琅琊榜

医女 (『琅琊榜』 #54)

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特に何ということもなく書いてみました。

 その者は、医女であった。

 母は優しく美しかったが、武門の出で気性の激しい女でもあった。それがどうしたことか、景禹を産み落としてのち、病がちの身となったのだ。
 そんな母を案じた実家の林家から、医女が遣わされたのである。

 物心ついたときには、既にその者は母のそばにいた。
 身体が思うに任せず、母はしばしば癇癪を起した。母とは昔なじみであったその者は、そんな女主の身体を労り、辛抱強く慰めた。女ながら、その者の医術は宮中の侍医も舌を巻くほどで、さまざまな薬草に通じ、鍼や指圧の腕も優れていたらしい。
 母はその者を頼りにし、また妹のように可愛がりもした。そして、その者もまた、母を「姐姐」と呼んで慕ったのだ。
 気の強い母と、慎ましやかな医女は、まるで正反対の気性ながら、まことの姉妹のように睦まじかった。

 その者のそばへ寄ると、いつも清々しい薬草の香りがした。
 その者に撫でられると、沈んだ気持ちが温かくなった。

 幼かった景禹には医術の何たるかもわからず、医女とは妖かしの術を弄する者のことだろうかと考えたりした。なぜなら、その者といると顔が火照り、頭がぼんやりとして、ただなんとはなしに心地が良かったからである。


 医女であったその者が、やがて父の妻のひとりとなった。
 景禹はすでに、父がどのような身分であり、皇宮がどういうところか、充分に分別の付く年頃になっていた。
 医女が『静嬪』となっても、母とその者の往来は続き、それゆえ景禹もまた、静嬪の産んだ景琰を、同腹の弟のごとく可愛がったのである。

 景琰が生まれた翌年、いまひとり、大切な『弟』がこの世に生を受けた。林殊である。
 正確には『弟』ではない。
 林殊は母の兄である林燮と、父の妹である晋陽長公主との間に生まれた子供であった。要するに、従弟ということになる。
 従弟とはいえ、景禹と林殊は、同じ簫家と林家、双方の血を引く、濃い血縁者だ。
 かたや景琰は、その母・静嬪が林家に仕える医女であったこと、景禹の母である宸妃と姉妹のごとき間柄であったこともあり、景禹、景琰、林殊の三人は、生まれながらに固い絆で結ばれていたのである。
 芷萝宫の庭で、景禹はしばしば幼いふたりの弟の相手をした。それを微笑んで見守る静嬪からは、相変わらず清雅な香りがしたものだ。

 ―――この人は、父の妻である。

 その思いが、時おり景禹の胸をしめつけたが、しかし景禹は知っていた。静嬪の心が、まことはいずこを向いているのかを。

 芷萝宫の庭に静かに佇む一木。
 我が子である景琰からふと眼を離して、静嬪はたびたび、その樹を眺めていた。どんないわくがあるのかは知れぬ。ただ、その樹を通して静嬪が見ている相手に、景禹はおおよそ察しがついていた。

 それゆえに。
 幼い林殊が「兄長」と呼んで膝に抱きついてくるとき、景禹の胸はずきんと痛むのだった。
 
  
 
   *  *  *



 林殊の知る叔母は、いつも寝椅子に凭れかかって物憂い表情をしていた。
 従兄を産んで武功を失った叔母は、後宮での退屈な日々を持て余し、いつもどこか遠くを見ていた。
 「―――叔母上」
と呼んでも、叔母はしばしば気づきもせず物思いに耽っていた。
 「叔母上?」
 重ねて呼ぶと、ようやく叔母は顔をこちらへ向けて、
 「ああ、いま菓子を進ぜましょう。请坐」
とお座成りな笑みを浮かべた。

