琅琊榜

毒蛇2 『蜜柑』 (『琅琊榜』#6 補完)

 ←野游 (『琅琊榜』#9補完) →毒蛇3 『朋』 (『琅琊榜』#7.8.9 補完)
誉×蘇の続きです。
最初は宗主と誉王殿下のキツネとタヌキの化かしあいぶりが書ければいいと思っていたのに、
なぜかただの甘々になっていく・・・wwww 
まあ、しかたがないw


 「こちらです」
 奥の座敷へと導かれた。
 酒楼で待つ人がいる。そう告げたのが謝弼であるからには、招きの主はわかっていた。
 果たせるかな座敷でひとり酒杯を傾けていたのは、誉王・景桓その人であった。
 「殿下」
 謝弼の声に誉王は振り返り、そして立ち上がった。
 「蘇先生」
 軽く礼を取る誉王に、梅長蘇も一礼を返す。
 「誉王殿下からのお招きとは、恐れ多いことです」
 深々と頭を下げると、誉王は笑って「請座」と席を勧めてきた。
 餐桌には既に料理が幾品か並んでいる。
 座に着くと、謝弼が茶を淹れた。人払いしてあるのか、店の者の来る気配はない。謝弼も茶を淹れ終えるとすぐに退がった。
 「今日は幾分風があるようだ。蘇先生のお体に障ってはいけない。温かい茶でも飲んで少し休まれよ」
 「いえ、馬車の中ではさほど風も感じずに参りました。お気遣いくださいませぬよう」
 そう答えつつも、梅長蘇は茶杯に手を伸ばした。
 ―――温かい。
 思ったよりも身体が冷えていたことに初めて気づいて、梅長蘇は両手で茶杯を包みこんだ。一口飲んで、喉を通る温かい感覚にほっとする。
 ふと、誉王の視線に気づいて、梅長蘇は茶杯を置いた。
 誉王が少し目を細めた。
 「昨日の郡主の……情絲繞の一件では、ご教示いただき感謝する。おかげで父皇からのお褒めの言葉も賜った。一言、お礼を申し上げたくお招きした次第だ。さあ、召し上がるがいい」
 誉王の分厚い掌が、並んだ料理を指し示した。
 「そのような。わたしはたまたま郡主の難儀を知り得て、殿下のお力に縋ったまでのこと。わたし一人では何の働きもできませなんだろう。礼を申さねばならぬのはわたしのほうです」
 「いや、此度のことでは、わたしも母后も甚く面目を施した。郡主も事なきを得て、喜ばしい限りである。すべて先生の機転の賜物だ」
 誉王は上機嫌だ。
 温かいうちに、と強く勧められて、梅長蘇は少しばかり料理に手を付けた。飛流を連れてきてやればよかったと思う。
 料理はいずれも美味ではあったが、それよりもふと、高杯の盛鉢に積まれた蜜柑の瑞々しさに目を引かれる。梅長蘇の視線の先を目ざとく見てとった誉王が、すかさず言った。
 「ああ、先生は蜜柑がお好きとお見受けしたゆえ、用意させたのだ」
 なんとも気が利く男だと、梅長蘇は内心少し呆れる。
 (けれど……)
 蜜柑の産地や入手経路について得々と述べている誉王に適当に相槌を打ってやりながら、梅長蘇はなんとなく忘れそうになる。この男を毒蛇と呼んで嫌った昔を。
 (随分嬉しそうに自慢話をするものだ)
 この調子で、霓凰の危険を察知したという嘘八百を、皇帝の前でも得意顔で披露したのだろうと思うと、妙に可笑しくなった。
 「ん? わたしが何かおかしなことを言ったか?」
 顔に出して笑ったつもりはなかったが、誉王は少し眉をひそめた。
 「いいえ。わたしの為にさほどにお手間をかけていただいたのかと、少々面映ゆく感じただけです」
 微笑を返すと、誉王は一瞬きょとんとした表情になってから、自分も破顔した。
 こんないい笑顔のできる男だったのだなと思う。なぜ知らずにいたのだろうかと。
 (―――莫迦な)
 すぐに梅長蘇は気を引き締めた。
 自分を取り込みたいがための愛想笑いに、そう易々と乗ってどうするのか。
 景琰を皇位に押し上げるには、太子と誉王は排除すべき敵だ。木乃伊取りが木乃伊になってはならぬ。
 「おお、忘れるところであった」
 誉王が傍らに置いていた包袱を取り上げた。
 「先日お話しした、黎崇先生の著書だ。『不疑策論』ももちろんある」
 「わざわざお持ち下されたのですか」
 早速、ご機嫌取りとはご苦労なことだ。
 「じかに手渡して、蘇先生の喜ぶ顔が見たくてな」
 なんだ、その恩着せがましい物言いは。梅長蘇は、そう思おうとした。しかし、誉王の得意げな笑顔は、ひどく無邪気だった。
 「……かたじけのう存じます」
 「なに、太子に言われたからではないが、それは先生にさしあげよう。気のすむまで御覧になればよい」
 「滅相もございませぬ。読み終えたらお返しいたしますゆえ」
 そう言った梅長蘇を誉王は制した。
 「よいのだ。わたしが持っているより先生の手元に置くほうが益になる。そのかわり……」
 「そのかわり?」
 来た、と思った。これだから油断がならぬ。梅長蘇は身構えた。が―――。
 「いや、そのかわり、先生がこれをお読みになったら、ぜひともご講義を願いたいのだ」
 「講義?」
 拍子抜けして、梅長蘇は鸚鵡返しに問うた。
 誉王が気恥ずかしげに、こめかみを指で掻く。
 「わたしも全部読んではみたのだが、恥ずかしながらあまりよくはわからなかったのだ。先生にご教授いただけるならばその書を手に入れた甲斐もあるというもの」
 はにかむ顔に、梅長蘇は戸惑う。
 あれは十五年も前のことだ。梅長蘇―――林殊は、当時の大学者・黎崇に師事していた。
 黎崇はその博学なること天下一の宗師にして、朝廷に召し出されて皇子たちの教育に当たっていた。誉王もまた、その教えを受けたひとりであったろう。
 「されど黎崇先生は……」
 梅長蘇は口ごもった。
 誉王がすこし笑う。
 「先生のおっしゃりたいことはわかる。父皇と袂を分かって金陵を去った黎崇先生を、皇子であるわたしが崇めてよいものか、であろう?」
 朝廷に仕えながらも、黎崇は下々への教育を忘れることはなかった。渠の前には貴賤も貧富も関係がない。誰にも分け隔てなく教えを垂れた。黎崇の名声はいやがうえにも高まった。
 しかし、ある時、皇帝の不興を買った黎崇は太博の職を解かれ、憤慨して都を去ったのである。
 「先生ならばよくご存じであろう? 黎崇先生は龍のごとく気高い志の持ち主であった。志が高すぎて、当時のわたしが理解できたことといえば通り一遍のことばかりだが、改めてその教えに触れてみたいと、年を経るごとに思っていたのだ」
 口先だけとは思えぬ、真摯な声音であった。その口調が、次第に熱を帯びる。
 「黎崇先生は既に不遇のうちに亡くなられたが、こうしてその教えを受け継ぐ蘇先生にめぐり合えたのも何かの縁だ」
 そして誉王は苦笑した。
 「なに、わたしは儒者ではないし、親王としての立場もわきまえている。遠い昔に父皇の怒りに触れた黎崇先生の教えを学んだからといって、障りの生じることはない。父上とて、まことは黎崇先生の博識に一目も二目も置いていたのだ」
 梅長蘇は少なからず驚いて、誉王の顔を見ていた。
 この男は、黎崇先生に憧れていたのか。己は卑しいちっぽけな毒蛇の身でありながら、天かける龍の志に焦がれていたというのか。
 受け取った包袱を、梅長蘇は撫でた。
 ゆかしい香の芳りがした。



