琅琊榜

蝉蜕7 (『琅琊榜』 #54以降)

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久々の蝉蜕です♪

 「蒙大哥」
 どこから呼ばれたかわからず、きょろきょろする蒙摯が可笑しくて、梅長蘇は思わず笑った。
 その笑い声に、ようやく蒙摯がこちらを振り仰ぐ。
 「しゃ、小殊っ!」
 ぎょっとした顔で、蒙摯は叫んだ。
 「お前、なんでそんな所に……」
 蒙摯の目が、大きく見開かれた。
 「う、動くんじゃないぞ。今、行くから……」
 「それは困る。蒙大哥が乗ったら、枝が折れてしまう」
 長蘇は自分の座っている枝を、わざとゆさゆさ揺すって見せた。
 琅琊閣の手前、谷間を見渡せる崖の上に立つ大木の枝に、長蘇は腰かけていた。空と言い、渓谷と言い、ここからの眺めは雄大で気持ちがよい。飛流に頼んで度々連れてきてもらう。
 その飛流は、今しがたどこからか帰ってきた鳩を追っていって、姿が見えない。
 「おい、揺さぶるんじゃない! 」
 蒼くなっている蒙摯に、長蘇は叫ぶ。
 「大丈夫だ、今降りる。ちゃんと受け止めてくれ」
 身を乗り出した途端、蒙摯が喚いた。
 「うわああっ、よせ、やめろ!」
 蒙摯の制止など、皆まで聞いてはいなかった。
 枝に弾みをつけて、宙へ身を躍らせる。
 風が、心地よい。
 かつて。
 林殊であった頃には、鍛錬の甲斐あって内功も深く、軽功とてそこそこ使えたものであった。
 武功を失い、四肢は衰えても、身体は翔ぶことを忘れていない。
 風に逆らわず、ふわりと身体を乗せる。
 何もかもから解き放たれた心地だった。
 目を丸くして両手を広げた蒙摯が、もうすぐそこだ。

 どさり、と無事に蒙摯の腕の中へ納まった。
 「久しぶりだな、蒙大哥」
 「小殊ーーーーーーーーッ‼」
 にっこり笑って見せた途端、蒙摯は太い眉を怒らせて怒鳴り立てた。
 「なんという真似をするのだ! 万一受け損なったらどうする!」
 すとんと自分で蒙摯の腕から降りた長蘇は、苦笑いする。
 「蒙大哥がわたしを受け損ねるはずがないだろう? 第一……」
 悪戯っぽく、梅長蘇は蒙摯の顔を流し見た。
 「貴方の軽功なら、枝に触れることなくわたしを抱えて下ろすくらい雑作もなかったろうに」
 「っ! それは……」
 初めてそれに思い当ったと見えて、蒙摯は言葉を失っている。梅長蘇は意地悪く微笑んだ。
 「狼狽えるあまり的確な判断が出来ぬようでは、戦場で命取りになるぞ?」
 「むっ、す、すまん……」
 しょげかけて、蒙摯ははっと気を取り直す。
 「いや、それとこれとは!」
 憤然とする蒙摯の腕をとって、梅長蘇はくすくす笑った。
 「小言はあとで聞く。立ち話も何だからな」
 「う、うむ……」
 蒙摯に肩透かしを食わせて、梅長蘇は琅琊閣と棟続きの藺府へと歩き出した。 
 

