
 景桓は子供から目を上げず、微笑んだままで答えた。
 「―――これを一目見て、すべての恨みは溶け去った」
 さんざん走り回った子供は、父親の膝の温みでとろとろと眠りかけている。景桓はその髪を撫でてやっている。
 「‥‥‥貴方をお助けしてよいものか否か、正直心が決まらなかったのです」
と、長蘇は言った。
 「長く幽閉して不自由を強いたこと、‥‥‥申し訳ないと」
 幾分弱々しい口調でそう言った長蘇へ、景桓は目を上げた。
 「―――いや」
 長蘇に向けた景桓の笑みは柔らかく、藺晨は少しばかり感心した。
 人とは。
 かくも変わることができるものかと。
 藺晨は、誉王に会ったことがない。会ったことこそなかったが、琅琊閣へは中原のすべての情報が流れ込む。大梁の第五皇子、誉王・景桓について、藺晨は良くも悪くも熟知していたつもりである。『毒蛇』と呼んで嫌った長蘇の評を差し引いても、藺晨が誉王に対して持っていた印象は、いま目の前にいるこの男とはまるで一致しなかった。
 景桓は、言う。
 「あの日々がなくば、わたしは生まれ変わることができなかったであろう」
 どこか遠くを見るような眼差しで、景桓は言った。
 「初めの内は、随分悶々としたものよ。全てが口惜しく、恨めしく、惨めであった」
 ため息混じりに、苦笑する。
 「わたしの囚われていたのが薬王谷であるからには、そなたの差し金であろうことはおよそ察しがついていた。なにゆえ、わたしを天牢から連れ出したのか。なにゆえ、早く命を断たぬのか。いつまでぐずぐず生かして、辱しめを与えようというのかと。そればかりを思っていた」
 ほう、と藺晨は肩をすくめた。薬王谷にかくまっていたとは。恐らくは、衛崢ですら知らされていなかったのではないか。
 (あの老いぼれめ、顔を合わせてもおくびにも出さなんだ)
 藺晨でさえ察知できなかったのだ。誉王の亡骸は、皇帝自ら検めたと聞く。長蘇はよほどうまくやったのだろう。
 「藍瑾がどうなったか、誰も教えてはくれなんだ。とても生きてはおるまいと、そう嘆く一方で、もしや命長らえているならば、腹の子が無事に生まれているならばと、そう思えば自ら命を絶つもならず、一日また一日と生き恥をさらす羽目になった」
 自嘲的に、景桓は笑った。
 「――― 一年。貴方は辛抱して下さった」
 長蘇の言葉に、景桓はまた苦笑いする。
 「辛抱も何も、ただ座してぼんやりしている以外にすることもなかったゆえ。来しかた行く末に思いを馳せる暇だけは、充分すぎるほどあった」
 写経に読経、読書に瞑想。まるで僧侶のごとき日々であったと景桓は笑う。
 そうして一年ぶりに牢を出された日。
 通された部屋で待っていた母子の顔を見て、天地の全てに感謝したのだ、と景桓は言った。
 「藍瑾は、自分を救ったのが何者であるかわかってはいなかったが、わたしは話を聞いて全て合点した。解き放たれ、親子三人、藍瑾が与えられたという田畑を耕し、日々を過ごしながら、わたしは待っていたのだ。己の推量が正しいことを確かめる日を」
 そう言って、ふっと笑みをこぼす。
 「月に一度、何者かが様子を見に来るのだと、藍瑾が言っていた。わたしと再会するまでは、どうやらその者が何くれとなく暮らし向きの立つように取り計らってくれていたようだと」
 誉王妃を落ち延びさせた件については、黎綱からおおよその話は聞いていた。藍瑾は、人にかしずき、かしずかれる暮らしをもはや望まなかった。とはいえ、王妃であった藍瑾が身重のまま世の中に放り出されて、生きてゆけるはずがない。安心して子を産み、育てられるよう、全て長蘇が手配したのだ。そして、それは誉王を解き放ったあとも、密かに続けられたのだろう。、
 「昨夜、ついにその者を見つけた」
 得意げに、景桓が言い、甄平が首をすくめる。甄平ほどの者が見とがめられたとすれば、景桓はよほど注意深く、月に一度の訪問者を待ち構えていたに違いなかった。
 「あなたはやはり、執念深くておいでだ」
 長蘇が困ったように笑いながらそう言えば、景桓も笑った。 
 「何しろ『毒蛇』だそうだからな、わたしは。蛇は執念深いものと、相場が決まっている」
 小さく、長蘇が唇をひらく。景桓は意地悪く片頬を上げて見せた。
 「幼い頃から、そなたがわたしを毒蛇と呼んで嫌っておったことくらい、わたしとて承知している」
 長蘇はうつむいた。
 「まさかまことに、梅長蘇があの林殊であったとは。夏江の世迷い言ではなかったのだな」
 少し呆れたように景桓が言うと、長蘇も顔を上げてちょっと挑むような表情になる。
 「殿下こそ、林殊をお嫌いだったでしょうに」
 長蘇からそう言われた景桓は、幾分鼻白み、それから笑った。
 「そうだな。わたしが大人たちの機嫌とりに汲々としているときに、そなたときたら好き放題、それでいて誰からも愛された。あんないけ好かぬ奴はほかになかった」
 あっさりとそう言ってのけた景桓に、長蘇が渋面を作る。
 「それゆえ、梅嶺で林殊が死んでのちは、林殊の友であった靖王・景琰を目の敵になされた」
 子供っぽい恨み言を口にした長蘇に、景桓は笑ってうなづいた。
 「まあ、そうであったやもしれん」
 そう認められて、長蘇は少し悲し気な顔をする。 長蘇の眼が、わずかに泳いだ。
 「それゆえ‥‥‥。貴方を生かしておけば、いずれ必ず景琰のあだとなる、そう思って‥‥‥、迷ったのです」
 睫毛を伏せ、しばし口をつぐんでから、長蘇はその眼を景桓に向けた。
 「ですが、貴方は―――。妻子と慎ましく生きる道を、選んでくださった」
 長蘇も、苦しんだのだろう、と藺晨はふたりを眺めた。
 景桓がすこし目を細める。
 「『父は子を知らず。子は父を知らず』。この子と暮らしてみて、その言葉の重さがわかった」
 祁王が、死ぬ前に言ったというその言葉。景桓が、父に告げずに握りつぶした言葉であった。
 「この子と寝起きを共にし、日々の成長を目の当たりにして、思ったのだ。皇帝と皇子の身分では、決してこうはゆくまいと」
 愛しげに、我が子を見下ろす。
 「狭い家の中で四六時中顔を付き合わせ、三度の食事の箸の上げ下ろしさえ間近に眺める。そんな中でこそ培われる父と子の情を、わたしは初めて理解した」
 景桓は大きく息を吐き、そして晴れやかな笑顔を見せた。
 「もう戻れぬよ。宮中での暮らしには」
 長蘇が眩し気に目を眇める。
 「粗末な衣を着て、土にまみれ、手にまめを作る暮らしの方がよいと?」
 景桓はほんの少し勿体ぶって間を置いてから、笑ってうなづいた。
 「―――そういうことになるな」
 長蘇が微笑む。
 「お変わりになりましたね」
 「誰ぞのお陰でな」
 景桓は口をつけていなかった茶杯をとると、一気に飲み干した。その仕種には、皇子の優美さではなく、潔い粗野な男くささが溢れていた。
 「よいお顔をなさっておいでです」
 長蘇が言い、景桓は茶杯を置いて拳で口許を拭った。
 「そなたも元気そうでなによりだ」
 訪ねてきてよかった、と言って子供を抱き上げようとする景桓に、藺晨は初めて声をかけた。 
 「どのような字を書くのだ?」
 は?と景桓が訝し気な顔をする。藺晨を見、そして長蘇を顧みた。
 「だれだ、この御仁は?」
 ずっと同じ部屋にいて、眼に入らなかったとは言わせぬが、今更のように景桓はそう尋ねた。
 「琅琊閣閣主・藺晨どのですよ」
 長蘇が笑って答えると、
 「ああ‥‥‥」
と景桓は顎を上げた。
 「そもそも琅琊閣のご託宣のおかげで、わたしはひどい目にあったのだ」
 大仰な物言いで、景桓はそう言った。
 「わたしのせいではないぞ」
 藺晨は眉を顰める。まるで長蘇と組んで琅琊閣が詐欺を働いたかのように言われるのは、片腹痛い。―――いや、確かにそうと言えなくもないが。
 「それで、‥‥‥何であった?」
と、景桓が首をかしげる。
 「その子供。しゅ、とはどう書くのだ」
 藺晨が重ねて問うと、ああ、と景桓が笑った。
 そして、指で宙に文字を書く。
 ごつごつとした、働く男の指であった。
 ―――『殊』と。
 その指が綴るのを見て、長蘇がわずかに目を瞠る。その顔をちらりと振り返って、景桓は笑った。



