琅琊榜

毒蛇3 『朋』 (『琅琊榜』#7.8.9 補完)

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誉蘇シリーズ第三弾です。

 事もあろうに寧国侯・謝玉が東宮に与していたとは、怒りで腸が煮えくり返る。
 己が世子・謝弼がこちらに傾倒するのを何食わぬ顔で黙認し、油断させ、さりげないふうを装っては己に必要な情報を息子から引き出していたに違いない。その老獪さに、誉王は歯ぎしりする思いであった。
 こちらの手駒の内、軍を有する慶国公は、濱州での不行跡を訴えられ、既に懸鏡司・夏冬によってその仔細も調べ上げられている。慶国公の身は風前の灯火であり、その兵力を頼みとする誉王も心もとない立場に置かれている。慶国侯を失うことは、その軍をも失うことにほかならない。
 然るに東宮が、一品軍侯の身たる寧国侯を味方につけているとなれば、今後の局面が思いやられるではないか。
 慶国公は当然のごとく泣きついてきたが、誉王とてなんとしても救いたい。そのためにはこの濱州事案を東宮の息のかかった者に審理させるわけにはゆかぬのだ。
 とはいえ、そこは東宮側にとっても譲れぬところには違いなく、つい先ごろも案件の審理を巡って太子と口論になり、父皇の不興を買った。
 どうしたものかと頭を悩ませていた折も折、梅長蘇が僥倖をもたらしてくれた。
 戸部尚書・楼子敬にまつわる不祥事が、明るみに出たのである。
 梅長蘇は、すこし前から手ごろな屋敷を探していた。その渠が新宅として購入した蘭園が、事件の発端であった。その屋敷内の古井戸から、複数の白骨死体が出たのである。そうしてこの事件は多くの貴族・官吏を巻き込む形となり、その中に楼子敬の息子の名もあったのである。
 楼子敬は、東宮一派に与している。六部と軍方を、東宮と誉王それぞれが分け合う形となっている中、東宮側の人間が失脚してくれれば、空いた官職に己の息のかかった者を据えられる可能性も出てこようというものだ。
 蘭園で白骨が見つかったのは、たまたまのことである。ではあるが、そこに梅長蘇が絡んでいるとなれば、それは果たして「たまたま」であろうか?
 (まあ、よかろう)
と誉王は思う。偶然であれ、梅長蘇の神通力の賜物であれ、それはかまわぬ。いずれにせよ。
 (やはり役に立つ男だ、梅郎)
 そう思って、誉王はひとりほくそ笑む。
 情絲繞の一件では太子に痛手を与え、こちらに益をもたらしてくれた。続いて、今度の蘭園事件。濱州事案で東宮の風下に立たされていた自分にとって、楼子敬の足元が掬われたことは非常にありがたい。
 麒麟の才子は、もはや手にしたも同然であった。明らかに、自分を支えるために動いてくれているではないか。
 そもそも、これまで身を寄せていた謝玉邸を出る気になったのも、謝玉が東宮側の人間と気づいたからではなかろうか? もしや、自分に義理立てしてくれているのではなかろうか、とさえ誉王は思った。
 梅長蘇はもう充分に太子と自分、双方を翻弄し、度量を量ったはずだ。いまだいずれにも与せぬふうを装いながら、麒麟の才子はすでにこの自分についてくれている、太子ではなく、この自分を選んだのだと、そう考えると、自然に笑みの登ってくる誉王である。あの、賢く美しい才子が、自分のために骨を折ってくれることが、この上もなく嬉しかった。
 礼を言いたいと思ったが、謝玉が東宮派と知れた今となっては、気軽に寧国侯府を訪れるもならぬ。早く居を移してくれればよいが、と誉王は嘆息した。



