琅琊榜

蝉蜕8 (『琅琊榜』 #54以降)

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飛流が子供じゃなくなっちゃった!!
どうする!? 宗主!!


 十日ばかり琅琊閣を留守にしていた藺晨は、戻ってくるなり甄平の仏頂面とすれ違う羽目になった。
 「おい、なんだ、あれは」
 梅長蘇の私房から出てきた黎綱に、藺晨は甄平の後姿を顎で示した。
 「はあ……」
 「なにをお前まで辛気くさい顔をしている。いいから酒でも持ってこい」
 「はい。ただいま」
 黎綱が立ち去った部屋へ、藺晨は足を踏み入れる。
 「長蘇。いるなら出迎えくらい……」
 奥の臥室から姿を現した長蘇に、藺晨は眉をひそめた。藺晨のそんな表情には気づかぬ体で、長蘇がゆったりと微笑む。
 「すまぬな。今朝は朝寝が過ぎたようだ」
 「なんだ、その顔色は」
 先刻の甄平に勝るとも劣らぬ仏頂面で、藺晨はそう尋ねた。
 「なんだと言われても」
 長蘇が苦笑する。
 「飛流はどうした。わたしのおらぬ間、ちゃんと飛流から気をもらっていたんだろうな」
 「―――飛流は……」
 梅長蘇はすこし言い淀んだ。
 「飛流は少々、体の具合がよくないのだ」
 「体の具合だと? 十日前にはぴんぴんしていたぞ?」
 どう考えても、梅長蘇のほうが具合は悪いに違いなかった。
 梅長蘇の綺麗な手が、優雅な動きで藺晨に着座を促す。
 「まあ、座って茶でも飲んだらどうだ」
 「茶なぞ要らん。いま黎綱に酒の支度をさせている」
 長蘇が軽く眉を寄せた。
 「うちの黎綱を侍女がわりに使わないでほしいものだな」
 「うるさい。だから宮羽を側仕えさせろと……」
 聞き飽きたと言うように、長蘇が手をひらひらさせて言葉を遮る。黎綱が酒を運んできた。
 藺晨は黎綱を軽くにらんだ。
 「おい、説明しろ。飛流がどうだと言うのだ」
 長蘇に尋ねても埒が明かぬ。こういうことは黎綱に訊くのが一番だ。甄平と違って、この男は落ち着いて公平な判断ができる。
 「それが……」
 「黎綱」
 答えようとした黎綱を、梅長蘇の声が止める。黎綱は困った顔をした。
 「いま黙っていても、閣主にはすぐ知れてしまいます」
 「なんだ?」
 苛立って、藺晨は扇子をばたばたさせる。梅長蘇は目を逸らせ、黎綱は溜息をついた。
 「実は飛流のやつめは、どうもその……」
 黎綱は言葉を探すふうだった。
 「さっさと言わんか」
 藺晨が業を煮やしかけたとき。
 長蘇は顔を背けたまま、ぽつりと言った。
 「―――子供ではなくなったということだ、我らの飛流も」
 「……は?」
 一瞬、藺晨はぽかんとした。
 そして、ああ、と毒気を抜かれた気分でうなづく。
 「要するに……。盛りがついたのか」
 いつかはそんな日が来ると、わかってはいたのだ。ずっとまえから。
 「言葉が悪い」
 長蘇が微かに頬を赤らめてそう言った。
 「言葉を変えたとて同じだ。それで? 猫でも相手に励んでいるのか?」
 藺晨は茶化した。黎綱が困ったようにうつむく。
 「それが事もあろうに」
 「……まさか」
 はじめからわかっている。飛流に盛りがついたとなればそれは……。
 「そのまさかで」
 深々と、黎綱が息を吐いた。
 さもありなん、と言うほかはない。藺晨はぱちんと扇子を閉じる。
 「あのませ餓鬼めが。百年早い」
 ちら、と藺晨は視線を巡らせた。長蘇はふいと顔を背ける。
 「なにせあの怪力ですから、宗主はとても太刀打ちなど……」
と黎綱が恐る恐る言った。思わず眉を寄せる。