   * * *


 「小殊は随分元気になったものだな」
 蒙摯は茶杯を傾けながら、庭を見遣った。梅長蘇は、飛流の人形遊びの相手をしてやっている。時折、梅長蘇と飛流の笑い声が部屋まで聞こえてきた。
 藺晨が鼻で笑う。
 「当たり前だ。このわたしが、毎日気を注いでやっているのだからな」
 そう言って、悠然と茶をすする。
 「―――飛流の気もそれなりに使えることがわかったことだし、安泰だ」
 藺晨の言葉に、蒙摯は少し前のめりになる。
 「飛流も? ならばわたしの気も、いつでも使ってくれて構わん!」
 「・・・・・・」
 藺晨が黙ったので、蒙摯は少し焦る。
 「な、なんだ?」
 「―――いや」
 渋い顔で、藺晨は茶をもう一口すすった。蒙摯は眉間に皺を刻む。
 「・・・・・・わかったぞ。わたしの莫迦がうつるとかなんとか思ったのだろ」
 腰を浮かせた蒙摯を、藺晨はゆったりと見上げる。
 「ちょっと逢わぬ間に、随分賢くなったな」
 やんわりと肯定されて、蒙摯は鼻息を荒くした。
 「おぬしも小殊も、わたしを侮りすぎる! わたしはこう見えて―――」
 「禁軍大統領にして、次の皇帝の右腕」
 藺晨が、厳かな調子でそう言ってやる。
 「そ、―――その通りだ」
 なんだ、わかっているではないか、と鼻白みながら蒙摯は今一度、座に腰を落とした。
 「で、おぬしのその主―――、次の皇帝陛下は、近ごろいかがなされているのだ?」
 揶揄を含んだ調子で藺晨がそう尋ねると、蒙摯は、ああ、とうなづいた。
 「殿下なら、精力的に政務をこなしておいでだ。太子妃殿下との夫婦仲もよく、太子妃殿下におかれてはどうやらご懐妊の兆し有りとのことであった」
 「ほう。それはそれは、めでたい」
 大して面白くもなさそうに、藺晨はくすりと笑って見せた。
 「とはいえ・・・・・・」
と、蒙摯が少しばかり肩を落とす。
 「わかるだろう? 殿下は片時たりとも小殊のことをお忘れにはならぬのだ」
 そう言って、蒙摯はまるでここが宮中であるかのように、幾分声を落とした。
 「殿下の私房の奥には、太子妃殿下さえ入れぬ小部屋があると聞く。数日に一度、掃除に入る太監から漏れ聞いたところによれば、壁には古い大弓がかかり、書架に大玉の真珠が飾られているとか。いずれも小殊の形見にちがいあるまい」
 鹿爪らしい顔でそう言った蒙摯を、藺晨はすこし眉を寄せて眺めていた。
 「―――涙ぐましい話だな」
 呆れたように首を振る藺晨に、蒙摯が憤慨する。
 「茶化すな。殿下がお気の毒でならん」
 藺晨は不快げに眉を顰めた。
 「わたしに言うな。長蘇に言え」
 「言ってもいいのか?」
 蒙摯が意外そうに目を丸くする。藺晨は顎をあげて見せた。
 「構わぬさ。好きにしろ」
 すると、蒙摯の方が困惑したかのように溜息をついた。 
 「―――小殊が、避けたがるのだ。……殿下の名を出すと、話をそらす」
 藺晨は少し眉を寄せて、明後日の方を向いた。
 「……そんなことは、知らん」
 「そなたの知恵でなんとかしてくれ」
 蒙摯が手を合わせたので、藺晨はますます顔をしかめる。
 「わたしを頼るな。わたしは麒麟の才子でもなんでもないぞ?」
 「宮羽の件では、たちどころに知恵を授けてくれたではないか」
と卓越しに身を乗り出してきた蒙摯の顔を、藺晨は扇子を広げて制した。
 「あの時はそうでもせねば、貴様たちがまた下策に走って長蘇の病を重くしかねなかったゆえ、しかたなくだ」
 「此度も頼む」
 扇子を払いのけて、蒙摯が食い下がる。藺晨は顔をそむけた。
 「なにゆえ、わたしが蕭景琰のために? そんな義理はないぞ?」
 「そこをなんとか」
 拝む蒙摯に、藺晨は溜息をついた。
 そして、言う。
 「―――簡単だろう? おぬしが漏らせばすむ話だ」
 「は?」
と、蒙摯は目を瞠る。
 藺晨は顔を背けたまま、続けた。
 「……林殊は生きている。無事に元気でやっているから安心せよと、おぬしの口から教えてやればよい。―――それだけで、皇太子の憂いはたちどころに消える」
 そう言った藺晨に、蒙摯は少しぽかんとしていた。
 「―――よいのか、それで」
 どことなく遠慮がちに、蒙摯が尋ねる。その気遣いが癪に触って、藺晨は殊更に声を張った。
 「よいとも。何の不都合が?」
 「ああ、いや……」
 蒙摯はそれ以上、何も言わなかった。曖昧な表情で「そうだな」とうなづき、茶を啜ったのだった。