 従兄は、叔母によく似ていると人から言われる。そうだろうか、と林殊は思う。
 健康であった頃には、誰よりも明るく朗らかで、女だてらに馬を駈り、剣を振るい弓を引いた叔母であると聞く。
 信じられなかった。気の強さは昔も今も変わらぬらしいだが、青白い貌で物憂げにため息をつくさまからは、若き日の林楽瑤の面影を窺い知ることは難しい。
 叔母よりも。
 従兄・景禹は、静姨をずっと慕っているように見えた。
 成人し、己の屋敷を構えて、もう芷萝宫に出入りすることはなくなっても、景禹は足しげく母親のもとを訪れていたが、それは宸妃ではなく、母のもとを訪ねてくる静姨を待ち焦がれているように見えたのだ。

 「景琰がそれはもう、兄上様に遊んでいただくのだと言い張って」
 困ったように微笑む静姨を眩しそうに見て、景禹は慌てて景琰と林殊へ視線を落とす。
 「景琰。兄上様はもう立派にお父上のお務めをお扶けなさっておいでなのだから、あなたに構ってばかりはおれぬのですよ」
 我が子をやんわり窘めるその声を、景禹はうっとりとした面持ちで聞いていた。
 「よいのです。ここへは息抜きに参っているのですから、景琰らの相手をすれば気が紛れます」
 そう言って、景琰と林殊を膝に抱き寄せてくれる。
 「兄長。これから一緒に小殊の邸へ遊びに行きましょう」
 そうねだる景琰に、景禹は苦笑いする。
 「林府へは先日も行ったばかりであろう? そう度々訪れては、林主帥もお呆れになる」
 「主帥はまた遊びに来てよいと申されました」
 くっきりした眉を聞かん気に寄せて、黒目勝ちの大きな目で景琰が見上げると、大抵、景禹はほだされてしまう。
 無理もない、景琰にあんな顔でせがまれては、さしもの父・林燮とて目尻を下げて微笑むのだから。
 (まして景琰は、静叔母上の一人息子だもの)
 つい、そんなことを思い、林殊はすこし赤くなる。

 景琰はそうしたことに疎い。林殊は齢こそ景琰よりさらにひとつ幼いが、どういうわけか大人たちの交錯する思いに敏かった。静姨が父を見るときの、仄かに熱を帯びた眼差しに、林殊は物心ついたころから胸が騒いだ。
 父のほうは、どうだろう。
 静姨は、梁帝の側室である。後宮の奥深く暮らす静姨と、父が顔を合わせる機会はめったにない。ごくたまに皇宮の祭事で遠目に見かわすばかりである。たとえ間近に遭うことがあっても、主の妻に対して、父は恭しかった。
 静姨もまた、かつての恩人であり主であった父に、己れが嬪となった今も、決して礼を失することはない。
 互いに敬い、距離を保ちながら、それでもふたりの間には、林殊の目から見て、そこはかとない甘やかなものが漂っているのだ。

 父のそれは、大切な妹を慈しむように見えたが、静姨の眼差しにはもっと何かひたむきなものを感じる。けれどもそれは、ほんの一瞬のことで、静姨はすぐに何事もなかったように睫毛を伏せて、その熱を隠すのだ。

 林殊は知りたかった。
 静姨の秘めた思いの正体を。
 しかし、それを暴き立ててはならぬことも、幼い林殊は察していたのだ。
 父は母と睦まじく似合いの夫婦であったし、静姨は皇帝に従順であった。それでも、父は静姨の子である景琰をことのほか可愛がり、静姨もまた林殊に格別優しい。
 父と静姨、それぞれの思いを、理屈ではなく林殊はほぼ正しく嗅ぎ取っていたのである。

 皇帝の妹を母に持つ林殊は、母に連れられて後宮を訪れることも度々あった。成人すれば訪れることもかなわぬであろう芷萝宫は、幼い林殊にとって既になじみの場所であったのだ。
 林殊は、従兄である景禹と景琰のことが好きでたまらない。従兄たちは美しかった。景禹はずっと年上で、誰よりも賢く立派に見えたし、年の近い景琰は裏表がなく、いつも誠意をもって接してくれる。ふたりの従兄は皇子たちであり、林殊にとっては主筋に当たるが、その垣根はまだ幼さゆえにまだ曖昧なものであった。景琰と同じように、林殊もまた屈託なく景禹に甘えた。

