琅琊榜

安详(前編) (『琅琊榜』#54)

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宗主に、少しだけでも景琰と過ごす時を与えてあげたくて、書き始めてみました。

 「殿下」
と林殊が言った。
 苦しい息の下から、か細い声で、殿下と。
 「小殊。殿下ではない。景琰だ」
 意識の混濁した林殊には、この声は聞こえぬらしい。
 ただ、一心に「殿下」「殿下」と繰り返すばかりだ。
 「夢を見ておいでなのです」
と甄平が言った。
 北の国境から軍の一部が戻ったと知らせを受け、甄平は夜通し馬を駆って、今朝がた廊州から駆け付けたのだ。
 「夢?」
 景琰は甄平を振り返った。甄平は景琰の顔を見ず、固い表情のまま低く答えた。
 「あの日の。―――あの雪の日のことを、宗主は繰り返し繰り返し、夢に御覧になるのです」
 「‥‥‥雪の日?」
 はっとして、景琰は甄平から林殊へと視線を戻した。
 細い声が、書き口説くように何か訴えている。景琰は、その口許へ耳を寄せた。
 「‥‥‥殿下」
と、また林殊が呼ぶ。
 「殿下、どうか‥‥‥、どうか信じてください」
 林殊は喘ぎながら、そう言っているらしい。
 「‥‥‥衛崢は、わたしが全力で、救出します‥‥‥、決して、口だけでなど‥‥‥」
 血の気が引く思いがした。
 信じてください、と林殊は繰り返す。
 幾度も幾度も、絶え絶えな息の合間に、林殊は「殿下」と呼び、「信じてください」と哀願した。 
 こんなにも。
 苦しめたのだ。
 「小殊―――」
 熱いものが、喉元まで込み上げる。
 「すまなかった、‥‥‥小殊」
 景琰は詫びた。
 梅長蘇が林殊であったと知ってから、既に幾度も詫びてきた。景琰は心から詫びて、その都度、林殊は微笑んだ。あれはしかたのないことだったと。景琰が疑うのは尤もなこと。夏江に足元を掬われたのは、『梅長蘇』の手落ちであったのだと、林殊はそう言って微笑い、逆に詫びたものだ。
 だが。
 あの日の林殊の痛手は、景琰が想像するより遥かに大きく深いものだったのだと、今初めて気づいたのである。


 二月あまりにも及ぶ極寒の地での駐屯は、林殊の命を容赦なく削り取っていた。
 大渝との戦が決し、無事に国境が守られたと、蒙摯からの急使が告げたとき、景琰はほっと全身の力が抜ける気がした。
 (小殊が勝った―――)
他の戦線は、いまだ戦闘状態にある。最も手ごわいはずの大渝が、一番さきに退いたのだ。
 そもそも、林殊の手腕に何一つ不安はなかった。蒙摯を主帥に立ててはいるが、対大渝の実質上の統率者は林殊である。敵を知り尽くした林殊であれば、この戦ははじめから勝ったも同然であった。
 林殊の武功は失われたといえ、大渝との戦の経験、麒麟と呼ばれたその才知に、景琰は全幅の信頼を置いている。林殊にとって大渝は因縁ある敵であり、加えて大梁の誇る武神・蒙摯が陣頭に立つのだ。こちらは気魄において既に大渝を遥かに凌いでいた。
 とはいえ、大渝が油断のならぬ敵であることには間違いがない。第一。
 (小殊の身体は―――)
 都にあって、景琰は気を揉み続けた。
 蒙摯からは、こう言って寄越したのだ。既に大渝は退き、現在、蘇哲の策に則って再び防衛線を築いている。就いては半数の兵を、蘇哲につけて金陵へ返す、と。
 (小殊が、戻ってくる)
 その知らせに、景琰は思わず天を仰いだ。
 友を、生きて戻してくれることを、景琰はただただ天に感謝した。
 しかし。
 「蘇先生はいかがした?」
 養居殿で、広間を端から端まで行ったり来たりしながら待っていた景琰は、入ってきた内監に詰め寄った。
 「そ、それが」
 内監は頭を下げたまま、困ったように答えた。
 「蘇先生におかれましては病篤く、人事不省にて―――」
 「なんだと?」
 景琰は真っ青になった。
 「蘇先生はどこにいる? すぐに通せ。いや、そのまま東宮へ運ぶのだ」
 林殊について都へ戻ってきた、蒙摯の腹心からの戦勝報告も上の空であった。景琰は足を縺れさせながら、東宮へと駆け戻ったのであった。
 

