琅琊榜

安详(中編) (『琅琊榜』#54)

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 「長蘇」
 こちらに背を向けたまま身を丸めている長蘇に、藺晨は声をかけた。
 「機嫌を直せ。そのように気を昂ぶらせては、身体に障る」
 牀台の端にどっかりと腰かけて藺晨がそう言うと、長蘇は振り返らぬまま、肩で息をしながら口を開いた。
 「ひどいではないか。‥‥‥なぜ」
 その恨みがましい声音に、藺晨は肩をすくめる。
 「怒っているのか。―――喋らなくてよい。お前の言いたいことくらいわかっている。なぜ都へ連れ戻ったのかと、わたしを責めているのだろう?」
 下らんな、と藺晨は小さくつぶやいた。振り返った長蘇は、憔悴しきった顔に、怒りを露わにしている。
 「こんな‥‥‥」
 「喋るなと言っている。ますます消耗するだろう? 十日持つ命が五日に縮まるぞ?」
 「っ‥‥‥」
 言葉に詰まった長蘇に代わって、藺晨はつけつけと言う。
 「こんな病みさらばえた姿を景琰に見せたくはなかった―――、そう言うのだろう?」
 ふん、と藺晨は鼻を鳴らし、長蘇の顔を真っ直ぐ見下ろした。
 「そんなことはお前の事情だ。わたしは知らん。医者の立場として、よりよく逝かせてやろうと思ったまでだ」
 長蘇はしばらく睨みつけていたが、やがて悔しそうに目を逸らせた。
 そして言ったのだ。
 「医者として、わたしの為を思ってくれるなら」
 「ん?」
 藺晨はわずかに首を傾げた。
 長蘇は弱い息を、懸命に深く吐き出す。そうして肺に新しい息を吸い込んでから、ようやく願いを口にした。
 「いますこし―――、長く生かしてはもらえまいか‥‥‥」
 藺晨は軽く目を瞠った。
 「―――今さら、何を甘えたことを」
 藺晨は大袈裟に呆れて見せたが、長蘇はもうそのことに腹を立てさえしなかった。
 「一日でも長く、‥‥‥頼む」
 その細い声に、今度は藺晨のほうがむっとする。
 「何が一日でもだ。もういくらも持つものか」
 腹が立った。これほどまでに命を縮めたのは、長蘇自身にほかならぬ。自分は言葉を尽くして諫めた。それを今更。
 「少しもわたしの言うことを聞かなかったのだから、当然の報いだ」
 藺晨がそう言い放つと、長蘇も眉間に皺を刻んだ。 
 「それゆえ帰らぬつもりであったのだ。景琰にも会わぬつもりだった。それを、会わせておいて‥‥‥、心を残させておいて、‥‥‥見殺しにする気か」
 なんという言いぶんだろう。藺晨の中に怒りがこみ上げる。
 「―――わたしのせいに、するのか?」
 「そうではないか!」
 長蘇はそう断言して、そしてぼろぼろと涙をこぼした。
 落ちくぼんだ目が、顔の痩せた分、大きく見える。その眼を見開いたまま、長蘇は涙をこぼし続けた。
 藺晨は毒気を抜かれて、溜息をついた。
 「―――泣くな。鬱陶しい」
 こんな風に泣かれては、突き放すこともできはしない。
 「‥‥‥せめてあとひと月、景琰のために微笑っていてやりたいのだ‥‥‥」

 景琰のために、と長蘇は言う。
 ほろ苦いものが胸に去来し、藺晨は苦笑した。
 「あれだけ無茶をしておいて、あとひと月とは贅沢だな」
 ため息混じりに、そう言って髪を撫でてやる。
 「‥‥‥すまぬ‥‥‥」
 申し訳なさそうに、長蘇はそう詫びた。
 わかっている。一番つらいのは、死にゆく者だ。
 もう少し早く、欲を出してくれていたなら、と思わないでもなかったが。
 どのみち別れはいずれやってくるのだ。
 藺晨はしかたなく、微笑ってうなづいた。
 「―――出来るだけのことはしてやる。安心しろ」
 「藺晨‥‥‥」
 俄かに、長蘇の顔が明るくなる。それがいじらしくて、藺晨はその痩せた頬を両手で包んだ。
 「わたしとて―――、一日でも長く見ていたいのだぞ?」
 「え?」
 長蘇が首をかしげる。藺晨の胸は、ひどく痛んだ。
 「見ていたいのだ。お前の微笑っている顔を」
 長蘇が、―――目を瞠った。

