琅琊榜

一阵风 (『琅琊榜』)

 ←铭心  (『琅琊榜』 #54) →おしらせ
景琰と梅長蘇の心の交流であったりすれ違いであったり、互いに対する気遣いであったりというのを、繰り返し繰り返し考えてしまいます。

 喉が痒いのだと、謀士は言った、 
 一筋の乱れもなく結い上げられた髪、穏やかな微笑。いつに変わらぬ優雅な仕草。さすがとしか言いようのない周到な計略。しかしそれらを、蒼ざめた顔色と寠れた頬が裏切っている。
 自分の思っていた以上に、この謀士は無理をしてきたのだと、景琰はここに至って初めて気づいた。己の愚鈍さに我ながら呆れる。

 そういえば、去年も冬場はよく臥せっていたのではなかったか。
 謀士風情と軽く見て、ろくに顧みてやることさえなかった。いや、赤焔事案まで押しかぶせて頼り切っている今ですら、自分は梅長蘇をすこしも大事にしていない。 

 岳州から戻ったら、もっといたわってやらねばと思う。梅長蘇の労に、少しは報いてやらねばならぬ。
 (岳州には、何か滋養のある産物などはなかったろうか)
 ふとそんなことを考えた。
 そんなふうに思ったのは、昔、林殊に真珠を持ち帰ろうと決めたあの時以来だ。都を空けることの多かった景琰だが、ふたりの側室にも土産など渡したことは一度もない。
 (もっとも岳州は凶作続きゆえ、穀類ばかりかほかの産物も今年はあてにはなるまいが)
と、岳州行きのそもそもの目的を思い出して景琰は苦笑した。
 「何をお笑いで?」
 梅長蘇が見咎めて、自身もわずかに笑みをこぼす。そしてまた、少し咳をした。
 景琰は思わず腰を浮かしかける。
 そばに寄って、背中のひとつもさすってやればよいものをと、自分でも歯がゆく思う。
 (それしきのことが、なぜ出来ぬのか)
 自分だけではない。梅長蘇も、どこか壁をつくっている。
 気安く触れさせぬ氷の壁が、目に見えぬながらそこにある。
 溜息をついて、景琰は座りなおした。

 なにはともあれ‥‥‥、と景琰は思った。
 目の前にあることを、ひとつずつ片付けてゆかねばならない。一歩一歩が、悲願へ向けての足掛かりである。まずは、飢饉に苦しむ人々を救済する。その任務を全うして帰ったら、一度ゆっくり梅長蘇をねぎらってやろう。

 先はまだ長い。
 この謀士と手を携えて、その長い道のりを歩かねばならぬのだ。

 
 
* * *




 小新の口から真実を聞かされて、景琰は愕然とした。
 なんということをしたのだ、自分は。
 己がこれほど浅はかであったとは、今更ながらあきれてものが言えない。
 母の顔を見るのさえ、怖かった。
 あれほど母に諭されておきながら、自分は梅長蘇を信じなかった。
 もしも梅長蘇が己の身体を顧みずに叱責してくれなかったら、危うく夏江の策にかかるところであったのだ。
 梅長蘇の言葉に打たれて、どうにか罠にはかからずにすんだものの、それでも自分はまだ心のどこかで梅長蘇を許せずにいた。
 江左盟がすでに一度は衛崢奪還を企てていたことを聞き、そもそも梅長蘇に衛崢を見捨てる気はなかったのだと知って、自分の早合点を悔いはした。だが、それでも尚、母の危難を見過ごそうとした梅長蘇に、景琰は怒りを捨てきれなかったのである。
 だが、それさえもまた、夏江の謀った狂言であったと、いまようやく知ったのだ。

 それでは‥‥‥。
 梅長蘇にははじめから、何一つ非などありはしなかったではないか。
 だとすれば、重い病に臥せっていたというのも、決して言い訳や誤魔化しなどではない。全てまことのことであったのだ。
 (それなのに、わたしは)
 病み上がりの梅長蘇をひどい言葉で非難し、雪の舞い仕切る中、幾刻も無視し続けた。
 そして、そんな愚かな自分を。
 (見捨てもせずに、辛抱強く諭してくれたのだ)
 そんな梅長蘇に、今の今まで、まだ疑いと怒りを持ち続けていたとは。
 
