琅琊榜

安详(後編) (『琅琊榜』#54)

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完結した!! ほっ。

 もともと、林殊はお喋りな男である。
 頭がよく回り、あとからあとから喋りたいことが湧き出てきて尽きない。それなのに、今の林殊は少し話すと疲れてしまうのだ。
 それでも林殊は、懸命に話をしたがる。息を切らせ、しまいには朦朧としながら、尚も話そうとした。
 『あれの生きている内に、充分埋めることだ。離れていた間の隙間を』
 藺晨はそう言ったが、林殊も確かに、必死で二人の隙間を埋めようとしていた。
 息も絶え絶えなさまを見ていると、もう喋るなと言いたくなるが、景琰はかろうじてそれを思いとどまっていた。
 いま喋らせてやらなくてどうするのか。
 いま受け止めてやらなくてどうするのか。

 景琰といる間中、林殊はさまさまな話をした。
 子供の頃のこと、今後の政について、この国の歴史、江湖で出会った奇人たちの話。とりとめなく、林殊らしい機知に富んだ語り口で、面白おかしく語ってくれる。
 そして疲れ、呂律も怪しくなり、言っていることもどこか辻褄があわなくなった頃に、景琰は執務で林殊の傍を離れねばならなくなる。
 やがて景琰が戻ってくると、林殊は随分回復して、また話に興じるのだ。

 自分のおらぬ間に、藺晨が林殊に内力による治療を施しているのは明らかだった。林殊に気を与え続けて、藺晨もまた疲れ果てている。それはもう、はた目にも知れるほどになっていた。
 「閣主どの。少し休まれよ」
 治療を終えた藺晨に、そう声をかけた。藺晨の足取りは既に怪しかった。
 「気にするな」
と、支えようとした景琰を、藺晨は手で制した。
 「わたしはあとで、飛流の力を借りて内力を調える。あれが生きている間くらいは、まだ充分にもつ」
 二言目には、林殊の命の短いことをほのめかす。その現実から少しでも目を逸らせたいと思っている景琰にしてみれば、藺晨の言葉はいちいち胸を抉った。
 「あれが死んだら、存分に休ませてもらう。なに、あと数日のことだ」
 そんなことを言って、藺晨は微笑うのだ。
 「―――閣主」
 さすがに眉をひそめた景琰に、藺晨も苦笑した。
 「‥‥‥すまぬ」
 小さく詫びて、藺晨は溜息を一つついた。そのさまが痛々しくて、景琰も吐息をこぼす。
 「小殊も心配するだろう、そなたがこれほど参っていては」
 景琰はそう言ったが、藺晨は肩をすくめた。
 「そうでもない。あれはわたしの心配などせぬさ。なにしろ―――、おぬしを気に掛けるので精一杯だからな」
と藺晨は言う。そして、ふっと悲し気に眉尻を下げた。
 「仮にわたしの身を案じたとしても、わたしの力を借りねばもはや息をしていることさえ難しい」
 そこまで、林殊の命は差し迫っているのかと、景琰は身震いした。
 藺晨は肩を落として、言葉を継ぐ。
 「こんな土壇場に来て、やつめ、生きる欲に駆られている。‥‥‥わたしの命を吸いつくしてでも、一日でも長く生きたがっているのだ」
 そう言って笑う藺晨を、景琰はひどく羨ましいと思う。
 これほどまでに、―――林殊に頼られているのだ、この男は、と。

 林殊は子供の時分から、人に甘えるのがうまかった。賢く、それでいて愛嬌があり、時折上手に拗ねて見せたりもした。林殊は誰からも可愛がられたものだ。それでも、心から甘えるには、林殊は賢すぎた。
 だが、藺晨にはどうだろう。
 藺晨の命を削ることもいとわぬほど、甘え切っているではないかと思う。
 それにひきかえ―――、と景琰はうなだれた。
 自分は林殊に、心配をかけてばかりだ。
 あれほど弱っていながら、林殊は自分のことをずっと気にかけてくれている。自分のためにこそ、その命を細々とつないでいる。まことはもう、息をしているだけでもつらいのかもしれぬ。本音は、早く楽になりたがっているのではないか、そんな気がした。それでも、自分のことが心配で、林殊は逝けぬのだ。それゆえ、藺晨の力を借りて一日一日をつなぐ。ただ、自分に微笑んでくれるために。