 「ほう、それで操を許したのか」
 「人聞きの悪い!」
 長蘇が弾かれたようにこちらを振り返ってそう抗議したが。
 「だが、そうなのだろう?」
 要するに、されるがままになったのだ。
 「飛流のやつめ、初めてで勝手がわからなんだと見えて、それはもう……」
 「それでこの体たらくか」
 飛流は無邪気で穏やかなたちだ。だが、ひとたび理性を失えばどうなるか、知らぬ藺晨ではない。
 「飛流を責めてくれるな」
 俯いた長蘇が、ひどくか細い声でそう言った。
 「は?」
 呆れて、藺晨は訊き返した。長蘇が目を上げる。
 「あの子は何もわからぬのだ。自分に何が起こったか、合点できずに怯えきっている。わたしを傷つけたことで、あの子の方が何倍も傷ついているのだ」
 悲痛な眼差しで、長蘇はそう訴えた。
 「甘やかすのも大概にしろ。ひっつかまえて、自分で欲を満たす術を教えてくる」
 「待て!」
 踵を返しかけた藺晨を、長蘇の声が引きとめる。
 「……可哀想ではないか」
 弱々しく、長蘇はそう言い、藺晨は真顔でその白い顔を見た。
 「―――可哀想だ?」
 なんと愚かな、と思う。だが、長蘇は真剣だ。 
 「わたしが……、わたしがよく言って聞かせる」
 「言って聞かせるだと?」
 今度こそあきれ果てて、藺晨は目を閉じ、首を振った。
 扇子の尻でしばらくこめかみを押さえてから、深く息を吐く。 
 「やつは、ここが弱い」
 藺晨は扇子で自分の頭をぽんぽんと叩いた。
 「欲望に駆られたら、歯止めなどきかんぞ? 既にその躰で充分味わったろうが」
 長蘇が困ったように視線を落とした。
 「あれは……、初めてのことゆえ、飛流も戸惑ったのだ。そのあとで反省もしただろう」
 梅長蘇にも似ず、自信なさげな声音である。
 「若い雄だぞ? 辛抱などできるものか」
 「ならば……」
と言った長蘇の目の中に、藺晨は既に答えを見ている。
 「ならば、おまえが相手をしてやると? 冗談ではない。体がいくつあっても足りんぞ」
 あの餓えた若い獣に、自ら身を差し出すなどと、正気の沙汰ではない。が、長蘇は弱々しく苦笑いを返してきた。
 「お前が言うのか」
 藺晨は肩をすくめた。
 「わたしはちゃんとお前の体をわきまえているからな。さじ加減を心得ている。飛流にそんな芸当ができるか?」
 欲を抑えることなど、無理に決まっているのだ。
 「……すぐには無理でも、そのうち覚える」
 「それまでお前の体がもたんと言っているのだ」
 それでも長蘇は食い下がってくる。
 「麓にでも降りて、村の娘でも襲ったらどうするのだ」
 「それゆえ、そうならぬようにわたしが教えると言っているのだ」
 もっとも、猿にそれを教えれば、死ぬまでやめられぬようになると聞くゆえ、飛流がどうなることか、藺晨にもさだかにはわからなかったが。
 「可哀想だ……」
と、梅長蘇がまた繰り返す。
 藺晨はため息をついた。
 おそらくは。
 長蘇にも覚えがあるのだろう。愛しい幼馴染みを思って、ひとりでその欲を散らせたに違いない。藺晨とて、同じだ。
 (こやつ、わたしを可哀想に思ってくれたことなどないくせに)
 そう思うと可笑しくなる。
 やれやれと藺晨は苦笑いした。
 「しばらく傍観させてもらう。麒麟の才子どのの、お手並み拝見といったところだな」
 なにが麒麟の才子だ、と思う。何の策もありはすまい。ただ情にほだされて、梅長蘇は飛流のしたいようにさせてやろうとしている。それだけだ。
 幾日もつか。
 藺晨は扇子を開いて、ゆるゆると扇いだ。




