琅琊榜

宝宝 3 (『琅琊榜』)

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宗主カワイソ祭り盛り上がり中

「―――あそこで、お前の帰りを待つのはつらい……」
と、林殊は言った。だから、林府へは帰りたくないと。
 「……蘇宅にいた頃はよかった。たとえ会えずとも、密道の向こうにお前がいると思うだけで、心が安らいだのだ。―――されど、林府でお前を待つのは……。帰らぬお前を待つ夜は、あまりに長くつらい……」
 盛り上がった涙が、林殊の眼から溢れ出した。
 「小殊……」
 その涙を、景琰は呆然と見ていた。
 林殊はゆっくりと瞼を閉じる。
 「―――謀士のままで、いればよかった……」
 え? と景琰が問い返す。
 「妻になど、―――ならねばよかった」
 景琰は、驚きに目を瞠る。
 よもや、林殊の口からそんな言葉を聞こうとは、思いもしなかったのだ。
 閉じた林殊の眼からは、あとからあとから涙が流れ出た。
 「つらくて、―――つらくて、どうにもならなかった。……子など成せずとも、お前の政務の助けをしていた頃は、共に成し得た仕事こそが我が子のようなものであったというのに。―――林府で暮らすようになってからは、……わたしはただの穀潰しだ」
 「莫迦なことを……」
 景琰は窘めようとしたが、林殊の悲しい眼差しに何も言えなくなる。
 「―――お前は、毎日ただ待っているだけでよいと言ってくれた。嬉しくて、……幸せだった。―――だが、お前になじられて、思ったのだ。お前に見放されては、生きる甲斐もないと」
 林殊は悲し気に笑った。
 「蘇哲であれば、どれだけ詰られ、蔑まれても平気であったのだ。蘇哲は仮の姿、わたしは林殊だ。お前は林殊のことを決して疎んじたりはしない。林殊を誰よりも大事に思っていてくれる。そう信じていられた―――。だが、今のわたしは表も裏もなく林殊だ。その林殊をお前に蔑まれたのでは、そばに留まることなどできはせぬ」
 それほどまでに林殊を傷つけたとは、思いもしなかった景琰である。林殊の子供じみた悪戯―――、それを窘めたに過ぎなかったのだ、景琰にとっては。
 「―――知らなかった。知らなかったのだ。お前がそんなにも苦しんでいたなどと」
 景琰がそう詫びると、林殊は少し微笑んだ。
 「お前のせいじゃない、景琰。こうして夢で訪れてくれるだけで、わたしは幸せだ」
 病で弱った林殊には、夢と現実の区別が既についていない。夢と信じて、日頃は決して明かさぬ思いを吐露し、夢と信じて、甘えてくる。
 「―――抱き締めてくれ。この身が夢から覚めぬように。……しっかりと抱いていてくれ。もう二度と、目覚めずにすむように……」
 いまが一番幸せなのだと、林殊の穏やかな微笑がそう語っていた。
 「小殊―――」
 そのまま眠り込んだ林殊の身体を、景琰はただ抱きしめていた。


 翌朝、毛布にくるんだ林殊を抱いて臥室を出てきた景琰に、黎綱たちが狼狽えた。
 「殿下、どうなさるおつもりなのです」
 黎綱に問われて、景琰は振り返りもせずに答えた。
 「連れて帰る」
 黎綱と甄平は、思わず顔を見合わせる。
 「連れて帰るとは、まさか金陵まで?」
 「宗主のお身体がもちません」
 慌てるふたりに景琰は全くとりあわず、腕の中で眠る林殊の顔を覗き込んだ。林殊は柔らかな微笑を浮かべている。
 「―――もつかもたぬか、賭けだ。ここへ置いて帰ったとて、このままでは命が細るばかりであろう」
 行くも留まるも危ういのであれば、じっと留まってることなどできはせぬ景琰である。そうやって、数多の戦を切り抜けてきたのだ。
 「晏太夫、殿下を止めてください」
 黎綱は、晏太夫に助けを求めたが。
 「―――いや。いちかばちかやもしれぬ」
 「晏太夫までそのような……!」
 すっかり困惑した黎綱に、晏太夫が厳しい声で言った。
 「馬の用意をせよ。わしも殿下に続いて金陵まで駆けねばなるまい」
 「晏太夫―――。馬にお乗りになれるので?」
 甄平の問いに、晏太夫が渋面を作る。
 「当たり前だ。馬ひとつ御せずに、江湖の医者が務まるものか」
 黎綱と甄平が呆気にとられる中、景琰は既に林殊を抱いて回廊を足早に去ってゆくところだった。



   * * * 



 「ここは……?」
 景琰の腕の中で、林殊は尋ねた。
 「靖王府だ」
と、景琰が優しく答える。 
 廊州から駆け通しに駆けて、ようやく戻ってきた。私房へと運ぶ途中の回廊で、林殊が目を覚ましたのだ。
 靖王府と聞いて、林殊は辺りを懐かし気に見回した。
 「靖王府……。いつ来ても……変わらぬな」
 そう言って微笑み、林殊はまた深い眠りに落ちた。