   * 


 「蕭景琰に、子ができるらしいぞ」
 空が白み始める頃、腕の中で半ばまどろんでいる長蘇に、藺晨はそう告げた。
 長蘇が眠そうに瞼をひらく。そして、その眼を和ませた。
 「・・・・・・それはめでたいな。静姨もさぞかしお喜びだろう」
 そう言って、長蘇は藺晨の胸元へ額を擦りよせると、小さく欠伸をしてまた目を閉じた。
 「―――それだけか?」
 尋ねると長蘇は、ん……、と短く声を漏らしただけで、そのまま寝息を立て始めてしまう。
 藺晨はそっと溜息をつき、長蘇の髪を撫でた。
 
 

   * * * 



 ある日、琅琊閣にひとりの客があった。
 藺晨に呼ばれた梅長蘇は、客の姿を一目見るなり、顔をこわばらせた。
 「お懐かしゅう存じます、蘇先生」
 そう言って拱手した男は、列戦英にほかならない。
 梅長蘇は眼差しを泳がせ、そして戦英を見ずに問うた。
 「なぜお前がここに……」
 そう口にしてから、そっと傍らを盗み見る。藺晨は黙って座を立ち、部屋を出て行った。
 「皇太子殿下からの遣いとして参りました」
 面を伏せた戦英が言い、梅長蘇は否応なくその顔へ視線を戻す。
 「殿下……、景琰の?」
 胸の奥が、ざくざくと痛む。
 「は。―――蘇先生の無事を確かめてくるよう、言いつかっております。よくぞ、よくぞご無事で・・・・・・」
 戦英は顔を上げ、まるで景琰の目そのものとなったかのように、感慨深げにじっと長蘇を見つめた。
 いたたまれず、長蘇は睫毛を伏せる。
 景琰は。
 知ってしまったのだ。
 自分が、ここで、こうして、生きていることを。
 ―――生きていながら、黙っていたことを。
 「景琰が……。景琰は、殿下は、いつわたしがここにいるとお聞き及びに?」
 尋ねる声が、思わず震えた。
 「……つい三日前、蒙大統領から打ち明けられたと」
 梅長蘇は、はっとする。
 先日、ここへ来た蒙摯が、そのすぐあとに景琰に打ち明けたというのか。
 これまで黙っていてくれた蒙摯が、いまになって景琰に漏らしたとなれば、誰の入れ知恵か大方察しはつく。
 (藺晨―――?)
 なぜ、いまさら。
 長蘇の胸がざわつく。
 「蘇先生?」
 言葉を促すような戦英の声に、長蘇は我に返った。
 「……殿下は、なんと?」
 戦英は、黙って首を振った。
 「―――ただ、ご無事なお姿を見てまいるようにと、申しつかりました」
 それを聞いて、長蘇はふっ、と吐息を漏らした。
 「戦英」
 「は?」
 長蘇のどんな表情も見逃すまいと一心に見つめていた戦英が、すこし緊張した面持ちになる。
 「景琰に―――。伝えてくれ」
 「……はい」
 長蘇は目を閉じて深く息を吸い、それからゆっくりと眼を開けた。
 「―――よき父になれ、と」
 かつて、景琰の兄・景禹は言った。
 『父、子を知らず。子、父を知らず』と。
 決して、我が子にそのような言葉を漏らさせぬように、と思う。全ての不幸は、そこから始まったのだから。
 「―――はい」
と、戦英は悲し気にうなづいた。
 「父と子が、互いを見失うことのないように……。よき父、よき君主たれと」
 「畏まりました。間違いなく、お伝えいたします」
 一礼して立ち上がろうとした戦英を、長蘇はしかし思わず引き留めた。
 「いや、待て」
 「―――?」
 いぶかしむ戦英に、長蘇は苦笑する。
 「よい。いま言ったことは忘れよ」
 そんな口幅ったいことは言わずともよい。景琰が、誰よりもよく心得ていよう。
 それよりも。
 「―――ただ一言。わたしは元気に暮らしている、とだけ」
 梅長蘇は微笑み、戦英は畏まって頭を垂れた。
 「―――承知」
と。