 白骨の出た蘭園に代わって、禁軍大統領の勧めてくれた屋敷を買いとったことを、誰も不思議には思うまい。たまたま新居に選んだ屋敷からいくつもの古い死体が出たとあっては、同情されこそすれ疑われる筋合いはない。まさか白骨が出るのを承知のうえで蘭園を新居と定めたなどと、知る者のあろうはずもなかった。しかも、この事件の審理の担い手が景琰に回ってくるよう、蒙大統領を使ってほんの少し後押ししたなどと。
 (景睿には気の毒なことをしたが)
 古井戸から白骨を発見したばかりではない。その後、渠の敬愛するふたりの父が、東宮を支持し、しかもこの梅長蘇を殺めようと企てたことさえ知ってしまった。これまで、父たちが帝位争いのいずれの勢力にも与せず中立を貫いてきたことを誇りに思っていた景睿にとって、これは大きな痛手であったろう。
 もっとも、こののち景睿を見舞うことになる過酷な運命を考えれば、これしきで申し訳ないと言ってもおれぬが、と梅長蘇は嘆息した。
 ともあれ、蘭園事件を引き金に、東宮一派に痛手を負わせることが出来るのは間違いない。
 誉王からも、間もなく慶国公という兵力を除ける。
 ひとつひとつ、両派から翼をもぎ、牙を抜き、爪を折っていく。渠らは、いつ、なぜ、誰に仕組まれたとも知らぬ間に、少しずつその勢力を失ってゆくのだ。
 いずれにせよ、謝玉邸を出てようやく、梅長蘇はほっと手足を伸ばしてくつろげる場所を得たのであった。
 黎綱と飛流が常に身辺を守ってくれていたとはいえ、敵陣のただなかに身をさらしていたのである。常に神経を尖らせ、正直なところ疲れ果てていた。
 殊に、近頃はあからさまに東宮側から命を狙われるようになった。これには誉王が関係していると、梅長蘇は察している。過日の霓凰郡主の一件が実は梅長蘇の手柄であったと、誉王は密かに巷へ流布したのだ。梅長蘇が既に誉王側についたと、東宮側ににおわせるためである。結果、さっそく東宮側は梅長蘇の排除に乗り出したのだ。手に入れられぬ麒麟の才子など、亡き者にするが一番と。
 誉王の思惑など知れている。東宮を敵に回したこの梅長蘇が、おのずと自分のもとへ転がり込むと算段しているのだろう。
 まあよい、と梅長蘇は思う。いずれは謝玉邸を出るつもりだったのだ。よい頃合いである。
 新宅には廊州から心利いた者たちを呼び寄せた。それだけで、そこはもう居心地のよい我が家になる。
 (梅長蘇は果報者だ)
 ふとそんなことを思った。
 蘇哲ーーーあるいは梅長蘇という男が、触れ込み通りの身の上であったならどんなにか幸せだ。江湖に名だたる江左盟の宗主にして、音に聞こえた琅琊榜首。麒麟の才子と謳われて、大梁の皇太子と、それに勢力均衡する第五皇子から幕僚にと求められる身。しかも江左盟配下は皆、宗主を慕い、誠を尽くしてくれる。こんな幸せな者が、ほかにあろうか。
 たった一人で心を凍てつかせている景琰に引き比べ、支えてくれる人々のなんと多いことか。琅琊閣閣主藺晨、禁軍大統領蒙摯、雲南郡主霓凰。簫景睿や言豫津、穆青も、友とも兄とも慕ってくれる。
 それでも、『いっそ林殊であることをやめられたなら』とは考えられぬ梅長蘇なのだ。己の中の林殊には、なんとしても果たさねばならぬ使命がある。林殊ひとりではない、父や母や従兄や、共に戦った七万の兵の魂が、梅長蘇という男の肉体と精神を憑り代として住み着いている。二年という限られた命を、梅長蘇は己の安寧を捨てても、この失われた魂たちの、無念と、そして未来への希望のために捧げねばならぬ。
 なればこそ、と梅長蘇は思うのだ。慕ってくれる人々に、せめて今このとき、素顔で接したいと。その素顔が、林殊のものであるのか梅長蘇のものであるのか、渠自身にももはやさだかにはわからぬ。ただ、幸せな一瞬を、かれらと共有したかった。
 殊更快活に、梅長蘇は新宅での日々を過ごしていた。