  ***



 梅長蘇という男は、果たして齢はいかほどであろうか。
 老成して見えたが、どうかした拍子に少年のような愛嬌を見せる。自分より若いことは確かだろう。
 誉王は小さく思い出し笑いをした。
 幸せそうな顔をして、細く長い指で茶杯を包み込んでいた。
 盛鉢に積まれた蜜柑に手を伸ばしたときの表情も、どこか子供じみて見えたものだ。
 黎崇先生の著書をその手に受け取ったとき、包袱を撫でた梅長蘇の表情がふっと和んだ。芳りに気づいてくれたに違いない。迷いに迷って選んだ香を焚きしめた甲斐がある。きっと梅長蘇が気に入るに違いないと思っていた。
 黎崇という大儒家を、誉王は尊敬していた。ほかならぬ、長兄が心酔していたためでもある。しかし、尊敬しながら、誉王はどこかで疑いを持っていた。それは、理想論にすぎぬのではないかと。
 『水至清則無魚。人至察則無徒。冕而前旒、所以蔽明。黈纊充耳、所以塞聰』
 子供のころからそんなことを思ったものだ。
 養母である皇后のもとへ引き取られた頃のことを、おぼろげに思い出す。生母の身分が低かった景桓は、なんとなく周囲の目が自分を侮っていることを、本能的に感じていた。養母を喜ばせるため、周りに認めてもらうため、景桓は誰よりも気高い王子になろうと努力したのだ。だが、現実はそう甘くはなかった。
 景桓は自分なりの処世術を身に着けるほかなかった。清いだけ、正しいだけでは人は靡かぬ、智慧を働かせ、時には媚び、時には威圧し、富や権力を使って人を引き寄せる。誰に教えられることなく、景桓はそれを学んだのだ。
 しかし、それだけに清き水を夢見た
 祁王は、その清き水に住む穢れなき魚であった。それは景桓には清すぎて息苦しい水であった。だがその清流に、景琰と林殊だけは当たり前のように身をゆだねていたのだ。
 少年だった誉王は思ったのだ。
 なぜ自分は清流に生きられぬのか、と。
 ―――梅長蘇はどうだ。渠は清流に生きているのか。
 否、と思う。
 渠が謀士であるからには、清き水の中だけで生きられるはずもない。ならば、渠は黎崇先生の教えをどう消化しているのか。あのとりすました顔で、理想と現実にどのような折り合いをつけているのだろう、と誉王は思った。



  ***



 天気が崩れそうだ。
 こんな空模様のときには、ことのほか身体の具合が悪くなる。
 それにしても、今日はよく招かれる日である。疲れてはいたが、ほかならぬ景琰の招きとあらば応じぬわけにもいかぬ。
 景琰の指定した楼へ上がって、梅長蘇は苦笑いした。
 こんなに風が出ているというのに、よりによって涼台の張りだした席を用意してくれるとは。
 『林殊』にならば、うってつけだろうが、と思う。暑がりで、少年のころから酒を好んだ林殊は、大いに飲み、大いに語っては、身も心も熱く火照ったものだ。たとえ晩秋でも、これくらい風通しのよいところが丁度よいのだ。
 それに引き比べて、この身ときたら……、と梅長蘇は苦笑を噛み殺した。
 あとからやってきた景琰に、一礼して向き合う。
 「大雨が降ろうかという時にお呼びとは、何用ですか?」
 「麒麟の才子の手腕があれば、人目を避けて会うことも可能だろう」
 皮肉を投げつけてくる。景琰はひどく怒っているのだ。
 無表情を装ってはいるが、その憤慨のほどを一目で見てとって、梅長蘇はそっとため息をつく。
 疲れている場合ではない。景琰とまっすぐ向かい合ってやるために、気力を奮い起こさねばならぬ。長い間、心を閉ざしてきた景琰の憤懣を、受け止めてやれるのは自分だけだろう。
 聞く前から、わかっている。景琰が怒っているのは、霓凰の件だ。