 「皇太子め。随分、痩せ我慢をしたものだな」
 黎綱が戦英を送ってゆくのをぼんやり眺めていた長蘇に、いつの間に戻ったか藺晨がそう呟いた。
 長蘇は、藺晨を見ずにすこしだけ苦笑した。
 その苦笑を何と見たか、藺晨が言う。
 「おまえも、―――それでよかったのか?」
 長蘇の眉が、微かに寄せられた。気づかず、藺晨が言葉を重ねる。
 「折角、機会をやったのに」
 肩をすくめた藺晨に、長蘇はゆっくりと歩み寄る。
 「藺晨―――」
 聞きたくなかった。そんな言葉は。
 聞きたくなど、なかったのだ。





   * * *

       


 書簡に目を通している藺晨に茶を出しながら、黎綱はちらちらと相手の顔を見た。
 「なんだ?」
 茶杯を手に取った藺晨は、片眉を少し上げて黎綱へ目を向ける。
 「ああ、いえ」
と顔の前で手を振って見せた黎綱だったが、思い直して口を開く。
 「その、近ごろお仕事熱心ですね」
 は?と藺晨が軽く睨んでくる。黎綱は思わず身を固くしたが。
 「仕事熱心で、何が悪い」
 べつだん声を荒げるでもなく、藺晨は静かにそう言って、また書簡へ目を落とした。
 拍子抜けして、黎綱が言葉を失っていると、逆に藺晨のほうから問いかけてくる。
 「長蘇は―――、変わりないか?」
 今度は黎綱のほうが「は?」と尋ねた。
 変わりないかとは、どういうことか。一つ屋根の下に暮らして、藺晨が誰よりも梅長蘇と長く接している。近ごろは特に、睦まじく見えた。誰よりも梅長蘇の心に寄り添っているはずの藺晨が、今更する質問とも思えなかったのだ。
 ただ、変わりがないか、と言われると、ない、とも言えぬ黎綱である。
 藺晨と梅長蘇は、そもそも仲が悪いわけではない。むしろ、もともと仲は良いのだ。それは甄平とてわかっている。だが、寄るとさわると二人は軽口を叩き合い、喧々諤々とやりあう。藺晨の騒がしさは、並大抵ではなかったし、梅長蘇は藺晨に対しては殊更につれない素振りをとりたがった。それは、二人の戯れ合いのようなものではあったが。
 ところが。
 近ごろ、どことなく様子が違うのだ。
 梅長蘇は、藺晨に対してひどく優しい。いちいち揚げ足をとることもないし、藺晨が喜ぶことなら何でもしてやろうとする。藺晨のほうも、無駄に梅長蘇の言葉を茶化したりもせず、穏やかに言葉をかわすようになった。
 子供が急に大人になったような、と黎綱は思うのだ。
 無論、三十をとうに越えた二人が、大人であることに間違いはないのだが。
 ともあれ、梅長蘇は確かに変わった。梅長蘇の藺晨に対する素振りが、変わったのだ。

 藺晨が溜息をこぼしたのに気づいて、黎綱は少しばかり驚く。この男が、こんなふうに人前で弱みを見せることなど、滅多にないのだ。
 「気が、な」
と、藺晨は言った。
 「うまく、通わぬのだ」
 「?」
 一瞬、意味がわからずに、黎綱は怪訝な顔をする。
 「気を注ごうとしても、これまでのようにすんなりとゆかぬ」
 「宗主が拒まれておいでなのですか」
 「いや、そうでもないようなのだが」
 そこまで言って、藺晨は苦笑いした。
 「わたしの勘違いやもしれん。忘れろ」
 「……はあ」
 確かに、梅長蘇は一時に比べれば大人しくなったが、さりとて寝込むほどでもなく、穏やかに過ごしている。
 何の心配もないはずだ―――、と黎綱は思う。
 だが。
 藺晨の顔が、晴れる様子はなかった。
  