 母の慧眼がなければ、ずっと知らぬままであった。
 三十をとうに過ぎてなお、母親の教えを受けねば真実を見極めることも出来ぬ己に、腹が立った。  


 靖王府に戻っても、景琰の心は晴れない。晴れぬどころか、ますます胸が苦しくなるばかりだ。
 書房の密室の、奥の扉を押し開く。
 密道への階段を、靖王はゆっくりと下りた。そこにむなしく落ちている鈴を拾い上げる。
 この鈴の引き綱を断ち切ったのは自分だ。たった一太刀で、それまで梅長蘇と歩んだ日々に決別したつもりだった。
 追いすがってこようとした梅長蘇が、倒れて咳き込むのを背中で聞いた。聞いていながら、振り向きもしなかったのだ。
 なぜあの時、信じられなかったのか。
 あれほど弱っていた梅長蘇に、なにが出来たというのだ。
 自分が岳州に出かける日も、そして戻ってきたあの日も、梅長蘇はひどく窶れて、それでも謀士として気丈に平静を装っていた。気づかなかったわけではない。それなのに、自分はそれを慮るだけの心の余裕さえなかったのだ。
 母に諫められ、戦英に諭され、それでも自分は頑なに梅長蘇に腹を立て、誹り、蔑んだ。なんとたやすく、敵の罠に落ちんとしたことか。
 自分の愚かさが悔しくて、景琰はその場に膝をついた。
 
 


   * * * 




 景琰が、解毒薬を探すために奔走してくれたと聞かされた。
 嬉しさに、梅長蘇は頬が緩めた。少しは、案じてくれているのだ、この『梅長蘇』を。そう思うだけで、凍えた心に灯がともるようだ。
 『梅長蘇』のことなど、気にかけてくれずともよいと、そう思ってきた。いずれは消える身だ。いなくなればすぐにも忘れてほしいと、そう願ってきたのだ。まことの自分、『林殊』だけを心に刻んでくれればよいと。
 それでも、『梅長蘇』はいつのまにか自分そのものとなっていた。『梅長蘇』を詰られれば、『林殊』も傷ついた。どこからが梅長蘇でどこまでが林殊なのか、もはや自分でもわからなくなっている。
 それゆえ、梅長蘇を気遣ってくれる景琰に、救われる心地がする。それでは駄目だと思いつつも、やはり嬉しいのだ。

 ふと、梅長蘇は耳をそばだてた。
 「黎綱。景琰だ」
 「は?」
と黎綱と甄平が顔を見合わせた。
 確かに、鈴の音が聞こえたのだ。ひどく微かな音であった。引き綱を強く弾こうか引くまいか、景琰の心の葛藤を感じて、梅長蘇は立ち上がろうとした。
 「宗主、何も聞こえませんが」
 鈴の音の聞こえなかった黎綱と甄平は、まだ本調子でない梅長蘇の空耳かと疑っているらしい。
 後ろで人形遊びをしていた飛流が、不意に立ち上がった。ためらうそぶりの二人へあきれたような顔を向けると、書棚の方へすたすと歩いてゆく。
 止めようとする甄平を押しやって、梅長蘇もゆっくりと飛流のあとに従った。
 果たして、飛流が開けた扉の向こうに、景琰の姿を見つけ、梅長蘇は拱手する。


 「蘇先生、お加減はもうよろしいのか」
 景琰の気づかわしげな声に、梅長蘇は顔を上げた。
 「おかげさまにて、すっかり」
 そう応えると、景琰は少し不機嫌な顔つきになった。
 「そのようだな。なかなか会わせてもらえなんだゆえ案じていたが、近ごろでは穆青や蒙大統領らが親しく訪れていると聞いて、ほっとしていたところだ」
 ほっとしていた、と口ではそう言いながら、内心腹を立てているのは手に取るように分かった。無理もない。景琰だけが蚊帳の外に置かれ、ひとりで気を揉んでいたのだから。
 もっと早く会ってやりたかったが、景琰の前で『梅長蘇』を演じるのはなかなか骨が折れるのだ。心身の弱っているときには、つらい。
 だが、会いたかったのは長蘇も同じである。本当は、弱っているときこそそばにいてほしかった。誰よりも心安く、慕わしい友。この友の前で、全ての弱音をさらけ出せたなら、どれほど楽になれることだろう。
 しかし、それは決してならぬことなのだ。