   * * *



 飛流は、親を知らない。
 木の股から生まれたわけでもない以上、確かに親はいたはずだが、覚えていない。
 飛流にとって、琅琊閣と江左盟が家族であり、同胞であった。東瀛にいた頃のことは思い出したくもなかったが、どのみちその記憶は遠くぼやけていた。
 (蘇哥哥……)
 梅長蘇こそが、飛流の兄であり、母であった。
 好きで好きでたまらない。ずっとそばにいたい。その一念で今日まで生きてきた。蘇哥哥のそばにいさえすれば幸せで、蘇哥哥が笑ってくれれば嬉しくてしかたがなかった。
 それが。
 いつからだろう。時おり、胸の奥がつきんと痛むのだ。
 鼻の奥がきゅっとしたり、胸がもやもやしたりする。
 病気だろうか、と飛流は心配になった。もしも病気だったら、蘇哥哥がどんなに心配するだろう。蘇哥哥の悲しい顔を見るのはいやだった。だから黙っていたのだ。
 ただ、もしも自分が病気で動けなくなったら、蘇哥哥を守ってやることが出来なくなる。飛流はそれが心配で、十の点心を九つしか食べられないくらい、気を揉んでいた。
 守れなくなっても。戦えなくなっても。蘇哥哥のそばにいていいのだろうか?
 病は日を追うごとに重くなった。
 蘇哥哥の白い顔が仄かに微笑みかけてくると、それは一層ひどくなる。顔が火照って、どきどきして、頭がぼんやりして、息苦しくなる。
 誰にも知られたくなかった。知られれば、蘇哥哥から遠ざけられはすまいかと、そればかりが案じられた。
 そして、昨日のことである。
 ぼんやりと人形遊びをしていた飛流のすぐ後ろに、いつのまにか梅長蘇がかがみこんでいたのだ。
 飛流は内心、飛び上がるほど驚いた。いつもなら、他人がこんなすぐ後ろに来るまで気づかぬ飛流ではない。
 梅長蘇の髪が、一房はらりと飛流の顔の脇に垂れた。嗅ぎ慣れた、優しい香りがした。
 途端に、ぎゅうっと、胸が締め付けられたのだ。
 どうしよう、と思った。
 「これが藺晨哥哥で、これが蘇哥哥、これが飛流。……黎綱や甄平も作ってやらねばな」
 飛流の気も知らず、梅長蘇はそんなことを言って、飛流の肩越しに白い手を伸ばし、人形に触れた。
 梅長蘇の言葉など、耳に入らなかった。ただその声が、天からの楽の音のごとく耳をくすぐっただけだ。
 下腹に、熱いものがみなぎる。苦しくて、飛流はその場に倒れ付して叫びたくなった。
 ぎゅっと、飛流は両手で自分のからだを抱き締めた。そうしないと、五体がてんでばらばらに暴れ暴れ出しそうだった。
 (こわい……)
 そう思った。
 (助けて! 蘇哥哥)
 と、その刹那。
 「飛流?」
 梅長蘇が、訝しげな声をかけてくる。
 飛流はびくりと身体を震わせた。
 気づかれた!
 どうしよう……。病と知れれば、そばに置いてもらえぬのではあるまいか。
 そう思うと、声が出なかった。
 「飛流、真っ青だ。具合でも……」
 そう問われた瞬間、飛流は梅長蘇にしがみついていた。
 「ちがうっ! 飛流は病気なんかじゃない!」
 こわくてぶるぶる震えながら、力任せに梅長蘇を抱き締めた。
 「飛流? 痛いから腕をゆるめてくれ」
と、梅長蘇が困惑したように微笑んだ。
 「こわがらなくていい。蘇哥哥が飲んでいたような苦い薬は出さぬように、藺晨哥哥にちゃんと言ってやるから、どこが具合悪いか教えてくれないか」
 その声は優しかったが、飛流は既に混乱しきっていたのだ。
 「いやだ! 違う!」
 病などであってはならない。
 蘇哥哥を黙らせなくては。
 病であるはずがない。
 梅長蘇を押し倒し、その上へ馬乗りになって、飛流は梅長蘇の口を両手で押さえた。
 驚いて大きく瞠られた目が。
 いつもは優しく見下ろしてくれる目が。
 今は心許なげに自分を見上げている。
 (駄目、だ―――)
 飛流の中の何かが。
 弾けとんだ―――。