 長蘇の顔を見ていられずに、藺晨は牀台から腰を上げる。
 卓上の水差しをとって杯に注ぎ、いやに乾いた喉を潤した。そうして、藺晨は長蘇を振り返る。
 「そういえば、宮羽姑娘に会ってはやらぬのか。十三先生のところへ戻ったと聞いたが」
 笑ってそう言うと、長蘇もすこし困ったような笑みを浮かべた。
 「霓凰が」
と長蘇は苦笑しながら言う。
 「妬くのだ、宮羽に」
 少し照れくさそうな長蘇の顔が、またいじらしく思える。
 「ほう? あの勇ましい郡主どのがな」
 大袈裟な口ぶりで藺晨がそう驚いて見せると、長蘇は少し声を立てて笑った。
 「わたしも霓凰は怖い」
 郡主が聞いたら気を悪くしそうな冗談を、長蘇は茶目っ気を出してそう言った。これほど弱って、死に逝く悲しみの中にあっても、この男の魂はやはり明るく澄んでいるのだと、藺晨は感心せずにいられない。
 「ならば、宮羽にだけ会うわけにはいくまいな」
 そう言って藺晨が笑うと、長蘇もまた笑った。

 たとえ自分ひとりに向けられずとも、長蘇が笑顔を見せてくれるなら。
 全力を尽くしたいと藺晨は思うのだった。



   * * *



 午后の執務を終えて東宮へ戻ってきた景琰は、林殊の臥室から出てきた藺晨と出くわした。
 「閣主。小殊の具合はどうだ?」
 あいさつ代わりにそう尋ねる。
 「昼間見舞ったときには随分よいようであった。快方に向かっているのであるまいか」
 景琰がそう言うと、藺晨は少々小莫迦にしたように片眉を上げた。
 「快方?」
 いかにも、『おめでたいやつめ』と、その眼が語っている。
 「あれはもう、ひと月ともたん。半月でも怪しいほどだ」
 言いにくいことを、ずけずけと言う。が、景琰が眉間にしわを刻む前に、藺晨はこう付け加えた。
 「せいぜい―――、優しくしてやることだ」
 そう言った声が。
 深い悲しみに満ちているようで、景琰は腹を立てることができなかった。
 この男も、つらいのだ。そう気づく。
 「閣主にも、―――ご苦労をおかけする」
 そう労うと、藺晨はちょっと意外そうな顔をし、それから少し微笑った。
 「全く、世話の焼ける男だ、あれは」
 この男は林殊のことが大切でならぬのだと、言葉と裏腹な藺晨の心が見えた気がした。

 
 藺晨と別れて部屋へ入った景琰を、林殊は笑顔で迎えてくれた。
 金陵へ戻ってきて五日。
 藺晨はああ言ったが、林殊は確かに、幾分元気を取り戻したように見える。
 林殊が取り乱したのは、あの日だけだった。あの時には随分気を揉んだものだが、それ以降は拍子抜けするほど林殊は穏やかで、もう涙を見せることもなかった。
 「よかった。だいぶ具合がよさそうだ」
 そう言って景琰が牀台のそばに腰掛けると、林殊は笑ってうなづき、
 「お前こそ何かよいことでも?」
と問うてきた。
 「わかるか」
 「当たり前だ。赤子の頃からの仲だろう」
 朗らかに笑い声を立てる林殊に、景琰も嬉しくなる。
 「違いないな」
 無二の友であったのだ、間違いなく。 
 「実はその、赤子の話だ」
 景琰は微笑した。
 「沈追のやつめ、赤子が出来るそうな」
 「沈卿に?」
 林殊が少し驚く。
 「もういい歳だからと、いたく照れていた」
 しきりに恐縮していた沈追の顔を思い出して、景琰はまた可笑しくなった。
 林殊が微笑む。
 「なに、沈卿とてまだ若い。第二夫人は、まだまだこれから赤子を授かるだろう」
 「確かにな」
と景琰も同意した。すると。
 「お前も見習わねば」
 林殊が、そう言って悪戯っぽく景琰を見上げてくる。
 「わたしがか?」
 林殊はうなづいた。
 「お婆様がご存命ならば、必ずこうお尋ねになる」
 そして、二人声を合わせた。
 「『子は出来たのか?』」
 互いに、亡き太皇太后そっくりに声色を真似ていた。思わず笑い合う。
 笑いすぎて、林殊はひどく息を切らせ、咳き込んだ。
 「小殊、大事ないか」
 「大丈夫だ。可笑しくて‥‥‥」
 咳の合間にまだ笑いながら、林殊はまた景琰を見上げる。