   * * *



 「しかし、まことに烏金丸の毒が消せたのか?」
 「はい。間違いなく」
 梅長蘇は温かい笑みを浮かべた。
 冷たい男だと、思っていたのだ。賢く、志も高い、そのことは景琰とてとうに認めていた。目指す国の在り方に意気投合もし、尊敬も信頼もしてきたつもりであった。ただ、惜しむらくは冷淡な謀士であること‥‥‥、その思い込みが、あの折りの誤解を生んだのだ。疑いがあれば亀裂は生じて当然だと、母に言われた。それを敵に衝かれたのだと。
 謀士とは冷淡なものだという、偏見があった。どれほど語り合い、その才と志に感服しようとも、その偏見が景琰をして決して梅長蘇を正しく見ようとさせなかったのだ。いまさら悔いても始まらぬ。始まりはせぬが、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
 自分がもっと信じ、その言葉に耳を傾けていたならば、梅長蘇にかくまで苦労をかけることもなかったはずだ。 
 「殿下。どうかもう、まことにご案じくださいませんように」
 穏やかな声で梅長蘇がそう言った。
 「‥‥‥だが、あれは懸鏡司秘蔵の猛毒と聞く。解毒薬もなしに毒を下ろせるものなのか」
 夏江とて、ありえぬはずと狼狽していた。
 しかし、梅長蘇はゆったりとした笑みを浮かべて見せる。
 「江左盟は、なにも猛者ばかりを集めているのではありません。優秀な医師もついておりますゆえ」
 ―――そうは言っても。
 その優秀な医師がいてさえ、梅長蘇は都へ来てからだけでも幾度病に臥せったことか、と景琰は思う。自分が考えていたより遥かに梅長蘇の身体はひ弱で、無理がきかぬのだ。
 母が言っていた。解毒が出来たとしても、梅長蘇の身体は大きく損なわれたことであろうと。

 景琰は梅長蘇の痩せた手に視線を落とした。肉が薄く指の細い、文人らしいその手は青白く、血くだがうっすらと浮いて見えた。
 少し目を泳がせてから、景琰はその手にそっと触れた。
 刹那―――。

 弾かれたように、互いの手はそれぞれわずかに強張り、指を縮めた。
 景琰は、梅長蘇の手の冷たさに驚いたせいだ。
 では、梅長蘇は?

 思わず、景琰は梅長蘇の顔を見る。梅長蘇は少し狼狽えたように顔を背けた。その手は、きつく袂を握りしめている。
 「すまぬ。驚かせるつもりはなかったのだ」
 景琰はそれ以上梅長蘇の手に触れることができずに、手を退いた。


 「鈴の引綱を‥‥‥。直してくださったのですね」
 細い声で、梅長蘇がぽつりと言った。その、微かに嬉しそうな貌に、ずきりと胸が痛む。
 「―――あれは、わたしの早合点であった。今更詫びても詮無いが」
 「いいえ。わたしが至らぬばかりに、あらぬ疑いを招きました。殿下にも余計なご心配を―――」
 悄然として、梅長蘇がそう言った。なにゆえ、梅長蘇が己を責めねばならぬのか。責められるべきはこの自分であるというのに、と景琰は歯噛みした。
 「そなたのせいではない。わたしの思慮が浅かったのだ」
 そう言うと、梅長蘇はやはり申し訳なさそうな顔をした。
 「どうか‥‥‥。どうか些細なことにお心を煩わせてくださいませぬように。殿下には、常に大局だけを見据えていただきたい。蘇某のことなぞ、いちいちお気になさってはなりません」
 その言葉に、景琰は眉を寄せた。   
 「‥‥‥それでよいのか? たかが謀士のひとりと侮って顧みぬ、そのような皇帝となってよいと?」
 「殿下、それは―――」
 梅長蘇が、困ったような顔をする。
 景琰はうなだれ、首を振った。
 「情義に厚いつもりであった。兵や民を思うことにかけてだけは、兄らを遥かに凌いでいるつもりであったのだ。だが―――」
 何が情義だ、聞いてあきれる、と景琰は思った。 
 「わたしはそなたを蔑み、その人となりを知ろうともしなかった。ただ、そなたの知恵だけを買って、情義を以て接することをしなかったのだ」
 後悔を絞り出すような思いでそう言ったのに、—――梅長蘇はくすりと小さく笑った。
 「情義よりも利を重んじる謀士が相手とあっては、それも無理からぬこと」
 「違う!」
 思わず、声を荒げていた。
 「そうではなかろう? そなたはやはり、普通の謀士とは違う。血の通った、誰よりも情義を重んじ、わたしの想いを汲んでくれる者、そうではないか」
 自分が、そのことに気づかなかっただけだ。
 梅長蘇は少し目を伏せ、かぶりを振った。
 「殿下。それは、買いかぶりというものです」
 「何が買いかぶりだ! なにゆえ、隠す? なにゆえ、冷酷な謀士の顔をするのだ。なにゆえ‥‥‥」
 膝の上の、拳が震えた。
 「―――なにゆえ、わたしを欺こうとする‥‥‥」
 いつしか、涙声になっている。
 「殿下‥‥‥」
 「愚かなわたしは易々とそなたに欺かれ、危うく大変な過ちを犯すところであったのだ。そなたを―――、去らせるところであった」
 そうなっていたら、どれほど悔いたとて悔いきれぬ。
 考えただけで、心が張り裂けそうだった。
 けれども。