 「今夜が峠かと」
 廊州から景琰に付き従って馬を飛ばしてきた晏太夫は、息ひとつ乱すでなく、林殊の脈をとってそう言った。
 景琰は笑みを浮かべた。
 「大丈夫だ。決して逝かせはせぬ」
 林殊の手をとり、景琰は言う。
 「小殊とて、まことはわたしのそばにとどまりたいはず。わたしも、決して離しはせぬ」
 そうだ。
 もう決して、この手を離してはならぬ。
 景琰は、林殊の細い手を強く握りしめた。



   * * *



 夜が明けて、寝所から出てきた景琰に、皆が群がった。
 景琰の憔悴した様子に、誰もが不吉な予感に襲われる。
 「―――宗主は?」
 甄平の問いに、皆、固唾をのんで景琰の答えを待った。
 景琰はうっすらと微笑む。
 「……大丈夫だ。どうやら持ち直した」
 ほっと、一同が胸を撫でおろす中、黎綱は怪訝に思った。持ち直したなら、なにゆえ景琰の表情は冴えぬのか。
 「……お目にかかっても?」
 「ああ。構わぬ。―――目を覚ましておるゆえ」
 曖昧な微笑を浮かべて、景琰がうなづく。
 黎綱、甄平、そして戦英が部屋へ雪崩れ込んだ。
 褥に仰臥した林殊の顔が、ゆっくりとこちらに向けられる。蒼白い貌に、淡く微笑が刷かれた。
 甄平が駆け寄って、牀台に取りすがる。
 「宗主! ようございました。どうなることかと……」
 大声でそう叫び、嗚咽を漏らした甄平に、林殊が苦笑した。
 「甄平、―――あまり騒いでは、殿下にご迷惑だ」
 その言葉に違和感を感じて、甄平が「え?」と顔を上げる。黎綱と戦英も、表情を強張らせた。
 林殊は穏やかに続ける。
 「殿下の褥をお借りするだけでも心苦しいというのに、そなたまでがそのように騒ぎ立てては……」
 それはまるで、かつての『蘇哲』の口調にほかならなかった。
 黎綱は、困惑したように景琰を振り返る。
 「殿下、宗主は何を……」
 景琰に顔を背けられ、助けを求めるように黎綱は晏太夫の顔を見た。
 晏太夫は、静かにかぶりを振った。
 「宗主、宗主は殿下にとつ……」
 嫁がれたではありませんか、と林殊にそう言おうとした甄平の腕を、黎綱が引く。眉をきつく寄せて小さく首を振り、目で制した。
 甄平は口をつぐんで、顔を伏せる。
 林殊はまだ幾分ぼんやりした様子で、夢見るような眼差しを天井に向けていた。
 景琰は黎綱と甄平を手招きした。そして暫しの沈黙のあと、ほろ苦い笑みと共に打ち明ける。
 「―――廊州を出る前、あれは言ったのだ。謀士のままであったほうがよかったと」
 「は?」
 黎綱たちは眉をひそめた。景琰は目を伏せ、言葉を絞り出す。
 「……祝言を挙げたことを、あれは悔いておるのだ」
 「まさか! あんなにお幸せそうでおいででしたものを」
 誰もがうらやむ、幸せな婚礼を挙げたのだ。新居で景琰を待つ林殊の姿は、どこをどう切り取っても幸せに輝いていたというのに。
 景琰が、眉間に皺を刻んだ。
 「わたしのせいだ。わたしがちゃんと守ってやれなかった」
 一度は江湖に生きた林殊を、自分が林府へ囲い込んだ。この手で籠の鳥としておきながら、充分に愛でてもやれず、寂しい思いをさせたのだ。
 「わたしと祝言をあげたことを忘れたいと、小殊が本気でそう望むのであれば、無理に思い出させるには及ばぬ。あれは、我が謀士・蘇哲だ。……そのほうらも、そのつもりで相手をしてやってくれ」
 それで林殊が心穏やかに過ごせるならば、と。景琰は、己を殺して、そう思った。
 今はただ、林殊の心を癒してやりたかった。


 「蘇先生、朝食を作らせた。少し召し上がるか」
 林殊の寝床のそばへ腰かけて、景琰は粥を一匙掬ってやった。
 林殊が苦笑する。
 「殿下お手ずからそのようなことはさせられませぬ。黎綱がおりますれば、どうかお気遣いなく」
 その言葉に、景琰はわずかに眉を寄せた。今の林殊にとって、自分は夫ではなく主なのだと思い知らされて、景琰は肩を落とす。
 すると、林殊が優しい微笑を浮かべた。
 「殿下」
 いつに変わらぬ、穏やかで優しい声音である。
 「お髭をあたっておいてなさいませ。そんなお顔で参内なさっては、陛下がびっくりされましょう」
 そう言われて、景琰は目頭を熱くした。
 夫婦の睦事の翌朝、林殊はいつもそう言って髭をあたってくれたのだ。
 不器用な林殊が手元を誤って、時折頬から血が滲むこともあったが、それをぺろりと舐めてくれる林殊の舌の滑らかさが、景琰はとても好きだった。
 景琰は粥の入った器を黎綱に渡して立ち上がると、後ろ髪を引かれる思いで寝所をあとにしたのだった。


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