 「新しい命を、大事にせねば。―――梁の明日を担う、子供たちだ」
 そう言った林殊の微笑は、透き通るように儚かった。



   * * *



 藺晨は、ひどく消耗している様子だった。
 治療の度に、藺晨は人払いをする。景琰さえ、部屋を追い出されるのだ。内力による治療であると景琰も薄々わかっていた。そのために集中力を要するのだと心得てはいたが、このところ景琰はべつのことにも気づいた。
 「その手籠は?」
 初めて、尋ねてみた。林殊の部屋を出てきた藺晨の提げた籠から、布がはみだしている。
 藺晨はわずかに眉を寄せて、ちら、と景琰の顔を見た。しばし間をおいてから、言う。
 「身動きもできぬ病人だ。誰かが下の世話をしてやらねばなるまい?」
 はっとして、景琰は朱くなった。
 なぜ、そんな簡単なことに気づかなかったのか。
 「すまぬ。わたしは‥‥‥」
 痩せ衰えてはいても、林殊はいつもこざっぱりと身綺麗で、景琰はそういうことに思い至りもしなかったのだ。これほどしげしげと林殊のもとを見舞い、長くそばにいながら、一度として気が回らなかった。  
 藺晨が、苦笑する。
 「太子殿下に、こんなことをさせるわけにはゆくまい。長蘇とて、それだけは死んでもいやだろう」
 甄平は、琅琊閣や廊州とを行き来するのに忙しい。
 林殊の身の回りの世話は主に飛流がしていたが、飛流の智恵では行き届かぬことも多かろう。内監をひとりつけようという景琰の申し出を、林殊は固辞し続けていた。
 「わたしは‥‥‥」
 景琰はうつむいた。
 「ん?」
 「わたしは、少しも小殊の助けにはなってやれぬな」
 悲しみが、胸をしめつける。
 「いつも、苦しめてばかりだ」
 「自覚があるのか」
 相変わらず、遠慮のない物言いである。景琰は腹をたてる気にもならない。ただ、さまざまな想いが、とめどなくあふれた。
 「あの―――、雪の日のことも」
 あの頃、藺晨はまだ金陵にはいなかった。そうとわかっていても、景琰は言わずにおれぬ。藺晨があの時のことを知っているかどうかは問題ではない。ただ、誰かに今胸の内を明かしたかった。
 「岳州から戻るなり、戦英と話をするいとまも与えられず、参内を促されたのだ。何も知らぬままに偽りを聞かされ、わたしはそれを鵜呑みにした。『梅長蘇』という人間を、いともたやすく疑った‥‥‥」
 景琰は眉根を寄せ、苦し気にかぶりを振った。言い訳をしようというのではない。ただ、誰かに聞いてほしかっただけだ。
 「小殊はわたしに気づかせまいと気丈に振る舞ってはいたが、わたしとて知らなかったわけではない。梅長蘇の病が軽くはないことを。そして、その病をおして、わたしの陰になり日向になり、尽くしてくれていたことを。それなのに」
 苦い後悔が、押し寄せる。
 「わたしは梅長蘇を、信じ切れてはいなかったのだ。それゆえ、易々と夏江の術中に落ちた」
 可哀想でならなかった。林殊が、―――いや、梅長蘇が。
 藺晨はわずかに眉を寄せて、明後日のほうを見る。
 「―――しかたなかろう。やつは希代のぺてん師だからな」
 そう言って、藺晨は苦笑する。
 「おぬしの一番嫌う男を、巧みに演じ切っていただろう? おぬしの心に、『梅長蘇』を残さぬために」
 「残さぬ‥‥‥ために」
 景琰は、鸚鵡返しにそう言った。
 「『梅長蘇』が蕭景琰という男の心に深くとどまることを、やつは恐れていたからな」
 藺晨の言葉を、景琰はゆっくり噛み締める。
 「そうなのだろうな」
と景琰は答えた。
 それゆえ、いつもつかみどころがなく、胡乱なままであったのだ。
 ―――まことは信じたかった。今少し、懐深く入ってくれさえすれば、友としてもっと深く信頼することが出来たはずだ。
 梅長蘇という男を自分は疑い、嫌いながらも、どこか慕わしく、引き寄せられてならなかった。手が届きそうで届かない、その歯がゆさが、尚更腹立たしかったのだ。
 「やつはおぬしに、『梅長蘇」を惜しませるわけにはいかなかったからな」
と藺晨は言う。
 ただの謀士。
 梅長蘇の命は、自分にとって軽くなければならなかったのだと、いまなら景琰にも理解できる。
 「さすがに、至難の業であったろうな。おぬしの心に深く踏み込まず、それでいて信頼を勝ち取らねばならぬとは」
 その難しき立場を演ずるには、さしもの林殊とて並大抵の苦労ではなかったはずだ。

 「小殊は―――、いや、蘇先生は、どれほどの苦労でわたしに尽くしてくれたことか」
 梅長蘇の、様々な言葉、様々な表情を、景琰は思い浮かべた。
 ふと、藺晨の表情が、柔らかく和んだ。
 「―――わかってやってくれるなら、それでよい」
 穏やかな声音でそう言われて、景琰は不意に悟った。
 自分がこの男・藺晨を好きになれなかったわけを。
 この男が。
 自分を好きではなかったのだ。
 梅長蘇を苦しめてきたこの蕭景琰を、この男は嫌っていたのだ。
 自分が。この自分こそが、愚かであったのだ。

 藺晨の眼が、微笑む。
 「長蘇の前で、そんな顔はするな。あれは今―――、おぬしを悲しませぬ為にだけ生きている」
 静かな声で、藺晨がそう言った。

 切なさに、息が詰まりそうになる。
 藺晨が目を伏せた。
 「あれの生きている内に、―――充分埋めることだ。離れていた間の隙間を」
 「閣主‥‥‥」

 藺晨の一言一言が、景琰の胸に深く刺さった。



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