 
 そしてその日、黎綱は梅長蘇からも、同じような問いかけをされることになったのだ。
 「近ごろ、藺晨をどう思う?」と。
 「―――どう、と言われましても」
 困って、黎綱は言葉を濁した。
 梅長蘇は、飛流が摘んできた花を活けながら少し肩を落とす。
 「心が」
と、梅長蘇は言う。
 「うまく、通わぬのだ」
と。
 「心、でございますか? 気、ではなくて」
 「気?」
 梅長蘇は花をいじる手を止めて、黎綱を振り返った。
 「―――藺晨が、そう言ったのか?」
 「あ、いえ、その」
 黎綱は口ごもったが、今更違うとも言えぬ。
 「すんなり注げぬと、訝しんでおいででしたので」
 黎綱の言葉に、梅長蘇は少しうつむいた。
 「それでは少なくとも、藺晨の身体の具合が悪いというわけでは、ないのだな」
 わずかにほっとしたような声で、渠はそう言った。梅長蘇のほうでも、違和感があったのだろう。藺晨の不調のせいかと、内心案じていたらしい。そうではないとわかっていくらか安心したようだが、それでも尚、梅長蘇の表情は浮かない。
 ふたりの間に、目に見えぬ溝があるのだと、黎綱はようやく感じたのだった。
 
 

   * * *



 藺晨は唖然とした。 
 「都へ、―――行くだと?」
 気を注ぎ、情を交わしたあとで、長蘇がそう言ったのだ。
 やはり、と思う。
 (やはり、都へ帰りたいのか)
 戦英に会って、里心がついたのだろう、と。

 長蘇が景琰を案じていることはわかっていた。だが、長蘇は決してそれを口にしない。この自分に遠慮してか、あるいは己を律しようとしているのか。いずれにしても、長蘇は蒙摯が訪ねてきても、都のことを尋ねぬし、蕭景琰の近況を訊こうともしない。 
 初めは、それが嬉しかった。ここでの暮らしを大切にしてくれているのだと、その心根を愛おしく思ったのだ。
 だが、反面、つらそうに見えてしかたがなかった。長蘇が蕭景琰の名を避ければ避けるほど、その思いの強さを感じずにはいられない。振りきることが出来ぬからこそ、その名を聞くまい、口にすまいとするのではないか。ほんの少しでもその名に触れれば、心が引き戻されてしまうかもしれぬことを、懼れているように見えた。
 目を、耳を、口をふさいで、ただ時を重ねてやり過ごそうとしている長蘇が、哀れでならなかったのだ。
 それでいながら、藺晨自身にも余裕がなかった。景琰のことを口にのぼせば、二人の絆が壊れそうで、都から目を背けて暮らしてきた。 
 だが、ずっと。
 胸に痞えていたのだ。

 ―――自信はあったのだがな、と藺晨は溜息をつく。
 絆を言うなら、蕭景琰に劣りはせぬと。
 あの十二年、自分と長蘇との間に育まれた絆を 藺晨は固く信じていた。そして、この幾月、共に暮らしてその思いはさらに深まったのだ。今はもう揺るぎないもので結ばれていると、そう思った。
 それゆえに、蒙摯を唆して皇太子に全てを明かした。長蘇の無事を。
 それで長蘇の心が晴れるならば、と。
 とはいえ、この数日、さすがの藺晨も気がもめてならなかったのだ。
 皇太子は、長蘇は、どうするだろうか。
 長蘇を信じながら、それでも、もしも長蘇が都へ戻りたいと思うなら―――。行かせてやろうと思っていた。