 誉王が新宅を訪れてきたのは、そんな折である。
 「濱州の事案を聞き及びか」
と切り出された。慶国公の件である。
 「幾分かは」と答えながら、梅長蘇はゆったりと茶を淹れる。
 「原告の老夫婦が江左を通る際、揉めましてね」
 茶器から顔を上げ、誉王の表情を窺う。
 「根にお持ちで?」
 誉王は微笑した。
 「江左盟の掟を知らぬ者が悪いのだ」
 「殿下は度量がありますね」
 そう言って梅長蘇が茶を一口含んだ途端、誉王は威儀を正して一礼した。
 「本件でわたしは頭を抱えておる。どうかご教示ください」
 第五皇子から深々と頭を下げられ、梅長蘇は茶杯を置いた。
 「陛下は審理を行うと決めたのですか?」
 「今日正式に靖王を召し、審理するよう命じた」
 「靖王?」
 梅長蘇は少しばかり驚きの表情を作って見せた。
 「反対しなかったので?」
 誉王が顔を曇らせる。
 「父上はわたしと皇太子の介入を禁じた。靖王の性分なら事実を曲げぬだろうから、東宮側も反対派せん。だが、わたしは……」
 「嫌疑を避けたいと?」
 誉王は心持ちうなだれた。
 「ご存じのとおり、慶国公とわたしは親交が深い。審理が皇太子の手に渡らぬのは幸いだが、靖王は頭が固いため、話が通じぬだろう」
 「殿下は靖王に恩を売ったのでは?」
 誉王は苦笑した。
 「弟をわかっていないな」
 そう言われて、内心可笑しくなる。この自分ほど、景琰をよく知る者はほかにあるまい。血を分けた誉王よりも、ずっと深く理解している。
 そんなことを思う間にも、誉王が景琰の融通の利かなさを挙げつらっている。
 「もし慶国侯を護れれば、感謝に堪えません」
 梅長蘇は我知らず、指を擦り合わせていた。


  ***


 この日の梅長蘇は、今まで以上にゆったりと落ち着いて見えた。
 (やはり己が家というのは、安心して寛げるものらしい)
 贅沢とは言えぬ屋敷だが、その中での渠は、まるで一国一城の主のごとく悠然としていた。前に会った時より顔色もよく、表情も明るい。自信が備わって見える。
 ―――ならばその自信に頼らせてもらいたいものだ、と誉王は思った。
 教えを請うからには、一言一句聞き漏らすまい、渠の表情が示すものを見逃すまいと、誉王は梅長蘇の貌をひたすらに見つめていた。
 しかし、梅長蘇の口から出た言葉は、
 「なぜわざわざ破滅の道を選ぶのですか?」
であった。
 父皇に愛され、権力を擁し、皇太子と競う誉王にも、決して背いてはならぬ相手がいると言うのだ。
 「それはあなたの父、皇帝陛下です」
 誉王は思わず立ち上がった。
 「わたしがいつ父上に背いたと言うのだ」
 麒麟の才子の言といえど、黙ってはおれぬ。常に梅長蘇の前では冷静であろうと思っていたのに、つい声を荒げてしまった。
 いかに野心があろうとも、父皇に背くつもりなどもとよりありはしないのだ。
 だが、梅長蘇は淡々と答えた。
 慶国公の事案を審理するのは、皇太子でも靖王でもなく、ほかでもない皇帝なのだと。懸鏡司を派遣し、靖王に審理を任せるのは、濱州事案のごとき土地の不正な所有を抑え込むためであると梅長蘇は言った。皇子ふたりの権力争いは許せても、自らの政を阻まれることを皇帝は許さぬはずだと。
 梅長蘇の口調は強く、誉王は愕然とその場に座り込んだ。
 「もし殿下が横槍を入れれば、最後に誰の怒りを買うと?」
 梅長蘇の言いぶんは、あまりにももっともだった。父の性分はいやというほど知っている。息子には甘いが、自分の権威を侵されることには我慢がならぬのだ。
 「慶国公を守る代償に陛下の心を失うなど、あまりにも莫迦げています」
 かくのごとく事を分けて話されれば、それでも道理の分からぬほど愚かな自分ではない。だが、慶国公を失うことがどういうことか、この謀士にとて想像できぬはずはなかろうものを、と誉王は苦悩し、茶をあおった。
 消沈する誉王に梅長蘇も表情をやわらげ、理解を示した。
 「我が国の制度では文武官は区別され、軍方は政務に介入しない。だが慶国公は最初に―――、そして唯一、殿下への支持を明確にした」
 さすがによく飲み込んでいる、と思った。
 政務や実質六部を制御している点で皇太子に劣らぬ自分ではあるが、軍方では既に寧国侯を東宮側にとられ、頼みの綱は慶国公のみだ。
 やはり。
 麒麟の才が、必要だ。
 「先生に強要することは誰にもできぬし、先生の持論に他人が口をさしはさむ余地はない。ただ、先生が今後どんな境遇にあろうと、わたしを見込んでくださるのならば、誉王府の門は常に開けておく」
 精一杯の、誠意の示し方であった。