 梅長蘇は、穏やかに微笑んだ。
 「去りはしません」

 静かに、しかしきっぱりと、梅長蘇はそう言った。
 「いかに殿下がわたしを突き放されようとも、わたしが選んだのは殿下ただ一人。この命の続く限り、殿下をお支えいたしましょう」
 涼やかに、梅長蘇はそう言い切るのだ。
 なぜ、と思う。 

 「―――わからぬ男だ」
 景琰は弱々しく苦笑を浮かべた。
 「わたしのどこに、そなたはそれほどまでに執着するのか」
 それほどまでに自分に肩入れしながら、この男は壁を崩さない。こちらが遠ざかれば間合いを詰めてくるくせに、こちらから踏み込もうとすれば一歩退く。

 不思議で。

 ―――歯がゆかった。
 

 いつからだろう、心がこれほど定まらぬのは。
 いや、本当はわかっている。
 (梅長蘇に、出会ってからだ)

 林殊を失ってからの十二年は、心が死んだも同然で、むしろ何の痛みも感じず、何ごとにも動じることがなかった。淡々と、自分が今日為すべきことを為すだけの、味気ない日々に慣れ切っていた。
 父や兄に疎まれようが、朝臣らから侮られようが、そんなことはどうでもよかった。そんな自分を、霓凰はもどかしがって幾度となく罵倒したが、それすら心には響かなかった。
 嘆きも哀しみも、何の意味も為さぬ。
 ただ、時の流れに身を委ねて、手の届くことだけを日々こなしてきたのだ。
 痛みも悲しみも、もはや無かった。

 そんな冷え切った心の内の、澱のように沈んだ熱を掻き起こしたのは、梅長蘇にほかならぬ。
 そもそもの出逢いから、景琰は梅長蘇という一陣の風に心を乱されたのだ。  
 林殊の妻になるはずであった霓凰と肩を並べて歩き、長兄の忘れ形見にあからさまな関心を寄せた梅長蘇を、景琰は初めから気に食わなかったのである。いかにも文人らしい青白く取り澄ました顔にも、たかが江湖の人間でありながら、優雅で堂々とした物腰にも、無性に腹が立ってならなかった。
 あの日から、ずっと。
 自分は、梅長蘇に振り回され通しだ。
 梅長蘇という男を侮り、蔑み、その一方で畏れ、敬った。嫌いながらも、気にかかってならなかったのである。