 あとのことは、よくわからない。気が変になったとしか、思えなかった。
 もともと自分が賢くないことはわかっている飛流である。皆と同じようにはものを覚えられないし、相手に問われたことの意味がわからぬこともしばしばだった。
 幼い頃は、自分が子供だからかと思っていたが、何年たっても皆と同じにはならず、むしろ琅琊閣で働くもっと幼い子供たちの方がよほど聡明であることを、さすがに飛流も悟らずにはおれなかった。
 それでも、こんなふうに心が乱れたことなど、これまでただの一度とてなかった。賢くはなくとも、分別はあるつもりだったのだ。
 蘇哥哥のいうことには素直に従えたし、蘇哥哥を傷つけるものは許さなかった。
 それなのに。
 自分の手で。
 これまで蘇哥哥を守り続けてきたこの手で。
 むちゃくちゃに、乱暴した。
 蘇哥哥の細い身体が折れてしまいそうなほど、ひどく手荒に扱ったのだ。
 「よせ、飛流。落ち着け」
 蘇哥哥が確かにそう言ったのに、飛流の体はいうことをきかなかった。

 悲しかった。
 あの優しい蘇哥哥に、ひどいことをしてしまった。
 あんなに、血が出た。
 梅長蘇の血の色に、飛流はますます逆上したのだ。
 どんなに痛かっただろう。
 どんなに苦しかっただろう。
 そう思うと、胸が張り裂けそうに痛む。
 ずっと、守ってきたのに。
 蘇哥哥を守るのは自分の役目だと、ずっとそう信じてきたのに。
 自分の中に、あんな狂暴なものが眠っていたなどとは、思っても見なかった飛流である。
 病気だからか? それとも自分は何かにとりつかれてしまったのだろうか?
 だとしたら。
 自分はまた、同じことを繰り返してしまいはすまいか。
 蘇哥哥に、近づいてはならない。
 飛流は己をそう戒めた。



   * * *



 飛流が梅長蘇を避けていられたのは、しかしながら初めの五日ほどに過ぎなかった。
 初めて琅琊閣で出会った日から、飛流がこれほど長い間梅長蘇の顔を見ずに過ごしたことが、かつてあったろうか。辛抱など、できるはずもなかったのだ。

 藺晨はいささかうんざりして、梅長蘇の横顔を見ていた。
 この半月ばかりで、長蘇はひどく憔悴した。
 無理もない。長蘇は飛流の若い精を、日々甘んじて受け入れてやっている。飛流は必死に己を律しようとしているように見えたが、やがてなすすべもなく欲望に屈し、来る日も来る日もただひたすらに長蘇を貪るようになった。
 いったんたがが外れると、もはや歯止めなどきかぬようだった。
 ―――疲れ果てている長蘇も気の毒だが、当の飛流はもっとつらかろう。
 可哀想だから、と長蘇は言った。長蘇らしくない愚かさだと思う。
 飛流のことになると、この賢い男の目が曇る。それだけ盲愛しているのだ。
 このままでは、むしろ飛流が哀れである。