 屋敷内をゆっくり歩きながら、広々とした客殿へ足を踏み入れる。付き従う護衛の者たちを庭へ退けて、誉王は梅長蘇に尋ねた。
 「ほかに注意すべき点は?」
 その時である。梅長蘇は予想だにせぬことを口にした。
 「わたしが思うに……。今こそ慶国公を捨てて、靖王を支持するべきです」
 「靖王を?」
 意表を突かれて、誉王は苦笑した。
 「勅命を帯びた靖王を誰が困らせようか。わたしの支持など必要ない」
 そう言うと、梅長蘇はいかにも失望したような冷たい表情になって顔を背けた。誉王は慌てて言葉を添える。
 「ただ、刑部の斉尚書は、困らせることはせぬだろうが―――、引き延ばすことはあろう」
 ほかでもない、この自分が引き延ばすよう指示したのだとは、いまさら口にできぬ誉王である。無論、梅長蘇にはとうに見抜かれているであろうことも承知してはいるが。
 「わたしが言っているのは、単に濱州事案のことだけではありません」
と梅長蘇は言った。本案を皮きりに、同様の事案が次々に持ち込まれるようになるであろうというのだ。その時に靖王では対処しきれぬと。
 「殿下が手を差し伸べ、有力者の不満を抑えてやれば、陛下の政務の安定にもつながる。そうすれば、靖王も、殿下に感謝の念を抱くのでは?」
 靖王を抱き込め、というのである。
 「霓凰郡主の件も、それが狙いですよ?」
 梅長蘇の言葉に、誉王は破顔した。
 「早々に策があったとは。ぜひ詳しく伺いたい」
 嬉しくなる。
 やはり、見込んだとおりの男だ。手厳しいようでいて、ちゃんとこの自分の為に策を用意してくれている。
 「慶国公くらい何です?」
と自信に満ちた口調で、梅長蘇は言ってのけた。
 「軍で言えば、慶国公は靖王に遠く及ばない」
 靖王―――。
 あの扱いづらい弟を引き込むなどとは夢にも思ったことがなかった。
 もとより母親の位は低く、七弟には何の後ろ盾もない。かつては長兄の寵愛を受けていたが、その長兄が罪に問われて自害して果ててからは、七弟自身、父皇から疎まれ、ほとんど島流し同然に次から次へと遠国へ追いやられていた。三十路を出ても親王にもなれぬ、とるに足らぬ身。太子も自分も、まるで眼中になかった男だ。
 慶国公をはるかに凌ぐ軍を持つ―――、言われてみれば確かにそうだが。
 「靖王の支持を得られれば渡りに船だが、あの性分からして、力が必要な時に召集に従わぬかもしれぬ」
 つい、そう口にしていた。
 そして、梅長蘇にぴしゃりと切り返されたのである。
 「軍を招集してどうします。―――謀反を起こす気で?」
 今度こそ、聞き捨てならなかった。
 謀反。
 そのようなことは、考えたこともなかった。
 兵力を使って皇太子に正面から挑むことは、すなわち父皇への謀反。そんな気はさらさらなかった。しかし、ならばなにゆえ己が勢力に軍を抱えようというのか。兵を動かす気はなくとも、東宮と対等に渡り合うため―――、匹敵する力を有していると誇示したいがためか?