 けれど。
 林殊はまた、景禹の微かな思いさえ、敏感に感じ取らずにはおれぬ。
 ふと、景禹の笑顔に影が差すのだ。自分を抱き上げるとき。
 景琰には、決してそんな顔は見せぬ景禹である。それが、自分に対しては、ほんの一瞬、景禹の表情がぎこちなく強張る。
 林殊はいぶかしく思った。自分が皇子ではないからか、とも考えた。
 そして、気づいたのだ。景禹が、叔父である林燮を見る目に宿す複雑な色に。
 (父上の子だから)
 だから、景禹は自分にわずかな隔たりを見せる。それは、景琰には決して気づかれぬ程度の、産毛の先ほどの溝である。
 景禹は名将たる叔父に、素直に尊敬と崇拝の念を示してはいる。だが。

 ―――大人は難しい
 林殊はそう思った。
 渠らの錯綜する想いに気づきはしても、共感するには、林殊はやはりまだ幼いのだ。
 ただ。
 少しだけ、寂しいのである。
 景禹の笑顔に、微かな翳の落ちることが。 




   * * *  
 
 
 

 かの人は、自分にとって何であるか。
 景禹は、時折そう思った。
 父の、妻。
 弟の、母。
 だからといって、自分の義母と言えるだろうか。
 自分には、産みの母がいる。
 ならば、静嬪は自分にとって他人か。
 それも、違う。

 自分が、静嬪をひとりの女性として想うことは、許されはすまい。
 自分が、静嬪を母のごとく慕うこともまた、許されはすまいと思えた。

 母・宸妃の膝の上で、安らいだ覚えが景禹にはない。
 むしろ、静嬪の優しい手に、頭を撫でられた記憶が慕わしい。
 だが、いまはもう、それもかなわぬ。
 ふと、風に乗って漂ってくる清い香りに、かの人の手の温もりを思い起こすばかりである。

 かの人の身は父のものであり、かの人の心は―――。
 いずれも、景禹の手には届かぬものだ。

 医女であってくれた頃は、よかった、と。
 景禹は繰り返し、そう思ったのである。




   * * *



 「兄長―――!」
 思わず、亡き従兄を呼んで、転寝から覚めた。
 「小殊?」
 すぐ隣に寝ころんでいた景琰が、首をもたげて気づかわし気な顔をする。
 「ああ‥‥‥、景琰」
 久し振りの出陣を控えて、気が高ぶっていたのだろうか。久しぶりに、景禹の夢を見た。
 「大事ないか? やはり出陣は無理なのでは」
 景琰が眉を曇らせる。
 梅長蘇は、かぶりを振った。そうして、永年思っていたことを漏らす。

 「兄長は―――。わたしを疎んじていただろうか」

 景琰が目を見開いた。考えたことも、なかったのだろう。
 「何を言うのだ?」
 梅長蘇は苦笑いした。
 「お前に訊いたわたしが莫迦であった」
 そう言って笑うと、景琰はむすっとした。
 ふと、宸姨を思い出した。
 「宸叔母上に似ていたのは、兄長ではなく―――-」
 自分であったのではないか、と梅長蘇は思う。
 宸妃・林楽瑤は、父・林燮の実の妹である。林燮に生き写しと言われた自分は、おそらく面差しも宸妃にどこか似ていたに違いない。そして、気性は更に。
 病を持つ身となって、あの頃の宸妃の苛立ちが手に取るようにわかるのも、皮肉な気がした。
 景琰は、不思議そうに梅長蘇を見ている。