 「―――すまぬ。わたしのせいだな」
 景琰は言った。
 「わたしのせいで、小殊にも閣主にも、苦しい思いをさせている」
 ふっ、と藺晨が笑みをこぼす。
 「しかたあるまい。あれはおぬしのことが、好きで好きでたまらぬのだ。おぬしのそばに少しでも長くとどまれることが、今のあれの喜びだ。―――あれが幸せならば、‥‥‥わたしも文句はない」
 そう言って、藺晨は破顔した。驚くほど優しい表情であった。
 「閣主‥‥‥」
 景琰が目を瞠ると、藺晨は少し照れくさそうに目を逸らせた。そして、言う。
 「まあ‥‥‥、おぬしが羨ましくはあるがな」
 低く笑った藺晨の顔を見ながら、そうか、と景琰は思う。藺晨にしてみれば、この蕭景琰を羨むのも無理はない。そして自分は、―――その藺晨に嫉妬している。

 小殊め、罪なことをする―――

 苦笑いがこみあげた。
 幾つになっても、林殊は人を困らせるのが得意だ。
 最期の最期まで、こうして周りを翻弄する。
 困ったやつだ、と景琰も笑わずにはいられなかった。



   * * * 



 「近ごろは、寝顔しか見せてくれぬのだな」
 藺晨はそう呟いて、長蘇の髪を撫でた。
 昼間の長蘇は、こうして眠っていることが多い。
 『少しでも長く、景琰の顔を見ていたい』
と、長蘇は言うのだ。
 景琰は毎夜、長蘇と床を共にする。景琰のほうは政務の疲れで眠るだろうが、長蘇はほとんど寝もやらずに、飽くことなく友の顔を眺めているに違いない。
 そうして、景琰のおらぬ昼の内に眠るのだ。
 「どうせわたしの顔は、眺めるにも値すまい」
 長蘇の寝顔に、藺晨は一言文句を言う。

 藺晨も、疲れ果てていた。
 どれだけ気を与えても、もはや長蘇は回復しない。
 「長蘇―――」
 もう、いよいよ別れが近いことは、ほかならぬ藺晨が一番よくわかっている。 

 藺晨は、長蘇の細い手を両手で握りしめた。
 その上へ、額を押し付ける。
 いまにも、―――嗚咽が漏れそうだった。
 もはや、自分の力は及ばぬ。己の医術など、なんと無力なことだろう。

 「―――藺晨」
と、か細い声がして、藺晨ははっと顔を上げた。
 久し振りに見る、長蘇の微笑であった。
 「泣くな、藺晨‥‥‥」
 「泣いてなど‥‥‥」
 涙は流しておらぬはずだ。それでも、泣いているように見えるのだろうか、自分は。
 長蘇は景琰を案じるので手いっぱいのはずだ。自分まで重荷になるわけにはゆかぬ。
 そう思うのに。
 うまく、笑えなかった。
 「藺晨‥‥‥」
 長蘇の眼が自分をとらえ、長蘇の唇が自分の名を呼ぶ。それだけで、藺晨は胸が熱くなった。
 それなのに。 
 「景琰を、たのむ‥‥‥」
 長蘇は、そう言った。
 「わたしが去れば、景琰はひとりになってしまう」
 そんなことを言うのだ。
 (とり残されるのは、わたしとて同じだ)
 そう怒鳴ってやりたかった。
 しかし。
 長蘇のすがるような眼差しが、それを許さない。
 これほどまでの信頼を、裏切れるはずがないではないか。

 「―――心配要らぬ ‥‥‥琅琊閣に、全てまかせよ」
 大梁は。
 蕭景琰は、琅琊閣が陰から支えよう。
 そう約束すると、長蘇は心底安心したように微笑んだ。
 「‥‥‥お前は、頼りになる男だな」
 幸せそうに、長蘇がそう言った。
 「今頃、わかったか」
 藺晨はようよう笑って見せた。