   * * * * *  




 「すまなかった」 
 蚊の鳴くような声で、林殊はそう言った。
 林殊―――。
 そう、この男こそが、林殊であったと、景琰はあの日、知ったのだ。
 夏江によって暴きだされた真実は、父皇よりもむしろ景琰を打ちのめした。夏江と父の毒牙から、ようよう友を救い出すことはできたが、景琰の心は乱れ切った。
 あれから既に幾日も日かずを数え、当初の昂りこそ鎮まったが、それでも景琰はまだ悶々とした日々を過ごしていたのだ。
 そんな景琰の心を見透かしているのか、林殊は悲し気に俯いていた。
 「わたしの思いを遂げるために、―――皆を、そして誰よりもお前を巻き込んだ」
 まるで叱られた子供のように、林殊は萎れてそう言った。 
 「お前なしには、わたしの望みは遂げられぬ。それゆえ、―――すまぬことをした」
 言い訳する声が、細い。
 「―――わかっている」
 憮然として、景琰は言った。すこし、声音が不機嫌すぎただろうか。林殊はますます身を縮めた。
 「お前には、もっと自由に生きてほしかった。だが、わたしにはほかに頼る者とてなかったのだ。お前だけが、―――わたしの希望だった」
 そんな、林殊らしくもない言い訳など、させるつもりはないのだ。
 「‥‥‥わかっているとも」
 景琰は顔を背けてそう言った。
 先に逝った者たちから目を背けることなど、林殊にはできなかったに違いない。そのために、生きている者たちを巻き込まぬわけにいかなかった林殊の心の葛藤はいかばかりかと、今ならば思う。
 「もうよいのだ。わかっている」
 余命を限られた身の林殊に、ほかにどのような方法があっただろう。
 「気づいてやれず、すまぬ」
 景琰がそう詫びると、林殊はゆっくり顔を上げた。
 「そんなことは、構わぬ。できれば、ずっと隠し通したかったほどだ」
 そんな寂しい言葉を林殊に吐かせてしまうほど、自分は不甲斐ない。ほかに頼る者がないと言ってくれながらも、林殊はこの蕭景琰をこそ守ろうとしてくれていたのだ。己の心細さには蓋をして。
 「小殊」
 景琰は、友の顔を見つめた。すっと視線が外される。そして。
 「ただ―――」
と、林殊は言った。
 「ただ、何だ?」
 「‥‥‥いや」
 林殊は口をつぐんだ。言いかけてしまったことを、後悔するふうだ。
 「何だ? 言ってくれねば、察しの悪いわたしにはわからぬ」
 少し困ったように、林殊は視線を彷徨わせ、それからなんでもないことのように微笑んだ。
 「大したことではない。わたしの中の『梅長蘇』が、少々拗ねているだけだ」
 軽口めいた口調で、林殊はそう言ったが。その声がひどく切なく聞こえて、景琰は眉音を強く寄せた。
 「どういう意味だ?」
 「『梅長蘇』では、お前の心を開くことが出来なかったゆえ」
 ずきり、と胸が痛む。 
 景琰がうなだれると、林殊は慌てて更に声を明るくした。
 「なに、無理もあるまい。ある日突然『あなたを選ぶ』などと言い出した胡乱な謀士を、信じられぬは当たり前だ」
 林殊はそう言って朗らかに笑った。しかし。

 「―――すまぬ。お前はあれほど、わたしに尽くしてくれたと言うのに」
 梅長蘇は病の身に鞭打って、来る日も来る日も様々なことを教えてくれたのだ。戦にばかり明け暮れて、ろくに政に関心を持たぬようにしてきた景琰に、朝廷の内情や政の現状を、つぶさに伝えてくれた。夜通し談義したこともある。目の覚めるような献策をしてくれたことも二度や三度ではない。幾度も体調を崩しながら、それでも常に影の如く支えてくれたのだ。
 江湖に名高い大幇を後ろ盾にした、その真意も知れぬ怪しい策士であった。それが、まるで数多の小石をひとつひとつ積み上げるように、辛抱強く誠意を以て景琰に尽くしてくれた。ひとえに、梅長蘇の努力と忍耐の上に築かれていった信頼関係であったのだ。
 なのに。
 梅長蘇が血のにじむ思いで積み上げてきたものを、小新の猿芝居ひとつで、自分はいとも簡単に叩き壊した。

 林殊だから、ではなく、『梅長蘇』の誠を、信じてやるべきであったのだ。
 「すまぬ」
 景琰は思わず涙をこぼした。
 「お前が泣くことはない」
 林殊が指先で涙を拭ってくれる。
 ここで自分が泣いてしまうのは卑怯だと、景琰はよくよくわかっている。自分が泣けば、林殊は笑って慰める側に回る。林殊をこそ、泣かせてやらねばならぬというのに。
 そうとわかっていても、涙が止まらなかった。



   * * *



 「すまぬ、小殊」
と景琰が泣く。
 「重い荷を負うたお前に、わたしはまだよりかかろうとしている。情けない」
 そう言って、景琰は泣いた。
 謝るのは自分のほうだ、と梅長蘇は言いたかった。その重き荷を、景琰ひとりに押し付けてゆこうというのだから。
 だが、それは言えぬ。林殊が、友に重荷を背負わせて自分だけ逃げ出す男ではないと、景琰は知っている。そうせねばならぬとしたら―――、と景琰は必ず理由を考えるだろう。
 せめて。余命のことは知らせたくない。悟らせたくはなかった。たとえ景琰が、薄々疑っているとしてもである。
 「小殊」
 不安げに、景琰が瞳を揺らせた。
 「泣き虫だな、相変わらず」
 努めて明るく、梅長蘇は言った。

