琅琊榜

賢内助

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2017.3月、コピー本『飛蝶』のために書き下ろしたもの。
そろそろこっちにまとめておこう・・・・w


 「おい、長蘇。そこの扇子をとってくれ」
 本の紙面に目を向けたまま、手だけを伸ばした藺晨の頭に、がつんと扇子が飛んできた。
 「―――っつ!」
 頭を押さえて、藺晨は振り返る。
 長蘇は知らん顔をして自分も本を開いている。
 「おい」
 怒りを込めて呼ぶと、ちら、と長蘇が目を上げた。
 「貴様、何の恨みがあってこんな真似をするのだ。要がまともに当たったではないか」
 扇子の要の部分を、長蘇のほうへ突き付ける。
 「とってくれと言うからとってやったまでだ」
 長蘇はにっこりと笑顔を作ってから、一瞬のちには真顔になって本の上へ視線を戻していた。
 (なんなんだ、こいつは―――)
 腹立ちまぎれに扇子を畳の上に投げつけて、藺晨は部屋をあとにした。


 「はあ。実は……」
と、黎綱が苦笑いする。
 「宗主の不機嫌のわけは、もとを糺せば閣主ご自身かと―――」
 「なんだと? わたしが何をしたというのだ」
 藺晨は心外だとばかりに眉をひそめた。
 「閣主がふらふらとあちこち遊びに出られてばかりゆえ……」
 「ほう? あやつめ、それで拗ねているのか? わたしにもっと廊州へ立ち寄ってほしいと?」
 なかなか可愛いところがある、と言いかけた藺晨に、
 「まさか。そんなしおらしいお方でないのは、閣主もよくご存じでしょうに」
と黎綱が首を振った。
 「では、なんだ」
 「琅琊閣のほうでは皆さま仕事が滞ってかなわぬと、ちょくちょく廊州まで閣主を探しにお見えになるものですから、宗主が代わって助言なさることも多いのです」
 そう言われて、藺晨は反省するどころか大いに満足してうなづく。
 「それは感心な心掛けだ。金陵にいた折りには、病で引っくり返っていたあやつの代わりに、わたしが蒙大統領に知恵を貸してやったこともあるではないか。犬畜生でも受けた恩は返すもの。長蘇がわたしに借りを返すのは不思議でもなんでもない」
 悪びれぬ藺晨の言いように、黎綱は困惑しつつ言葉を継いだ。
 「宗主とてそうお思いになればこそ、嫌な顔ひとつせずにお手伝いなさっておいでだったのです。それを琅琊閣の皆さんがひどく喜ばれて―――」
と、黎綱はつい二、三日前のことを話し出したのだ。 

 「まことに助かります。閣主ときら、まったく鉄砲玉で、一度おでかけになるといつお帰りになるとも知れず、毎度のことながら我らは途方にくれておるのです」
 琅琊閣からの使いが、そう言ってため息をついた。
 「気の毒なことだ。あれは糸の切れた凧のようなものゆえ、仕える者はさぞ気骨も折れよう。わたしでよければ力を貸そうゆえ、いつでも参るがよい」
 梅長蘇が柔らかく微笑んで慰めると、使いの者は大層観劇して、こう言ったというのである。
 「かたじけのう存じます。いや、閣主にお聞かせしたいもので。まさに『夫人帮助之功』というやつでございますな」
 そう言って、琅琊閣の者は上機嫌で去っていった。
 嫣然と笑って見送った梅長蘇は、相手の後姿が見えなくなるなり、ぼそりとつぶやいた。
 「『夫人帮助之功』―――、だと?」
 すぐ後ろに控えて聞いていた黎綱は、思わず言ったのだ。
 「言い得て妙、ですなあ」
 途端に梅長蘇が振り返った。既に、笑みは微塵もなかった。
 「言い得て妙、だと? 『内助の功』だと言われたのだぞ、このわたしが」
 梅長蘇は顎をあげて鼻から勢いよく息を吐きだすと、憤然として部屋へ戻っていったのだ。


 「要するに、うちの莫迦者とお前が、よってたかって長蘇を怒らせたのだな?」
 藺晨が剣呑な声でそう尋ねたので、黎綱はぶるっと身を震わせた。
 「とんでもない! 大体、閣主が遊び歩いてばかりおられるゆえ……」
 「五月蠅い。貴様らが余計なことを言わねば、やつは機嫌よく琅琊閣の仕事もこなしておったのではないか」
 道理で、昨夜廊州へ突いてからというもの、長蘇のそぶりがよそよそしかったわけだ、と藺晨は向かっ腹を立てた。
 「そっ、それは―――」
 焦る黎綱を一瞥して、藺晨はため息混じりに立ち上がった。
 どいつもこいつも、長い付き合いだというのに長蘇をまるでわかっていない。あの自尊心の高い男に、『内助の功』などとは。
 (―――さて、これで当分は臍を曲げていることだろうな)
 そうでなくても、琅琊山と廊州とはそれなりに離れているのだ。廊州に滞在している間くらい、機嫌のよい顔が見たかったものだが、と藺晨は溜息をついた。