 見る影も、なかった。
 たった二月半である。快活な笑顔を残して出陣していった友は、無惨に痩せさらばえて戻ってきた。
 景琰は癇癪を起して人払いをした。飛流や、林殊の侍医であるという親兵のなりをした男さえ、部屋から追い出した。
 「小殊―――」
 牀台の上の友に、呼びかける。
 目覚める気配もない。
 毛毯の下に身体があることさえ疑わしいほど、その姿は嵩が低かった。手を握ってやりたかったが、毛毯を捲る勇気が、俄かには起こらない。痩せ細った手を見るのが怖かった。
 景琰はただ、友の傍に立ち尽くして、呆然とその寝姿を見下ろしているほかなかった。
 ―――信じられぬ気がした。
 これが果たして、わが友・小殊であろうか、と。
 幼い頃から共に育った。生涯、寄り添って生きられると思っていたのだ。
 ある日突然、その友は奪われ、そうして再び自分の前に現れた時には別人となっていた。その別人を、ようやく林殊として受け止めることが出来たはずであった。
 けれども。
 この痩せこけた病人が、ほんとうに小殊か? と、思わずにいられない。
 景琰は病人から目を背けると、ゆっくりと後ろを振り返った。
 いまにその扉が開いて、昔のままの姿の林殊が、日に焼けた笑顔で部屋へ入ってくる―――。そんな幻想に囚われて、景琰はぼんやりと扉を見ていた。
 「小殊‥‥‥」
 あの頃のままの、懐かしい友の姿を思い描いて、景琰の眼から熱い涙が零れ落ちた。
 扉は、ひらかない。
 かつての小殊は、戻らない。
 暫しの時をかけて、景琰はようやくそのことを自分に言い聞かせた。
 そうして、病人のほうへ向き直る。
 これが。
 林殊なのだ。
 変わり果てた姿となっても。

 景琰は深く息を吸うと、その場に膝をついた。そして、毛毯の中へ、そっと右手を差し入れる。
 (―――!)
 冷たいものに指先が触れて、景琰はぎくりとした。
 それが林殊の手であるということはすぐにわかったが、信じられぬ冷たさだった。生きた人間のものとも思えぬ。
 しばらく躊躇ってから、景琰はその手を握った。
 また、どきっとする。
 まるで―――、骨の上にそのまま膚を貼りつけたかのような。
 思わず、嗚咽が漏れた。
 景琰は左手も毛布の中へ滑り込ませると、両手で林殊の痩せた手を包み込んだ。
 血の気のない顔を見る。
 げっそりと、鑿で削り取ったように肉のそげた頬。