 可哀想なことをしたと思う。こうして結局、梅長蘇の正体が知れてしまうのであれば、もっと早く明かしておいてやればよかったのだろうか。そうしていれば、景琰はこれほど苦しまずにすんだのか。

 いや―――、と梅長蘇は否定した。
 やはり、言ってはならなかったのだ。
 景琰を皇帝の位に押し上げる為に、『梅長蘇』はその礎とならねばならない。小賢しく、後ろ暗い部分は、すべて梅長蘇が担って、その罪と共にいずれ消える。そうでなくてはならぬと、はじめからわかっていたことだ。だが、景琰が、梅長蘇こそは林殊だと知ってしまったら。もはや梅長蘇は『礎』たりえなくなる。なぜなら景琰は、林殊の手だけを汚させることに耐えられなかったに決まっているのだ。
 祁王や林燮、赤焔軍の汚名を返上し、夏江や謝玉の旧悪を暴き、そして何より、民のための新たな世をつくる―――。これは林殊にとって、諦めることのできぬ悲願である。いかにその思いを汲んでくれたとて、景琰にとってはその志よりも、友を想う情義のほうが篤いに違いなかった。
 (景琰は、梅嶺を知らぬゆえ)
と思う。
 あの日の梅嶺を知っていれば。あの地獄絵図をその身をもって体験していれば。全ての情を殺しても、志を貫かずにはおれまい。
 だが、景琰は知らぬのだ。
 あの凍てつく大地。
 降りしきる雪。
 全てを焼き尽くす炎。
 阿鼻叫喚。
 知らぬがゆえに、景琰は帝位よりも林殊をとる。
 (それでは、ならぬのだ)
 景琰を支えたのが林殊ではなく、梅長蘇であったから。景琰は帝位への道を歩めたのだ。
 衛崢の身が危うくなった時のことを思い出すだに、梅長蘇は溜息をつきたくなる。林殊の命がかかわるとなれば、景琰の動揺は衛崢の時の比ではないはずだ。誰が諫めようとも、おさまるものではない。
 それでは、台無しなのだ。
 景琰の帝位への道は断たれ、梅長蘇の、林殊の悲願もまた空しく潰える。
 そうして失意のうちに林殊が命を落としたならば。景琰は更に傷つき、悔いて、この先の生涯を送ることになる。
 
 やはり。
 景琰を騙すしかなかったのだ。
 こうして最後には知られてしまったが、それでもぎりぎりのところで、事は成ったのだ。

 これで。
 安堵して都を去れる。 
 
 病み伏し、身動きとれぬようになるまえに、笑って別れを告げねばならぬのだ。

 

   * * *



 遠き北の地で。
 林殊はその命を終えたと言う。

 身体は大丈夫だと、林殊は言った。医者が太鼓判を押したのだと。
 そんなことを、鵜呑みにしたわけではなかったが。
 林殊の精一杯の嘘を、信じてやりたかった。
 
 林殊は死に顔さえ見せてはくれなかった。
 その遺志で、林殊は梅嶺に葬られたのだ。
 
 林殊はその魂を以て、この大梁の、北の守りとしたのである。

 遠き北の。
 雪深き大地に、友は眠る。
 
 生きている間は、何もしてやれなかった。
 だが。
 
 自分だからこそ、してやれることがある、と。景琰はそう思う。
 皇帝となる身の自分にしかしてやれぬこと。
 友が望んだ世を、この手で。
 
 林殊が残り少ない命のすべてをかけて押し上げてくれた皇帝の位は、いま目の前にある。
 
 「小殊―――」
 
 声に出して、呼んでみた。
 
 不甲斐ない友であったと思う、自分は。それでも、『梅長蘇』はこの自分を選んでくれたのだ。
 
 「お前の期待に、応えてやるしかないではないか」

 かつて。兄・祁王を失い、師・林燮を失い、友・林殊を失ったあの時から、自分は死んだも同然であった。
 ただ息をして、目の前のことだけを黙々とこなし、誰に嘲られようが、疎まれようが、何も感じぬ木偶人形であった。
 ある日、目の前に現れた江湖の男が、景琰の人生をまるきり変えた。
 蒼白い貌の中の、双眸だけを炎の如くに燃やして、この蕭景琰を風雲の中へ引き込んだのだ。