 「飛流!」
 呼ばれて慌てて屋根へ飛ぼうとした飛流の腕を、藺晨はたやすく引き戻した。飛流もまた、疲れきっているのだ。若い精が尽きる気配はないが、わずかの間に頬が削げて青年らしくなったその顔は、恋にやつれた男のそれでしかない。
 「離して」
 睨み付けてくる飛流の目は、傷ついた獣のようだ。
 これでは、長蘇の情けが仇になる。
 「―――来い」
 「嫌だ!」
 ぐいと腕を引いたが、飛流は渾身の力で逃れようとする。こういうときの飛流は、とてつもなく頑固だ。東瀛で初めて拾った頃にも、随分手を焼いた。これ以上暴れて腕が折れると思えば、普通は多少力の加減もするものだ。しかし飛流は、腕一本犠牲にしてでも逃れようとするのだ。まるで野生の獣のように。それでも当時は幼かったゆえ、どうにか押さえ込むことができた。さすがに今は、藺晨も一苦労である。背丈もじきに追い付かれるだろう。幸い、飛流はまだほっそりと少年のような体つきをしている。どうにか脇に抱え込んで、藺晨は梅長蘇の部屋へと引きずり入れた。
 「なにごとだ?」
 座していた長蘇が、驚いて腰を浮かせる。黎綱もびっくりしてそばへ寄ってきた。
 藺晨は、飛流の体を柱に縛り付けた。
 飛流は喚きながら、ものすごい力で柱から身を捥ぎ離そうとしている。
 「閣主、柱ごと引き倒しかねませんよ」
 黎綱がおろおろして言った。
 「しようのない」
 藺晨も閉口して、飛流に素早く点穴を施す。ぴたりと飛流の声が止み、動きが止まった。その眼だけが、ぎらぎらと藺晨を睨みつけてくる。
 「いいか、飛流。そこでよく見ているのだ。―――愛しいと思う相手を、どう扱うのか」
 そう言いおくなり、藺晨はくるりと飛流に背を向けた。そのまま真っ直ぐ長蘇に歩み寄る。
 「よせ、藺晨」
 浮かせかけていた腰を再び落として、梅長蘇はじりじりと尻であとずさった。
 「口で言ったところでわからん。お前が拒めぬ以上、飛流のほうに加減を飲み込ませるしかあるまい」
 藺晨は長蘇の上へ屈みこんだ。
 黎綱が慌てて部屋から出ていく。
 長蘇の顎を指でとらえ、藺晨は深くくちづけた。
 開かれたままの長蘇の目が、気遣わしげに飛流のほうを見ている。
 (飛流に構っている余裕などなかろうに)
 長蘇から唇を離してちらりと振り返ると、飛流は目に涙を貯めてこちらを睨んでいた。
 ちょっと前までは、『蘇哥哥』をとられて妬くことはあっても、飛流はほんの子供だった。目の前で藺晨が長蘇に口づけても、きょとんとして見ていた飛流が、いまはいっぱしの男の顔をして、嫉妬に身を焦がしているのだ。大きくなったものだなと思う。
 梅長蘇を、ほかの誰かにとられるのは藺晨とて腹が立つ。だが、飛流ならば。
 (―――いや、それでも腹は立つが)
 藺晨は苦く笑った。だが、ほかの誰かにくれてやるくらいなら、飛流のほうがずっとましだ。ほんのひととき、貸してやるくらいは辛抱してやらぬでもない。藺晨にとっても、飛流は特別な存在なのだ。それなら、安心して長蘇を委ねられる男に成長してもらわねば困るではないか。
 藺晨は長蘇の胸元へと手を入れた。襟を開き、出来得る限り優しく愛撫する。首元を温めている布を取り去り、首筋から肩へと唇を這わせた。飛流は瞬きもせずに見ているはずだ。その視線を感じると、藺晨もまた常よりも昂るものを感じる。その昂りを抑えながら、藺晨は長蘇の痩せた身体をいたわりつつ、右手をそっと着物の裾へと割り入れた。
 長蘇のあえぎが次第に忙しくなる。せつなげに眉が寄せられている。だが、その表情は苦痛を訴えてはいない。むしろ恍惚として見えて、それがまた藺晨をも陶酔させた。
 既に藺晨も、飛流の前であることは意識の外となっている。ただ、長蘇を愛おしいと思う、それだけだ。
 舌で、指で、充分にほぐしてやってから、藺晨は長蘇の細腰を刺し貫いた。
 既にさんざん飛流に責め立てられ、疲れ切っている長蘇の身体は、たやすく高みに達してそのままぐったりと四肢の力を失った。
 その弱々しさが切なくて、藺晨は血の気の薄い唇へ、今一度深く接吻する。
 朦朧として目を閉じかけていた長蘇が、はっとまぶたを上げた。藺晨が身体をつないだまま、ゆるゆると気を注ぎ始めたことに気づいたのだろう。深い情のこもった眼差しが、藺晨へと向けられる。
 指先から、掌から、唇から、そして熱く滾った一物から、―――ふたつの身体の、繋がった部分全てから、藺晨は穏やかに気を注いだ。
 長蘇は恍惚として、それを受け入れ―――、藺晨はようやく己の欲望を長蘇の中へ解き放った。