 誉王は唸った。
 梅長蘇の弁は鮮やかだ。
 「簒奪でも謀反でもなければ、なぜ「招集』と?」
 誉王は返す言葉もなかった。
 「都では陛下が御林軍を持ち、蒙大統領が皇宮を守る。勅命ひとつで動員できるというのに、誰が付け入ることなどできますか?」
 この男の言うことは正しい。だが、どこか腑に落ちず、誉王は奥歯を噛みしめた。
 梅長蘇の考えを受け入れかねているのは、自分がこの謀士ほど頭が回らぬせいか? この男には自分などおよそ思いもつかぬ深謀遠慮があって、それでこのように悠々と落ち着いているのだろうか?
 「一番大切なのは、陛下の心です。軍方がだれを支持するかは、単に立場の問題。従わせて何になります? 百歩譲ったとして、皇太子がいつか謀反を画策し、陛下の身に危険が及んだら? 靖王の性格からして、殿下の招集を待つまでもなく戦いますよ」
 誉王は溜息をついた。
 麒麟の才子の言うことに、間違いはない。
 「何事も程度が肝心です。わざとらしすぎず、幾分協力的であればよいのですよ」
 梅長蘇が、少し目を伏せて微笑んだ。
 「―――明日、わたしから靖王府へ赴くべきですね」
 先刻までの厳しいそれとは違う、柔らかな声音だった。
 「靖王は朝政から離れていたため、殿下が協力的だと知らせねば気づかぬでしょう」
 次の瞬間、誉王は思わず深く一礼していた。
 不思議な感動が、あった。
 蒲柳の質というのだろうか。猛者を束ねる江左盟の宗主が武芸も嗜まず、病弱な身であるという、ちょっと信じられぬような噂が、実際に会って一目で事実だとわかるほど、梅長蘇という男は見るからに弱々しい風情である。背は高く、決して女性的ななよやかさはない。その表情には毅然とした強かさも備わっている。それでも、そのほっそりとした姿は、会うたびに誉王の胸を痛ませた。
 その梅長蘇が、この自分の為に骨を折ってくれるという。明日は、靖王のもとを訪ねてくれるのだと。
 もうすっかり、季節は冬だ。明日も寒かろうにと思うと、心がぎゅっと苦しくなる。
 「何と礼を申してよいか」
 前で組んだ手を、梅長蘇の美しい手が掬い上げる。
 「殿下、やめてください」
 初めて、その手に触れた。冷たい手だ。その冷たさに、逆に胸が熱くなるほとの。
 「献策いただいたのだ。当然です」
 梅長蘇は、穏やかな顔つきをしていた。
 ああ、さっきまでの頑なさは、この献策を成し遂げるためであったのかと思う。自分を説き伏せんがために、傲岸なまでの厳しい態度を崩さなかったのだ。
 「ご安心を。答えも分かりましたし、今後はわたしが先生を守って見せる。皇太子が先生に手を出せば、わたしが決して許さぬ」
 心から、そう思ったのだ。
 二人は互いに礼をとりあった。
 「蘇先生。その……」
 顔を上げ、誉王は口ごもった。