 (かなわぬな、蕭景琰には)
と思う。
 少年の頃から。
 いつも、いつも。
 かなわなかった。
 藺晨は寝返りを打って、長蘇に背を向ける。

 その背に。
 ふわり、と長蘇が身体を添わせてきた。
 「行くなと、―――言わぬのか」
 細い声で、長蘇がそう尋ねる。
 藺晨は、黙っていた。
 全力で、長蘇を愛おしんできたのだ。
 それでも、長蘇が行くと言うなら、この上どう引き留めよと言うのか。
 「藺晨―――」
 ぎゅっ、と、長蘇が、背中にしがみついてくる。
 「わたしは、―――そんなに信じられぬか?」
 切なさの滲んだ声音に、藺晨はどきりとする。
 「おまえだけのものだと、―――そう言ったはずだ」
 そうだ。
 確かに、長蘇は、そう言った。
 夏江に穢された、あのときだ。
 その言葉を、藺晨は当然信じた。いや、今も強く信じている。長蘇の心に、偽りなどない。
 しかし。
 (相手が蕭景琰となれば、話はべつだ)
 たとえ長蘇がどれほど自分を愛してくれたとしても、あの男への気持ちは、また別のところにある。
 そうとわかっていても。
 信じていればこそ。―――明かしたのだ。
 長蘇の心の荷を、軽くしてやりたい一心で。
 が。

 「わたしを、―――試さないでくれ」
 震える声で、長蘇が言った。
 (試す―――、だと?)
 ずきん、と胸にその言葉が刺さる。
 思わず。
 藺晨は身体ごと振り返った。
 「ちが―――」
 否定しようとした藺晨の言葉に、長蘇の声がかぶる。
 「試さずとも、わたしの居場所は、もうここだけなのだ」
 真っ直ぐな目で、長蘇が見つめてくる。
 「かつての林殊は、すべて都へ置いてきた―――」
 わかっている。そんなことは、とうに。 
 「わたしは、空っぽでここへ戻ってきた」
 そうだ。
 そうして、その空っぽの身体と心を、藺晨は全霊をかけて満たしたのだ。それは、自分が一番よく知っている。
 「無から始めて、わたしは今、満ち足りている。いまさら、引き戻されはせぬ。いまさら―――、戻ろうとは……」
 皆までは言わせなかった。藺晨は手荒く長蘇の顔を両手で包み込むと、その目を覗き込んだ。
 「勘違いするな」
 試したりなど、せぬ。
 愛しい者の心を試すような真似は、決してすまい。
 ただ。
 「お前を、楽にしてやりたかったのだ」
 藺晨は、長蘇の身体を抱きしめた。
 「好きなときに、好きなだけ、蕭景琰の思い出話をすればよい。文も書けばよい。会いに行ってもかまわぬ。―――名さえ口にせず、辛抱することなど、ないのだ」
 もっと早く。
 言葉に出してそう言ってやればよかったのだ。そう言ってやりさえすれば。
 「―――藺晨」
 腕の中で、長蘇が身じろぐ。
 「辛抱など、……しておらぬ」
 長蘇はそう言った。
 「わたしの中で、すでに折り合いのついたことだ。だが―――」
と、少し声を落として、長蘇は胸にすがってきた。
 「お前がそれほどまでに案じてくれていたなら……、もっとはっきりと、決着をつけるべきだった。景琰のためにも……」
 すまぬ、と長蘇は小さな声で詫びた。
 「景琰に、わたしが生きていると伝えておらぬことだけが、心苦しかった。いずれ、伝えるつもりではいたが……」
 長蘇は少し口ごもってから、藺晨の背へ腕を回してきた。
 「お前が景琰に知らせたと知って……」
 正直、狼狽えたのだ、と長蘇は言った。
 「わたしにとっては既に折り合いのついたことでも、景琰の心まではわからぬ。無事を知らせて安心させてやりたくはあったが、その先を考えると……」
 却って、景琰を傷つけることになりはすまいかと、長蘇はそう考えたのだろう。藺晨はいたわるように、長蘇の髪を撫でてやる。
 だが、と長蘇はすこし笑った。
 「景琰も、人の親になる。父となり、君主となる。わたしが案じてやる必要など、もうありはすまい。それよりも、むしろ―――」
 長蘇の細い腕に、力がこもる。
 「お前の心が、わからなかった。―――試されているのではないかと、そう思ったら、苦しくてどうしようもなかった」
 長蘇の爪が、藺晨の背に食い込んだ。
 「伝えたかったのだ。お前だけを、見ているのだと」
 藺晨は苦笑いする。
 「このところ、やけに優しかったのはそのせいか」
 顔を覗き込むと、長蘇はすこし赤くなってうなづいた。
 「―――それなのに」
 悄然として、長蘇は声を落とした。
 藺晨は溜息をつく。
 確かに。
 長蘇に優しくされればされるほど、不安が募ってならなかった。長蘇の真意を測りかねて。
 二人の絆を信じていると、そう思う一方で、やはり不安でならなかったのだ。
 互いに相手を思いやっているつもりで、空回りしていた。
 気を通わせづらかったのは、そのせいだ。思いがすれ違って嚙み合わなかったのだ。