 風は。
 止みはせぬ。

 友が巻き起こした一陣の風は、いまは凪いだように見えているだけだ。
 嵐があらゆる穢れを吹き払い、そしてひっそりと鎮まったが。
 かつて、死したように動かなかった景琰の心は、友の起こした風に煽られ、息を吹き返した。この風を、景琰は大切に胸に抱いていきたいと思うのだ。そよ吹く風を感じることの出来る心で、この国を治めてゆきたいと。

 よき君主たれと、己に請う。
 清き都、美しき国。
 
 風が。

 きっと伝えてくれるだろう。
 北の大地に眠る、最愛の友へ―――。
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~ Comment ~

NoTitle

私も、あの時の靖王が、どうしても歯がゆくて。
謀士、というだけで、あんなにも容易く信頼が壊れるものかと。
それだけ、彼の謀士に対する嫌悪感が強かったのでしょうが。
もっと信じてあげて欲しかったなあ。

風起。
良いセリフですよね。

>>Rintzuさん

わたしは景琰は大好きだし、景琰の側の事情と言うのもよくよくわかります。
宗主のほうが景琰に壁を作っていたのもわかる。
だって「梅長蘇」は景琰に惜しまれる人間であってはいけないんだから。
もっと懐深くは入れ添えすれば、もっと簡単に信頼は得られたはず。
でも、それはできなかった。
その宗主のジレンマが可哀想で、つい景琰に八つ当たりしたくなる。
宗主にとってはあれでよかった。
ああいう景琰だからこそ宗主にとってはよかった。
でも、傷ついたには違いないんです。
それが可哀想で。
そんなふうにしかできなかった宗主を全面的に認めてあげたいんです。

NoTitle

景睿の時もでしたけど、目的のために、別人を演じているために、どれだけの葛藤を抱えていたのだろうかと思うと・・・。
他人を傷つけるよりも、自分自身を傷つけていたのではないかと思うのです。
純粋で正義感のあつい景琰のまま、皇帝になって欲しかったから、ああいう対応になるだろうな、というのが分かっていたとしても。
そういう展開にもっていかざるを得なかったけど、本当は誰よりも傷ついていたのは、宗主自身ですよね。

っていうのを、来週コメントしようと思っていたのでした(^_^;)
大丈夫ですよ、宗主迷は、皆さん分かってくれてると思います!

>>Rintzuさん

宗主だって景琰に押し付けたくなんかなかった。
ちゃんと林殊だって名乗って会いたかった。
好きで胡乱な謀士を装ったわけじゃない。
景琰が一番嫌いなタイプの男になりたかったわけじゃない。
そうするしかなかった。
初めて琅琊榜を見てから一年を越え、じきに一年半になりますが、
繰り返し見れば見るほど宗主が悲しい。
なんとかしてあげてって思う。
たとえ宗主が望んでなくても。

NoTitle

そうですよね、痛々しいけど輝いてるんですよね。
自分たちの汚名をすすぎ名誉を回復するために、革命を起こしたかったわけじゃない。
皇帝の首をすげ替えたかったわけじゃない。
靖王しかできなかったから、希望を託したかったから、そうするしかなかったんですよね。
目的を達するために、宗主はどれだけの葛藤を乗り越えてきたんでしょうか。
計画が動き出しても、宗主の葛藤は止まず、心は傷つき続けているように見えます。
痛々しいけど、でも輝いて見えるんです。
だからみんな惹きつけられるのだと思うんです。

>>Rintzuさん

そうなんです。
自分のためには、ほとんど動いていない。
ただ、亡くなった人たちの、その命を落とさねばならなかった本当のワケを糺して、
そのうえで宮廷を、清くて未来の希望がひらける姿に立ち返らせたい。
それを託せるのが景琰しかいなかった。
それを背負っていってくれなくちゃならない景琰のために、
その基礎固めを、自分の命を削ってやってのけた。
いっぱい傷つきながら、それでもやり遂げた。
だからこそ人の心に残るし、美しくも見えるんだと思います。

NoTitle

遥歌さんのおっしゃる通りー!!
自分の命を削りながら、魂を輝かせていたんですよね~。
儚い命と滅びない魂の輝きですよね!
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