 言葉が見つからずに、誉王は唇を引き結んで少し目をそらせた。日ごろ、口の滑らかな自分としては、珍しいことである。
 そんな己に焦れて、誉王は大きく息をつくと、踵を返した。
 「すまぬ。書房に忘れ物をした」
 言うなり、誉王はもう歩き出していた。大股に客殿を出ていくと、庭に待たせていた警固の者が、すわお帰りかとこちらを見た。それを手で制しておいて、廊下をさっきとは逆の方向へ戻る。
 「殿下」
 あとをついてくる梅長蘇が、怪訝そうな声で呼ぶ。
 「お忘れ物なら、とってまいりましょう。いったいなにを」
 「先生のお手を煩わせるには及ばぬ」
 梅長蘇の私房へ戻ってくるなり、誉王は深くため息をついた。さっき座っていた場所に立つ。
 「殿下、お忘れ物は……」
 振り返ると、足早に歩いてきた自分を追ったせいで、梅長蘇は少し息を切らせていた。
 「……すまぬ。忘れ物というのは偽りだ」
 「は?」
 梅長蘇は胸に手を当てて息を整えながら、不思議そうに首を傾げている。その手を、矢庭に誉王は掴んだ。
 「殿下?」
 細い手首だ。そして、やはり冷たい。
 その冷たさが、また誉王の胸を熱くした。
 抑えられなかった。
 「蘇先生」
 思わず。
 その手を強く引いて、梅長蘇の身体を抱きしめていた。
 「―――っ、殿下!?」
 この手で抱きしめてみてわかる。随分厚着をしているのだ。これだけ衣を重ねていながら、こうもほっそりして見えるからには、衣の下の身体の細さは言わずもがなだった。
 「先生の厚情に感謝する……。言葉では、どう表してよいか、わからぬのだ」
 頭を下げるだけでは、足りぬ。
 こんな気持ちは初めてであった。
 誉王は皇子である。誰もがかしづき、誉王が一言命じれば思いのままに動く。己の代わりに靖王のもとへ遣いせよと言えば、逆らう者などおりはすまい。梅長蘇もまた、誉王の為に動く者のひとりにすぎぬはずだ。
 それなのに、である。
 自分の為に靖王のもとへ赴いてくれると聞いたとき、誉王は少なからず感動したのだ。そして、思わず一礼した誉王の手をとってくれた梅長蘇の指の冷たさに、かっと血が逆流する思いがした。
 本当は、その場で抱きしめたかったのだ。開け放たれた客殿の外に警固の者の姿がなければ、そうしていたであろう。そうできなかったのは……。
 恥ずかしかったからに、ほかならない。
 誉王は自分でもよくわかっていた。口がうまく、うわべの愛想がよい。相手に親しみを表す必要があれば、大袈裟に抱きしめて見せることも厭わない。たとえ自分が人前でこの謀士を抱きしめて謝意を表したとて、不審に思う者はおるまい。だが。
 ほかの誰が知らずとも、誉王自身が知っている。梅長蘇に抱いた思いはうわべのそれではない。それゆえに、恥じらわずにおれなかったのだ。
 己の素の心を、人前で見せたくはなかった。
 「……殿下。すこし、手を緩めてはいただけますまいか」
 梅長蘇の弱々しい声に、ようやく誉王は我に返った。