   * 
 


 「全く。あの毒蛇を野に放っていたとは、お前の太っ腹には呆れる」
 「見ただろう? もう毒はないのだ」
 長蘇は言った。
 はじめから。
 毒蛇などではなかったのかもしれぬ。
 ほんの少し、世の理に疎かっただけの、ごく平凡な男であったのやも、と長蘇は肩を落とした。誉王は、生まれ落ちる場所を間違えただけだ。いまの景桓こそが、まことの姿に思えた。
 
 


   * * *



 目覚めれば、両脇に愛しい者たちの姿がある。
 これはもしや、とてつもなく幸せなことなのではあるまいかと、今更のように長蘇は思う。
 自分の身体をしっかりと抱え込んでくれている、すんなり伸びた若く健康な両腕が、たまらぬほど愛おしい。健やかな寝息を立てる飛流の髪を、長蘇は慈しみを込めて撫でてやる。
 そんな長蘇の髪をまさぐる指は、藺晨のものだ。長蘇に腕枕をしたまま眠った藺晨は、半ば痺れているであろうその手をもぞもぞと動かしながら、ごろりとこちら側へ寝返りを打って、自由なほうの腕で長蘇の身体を抱く。
 飛流ごと抱きしめられた恰好になって、長蘇は苦笑いした。

 大の男が三人、ひとつ褥で暑苦しいといったらない。
 それでも、幸せでならぬのだ。

 誉王も。
 今頃、幸せを噛みしめていることだろうと思う。

 怪童と毒蛇であったあの頃から、思えばずいぶん時がたった。
 
 深い悲しみと絶望の果てに、それぞれがようやく居場所を見つけたのだ。


 まだ、黎綱が起こしに来るまでに時がある。
 長蘇は今一度目を閉じ、愛しい者たちの温もりに身を委ねた―――。






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