 景琰への支持を集めるために、自分があの事件を利用したのではないか、と疑っているのだ。いや、疑いではない。景琰はそう確信している。
 雲南王府に恩を売り、誉王に貸しを作るための、もっとも効果的な局面を作り上げようと、この梅長蘇がぎりぎりまで時機を計ったのだと思っている。その為に霓凰は危うく犠牲になるところであったのだと。
 たった一言、自分が林殊であると告げれば、景琰の疑いは忽ち氷解するであろう。しかし、自分が謀士・梅長蘇である限り、景琰は決してこの疑いを解きはすまい。たとえ百万言を尽くしたとしても。
 「先生の機転には敬服するが、覚えておけ。このようなことは早く知らせよ。郡主のごとき善良なものが陥れられたり、私のために踏み台にされることは望まぬ」
 早く知らせよも何も、梅長蘇とてぎりぎりまで気づかなかったのだ。豫津の何気ない言葉で真の首謀者を察した自分を、むしろ褒めてもらいたいくらいだったが、そんな言い訳が通用するとも思わぬ。梅長蘇自身、己の迂闊さに今思い出しても肝が冷えるのだ。霓凰に万一のことがあったら、いくら己を責めても足りなかったことだろう。景琰は梅長蘇自身に代わって詰ってくれているのだ。
 「郡主が戦場で命を張るからこそ、先生たちは権力争いに明け暮れることができるのだ。今後、わたしを支えるのなら、郡主のような者を利用することは絶対に許さん。それが出来ぬ限り、共に大業は成せぬ!」
 「……我明白了」
 景琰の言葉は、武人『林殊』にとってはこの上もなく嬉しい。皇宮で暮らす人々は、考えたこともないのだ。自分たちの日常が、戦場で命のやり取りをする武人たちによって支えられていることなど。
 景琰は日頃から、そのことに対して憤りを肚の内にため込んできたのだろう。それをぶつける相手もなく、ただじっと耐えてきたに違いない。
 景琰ならば、―――よい皇帝になれる。
 そうは思うものの、梅長蘇は深く傷ついてもいた。
 戦場で命を張る、その重みを知らぬわけがない。しかし、戦場を知りもせずにただ権謀術数を巡らせる者たちと、いまの自分は同じに見られている。
 景琰は言う。
 「謀士なら私も見てきた。彼らが手を染めた陰湿で恥ずべきこともな。その卑劣な攻撃は、最強の者ですら防げない。私の兄、私の親友、皆、陰謀の中で死んでいった。私が手段を択ばぬ人間に代われば、兄や友を悲しませよう」
 『林殊』を。
 景琰はいまも大切に想ってくれている。
 景琰が『梅長蘇』を疎み、冷たく蔑むその心の裏には、『林殊』への熱い友情がある。『林殊』を大切に想えばこそ、『梅長蘇』を憎むのだ。
 (ならば、いま、このわたしは―――?)
 生きながら身も心もふたつに裂かれるような、やり場のない想いが梅長蘇を責めつける。
 「戦場の過酷さを理解しろとは言わんが、傷つけてはならぬ人がいるのだ。戦場の将兵たちを尊敬できぬならば、先生と与することはできない」
 無惨な戦場ならば、この身をもって体験した。まさに、この世の地獄であった。
 だが、それを景琰に語ることはできない。自分は剣も弓も手にしたことのない、謀士・蘇哲なのである。
 深い悲しみが、梅長蘇を襲った。
 ―――しかし、言っておかねばならぬ。
 「皇太子や誉王と戦うなら、情熱だけでは通用しません。私の役目は彼らの陰謀を阻止し、彼らより非道になることです」
 剣で戦う戦場ではなく、智謀で勝らねばならぬのだ。そして、そのためには。
 「原則は必ず守りますゆえ、私に猜疑心を持たないでいただきたい」
 どれほど蔑まれてもかまわない。報われずともよい。ただ、敵ではないのだと理解し、頼ってもらわねばならぬ。
 ―――やがて、景琰は立ち上がった。
 「……庭生を救ってくれて、感謝する」
 その言葉だけで、―――救われる。