 景禹は、母親にどこか壁を設けていたように思う。懼れていた、と言ってもいい。
 病がちの母親に、思い切り甘えることもならなかったのだろう。叔母は、ほんの少しでも気に入らないことがあると、すぐに癇癪を起し、そのあとは必ず数日寝込んだ。景禹は、幼い頃に何度も味わったはずだ。母親の気分を害し、体調を崩させてしまうことへの、罪悪感を。そうして学んだに違いない。母親との距離を。
 そして、その分―――。

 「お前、知らなかっただろう?」
と梅長蘇は笑う。なにを?と景琰はいぶかしんだ。
 「兄長が、静叔母上を慕っていたと」
 一瞬、景琰はぽかんとした。
 その顔が可笑しくて、梅長蘇は声を殺して笑う。
 「兄上が、か?」
 兄上が、母上を……、と景琰は幾度もぶつぶつ繰り返した。遠い記憶をまさぐっているらしい。
 いかにかつてを思い出そうとて、景琰にはわかるまい、と梅長蘇は可笑しくてならない。景禹は当時、よき兄、よき皇子であろうとし、事実そうであり―――、景琰の澄んだ眼には、兄や、母や、その他の人々、世界のすべてが、そうあらんとする姿のままに映っていたに違いないのだ。
 (わたしは少々、ひねくれた子供であったのかもしれぬ)
 己では屈託のない少年時代であったと思うが、景琰よりはいくらか穿ってこの世を見ていた。ありのままではない、その奥に潜むまことの世界が、少しだけ景琰よりは見えていたのだ。大人たちの笑顔の裏の、心の機微も、である。
 
 実は、と思う。
 景禹の、父皇に対する屈折した思いも、そのあたりから発してはいなかっただろうか、と。
 
 そして、更に思うのだ。
 叔母・宸妃は―――。本当に、静姨を可愛がっていただろうか。
 自分よりも若く、健康で、夫はおろか、我が子の心さえ奪っていった静姨を、身も心も病んだ宸妃が、果たしてまことに受け入れきれただろうかと。
 常に苛立ちを抱えていた宸妃が、いつ見ても凪いだ海のような静けさを湛えた静姨に、嫉妬しなかったといえるだろうか。
 今となっては、わからない。
 
 静姨という、医女上がりの、ひとりの嬪。
 さまざまな人々の、さまざまな思いが、この医女であったひとを巡って交錯していたのだと、今更ながら思うのみだ。
 この自分もまた、そうした大人たちの絡み合った思いの中に、巻き込まれていたにすぎない。
 そんなことを言ったら、景琰はますます混乱してしまうに違いなかったが。
 
 自分はじきに、あちらへ逝く。
 そうしたら、訊いてみたいと思う。父に、叔母に、従兄に。
 (いや―――)
 今更、という気がした。

 すべては、過ぎたことだ。
 それを暴いて、どうなるものでもない。
 
 自分にとって、静姨とは。

 『蕭景琰を産み、育ててくれたひと』。

 ―――それだけであった。

 
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~ Comment ~

>>ymkさま

ふ、深いですか(゚Д゚)

林殊は、良くも悪くも聡い子であったと思ってます。
でもその聡さをあからさまにしないだけの思慮深さもあっただろうし、
やっぱり心は幼くて、しかも「坊ちゃま」だったんだろうなと思います。
そういう大人びたところと幼い部分のアンバランスが
大人から見ても、すごく魅力的だっただろうなあって。

戦英→蘇先生!!
それは自分の中でアリだと思っていて、
そこはかとなくは匂わせる書き方をしてきたこともあったと思うのですが、
そうですねえ、戦英目線で書いてみるのも悪くはなさそうですね!!
ありがとうございます♡

>>ymkさま

なんとなーくイメージはわいてきたので、そのうちアップするかもしれません。
気長に待ってやってくださいませ・・・・・(笑)
すぐに掻き上げることもあれば、何カ月か寝かせてから
突然一気に仕上げる(医女はそうでした)こともあるので・・・・・(^^;;;;

>>ymkさま

(^O^)ノ

あ、ブツは、本日発送です♡

>>ymkさま

いえいえ、こちらこそー(^O^)

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