  ***


 「これはすまぬ」
 誉王が慌てて腕を解く。梅長蘇は俯いた。
 「いえ。すこし……、驚いただけです」
 誉王に、このような熱い一面があろうとは思いもよらず、梅長蘇は正直なところ戸惑っていた。
 誉王を言いくるめるのは、実はなかなかに面白かった。慶国公が誉王の命綱のひとつであることは間違いがない。そうとわかっていながら、自らその綱を切らせる。その綱が、いかに誉王の命を脅かすものであるか、舌先三寸でじわじわと説き伏せてゆくのは愉快だった。
 誉王が苦悩するさまを存分に楽しみ、やがてこちらの言い分を是と認めさせ、しぶしぶながらもそれを容れさせる。そうして、最後にはいくらかの感謝と信頼を得て終われれば、守備は上々。そう思っていたのだ。
 ところが、誉王の感謝は梅長蘇の予想を遥かに上回っていた。誉王は抱擁を以て、その感謝の意を伝えてきたのだ。しかも、それはお座なりなお愛想ではなく、誠意の籠った強い抱擁であった。
 そんなはずがない、と思う。この毒蛇に、誠意などかけらもあろうはずがない。
 そう思いたいのに、金陵へ戻ってきて誉王と再会してからというもの、勝手の違うことが多すぎる。
 (まるで、わたしの知る景桓ではないかのようだ)
 十二年、である。
 長く苦しい、砂を噛むような十二年であった。新たに得たこの身体はあまりに弱々しい。この思うに任せぬ身体に鞭打って、這い上がってきた歳月であった。
 だが。
 十二年という月日は自分の上にだけ流れたのではない。景琰もまた、その年月を悲しみと苦しみの中で過ごしてきた。
 そして、この男は?
 誉王・景桓の上にもまた、同じだけの時が流れたのは間違いない。
 歳月は、―――人を変える。
 誉王は落ち着きなく視線を彷徨わせた。
 「身体の弱い先生に、雑作をかけて申し訳ないと思うと、つい……」
 心なしか、少し顔が赤い。
 「殿下ともあろうかたが、謀士風情の身体のことなど、お心にかけられてはなりませぬ。謀士の代わりなぞ、いくらでもおりましょう」
 そう言って微笑んだ途端、誉王の顔色がすこし変わった。
 「なにを言うのだ」
 両の肩を、つかまれた。
 「そなたの代わりを、誰が務まると?」
 あまりにも真摯な表情に、梅長蘇は怯む。
 なにをそう、むきになっているのだ、この男は。たかが謀士ひとりのことではないか。『麒麟の才子』の肩書が効きすぎただろうか?
 「才気に溢れる謀士ならば、あるいは今後もまた現れるやもしれぬ。しかし、先生。蘇哲―――梅長蘇という男は、そなたをおいてほかにはおらぬ」
 ―――あっけにとられた。
 逞しい指が肩に食い込む痛みも忘れ、梅長蘇は誉王の顔を見ていた。
 この男は……、麒麟の才子を欲しがっていたはずではなかったのか? 麒麟の才がありさえすれば、その名前が梅長蘇であれ、蘇哲であれ、あるいはほかの誰であれ、そんなことは関係がないはずであった。
 「先生の誠意は、この景桓、しかと受け取った。謀士たるまえに、先生は既に我が友である」
 極上の、笑みであった。
 梅長蘇は思わず眉を寄せた。それを見た誉王の顔が曇る。
 「……迷惑であったか?」
 思わず、首を左右に動かしていた。
 「ならばなぜ、そんな顔をするのだ」
 「……」
 答えに窮して、梅長蘇は目をそむけた。
 「肩が……、痛むせいです」
 やっとそれだけ、言葉を絞り出した。
 はっとしたように、誉王が手を離す。途端に……、言いようもない寂しさが胸に広がった。
 「……友だなどと」
 声が、うわずる。
 「殿下に友とおっしゃっていただけるような、そんな人間ではありません」
 「それはそなた決めることではない。わたしの友はわたしが選ぶ。先生がわたしを友と認めてくれるかどうかは、また別の話だ」