 景琰の立ち去ったあと、梅長蘇は卓に肘をつき、両手で顔を覆った。
 詰られることに、慣れねばなるまい。
 景琰の嫌うことは、自分が行わねばならない。決して景琰の手を汚させてはならぬ。

 ―――風が、強まった。
 梅長蘇は少し震えて、両腕で自分の身体を抱いた。

 身体も心も、まだ持ちこたえねばならぬ。
 始まったばかりなのだから。

  *

 「戦場の過酷さを理解しろとは言わんが、傷つけてはならぬ人がいるのだ。戦場の将兵たちを尊敬できぬならば、与することはできない」
 景琰がそう言った。林殊はいきり立って大きくうなづく。
 「まったくだ。我ら武人があってこその政だ」
 不意に、景琰の目が眇められた。さっきまで熱く語り合っていた友の全身を、冷たい空気が覆う。
 「―――誰が武人だ?」と景琰が言った。
 「誰って……。決まっているだろう、お前や、このわたしではないか」
 林殊がそう言った途端、景琰の頬に皮肉げな笑みがのぼった。
 「貴様が武人だと?」
 「え?」 
 冷たい目が、林殊の全身を眺めた。
 「自分のその腕を見るがいい。その腕で、剣を振れるか? 弓を引けるか? 手綱を捌けるか?」
 ―――わたしの、腕?
 林殊は己の手を見た。
 青白い、手だ。肉の薄い、指の細い、滑らかな手である。
 慌てて袖口をたくし上げてみる。
 細い。
 なぜ? これが、わたしの腕か?
 不安になって、景琰を見上げる。
 景琰の目には、侮蔑しかなかった。
 (わたしは、誰だ?)
 武人ではない。これが武人の手であろうはずがない。
 「郡主が戦場で命を張るからこそ、先生たちは権力争いに明け暮れることができるのだ」
 景琰が突き放すように言った。
 都で、権力争いに明け暮れるだけの。