 長蘇が腕のなかで安らいだ寝息をたてはじめて、藺晨はようやく飛流のことを思い出した。
 長蘇を起こさぬよう、そっと頭をもたげて藺晨は飛流を顧みた。
 飛流は目を見張ったまま、呆然としている。頬には、既に乾いた涙のあとが残っていた。
 藺晨は静かに身を起こし、長蘇のそばから離れると、飛流の点穴解いてやった。
 もう、騒ぎも暴れもしない。飛流は放心して、うなだれていた。
 藺晨は、飛流の乱れた髪を指でかきあげてやる。 
 「―――わかったか?」
 ぴくん、と飛流が震えた。
 「蘇哥哥の顔が、違ったろう?」
 藺晨がそう問うと、飛流は浅くうなづいた。ぽろり……と、新しい涙が一筋伝い落ちる。
 「貪るばかりでは、大事な蘇哥哥が壊れてしまう。―――ちゃんといたわってやらねばな」
 ぽろぽろと、飛流の眼から涙がこぼれた。嗚咽は、ない。
 「飛流は蘇哥哥と気を通わせることが出来るだろう? 思いを込めて大事に扱え」
 「―――そうしたら」
 「ん?」
 飛流はひたと藺晨を見つめた。
 「そうしたら、蘇哥哥、気持ちよくなる? さっきみたいに、気持ちいい顔してくれる?」
 藺晨は微笑った。
 「そうだな」
 飛流が悲し気に眉を寄せる。
 「飛流のときは、全然気持ち良さそうじゃなかった。くるしい顔してた。蘇哥哥の苦しい顔見たら、飛流も苦しくて、どんどんいやな気持ちになって、腹が立って、―――ひどいことした」
 うまく言い表せぬのがもどかしくてならぬ様子で、飛流は必死にそう言った。
 可哀想に、と梅長蘇は言った。飛流のつらい気持ちを、長蘇は誰よりもわかっている。わかっていながら、長蘇自身だからこそ、どうにもしてやれぬこともあるのだ。長蘇が情けをかければかけるほど、飛流は傷つき、追い詰められる。
 「藺晨哥哥のように出来るか?」
 飛流はすこし怯えた目をした。
 「……わからない」
 わずかに目を伏せ、飛流はじっと考えるふうだった。そして、言う。
 「でも。……蘇哥哥がくるしいのは、いやだから……」
 だから、やってみるのだと、藺晨を見上げた飛流の眼が、そう言っていた。
 「ああ。きっとできる」
 これから先は恋敵だというのに、随分甘いなと藺晨は我ながら笑いたくなる。それでも、恋に身を焼く若者の顔に、藺晨はかつての幼い面影を重ねずにはいられない。己のこの手で拾ってきたひとりぼっちの幼な子を、長蘇だけではない、藺晨とて誰よりも大切にしてきたのだ。
 「―――飛流?」
 不意に、背後からやさしい声が聞こえた。
 藺晨が振り返ると、いつのまにか長蘇が目を開けていた。
 「おいで……」
 横たわったまま、長蘇が両手を差し伸べる。
 飛流は頷きかけたが、目を泳がせてかぶりを振った。
 少しうつむいたまま、飛流はのっそりと立ち上がり、ふらふらと部屋を出て行く。
 「飛流」
 身体を起こそうとした長蘇を、藺晨は目で制した。
 「放っておけ。少し頭を冷やして考える暇を与えてやれ」 
 齢よりもずっと幼かった飛流の心が、清いままに大人の男になる、これはよい機会にちがいなかった。




 「どうだ、気分は」
 翌日、琅琊閣での雑事をすませたあとで、藺晨は長蘇を見舞った。
 牀台の上に身を起こした長蘇は、今日は随分顔色もよい。
 「もうすっかりいい」
 「好。ならば、少々の無理はききそうだな」
 藺晨が笑うと、長蘇は照れくさげに顔をそむけた。
 「いかにも好色そうな顔をするな。気持ちの悪い」
 「そっちこそ今さら君子づらするな。事の最中には、身も世もなく蕩けきるくせに」
 「うるさい」
 つれない素振りが却って愛しい。藺晨は思わず長蘇の身体を抱き寄せた。
 「莫迦、やめろ。まだ日がたか……」
 抗いかけた長蘇が、「あ」と小さく声を上げた。
 その視線が自分の肩越しに背後へ向けられていることに気づいて、藺晨は振り返った。
 「駄目だよ」
 飛流が、立っていた。
 「は?」
 首をかしげた藺晨に、飛流は腕組みして言う。
 「大事にしなきゃ」
 つかつかと大股に歩み寄ってくると、飛流は藺晨を押しのけるようにして長蘇の首に両腕を回した。
 むっとして、藺晨は言い返す。
 「なにを言う、大事にしているではないか」
 飛流が軽くにらんでくる。
 「もっと!」
 「你……」
 藺晨が言葉につまった途端、くすっ、と長蘇が笑った。
 「飛流の言う通りだ」
 長蘇がそう言えば、
 「うん。飛流なら、もっと大事に出来る」
と飛流は大きくうなづいた。
 「そうか。飛流は蘇哥哥を大事にしてくれるのか」
 「うん!」
 猫のように、長蘇に頭をこすりつける飛流に、藺晨は眉を顰めた。
 やはり。
 恋敵というのは、目障りなものである。
 それがいかに、大切に育ててきた養い子であったとしても、である。