 凱旋だというのに。
 こんな姿で。 

 もともと、無理な出陣であった。
 林殊は平気だと言ったが、そんな嘘はわかっていた。それでも、行かせてやるしかなかったのだ。
 だが、止めればよかった、と。

 後悔の涙が、とめどなく零れ落ちた。
 


   * * *



 丸一日、林殊は昏々と眠っていた。
 太子として皇帝の政務を代行する身には、四六時中友についていてやることもかなわない。それでも、可能な限り、景琰は林殊のそばで見守った。
 三日目の明け方、林殊はようやく目を開けたのだ。
 「小殊!」
 景琰の声に、そばで片付け物をしていた甄平も、慌ててそばに控えた。
 落ちくぼんだ眼窩の底で、林殊の瞳が虚ろに景琰を見る。
 やがて、その焦点が合った。
 「景‥‥‥」
 言いかけて、林殊はびくっと表情を強張らせた。
 「―――殿下」
と言い直す。
 周囲を憚ったのだと察して、景琰は胸が詰まった。まだ朦朧とした中で、それでも林殊は細心の注意を怠らない。
 ずっと―――。
 この二年余り、ずっとこうして、気を張って生きてきたのだろう。
 「大丈夫だ。ここにはわたしと甄平しかおらぬ。―――景琰と呼んでよいのだ」
 そう言ってやると、林殊はその言葉の意味を反芻するかのように、ゆっくりと瞬きをした。
 そして。ようやくほっとしたように、その痩せこけた頬を緩めたのだ。
 景琰は甄平に眼で合図し、侍医を呼びにやった。
 「‥‥‥景琰‥‥‥」
 やっと聞き取れるほどの声が、褪せた唇から漏れる。その眼が、嬉しそうに細められ―――。
 林殊はいままさに微笑もうとしていた。
 ―――が。

 また、林殊は身を震わせる。その眼を大きく開いて、
 「‥‥‥なぜ―――」
と、林殊が喘いだ。その瞳に激しい狼狽が見て取れる。
 「なぜ、お前がここに? ‥‥‥お前は、都を空けてはならぬと、あれほど‥‥‥」
 そう言った林殊の表情には、どこか鬼気迫るものがあった。景琰の返事如何では、跳ね起きて攻め立ててくるのではないかと思えるほどの、思い詰めた貌であった。
 毛布を跳ねのけた手が、景琰の腕を掴んでいる。
 景琰は、林殊のその手を、恐る恐る見た。やはり―――、骨と皮ばかりに痩せた手である。この手のどこに、これほどの力があるのかと思うほど、林殊は強く景琰の腕を掴んでいた。
 林殊の息が、荒い。浅くせわしない息が、今にも絶えてしまうのではないかと、不安にさせられる。衿の合わせから、骨の浮いた胸元が見えて、景琰は目のやり場に困った。
 「‥‥‥そうではない。ここは都だ。お前が、戻ってきたのだ」
 そう教えると、林殊は驚いたように目を瞠った。
 国境から都まで、ほとんど意識がなかったのだろう。馬車に乗せられ、運ばれてきたことも、さだかに理解しておらぬらしい。
 「‥‥‥わたしが? ‥‥‥なぜ? 大渝は?」
 林殊は肩で息をしながら、ひどく狼狽えて、無理に頭を起こそうとする。もとより、そんな力の残っているはずはなかったが。
 「‥‥‥戻らねば‥‥‥。わたしが、行かねば‥‥‥」
 譫言のようにそう呟く林殊を、景琰は賢明に宥めた。
 「小殊。落ち着け。動いてはならぬ」
 林殊の薄い肩を押さえ、顔を寄せる。
 「もうよいのだ。大渝は降した。お前の策が大渝を破った」
 景琰の言葉に、もがいていた林殊の動きが俄かに止まる。
 「蒙大統領も、じきに戻る。北の国境は守られたのだ」
 そう言って、景琰は林殊の汗ばんだ髪を撫でてやった。
 林殊は、怪訝そうな顔をした。
 「‥‥‥勝った‥‥‥? まことに?」
 呆けたように、そう尋ねる。そのさまが妙に幼く見えて、景琰は苦笑した。
 「嘘は言わぬ。お前は再び、大渝に勝ったのだ」
 ふっと、―――景琰の腕にかけたままだった林殊の手から、力が抜けた。その手をそっと握ってやりながら、景琰は微笑して見せた。
 「何も心配することはない。もう安心して休んでよいのだ」