 ―――謀士だ。

 (『梅長蘇』……)

ようやく、自分の名を思い出した。



  ***



 「蘇先生?いかがされた?」 
 声をかけると、ぼんやりしていた梅長蘇がはっと目を上げた。
 誉王は、この日初めて雪蘆を訪れたのだ。
 朝臣らの多くは、太子派、誉王派に分かれて互いに牽制し合っているが、寧国侯・謝玉はいまだ中立の立場を貫いている。但し、跡取りである謝弼が誉王に傾倒するのを謝玉が止めることはなく、誉王と謝弼の交流は、事実上、寧国侯公認のものとなっている。
 先日、酒楼で会ったときより、梅長蘇は顔色が冴えぬようであった。風邪気味だという渠は、大したことはないと言いながらも、火鉢を引き寄せ、手炉で暖を取り、毛毯を膝にかけ、それでも寒そうに時折身をすぼめていた。
 その梅長蘇が、話の途中でどこか虚ろな表情になってしまっていたのだ。
 「申し訳ありません。少々考え事をしておりました」
 そう言って、梅長蘇は頭を下げた。
 「いや、やはりお加減が優れぬのでは?」
 いいえ、と梅長蘇は微笑した。それから互いの茶杯に茶を注ぎ足しながら静かに言った。
 「殿下は、……謀士を蔑まれますか」
 茶器を扱う優雅な手つきに見惚れていた誉王は、「え?」と顔を上げた。
 「誰ぞに、何か心ないことでも言われたか」
 思わず、そう尋ねた。なぜそんな気がしたのか、自分でもよくわからない。
 梅長蘇は軽くかぶりを振った。
 「いいえ、そうではありませぬ。そうではありませぬが……」
 物憂げな様子で、梅長蘇は溜息をついた。
 「先生は、謀士である己に迷うておいでか?」
 凜とした強い眼差しが、時として揺らぐ。何がそれほど悲しいのか。
 ―――この男は何者だ。
 一介の書生・蘇哲にして、江左盟宗主梅長蘇。だが、その梅長蘇とは?
 いや、と誉王は思った。
 詮索はすまい。この男の過去がどうであれ、いまここに在る梅長蘇にこそ、誉王は価値を見出している。
 「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば則ち徒なし」
 そう口にしてから、その誰でも知っていよう文言の、なんと自分に似つかわしいことかと誉王は思った。似つかわしい、というのは、己が清く察なるがゆえではなく、まさしくその言葉を教訓として、全く逆の生き方をしてきたからにほかならない。
 「清濁併せのまねば、人は束ねられぬ。人の上に立つ者にとって、権謀もまた時として必要なもの。そのためには謀士の力も借りる。力を借りるからには、わたしは謀士を蔑みはせぬ」
 目を伏せて聞いている梅長蘇に、誉王は少し微笑んで己の袂へそっと手を入れた。
 「たとえばこの蜜柑だ」
 つやつやとした橙色のそれを、手妻のごとく取り出して見せると、梅長蘇は心持ち目を瞠った。
 「先生は礼物を贈っても受け取ってはくださらぬ
 「殿下、それは……」
 梅長蘇が恐縮して、言い訳しようと口を開きかけるのを手で止める。
 「よい。わたしは好きで贈っているだけのこと。受け取ろうが受け取るまいが、先生の勝手だ。されど、わたしは先生という類まれなる謀士を手に入れたい。先生に選ばれたいと思う」
 「……殿下」
 「それゆえ、あの手この手を考える。贈りつけて受け取ってもらえぬなら、こうして自身で持参するもまたひとつの方法」
 誉王は蜜柑を梅長蘇の前に置いた。
 「心は見えぬ。見えぬ心を表すためには、金品や権力を使い、言葉を弄さねばならぬこともある。それを汚らわしいとはねつけるもよし、受け入れて互いに益を得るもよし」
 そういったものをはねつけるとすれば……と誉王は思った。
 (景琰、か)
 七弟ならば、甘い言葉にも耳を貸さず、権力にも阿るまい。自らもまた、言葉や権力に頼って人を動かそうとも思わぬであろう。そうやって不器用に生きてきた結果が、三十路を越えても群王に甘んじる今の身の上である。

 自分は、表したいと思うのだ。
 己の心を。

 見える形で―――。

 

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