   * * *



 「だいぶお疲れのご様子ですね」
と、黎綱が気遣った。
 「少々飛流を遠ざけた方が」
 「構わぬ。飛流もあれで随分自制してくれている」
 梅長蘇がそう答えると、すぐそばで藺晨がふんと鼻を鳴らした。
 「だそうだ。本人がよいと言っているのだからしかたあるまい」
 「はあ」
 そうは言っても、疲労が溜まっているのは確かだった。飛流はあれ以来、藺晨から教わったことを忠実に守ろうとしている。
 それでも、若い分どうしても制御が効かぬ。藺晨なら抑えられるところが、飛流には出来ぬこともあるのだ。飛流の相手をするだけで、長蘇はすっかり消耗してしまう。
 このところ、ずっと部屋から出ていない。こうして座しているだけでも、絶えず目眩がするせいだ。藺晨も飛流も、案じて度々気を入れてくれるゆえ、どうにか体を起こしてはいられるが、飛流が今少し加減を覚えてくれるまでは、とても出かける元気など出そうになかった。
 「少し横になるか。どうせまた、夜にはお子さまの相手だろう」
 藺晨が苦笑してそう言った。
 藺晨と黎綱に支えられて、牀台へ向かう。
 「―――すまぬ」
 黎綱が部屋を下がったあと、長蘇は横たわったまま詫びた。牀台の端に腰かけている藺晨を、切ない思いで見上げる。
 ここ暫く、藺晨は肌に触れてこない。飛流との情事で疲れきっている自分を、慮ってくれているのだ。
 「なに、わたしは昔から辛抱に慣らされているからな」
 藺晨が、また笑った。
 「……」
 ひどく、申し訳ない気持ちがした。
 「こら。そんな顔をするな」
 こつん、と拳の先で額を小突かれる。長蘇は微かにほほえんだ。
 「お前にばかり、割りを食わせている」
 「今さらそれを言うか?」
 藺晨はあきれ果てたように眉を上げる。
 「すまぬと思っているのだ……」
 長蘇は藺晨の首へ両手を伸ばし、その顔を引き寄せた。
 そっと、くちづける。
 久しぶりに間近で藺晨の臭いをかぎ、吐息を感じて切なくなった。
 「おいおい、それは誘っているつもりか? こんなことをされたら、いくらわたしでも……」
 「構わぬ」
 自分とて、藺晨を求めていないわけではないのだ。
 藺晨の腕が、長蘇を抱き起こしてくれる。
 「わたしの相手までしたのでは、ほんとうにお前の体がもつまい」
 「藺晨……」
 強く抱き寄せられ、ようやく心が満たされる気がした。
 「いいから少し眠れ。このまま抱いていてやる」
 うん、と長蘇は小さくうなづいた。



   * * *



 己の克己心に、藺晨は呆れている。
 据え膳も食わず、こうしてただ甘やかせてやるなど、自分は聖人かと思う。
 それでも、疲れた顔に安堵の表情を浮かべて眠る長蘇が愛おしかった。とても、これ以上無理をさせる気にはならない。
 (まあ、わたしさえ辛抱すればすむ話だ)
 長蘇の唇から、藺晨、と甘い声が洩れた。
 「こいつめ」 
 そんな可愛らしい寝言を吐かれては、ますます骨抜きにされるではないか。