 厳しい、しかし、優しい声音で、誉王はそう言った。
 「認めるも何も、畏れ多うございます」
 そう答えた瞬間、誉王は世にも悲しげな顔をした―――。
 「……無理強いは、せぬ」
 溜息をつき、少し照れ臭そうに、誉王は無理に微笑を作った。
 「皇子などとはつまらぬ。真の友を、わたしはついぞ知らずに来た。誰もが追従を言い、機嫌を取り結ぶが、……誠の友情を捧げたいと思う相手は、先生が初めてだ」
 誉王は少年のようにはにかんだが、
 「ああ、されど」
と、思い出したように言った。
 「同じ皇子でも、あれには、友がいたな」
 「あれとは?」
 思わず聞き返すと、誉王は笑った。
 「明日、先生が訪ねてくださる七弟だ。同じ皇子でも、あれには青梅竹馬の友がいた。……もっとも、あれもその友も、私を毛嫌いしていたが」
 すこし寂しげに、誉王が苦笑する。
 (それではまるで―――)
 まるでこちらが悪者ではないか、と梅長蘇は思った。貴様があれほど傲岸かつ卑屈でなければ、従兄として慕うこともできたのだ、と。
 腹が、立った。
 あの誇り高き祁王にとって変わろうなど、太子も誉王も烏滸がましいにもほどがある。亡き祁王の遺志を告げるのは、我が友・景琰だけだ。自分は残りの命全てを賭けて、景琰を押し立てる。心卑しき謀士よと蔑まれ、ことの成った暁に打ち捨てられても構いはしない。景琰だけが、祁王と赤焔軍の汚名を雪ぎ、徳高き政を成し遂げてくれるのだ。
 「先生?」
 誉王が怪訝そうな顔をする。
 「なぜ泣くのだ」
 「え……」
 梅長蘇の頬に、誉王の指が触れた。身体が、こわばる。
 誉王は笑った。
 「頬は冷たいが、涙は温かいのだな」
 言われて、不思議な心地がした。誉王から翼をもぐことを楽しんでいたこの自分にも、人並みに温かい血や涙が通っているのだと。
 膝から力が抜けかけて、梅長蘇は誉王に支えられた。
 その腕にすがりながら、梅長蘇は声もなく涙をこぼした。
 どれほど求められても、誉王を主と仰ぐことはできぬのだ。
 遠い昔から、己が主と成りうる者は。
 祁王と景琰をおいてほかないのだ。
 ただ一筋に。
 忠節を誓った。
 たとえ己が傷つこうとも。
 「先生。わたしが悪かった。困らせるつもりはなかったのだ」
 優しい言葉が、胸を刺す。
 「先生は充分この景桓を扶けてくださっている。今はそれ以上望むまい」
 そう言って、誉王は微笑んだ。
 ―――景琰から、同じ言葉を聞けたなら。
 一瞬、そう思って、梅長蘇は狼狽えた。
 (何を愚かな)
 景琰に、情を求めてはならぬ。情で結ばれてしまっては、いずれこの身が去らねばならぬときに、再び景琰の心は血を流す。
 捨てられ、省みられることさえない、一介の謀士でなければならぬのだ。
 涙の止まらぬ両目を、梅長蘇は片手で覆った。
 「もうよい。もう言わぬ」
 誉王に、抱き寄せられた。先刻の強い抱擁とは違う、軽く、さりげない仕草だった。
 これではもう。
 (既に、……『友』のようではないか)
 身体を固くしたまま、梅長蘇は誉王の肩に顔を伏せた。誉王の厚い掌が、梅長蘇の背中を優しく叩く。

 今この瞬間、過去のすべて、洗いざらい忘れてしまえたら。
 初めてそう思った。
 決して忘れてはならぬ、同胞たちの無念を。いっそ忘れ果ててしまえたらと。
 (それは、できぬ)

 今だけだ。
 今だけ、ほんのいっとき。頭の隅に押しやるくらいは許されるだろう。忘れるわけではないのだ、決して。

 顔を上げたら、誉王は敵だ。

 それまで。
 この顔を伏せている間だけ。

 (『友』でいさせてやってもよい―――)

 梅長蘇は、肩を震わせた。
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