 これが恐らく、最後の約束になる。
 ならば。

 生涯、この約束に縛られようと藺晨は思った。




 ―――数日後、長蘇は静かに息を引き取った。

 最愛の友・蕭景琰に看取られて―――。 



   * * *



 都を遥か離れた土地で、霓凰は宮羽からその知らせを受け取った。
 覚悟は、していた。
 辛くないと言えば嘘になるが、林殊が大渝を退けたことは既に聞き及んでいる。さぞ、本望であったろうと思う。
 「あの人は、都で亡くなったのね?」
 霓凰は宮羽にそう確かめた。
 「―――はい」
 「蕭景琰が、看取ってくれたのね‥‥‥」
 宮羽はまたうなづく。
 「はい。そう伺っております‥‥‥」
 『伺った』と宮羽は言った。
 「貴女は‥‥‥?」
 宮羽はかぶりを振る。
 「梅嶺をあとにしてから、ただの一度もお目にかかってはおりません」
 悄然として、宮羽は答えた。
 「―――そう」
 霓凰はどこかほっとし、また、宮羽を哀れとも思った。
 深いため息のあとで、霓凰は声を励まして言った。
 「林殊哥哥の弔い合戦といきたいところだけれど、敵はなかなか動いてはくれないの。どのみち、まだしばらくここを離れるわけにはいかないわ」
 林殊の骸は、自分の帰りを待っていてはくれまい。ここは戦場だ。しかたがない。

 しばし口をつぐんでいた宮羽が、小さな声で言った。
 「お側に‥‥‥、お仕えしてはなりませんか」
 霓凰は、少しばかり驚いた。
 「貴女が? わたしの?」
 「宗主の奥方様に、末永くお仕えしとうございます」
 宮羽はのその言葉に、霓凰は胸を打たれた。
 林殊の妻。
 婚礼こそ挙げずとも、心ではとうに、霓凰は林殊の妻であった。それを認めてくれる者が、ここにいる。
 「―――そうね。戦場へ伴うことの出きる侍女が欲しいとずっと思っていたわ」
 「では‥‥‥」
 宮羽が顔を上げる。拒まれるかと、思っていたのかもしれない。
 霓凰は微笑んだ。
 「ええ。でも、あなたは侍女ではないわ。林殊哥哥を愛してくれたひと。わたしにとっては姉妹も同然だもの」
 「霓凰郡主、滅相もない」
 宮羽は少し狼狽えたが。
 「林殊哥哥の思い出を語る相手がいるのは、嬉しいことだわ、妹妹」
 霓凰がそう言うと、宮羽は涙にくれて頷いた。
 小さな声で、霓凰姐姐、と。宮羽は泣きながらそう呼び、霓凰の膝にすがった。





   * * * * *




 「琅琊山へ?」
 藺晨が旅立つ朝、景琰はそう尋ねた。
 「そうだな。だが、その前に少し江湖をぶらぶらしてゆくつもりだ」
と、藺晨は回廊から空を仰いで答える。
 「やつと‥‥‥、旅をする約束だったからな」
 「小殊と?」
 景琰が訊き返すと。
 「戦なんぞのせいで、反故にされたがな」
と、藺晨は苦笑した。
 「‥‥‥すまぬ」
 戦は自分のせいではなかったが、なんとなく申し訳なく思って、景琰は詫びた。
 「よい。おかげで、戦場で水を得た魚のごとき、やつの姿に触れられた」
 眩しそうに空を見上げたまま、藺晨はそう言って微笑む。
 「わたしにとって、あれは生涯『梅長蘇』であったが、武人・林殊の姿も悪くはなかった」
 「‥‥‥そうであろう?」
と、景琰も笑った。
 そして。
 「林殊も、梅長蘇も、小殊に違いないのだな‥‥‥」
 「―――そういうことだ」
 
 不意に。
 藺晨の袖に、包まれた。
 抱きしめられたのだと気づいて、景琰は狼狽する。

 「閣主どの、何を」
 藺晨の腕の中で、景琰は驚きのあまり動けずにいた。
 「黙れ。少しだけ、こうしていろ」
 たしなめるような声音に、景琰は思わず従う。
 藺晨の力が強かったからではない。
 景琰もまた、離れがたかったのだ。

 「長蘇の‥‥‥、匂いがするようだ」
 藺晨が、そう言った。
 景琰も、深く息を吸い込む。
 「‥‥‥閣主からも、小殊の香りがする」
 しばしの間、ふたりはそのまま、ものも言わずに寄り添っていた。


 やがて、藺晨の腕が景琰を放す。
 「一国の皇太子にすべきことではないな」
 そう言って笑うと、藺晨は恭しく拱手して頭を下げた。
 「―――殿下にお暇を申し上げます」
 その大仰なさまが可笑しくて、景琰は笑った。
 笑いながら、涙をこぼす。

 「健固であられよ」
 「殿下にも、ご健勝であられますよう」
 顔を上げ、藺晨は笑みを浮かべた。

 白い袖が、翻る。

 もう、会うこともないやもしれぬ。
 亡き友の残り香を、分かち合うこともないだろう。


 回廊をゆっくりと去りゆく背中を、景琰は長いことそこに立って、ただ見送っていた―――。


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