   * * *



 「よいのですか、琅琊山へお帰りにならずとも」
 そろそろまた、あちらから誰ぞお見えになりますよ、と甄平が言う。黎綱は藪蛇になるのを恐れて藺晨に近づかない。
 「構わぬ。わたしがおらぬくらいで仕事を滞らせる役立たずはくびにしてやる」
 剣もほろろに、藺晨がそう言い放ったときである。
 「閣主! 閣主、大変です!」
 黎綱が転がるように駆けてきた。
 「なんだ、またわたしに嫌味を言われに来たのか」
 呆れてそう言った藺晨に、黎綱はそれどころではないと慌てた。
 「藺晨! 何をしている! 早く来い!」
 梅長蘇の怒鳴る声が聞こえてくるに及んで、ようやく藺晨は眉をひそめた。
 「なにごとだ?」と、玄関先まで出て行って、あっけにとられる。
 全身濡れ鼠の長蘇と飛流が、やはりずぶ濡れの母子を抱えて座り込んでいた。
 「身投げをしたのだ。ぼさっとしておらずに、とっとと助けろ!」
 その言いようにむっとしつつも、藺晨は黎綱と甄平に指図して奥へと母子を運ばせた。
 母子が着替えさせられ、藺晨の手当を受ける間、梅長蘇は濡れた衣の上から浴巾をかぶってそばで見ていた。
 「どうだ?」
と尋ねた長蘇に、藺晨が逆に問う。
 「水はお前が吐かせたのか」
 「ああ。だが、目を覚まさぬ」
 気遣わしげな長蘇に、藺晨は軽く眉を上げる。  
 「―――まあ、大丈夫だろう。薬を煎じてやるから、目が覚めたら飲ませろ。それから粥でも食わせてやれ。腹がひもじいゆえ、死にたいなどという浅はかな了見を起こすのだ」
 長蘇はほっとしたように、黎綱を振り返る。
 「吉さんに粥の用意をさせておけ。それから、ふたりには誰かつけるように。万一、また死のうなどと思われてはかなわぬ」
 指図し終えて、不意にぐったりと畳の上へ手をつく。
 「長蘇。念のために聞くが……。お前が飛び込んで助けたのか」
 不機嫌そうな声でそう問われて、梅長蘇は少し眉を寄せながら藺晨を見た。
 「―――だったらどうだというのだ」
 藺晨がやれやれと言った顔つきで見返してくる。
 「いいから、立ち上がって見ろ」
 「……」
 言われて、梅長蘇は少しためらった。が、じっと見据えられて、しかたなく立ち上がる。
 そして。
 一瞬で、その場にへたりこんだのだ。
 「まったく―――、しようのないやつめ」
 藺晨はこめかみを押さえると、盛大に溜息をついた。 


 「そら、起きろ。薬を飲め」
 褥にぐったり仰臥した梅長蘇の肩を、扇子の先でぱしぱしと叩く。
 両腕で顔を覆った長蘇が、弱々しい声を上げた。
 「―――駄目だ。身体が重くて、起きられぬ……」
 「全く、無茶をしおって」
 呆れた様子で藺晨は冷たくそう言い捨てた。
 顔を覆ったまま、長蘇が反論する。
 「水練は、達者だったのだ」
 「―――いつの話だ?」
と藺晨はばっさり切り捨てる。
「考えてもみよ、十何年もろくに使っておらぬ体なのだぞ? 急にあんな深い湖に飛び込んで、そのまま溺れ死んだらどうするのだ。折角苦労して助けてやった命を、簡単になくされてはこちらの立つ瀬がない」
 言われっぱなしが癪に障って、長蘇は顔から腕をおろした。 
 「……ちゃんと泳げたではないか」
 そう言うなり額を扇子ではたかれて、長蘇はまた両手で顔を覆う。   
 「たまたまだろうが。足でも吊っていたら、お陀仏だったのだぞ」
 両手の指の間から、長蘇は藺晨を睨みつける。
 「ならば、見捨てればよかったというのか」
 飛流と気晴らしの舟遊びに出かけた梅長蘇は、たまたま母子の身投げに出くわしたのだ。
 ところは湖の真ん中。
 飛流は近くの小島から顔を出した兎を追って、舟から藪の中へ飛び込んでいったあとだった。粗末な小舟から、母親は幼し子供を抱いて湖中へと身を躍らせたのである。飛流を呼び戻すいとみもなかった。 
 「そうは言わんが、少し前のお前ならどうしていた? まさか飛び込みはしなかったろう」
 一瞬、長蘇は言葉に詰まった。
 「……それは身体が言うことをきかなんだゆえ……。だが、助けられるのに見殺しにすることなどできぬ」
 子供のように利かん気な表情を浮かべた長蘇に、藺晨は閉口したように首を振った。
 「―――もういい。無事であったのだからよしとしよう。今後は今少し、己れを大事にせよ」
 そう言って話を終わらせようとしたが、長蘇のほうはおさまらぬらしい。
 「今後とて、同じことが起これば、同じようにしてしまう」
 そこには既に、冷静沈着な蘇哲の面影は微塵もない。
 長蘇は大儀そうに体を起こした。 
 「……お前にはさんざん世話になった。お前のお陰でこうして生きていられる。それはわたしとて感謝しているのだ。だが―――」
 長蘇は心持ち口を尖らせた。
 「―――わたしは、お前の所有物ではない」
 藺晨は目を見開く。
 そして―――。
 思い切り、吹き出した。
 「お前、まだ気にしていたのか……」
 「なっ……」
 扇子で顔を覆って笑う藺晨を、長蘇は恨めし気に睨む。
 藺晨は懸命に笑いを収めた。
 「―――内助の功と、言われたそうではないか」
 まだ口許に扇子をあてがったまま藺晨がそう言うと、長蘇はますますむすっとする。
 藺晨はまた小さく笑った。
 「内助の功の、何が悪い?」
 長蘇が視線をそらす。
 「その言葉は、―――妻に使うものだ」
 「よいではないか」
 藺晨がそう言った途端、  
 「よくなどない。わたしは男で、江左盟の宗主だ」
と長蘇が即答した。
 「確かにそうではあるが……。だが、琅琊閣と江左盟は車の両輪のようなもの。謂わば夫婦同然だ」
 「そっ……」
 藺晨の言葉に、長蘇が鼻白む。藺晨は笑って駄目押しした。
 「ならば、琅琊閣の閣主と江左盟の宗主が夫と妻のような関係であっても、何ら差し支えあるまいに」
 長蘇が口惜しそうな顔をする。
 「―――詭弁だ」
 藺晨はまた笑いながら薬の入った椀を差し出し、長蘇はそれをしぶしぶ飲んだのだった。