 足音がして振り返ると、花を抱えた飛流がいた。
 藺晨と、眠っている長蘇の顔を、飛流は代わる代わる見下ろす。そして状況を合点したのだろう。少ししょんぼりとうつむいた。
 「ごめんなさい」
 「ん?」
 飛流がこんなふうに素直に謝ってくることなど、珍しかった。
 「ちゃんと、大事にしてるのに」
と、飛流は言った。 
 「蘇哥哥、草臥れてる。飛流のせい」
 藺晨は牀台から腰をあげて立ち上がると、飛流から花を受け取った。水差しにそのまま花を突っ込んで長蘇の枕元に飾ると、藺晨は飛流を手招きした。
 「蘇哥哥はお前に抱かれて、いやな顔をするか?」
 そう問うと、少し考えて飛流は首を振った。
 「苦しそうか?」
 また、かぶりを振る。
 「―――優しい顔」
 藺晨は、ほっと息を吐いた。
 「ならいいだろう? お前が蘇哥哥を好きで、蘇哥哥もお前を好きなのだ。蘇哥哥が嫌がりさえしなければ、お前が気に病むことはない」
 「でも」
 「なんだ?」
 藺晨が首をかしげると、飛流は澄んだ目をまっすぐこちらへ向けてきた。
 「でも―――。藺晨哥哥が、我慢してる」
 「―――」
 藺晨は、目を瞬いた。
 驚いたなと思う。いっぱいいっぱいなはずの飛流が、こうして自分の心配をしてくれているのだ。
 「飛流と同じくらい、蘇哥哥を好きなのに。藺晨哥哥は、我慢してる」
 飛流の言葉に、藺晨は笑った。
 「わたしに気を使っているつもりか?」
 すると。
 何の屈託もなく、飛流は言ったのだ。
 「藺晨哥哥といるときの蘇哥哥、―――大好きだから」
 藺晨はもう一度、ゆっくりと瞬きをする。飛流は真面目な顔つきで言った。
 「藺晨哥哥といるとき、蘇哥哥、一番きれいな顔してる。蘇哥哥のその顔が、……一番好き」
 飛流のその言葉は、藺晨にとってひどく嬉しかった。
 そして。
 藺晨もまた、素直に言葉を返した。
 「藺晨哥哥は、飛流と一緒にいるときの蘇哥哥の顔も好きだがな」
 今度は、飛流が意外そうに目を瞠る。
 藺晨は微笑んだ。
 「飛流といるとき、蘇哥哥は優しい顔を、しているだろう?」
 飛流は目を瞠ったままでしばらくぼんやりしていたが、それから大きくうなづいた。
 「うん!」

 飛流といるときの、優しく穏やかな梅長蘇も。
 藺晨といるときの、美しく安らいだ梅長蘇も。
 おそらく、心から幸福でいてくれているに違いない。
 そして、梅長蘇の幸福は、藺晨と飛流にとっても、このうえない幸福なのだ。

 これからも。
 三人で寄り添って生きて行く限り、ずっと幸せでいられるに違いない―――。
 藺晨は温かい気持ちになった。

 
 
   * * *



 「どうした?」
 朝の膳を運んで行ったはずの黎綱が、膳を手にしたまま梅長蘇の部屋から出てきたのを見て、甄平は首を傾げた。
 「三人で―――、寝ておいでだ」
 「三人で?」
 甄平が思わず訊き返す。
 「相変わらずの川の字と言えなくもないが……」
 黎綱がぼそりと言った。
 飛流の長蘇への想いがあからさまになってから、三人一度に閨を共にすることはなかったはずだ。
 「……その川が、氾濫せねばいいがな」
 甄平が眉をひそめた。
 黎綱もしばし物思いに耽るふうだったが、やがて笑って甄平の肩を叩いた。
 「なに、大事あるまい。閣主と飛流はああ見えて宗主大事の一事で堅く結ばれているからな」
 「それもそうだ」
 甄平も苦笑いする。
 あの様子では、どうせ三人とも昼間で眠りをむさぼっているに違いない、と黎綱は思う。それもまた、よし。
 「宗主がお幸せなら、我らも」
 「ああ」
 ふたりは笑いあいながら、回廊をゆっくりと歩いて行った。
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