 「―――悪かった」
 言葉にしなければ、わからないこともある。
 折角の思いやりが、たった一言添えることをためらったばかりに、互いを遠く引き離す。
 藺晨はそっと長蘇の唇に口づけを落とした。
 浅く啄んで離れる唇を、長蘇が名残惜し気に目で追う。そして、言った。
 「―――行っていいか? 金陵へ」
 窺うような眼差しを、藺晨は笑って見返した。
 「待っていて、よいのだろう?」
 そう問うと、長蘇も小さく笑う。
 「待っていてくれねば困る。わたしの帰るところは、ここだけなのだから」
 そう言って、長蘇は自分から短く口づけてきた。
 「今すぐにじゃない。景琰に子が出来たら―――。会いに行きたい」
 藺晨は眉根を上げた。
 「赤子にか? それとも、皇太子に?」
 「―――両方だ」
 苦笑いして、長蘇は言う。
 「そして今度こそ、ちゃんと笑って終わりにしてくる」
 「―――ああ。そうしてくれると、わたしも安心だ」
 もう一度抱きすくめると、長蘇は小さく声を立てて笑った。
 「もう決めたのだ。ここが、わたしの家だと。この先、追い出そうとしても、もう知らぬからな」
 「随分、可愛げのあることを言うではないか」
 思わず笑いあって、そして抱きしめあう。
 「くそ。我慢がならんな」
 「え?」
 長蘇が怪訝そうに首を傾げた。
 「もう一度、やり直しだ」
 そう言って、藺晨は長蘇の耳を甘噛みする。
 今宵は今一度。
 はじめから夜の営みをやり直したかった。
 「莫迦。朝になってしまうぞ」
 「構うものか」
 藺晨は、長蘇の細い体に馬乗りになった。重みをかけぬよう気遣いながら、優しく身体を沈めてゆく。
 「藺晨―――-」
 甘えるような長蘇の声を聞きながら、藺晨は幸せな夢に溺れて行った―――。



   * * *


 朝になっても、藺晨と長蘇は起き出してこない。
 閨の外から声をかけても、うんとも寸ともいわぬふたりを案じて、黎綱は飛流をけしかけた。
 飛流は少し嫌な顔をする。
 「藺晨哥哥に、ぶたれる」
 「大丈夫だ。わたしに言われたと言え」
 膨れながらも、飛流はしぶしぶ臥室の戸を開いた。
 「どうだ?」
 飛流の肩越しに、黎綱がそっと覗き見る。
 「―――寝てる」
 飛流が首を傾げて指さした。
 寝乱れた褥で、ふたりは抱き合ったまま眠っていた。
 健やかな寝息が、聞こえてくる。
 「……なんだ。心配して損をした」
 黎綱がつぶやいた。
 ふたりの幸せそうな寝顔に、思わず黎綱の顔にも苦笑が浮かぶ。
 どうやら、ふたりのわだかまりは解けたらしい。
 ということは―――。
 「また、賑やかになりそうだな」
 黎綱はため息混じりに笑った。
 それもまたよし、と思う。
 今では、それこそが、琅琊閣のあるべき姿のようにさえ思えるのだ。

 ととと、と飛流が部屋に駆け入った。
 「おい」
と黎綱が止める間もない。
 飛流はふたりの間に割って入って、褥に潜り込んでしまった。
 「あぁ―――」
 黎綱は顔を覆ったが。
 ほんの一瞬、藺晨が不機嫌そうに唸っただけで、結局、なにごともなかったように三人は一塊になってしまった。、

 「―――まったく」
 黎綱は呆れ、それでもしばらく三人を眺めていた。

 そして、黎綱もひとつ欠伸をして、我失の戸をそっと閉めたのだった。
 
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