   * * *



 「あの母子はどうした?」
 翌朝、遅くなってからのんびり起き出した藺晨が、長蘇に尋ねた。
 「ああ。黎綱が働き口を探してやっている。食い詰めて他国から流れてきたらしいのでな」
 今朝は気分もいいらしい長蘇が、そう答えた。
 「腹がくちくなれば死ぬ気はおさまったろう?」
 藺晨が笑って見せると、長蘇も苦笑した。
 「そのようだな」
 「やはり、わたしは名医であろう? 人を生かすすべを心得ている」
 得意げにそう言った藺晨に、長蘇が少し肩をすくめた。
 藺晨は欠伸をしながら、回廊の外を見る。
 そろそろ、庭の木々が色づいてくる頃だ。 
 秋の高い空を見上げて、藺晨は言った。
 「―――琅琊閣へ、来ぬか」
 振り返ると、長蘇はすこし驚いたような顔をしている。藺晨は笑った。
 「今度のことでよくわかっただろう? 元気になったつもりでも、かつてのお前には及ぶべくもない」
 そう言うと、長蘇はすこし不快げな表情になったが。
 藺晨はいっかな気に留めるふうもなく、言葉を続けた。
 「内功を鍛えるなら、琅琊山が最適だ。空気もよいし、霊気に満ちている。身体に無理のないようわたしがついていてやれる。昔通りとはいかずとも武功の何割かは戻ろうと言うものだ。―――ついでに、内助の功も存分に発揮できるぞ?」
 立て板に水のごとくそう言い連ねて、どうだ? と微笑んだ藺晨に、長蘇はほとほと呆れる。
 「ついでに? そちらが狙いなのではないのか? 自分が仕事を怠けたいだけであろう」
 「何を言うか。大事な妻がそばにいて、内助の功で支えてくれるなら、仕事にも身が入ろうと言うものだ」
 長蘇が眉を寄せる。
 「遊びに身が入るの間違いではないのか?」
 「可愛い妻が家にいるのに、外へ遊びに行く必要があるものか」
 悠然と微笑んだ藺晨に、長蘇がげんなりした顔をした。
 「……薄気味の悪いことを言うな」
 しかし、藺晨は楽しそうに言った。
 「武功も軽功も内助の功も、琅琊山で磨けば天下一品だ」
と。
 「―――骗子」
 長蘇がぼそりとそう言った。
 忽ち藺晨が眉間に皺を寄せる。
 「誰がぺてん師だ。失礼な」
 くすっ、と長蘇が笑った。
 「そのぺてん師の口車に乗ってみるのも、一興だな」
 少し首をかたむけて、長蘇は藺晨に微笑みかける。
 藺晨が、寄せていた眉をわずかに開いた。
 
 琅琊山は、これから朝晩肌寒くなるやもしれぬが、と長蘇は思う。
 しかしもう、手炉を手放せなかった頃の自分ではない。

 あの山の頂で、藺晨と共に剣舞のひとつでも舞ってみるのも悪くなかろう―――。梅長蘇は、そう思って、秋空の向こうを見晴るかした。
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