 「‥‥‥勝った‥‥‥? 大渝に‥‥‥」
 林殊の唇がわななき。
 そして、今度こそ。
 林殊は安心したかに見えた―――。
 景琰もほっとして、微笑を浮かべようとした。
 しかし。

 またしても、林殊の眉が寄せられたのだ。
 (まだ、何か?)
と、景琰は困惑する。
 俄かに。
 林殊は身を捩って顔を背けようとした。
 「‥‥‥見るな」

 「小殊?」
 震えながら、林殊はそう言った。
 景琰から懸命に顔を背け、毛毯を引き寄せて、痩せ細った身をさらに縮めている。
 「見るな。‥‥‥向こうへ行け」
 必死に衿元を掻き合わせて身体を丸める林殊に、景琰は狼狽える。
 「小殊‥‥‥」
 その肩に触れた途端、林殊の身体がさらに激しく震えた。
 思わず、手を離す。
 「―――藺晨は‥‥‥?」
と、林殊が尋ねた。
 「藺晨?」
 ああ、あの親兵か、と思い当る。林殊の侍医であり、琅琊閣の閣主だという男。
 「藺晨は、何をしている‥‥‥」
 震える声で、林殊が言った。
 「戦が終わってわたしに息があれば、廊州へ連れ戻れと、そう言っておいたはずた‥‥‥。どうして‥‥‥」
 毛毯に顔を埋めるようにして、林殊はそう言った。すすり泣いているかのような声音だ。
 「―――藺閣主はすぐ来る。すでに甄平を呼びにやった。心配はいらぬ」
 景琰はそう慰めたが、林殊は弱々しく首を振った。
 「金陵へは、‥‥‥戻らぬつもりであったものを」
 「なぜだ?」
 ここは、林殊にとって故郷ではないか。けれども。
 「当たり前だ‥‥‥。こんな‥‥‥」
 顔を背けたまま、林殊は身を震わせて泣いた。そのように泣いては、痩せ細った身が更に細るように思われて、景琰は途方に暮れていた。

 「殿下」
 甄平の声に、どこか救われた思いで景琰は振り返った。このまま病人に泣き続けられては、自分の方がどうかなりそうだった。
 甄平は、藺晨を伴っていた。
 景琰は、藺晨の姿を改めて眺めた。戦地から戻ってきたときには兵士の装いであったが、東宮へ入ると林殊の治療もそこそこに、沐浴を済ませて身なりを改めた。いかにも江湖の伊達男めいたその風情に、景琰はいまひとつ好感を持てずにいる。一言で言えば、胡散臭いのだ。信用のならぬ感じがした。
 とはいえ、医術の腕は確かだと聞く。
 「小殊を診てくださっているお医者様は、よほど腕がよくておいでなのでしょう。宮中の侍医などでは、遥かに及びますまい」
 そう言って、母は感心していた。
 それほどの医術を修めた者であれば、気に入らぬからと言って林殊から遠ざけるわけにもいくまい。
 「藺閣主」
 景琰は顔をあげたまま、抱拳の形で礼をとる。藺晨はその拳にちらりと視線をくれてから、お座なりな拱手で返してくる。一国の皇太子に対して無礼な態度には違いなかったが、景琰は鷹揚に受け流した。

 藺晨は景琰の肩越しに、病人を一瞥する。わずかに眉を曇らせ、それから景琰を見た。
 「治療をする。しばらく座をはずしてもらえまいか」
 座をはずせ、と言われるのは初めてであった。これまでは、景琰が執務で林殊のそばを離れている間に治療を施していたようだ。
 横柄な物言いに、景琰は些かむっとしたが、治療とあっては致し方もない。
 甄平を連れて、部屋を出るしかなかった。
 ちらりと振り返ると、林殊はまだ毛毯を引き被ったまま、こちらに背を向けていた。
 早く行けと促すような藺晨の視線と目が合って、景琰はしかたなく部屋をあとにしたのだった。


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